「鷹による先触れがありまして、これからカイザー様がお見えになるそうです。寝ずにお待ち頂きたいとのことです」
いつの間にか月が天高く燦然と輝く時刻となっていた。
傍仕えの騎士がもたらしたその報告に、ウェイリードは陳情書をめくる手を止める。
酒を振舞われるこの時期にカイザーが共にやって来なかったのは、
恋人たるエルメローシュ・クロスライン子爵令嬢の家族に関する裁判の資料集めの為である。
やっと再審議を許された彼女の為に、身を粉にして動き回っていた奴がここへやって来るということは、
それ以上に重要で不測な事態が起きたからであろう。
一瞬両親のことかとも思ったが、それならば伝令役をカイザー自身が行うはずもないとウェイリードは考え直した。
分家であるブランシールの次兄が首都にいるのだ、そうした時は彼がやって来るであろう、と。
だとすれば一体なにが起きたのか。嫌な予感だけが頭を占める。
往々にして、こういった予感は外れたことがない。
「到着は朝方になりますでしょうか」
迎えるに必要な下準備について騎士から遠まわしに催促され、逡巡する。
「東の外門から内門までの経路を、カイザーがいつ到着しても良いよう今から封鎖しておけ」
あの道はわざと舗装していないので蹄の音が高らかに響かず、
また道沿いには独身騎士の宿舎しかないので、例え馬が駆け抜けるのが夜半であっても遠慮はいらない。
正門たる南門から真っ直ぐ城へと伸びる道は距離も短く、馬が連なって駆けることができるほど広いが、
道沿いに民家が建ち並んでいる。そのような場所を伝令馬が駆ければ騒音で人々の不安を煽ることとなる。
それは現状からいって得策ではないのだ。エルムドアの内情があるだけに、余計な騒動を起こすわけにはいかない。
片割れだとてそれぐらいは了解しているはずだから、
自ずと民家から離れた東門の経路を選択することだろう。
意図を理解した騎士は、敬礼ののちに踵をかえして退室していく。その背が扉の向こうに消えてから、
ウェイリードは深く息を吐いた。
(なにが、起きている)
酷い胸騒ぎがする。そして、この胸騒ぎには心当たりがあるような気がしてならないのだ。
自分をここまで心配性にさせるのは一人しかいない。金の髪とオリーブ色の目を持つ娘、
大恩あるアデル公の宝。彼女が見える範囲に居ないだけで、全ての事象を彼女と直結して考えてしまう。
何か問題を起こしていないか、困ったことに巻き込まれていないか、泣きそうな顔で笑っていないか。
窓の外に赤く輝く満月を見やり、どうかこの勘だけは当らないで欲しいと強く願った。
カイザーの到着は予想よりもずっと早かった。
馬を途中で変えることを前提で、首都からアイゼン公爵領まで単騎で駆けて最速で四時ほどかかる。
しかし先触れに記された時刻から算出すると、カイザーはその半分の二時で到着したことになり、普通の手段ではない移動と知れた。
(馬に魔法をつかったか)
生き物に疲れを忘れさせる魔法を掛けることは、その生き物の身体を限界まで酷使することとなる。
それが禁忌とされないのは有事の際の必要性と、人がその使用を己で『誤まっている』と認識し加減して扱えるからだ。
伝令用の鳩や鷹は連続して飛ばせないことを守れば魔法を掛けても負担はないことが証明されているが、
身体の大きな馬は蹄や足の筋を傷つけてしまう可能性が指摘されている。
その為、戦などの伝令役以外では魔法を掛けられることは滅多になかった。
それを踏まえたうえでカイザーが使用したということは、それだけ重要な用件を持ってここへやって来たということだ。
いよいよもって、悪い予感だけが強まる。
扉は叩音もなく、風を切るようにして力強く開けられた。
乱れきった襟元に、髪も風に煽られたままで直した形跡はない。
見目を殊更気にするカイザーにしては恐ろしく不恰好な様子で書斎に入ってきた。
酷く苛立った様子で、けれども表情は硬い。
挨拶もせず、互いに何かを感じ取ったかのように一瞬黙った。
片割れは一度背後を振り返ると、扉が完全に閉まっていることを確認してからもう一度こちらに向き直る。
「……何があった」
「ラヴィン公が消えた」
