「ラヴィン公爵閣下のお戻りがあまりに遅いのです。
もうすでに
二時(四時間)が経っております」
神殿騎士がやって来たというだけで良い報告ではないだろうと思ったが、
その予想を遥かに上回る事態にラシェは反射的に立ち上がった。
膝上にあった資料が音をたてて石床に落ちる。
『どこから戻りが遅いのか』と聞かずとも、
真白い軍服に映える臙脂色の腕章から、その騎士がどこを守護する者であるのか一目瞭然だ。
頭の中は真っ白であるのに、そんなことは感覚的に理解する。
「コーエン男爵が《部屋》にてお待ちです」
それに返答することなく、ラシェは報告に来た神殿騎士を半ば押しのけるように研究室を飛び出した。
ラヴィン公爵専用の執務室にいればもう少し早く報告を受けていただろう、自分の研究室に戻っていたことをラシェは走りながら悔いた。
脳裏には、魔力を多量に放出したあと寝台の上で横たわることとなった従妹の姿が浮かぶ。
まるでそのまま目を覚まさないのではないかと思えるほど身じろぎせず静かに眠る為に、性急すぎる叔父の死が重なり、
何度もその口元に手を近づけて息を確認した。またそれを繰り返すことになるのかと頭に血が昇る。
(今度こそ、引きずりおろす)
あのおっとりした従妹は、屋敷の花壇をほじくり返してミミズや蟻と格闘しながら植物でも愛でて、
馬鹿みたいに何も考えず甘い菓子でも頬張って、楽しげに笑っていればいいのだ。
時機がくれば似通った穏やかな男のところに嫁にいって幸せに暮らせばいい。
女神の遺した結界を維持することに心血を注ぐ必要などないのだ。
(そうだ、そんな必要はない)
己は、従妹をその家族ごと守ってやれる力を持っている。それは驕りではなく、事実であるとラシェは自負している。
あまりに世間を知らない従妹の成長と、本人の意思を尊重して公爵を続けさせてはいるが、
もはやこれ以上任せているわけにはいかないと思った。
そもそも従妹は注意力散漫でぼんやりしているが、愚かな娘ではない。同じ轍を何度も踏むような阿呆でもない。
従妹だからと贔屓目にみているわけではなく、他者の忠告を受け入れながらも真面目に仕事に取り組むことのできる努力家だった。
魔法を使うことは苦手のようだが魔力の制御は悪くなく、
また領地を持つわけでもない首都貴族のラヴィン公爵であることは、周囲の協力があれば難しいことではない。
けれども、如何せん《運》というものに見放されているのだ。それが、どうしても最悪な場面でばかり発揮されている。
それはもはや見過ごせる域を超えていた。
(あいつは星のめぐりが悪い)
不確かな占術なんてものを信じるわけではないが、幸運や不運を引き寄せる人間は確かに存在する。
それは概ね主神カーラの定めでもって意図的に作り出されたものではあろうが、
それ以外にも他の神々や力の強い精霊の思念、禁呪などでいくらでも人間の運命に歪みは生まれる。
古くラヴィン家の祖は悪神の根城を歩き、精霊アリューシャラだけではなく悪神自身とも面識があったと伝わる。
万が一にもデュシアンにその面影があれば、死にかけの悪神の興味も引きやすく干渉を受ける可能性があるのだ。
それは充分に不運を呼び込む要因になる。
そうでなくともウェイリードから返却のあった書類から想像するに、
今までもまるで糸を引かれたかのように悪い方へと流転した運命を辿ってきているのだから。
(俺のせい、か)
アデル公の心を掴んで離さない女性を恨んだ。叔父を恨めない代わりに彼女をずっと憎み続けてきた。
その憎しみが強烈な思念となって精霊を刺激し、その子どもであるデュシアンに影響を及ぼしてしまったのではないか。
(ばからしい)
根拠のない想像に、ラシェは舌打ちをした。
それでも、まるで操られているかのように不幸な方へと転がる従妹を見ていると、
何らかの力が働いているように思えてならないのだ。
研究棟傍の廊下を歩く神官を吹き飛ばしそうになりながら、ラシェは息つく暇なく《北の守り》へ繋がる部屋へと駆け込んで、
思考の渦から抜け出した。
三つの移動魔方陣から溢れる青い光に照らされた室内には、
防衛協議会の議長たるコーエン男爵だけでなく魔法宮のダグラス老将軍も待っていた。
魔道師として特級のちからを持つ御仁の姿を目にし、ラシェの不安と苛立ち、焦りは僅かばかり和らいだ。
これほど心強い人はいないのだ。選択を間違えなければ、若者を導くことに喜びを見いだすこの将軍が敵になることなどないのだから。
「ラシェ殿には申し訳ありませんが、ダグラス将軍にだけは連絡させて頂きました」