問いと答えは同時だった。その言葉を聞いた瞬間、何を思うよりもまず身体が動いた。
無意識のうちに立ち上がって一歩踏み出そうとしたこちらをカイザーは鋭く制した。
「状況を聞け!」
いつにない怒号に、己がクロイツベルクの主であることを思い出させられた。そして今現在、
伯父もその跡取りの長子も公爵たる父もいないこの城を空けることができない身であると改めて認識する。
「ラヴィン公が、北の守り内部で消えた」
潜められた声に、頭を強く打ち付けられたかのような衝撃を受けた。
「それと同時に、一枚目付近に溢れていた液体瘴気も気体瘴気も全部無くなっているらしい。
記録では彼女が最後の入室者だから、彼女が何らかの方法で消したと考えられてる。
ラヴィン公が入室する少し前にダグラス将軍が入室していて、
将軍はどちらの瘴気の存在も確認されている。将軍が推測するに、
デュシアン・ラヴィン公爵がなんらかの方法でもって瘴気を消したんじゃないのかとのことだ。
あいつがアリューシャラの契約者の祖と似通った特徴だから、《声》が届きやすかったんじゃないかって」
カイザーの言っていることが、なかなか頭に入ってこない。ただただ腹の底が冷たくなっていくのを感じる。
「その彼女が、現在どこにいるかわからなくなってる。一枚目にはいない。
二枚目の迷宮魔法が施された辺りをラシェが何度も探索したが、見つけられないでいる。
牢屋の辺りは未知の精神魔法が掛かっている可能性が高い。
だから、お前なら捜索区域を広げられるだろうってことで帰還が要請された」
カイザーは一旦、息を吐き、心急いた様子で髪をかいてから続けた。
「だが、親父もダグラス将軍も、それ以外の可能性を考えてる。あの階段を昇って、城の内部に入ったのかもしれないと……。
だとすれば」
「やめろ」
「……悪い」
片割れだとて、その続きを言う気などないのは分かっている。だが、それを示唆する言葉すら耳にしたくなかった。
考えたくない。考えてはいけない。しかし、それが一番信憑性が高い。
(だが)
彼女の傍には樹木の精霊がついている。低位精霊と若干異なる姿を持つが高位精霊とは思えない、ただのか弱い精霊だ。
それでもまるで母親のように彼女を愛し、全身全霊で守護している。
以前一度、言葉の通じない精霊に追い払う素振りをみせれば、
彼女に覆いかぶさるようにして抱きついて首を横にふり、離れなかった。彼女たちは――
人間側は何も覚えていないながらも、何がしかの固い絆があるのかもしれない。
恐らくあの精霊は命を賭してでも彼女を護るだろうが。
「俺が伝令役で来たのは、お前の代わりにここに残るためだ」
カイザーの言葉に、視線を戻す。
「目の色を変える魔法があるだろ、それを掛けてくれ。
エルムドアの現状を考えれば、親父も伯父貴たちもいない今、
双子の魔人を従える《ウェイリード》がクロイツベルクを離れるわけにはいかない。《カイザー》じゃあ、
騎士団の指揮も障るし、帝国への牽制も意味をなさなくなる。帝国は《ウェイリード》とだけは戦をしたくないからな」
伯父はその跡取りたる長子と共に巡視の名目でハイメル地方の備えに回っている。
父がここに帰還していない今、旗頭になれる己がクロイツベルクにいなければならない理由があるのだ。
「ラヴィン公が消えたことは、まだ協議会のほんの一部の人間にしか知らされてない。《お前》が戻ったことも内密にされる。
目の色さえ変えてしまえば、俺たちはいくらでも入れ替われる」
「だが」
兄弟子から託されたあの魔法は三日も持たないだろう。ラヴィン公を見つけたあとにもう一度戻ってくれば問題はないが、
伝令として首都とクロイツベルクを往復した《カイザー》が、三日以内にまた首都からやってくるとなると、
城内に不審感が広がりかねない。
「お前がラヴィン公を見つけたら、すぐにも親父がこっちに来る手筈になってる。
《カイザー》が来るよりはずっと自然だ。お前はこっちに帰ってこなくて大丈夫だ」
カイザーはおもむろに、腰にさげた剣を剣帯ごと外して机に置いた。
そして衣類が並ぶ棚から黒い平服と白い軍服を取り出し、取り出した平服と脱いだ外套をこちらへ放ってくる。
自分は白い軍服を着用し始めた。
「俺はとりあえず明日一日で城内各所を巡って《ウェイリード》がクロイツベルクにいることを宣伝して回る。
その後は親父が来るまで理由を付けて部屋に篭る。ボロがでないようにキアにだけ話して協力させる。
ビビには会わない。これなら問題ないだろう」
「ああ」
片割れに習い、服を着替える。脱いだ互いの服は棚の奥へと押し込んだ。
侍女に発見される可能性があるが、こういうことをしないわけでもないので特に怪しまれる心配はないだろう。
「お前のその目、短時間なら戻せるんだろ?」
「ああ」
カイザーの剣を貰い受け、己の剣を渡す。外套を羽織ると姿見の前に立って、まず自分に掛けられた魔法を解く。
そこには藍色の目と灰色の目を持つ歪な己が映りこんだ。
左右で目の色が違う人間などこの世のどこにも存在しない化け物だと、
道徳観念の低いララドですら揶揄された姿から視線を逸らす。
そのまま灰色の左目に魔法を掛ける。精霊の瞳はかなり抵抗しながら右目と同じ藍色に変化するが、
気を抜けば色が戻ってしまいそうだった。姿見の中の、五年前までの己の姿を一瞥し、着替え終わった片割れに近づく。
目を閉じさせて目蓋に手のひらをかざし、光の精霊の力を借りる。ただの人間の目であれば、
三日ほどは何の抵抗もなく変化させることができる。ものに色を宿すこの魔法は、
兄弟子が自分の生まれ故郷の為に研究を重ねた門外不出の未発表の研究でもある。
開いたカイザーの両目は、いつもの藍色から灰色に変化していた。
「お前も、俺として過ごせよ」
そう言いながらカイザーがこちらに手を伸ばし、髪をぐしゃぐしゃと崩してきた。
確かに目の前の片割れの髪は馬で駆けてきたせいで、いつも以上に方々に跳ねていた。
「《私》もだな」
そう呟きながら、カイザーは手櫛で髪を整えだした。首元もきっちりとしめ、表情をあまり変化させなければ己そのものだ。
これで、もはや何も憂いもない。《カイザー》となった己に何のしがらみもないのだ。
本当はこんな小細工すらどうでも良かったのだ。だが、一滴残った故郷への憂慮が、焦り狂う気持ちに理性を働かせた。
「走るなよ。俺は走らなかった」
見透かすように釘を刺され、小さく頷いた。
踵をかえし、駆け出したい思いを抑えながら素早く歩く。扉を開けようとしたとき、背後から声がかかった。
「無茶な真似だけは、もうするなよ」
それは十年前クノッサス峡谷でのことを指しているのか、それともララドでのことなのか。
どちらか判明はしなかったが、どちらでも良かった。ただ、己を思いやってくれる人々がいることを忘れてはならないと、
そう胸に刻んだ。
初めて馬に魔法を施した。領地境の街ならば馬の調達は簡単ではあったが、
馬を交換する為に立ち止まる時間が惜しく、疲れを忘れた馬の手綱を握ったままひたすら一直線に、
迂回する街道を横目に首都を目指した。道案内を買って出た風の精霊の裾を追う。
首都に辿りついた時には地平線が薄っすらと光を滲ませ、夜の帳が開けようとする時刻となっていた。
首都に入れば許可なく馬を駆ることは出来ないので、城に一番近い北西の城壁門で馬を預けたのちは、ただ走った。
クロイツベルクとは違い、ここでは己が走ったぐらいでは誰も動じることはない。
そもそも、己の今の姿はカイザーであるから余計だ。
夜間から夜明け前に神殿への参内は好まれないが、
神殿では昼夜逆転する研究者を多く抱えることから、門戸は開かれている。
警備は昼間よりも断然厳しくなっているが、神殿貴族たるアイゼン家の《カイザー》が警備騎士に止められることはない。
魔方陣が安置された部屋前の神殿騎士に内部の人物への取次ぎを頼めば、すぐにも通された。
「到着なさいましたか」
落ち着かない様子でうろうろとしていたコーエン男爵がこちらを振り仰ぐ。
常にない椅子が運び込まれており、男爵以外の者たちは思い思いに座っていたが、みな立ち上がる。
「おや、ウェイリード公子が戻られるのではなかったのですか?」
コーエン男爵だけでなく、父とダグラス将軍以外は皆一様に困惑気味にこちらへと視線を向けてきた。
「他言無用を願うが、これはウェイリードだ」
父が注釈を加えた。
「クロイツベルクには現在ブランシールの当主も次期当主もハイメル地方の巡視で不在となっている。
私も戻れぬ今、カイザーと入れ替わっている」
「しかし目の色が」
ビアシーニ枢機卿の鋭い視線とぶつかる。神教信者を脅かした者を快く思っていない枢機卿は、
主神に愛されていると言われるラヴィン公爵の捜索に、こちらが乗り出してくることが不快なのであろう。
「短時間であれば、この色を保てます」
気を抜けばすぐにも左目は灰色に戻りそうになる。その歪な容姿を人前に晒す気はない。
特に、こういった純信者の前では細心の注意を払う必要がある。
「そうですか。とにかく、これだけ早く公子にお戻り頂けたのは幸いです」
気を急くようにコーエン男爵が話を戻す。
「カイザー殿からお聞き及びかと存じますが、デュシアン・ラヴィン公爵のお姿は一枚目にも二枚目にも見当たりませんでした。
一枚目は入念にダグラス将軍に確認していただきましたが、人を隠すような精神魔法や妨害魔法などはやはり見あたらないとのこと。
しかし二枚目付近だけは多くの精神魔法や迷宮魔法が入り混じるので、それらを研究される公子に捜索をお願いしたいのです」
できるならば、二枚目へ入る前に一枚目へと入りたい。だが、これだけ多くの者たちが見ている中でそうする理由もない。
「分かりました」
「そなたの目で見つけられぬ時は、必ず戻ってまいるのだぞ」
見透かすようなダグラス老将軍の言葉に、思わず顔を見返してしまう。
「よいな、ウェイリード」
念を押され、小さく頷いた。
魔方陣から移動した先でまず目に留まったのは、いつもは影に溶け込み、ちらちらとこちらを覗くだけの闇の精霊の常にない動きだった。
安寧である闇から離れて人前に薄いタペストリーのような姿を晒し、
一つ目の瞬きを繰り返して何かをしきりに訴えてくるのだ。
彼らはその親玉からは想像もつかないほど臆病で、それでいて実は驚くほど優しい性質を持つ。
以前一度、焼こうとした前科のあるこちらに警戒するそぶりをみせながらも近寄ってくる精霊に敬意を払い、
その訴えを受けて周囲を見回した。
すると、「違う」と主張するように大きな目を左右に動かし、影のような体を服の裾のように引きずって収縮させながら牢獄の奥へと進み出す。
付いて来いということだろうか。
(何かあるのか)
その気はなくとも人を惑わす精霊たちではあるが、ウェイリードは直感を信じてその背を追った。
精霊は一つの牢屋の前で止まった。大きな目をこちらと牢獄の中を何度も往復させたのちに、
自分の役目は終わったと言わんばかりに掻き消えた。薄っすらと輝く鈍色の光の粒となって、闇に溶け込んでいく。
それを見届けてからウェイリードはその牢屋の前へと進み出た。そんな気はしていたから大して驚くことはなかった。
一体どこまで縦横無尽に動き回れるのだと疑問が沸いたが、その問いは喉で留める。
この男に――悪神に、人間の感性を当てはめても無意味なのだから。
「やっと来たね」
牢屋の闇に浮かぶように悪神は佇んでいた。互いの間にある鉄格子は、果たしてどちらを檻に閉じ込めているものなのか。
「この牢屋だけは、君たちが《封印の間》と呼ぶ僕の身体がある場所から繋がっているんだ。ああ、空間が繋がっているだけだから、
肉を持つ人間は通れないよ。でも、いくら僕でもこの鉄格子の向こうには出られそうにないんだ。
さすがララドだよねぇ、この僕に破れないものを創るなんて」
「彼女に何をした。貴様が関わっているんだろう」
悪神の話につきあう謂れはない。ここでこちらを待っていたということは、つまりそういう事なのだと知れている。
一枚目に入って確認する手間が省けたことを感謝すべきかと舌打ちした。
「彼女って?」
白々しく傾げるその顔を殴りたい衝動を抑え、一度息を吐き出す。
「ラヴィン公に何をした」
「ラヴィン公? うん、その敬称がつく《彼女》は僕が知っている限りでは三人いるけど誰のことだろう?
僕とカーラの戦いに巻き込まれて最愛の恋人を失って、逃げ延びた先で、
僕と関わりがあったという理由を付けられて軟禁されちゃった子?
それとも、神殿に軟禁されて奴隷みたいに扱われて無理やり子どもを――」
「デュシアン・ラヴィンだ」
関係ない話を遮らなければ、延々につらつらと語り続けているだろう。耳に残る痛ましい女性たちの過去に苛立ちが募る。
「ああ」
悪神は、まるで今思い当たったと言いたげに微笑み、大げさに手を叩いた。
「きみの大切な大切なお姫様か。大好きなお母さんが死んじゃって、売られて奴隷にされちゃった可哀想な子。
あやうく主人に手篭めにされて娼館に売られるところだったのを、運良くアデルに――」
「黙れ!」
怒りが過ぎて、頭の中が真っ白になった。片手が剣の柄に伸びる。呼吸が乱れた。
だが、未だ神を焼く力を持たないくせに尚早だと叫ぶ己もいる。
このまま不興を買えば、彼女を助けるどころか自分がここで息絶えることになる。
「短気はよくないと思うんだ」
実体のない悪神はこちらを宥めるように首を捻った。馬鹿にされているようで、柄を握る手に力が入る。
いっそ、怒ればいいと思った。だが悪神はそうしない。
それだけこちらは悪神にとって取るに足らない人間なのだろう。まるで道化にでもなった気分で吐き気がした。
「君はそんなに血が昇りやすいほうじゃないだろう? それとも、やっぱりあの子は特別?」
「彼女を結界内に引き入れたりはしていないだろうな」
悪神に合わせて会話をすれば、話はずれて長引くだけだ。遮り、確認する。
「僕の体のそばに引き入れたってこと? まあ確かにデュシアンのことは運搬係として役にたってくれているから気に入っているけれど、
あの中に入れたら濃い瘴気ですぐに死んでしまうよ。それはつまらないじゃないか」
「運搬?」
聞き捨てならない表現を拾い、問う。だが悪神は最初から答えるつもりなどないのだろう。
こちらの興味を引きそうな話題や表現をしながらも応えず、考え悩ませる。それが手口なのだから。
「それより、デュシアンを探さなくていいの?」
「どこにいるんだ」
運搬云々に関しては今は置いておく。確かに、今は彼女を探すことが最優先だ。
「それを探すために、君は呼び戻されたんじゃないの?」
「……時間の無駄か」
「おや。本当はあの子がどこにいるか、君も分かっているんだろう」
心臓が鷲掴まれたように縮み、ことばを失った。
一番恐れていること。だが、一番考えられる場所。そこに彼女はいる。悪神はそれを肯定した。
「この牢獄にも迷宮にも存在を感じないだろう。
人嫌いのララドの創った魔法だからね、人間はいずれ排出されるようになってるんだ。知ってた?」
「……お前が、そそのかしたのか」
己のときと同じように。
そうでなければ、臆病な彼女が自発的に足を踏み入れる場所ではない。悪神はあの後も彼女と接触していたのだ。
「だって、濃い瘴気を消すには最初のあの子に似たデュシアンでなければ駄目だったからね」
「ふざけるな!」
ウェイリードは怒りにまかせて目の前の鉄格子を拳で叩いた。ゆらゆらと勝手に流れ出る魔力が鎖のような形で具現化し、
ぴりぴりとした痺れを伴う神経質な光を発しながら悪神を取り巻く。頭の隅では、悪神を刺激し過ぎるなと冷静な自分が叫ぶが止まらない。
「怒る気持ちはわかるけど、僕にかまけてないで早く迎えに行ってあげたほうがいいんじゃないかな。
真っ暗闇のなかで、ひとりさびしく泣いてるかもね。誰かさんとは違って、デュシアンはか弱い女の子だし」
上下左右のない深淵の闇を思い出し、ウェイリードは我にかえると魔力を抑えた。
あの地獄のような闇に彼女がいる――想像しただけで激しい焦燥感にみまわれた。
駆け出そうとするその背に悪神の言葉がかかる。
「ウェイリード。君はもう戻れないんだよ」
それは足を止めるには充分な言葉だった。だが、
思惑通りに振り返ってやるものかと
既の所で踏みとどまった。
そもそも振り返らずとも、悪神がいまどのような顔をしているのか手に取るようにわかる――嗤っているのだろうから。
「わかってるよね? もう君の傍に光の精霊はいない。君を助けてくれる存在はいない」
そうだ、もう傍にいない。あの精霊は五年も昔にこの城の妄執に溶け込んだ。否、溶け込ませてしまった。
その存在を亡くして初めてその献身を理解し、感謝し、悔いた。あまりに無知だった。
なぜ低位精霊が人間の傍らにいるのか、それまで考えようともしなかったのだから。
「階段は十九段目までだよ。それ以上は決して一歩も踏み出してはいけないからね」
教師のように説くその言葉に驚き振り返るが、鉄格子の向こうには闇が広がるだけで悪神の姿はなかった。
「……十九段」
もう戻れない自分には悪神の言葉を信じるほかに方法がなかった。もとより疑う気はない。
悪神は人間の命が消えることよりも、生かして悩ませることを楽しむ。禁呪もそういった理由で人間に与えたのだから。
だが不意に疑問が沸き上がる。
五年前のあのとき、なぜアデル公は闇に埋もれる自分を救えたのだろうか、と。
そして、どうしてあの場所に己がいると知り得たのだろうか、と。
(2012/3/31)
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