コーエン男爵の配慮に敬意を示し、ラシェは軽く頭を下げた。
「助かります」
天文学者として功績を残しているとはいえ、
コーエン男爵は魔法に関してそれほど造詣が深いわけでも力があるわけでもないが、その人選に助けられたものがあった。
「ラヴィン公が《第二の守り》を確認されると言って入室されてから、二時が経っているそうです。
二枚目には道が変化する迷宮魔法が掛かっている迷路がありますので、恐らくそちらにおられるのでしょう」
コーエン男爵が経緯を簡単に説明してくれた。
「甘やかした結果です」
叔父はデュシアンにどこまでも甘かった。精神魔法の訓練では、
泣き出す娘に無理強いできずにアミュレットを与えただけで訓練を終了させてしまった。それ以外の魔法に関しても、
殆ど訓練らしいものは行っていない。まさか娘がラヴィン公爵になるなどゆめゆめ思わなかったのであろうが、
娘の涙に弱く、甘やかしたのは事実だ。
だが、あのララドに囚われ人として居たことを思えば、魔法を使用することに抵抗が生まれても致し方ないとは思う。
けれどもそれは、あくまでただの令嬢であれば、だ。
今回のせめてもの救いは、戻らない場所が一枚目ではないことだろう。濃度の濃くなった瘴気に晒されているという危険はない。
しかし、あの《北の城》は普通の建物ではないので、姿を確認するまでは安心できなかった。
「魔力は、あるのだがのう」
だんまりだったダグラス・ルーズフェルト老将軍がぽつりと語りだす。
「衆目を集める緊張状態であっても、変調を繰り返す光の精霊の波長を掴めることを考えれば、魔力の抑制力にも問題はない。
平時であっても光の精霊を捉まえられない職業魔道師がどれだけ多いことか」
協議会の初出席での従妹の言動は今でも頭の痛い話だった。髪を切って燃やしたとのだと聞かされたとき、
呆れを通り越して失敗せずに終わったことに安堵した。
室内において光の精霊の力でものを燃やすなど、どれだけ凝縮した魔力が必要か知れないからだ。
「見目は少々頼りない未成年のようではあるが、北の公として《北の守り》を維持する資質は充分備わっておる」
まさかこの老将軍にあの従妹がそこまで認められるとは思わず、ラシェは怪訝に思いながらも瞠目した。
「ただ如何せん運が悪い。悪神に好まれて城への立ち入りを許されたラヴィン家の始祖を思い起こす」
己と同じ結論を耳にし、背筋が凍った。
エルムドア帝国のあの第三皇子の暴走を止めた人物にそう重ねられると一気に現実味を帯びるのだ。
ラヴィン家の始祖は主神と悪神との戦いにおいて夫を失い、
幼い我が子と共にこのカーリアの地までバル=ロアによって運ばれてきた。
その後アリューシャラから移動魔方陣を授けられると、子を盾に取られてカーリア神殿に軟禁された。
以後、彼女は神殿から一歩も外へ出されることはなかったと伝わっている。
糸で引かれるように流転する始祖の運命は、確かにデュシアンと重なるものがあるのだ。
「導かれてしまっているのやもしれぬ。あまり責めてやるでないぞ、ラシェ」
誰に導かれているのか――それは聞かずとも分かる、彼の悪神にであろう。
不足の事態が起きてもそれはデュシアンのせいではないという意味の慰めであろうと理解し、ラシェは頭を下げた。
悪神にそのような力など残されていないと信じたいからだ。
「ご迷惑をお掛けします」
「なに。若者を護り育て導くのも我ら爺の仕事じゃ」
禁呪の魔女を孫のように可愛がる老将軍は、
このような出来事は毛ほど気にすることではないと穏やかに笑いながら短い顎鬚を撫でた。
「では、探索を始めましょう」
コーエン男爵が硬い声で会話に区切りをつける。
「ラシェ殿は二枚目の捜索に当たって頂くとして、ダグラス将軍にも念のために同時に一枚目付近を探して頂こうと思います。
よろしいですか?」
「アレは思いつきで行動しますので、一枚目にいるということも充分有り得ます。宜しくお願い致します」
もしも言動不一致で一枚目で倒れているのなら、早く回収してやるに越したことはない。
己が二枚目を見ている間に一枚目を確認してもらえるのは願ってもないことだ。
「それから、これはお伝えしにくいのですが、万が一のことがありましたらアイゼン公爵やホルクス伯爵、
ビアシーニ枢機卿にもご尽力いただくこととします。また、公平を規するために、
宮殿側にはセレド殿下と保護管理区域の監察役でもあるダリル将軍にも連絡致します。そちらはご了承下さい」
「もちろんです」
つまり、何もなければ不問にしてくれるということだ。
この部屋を守る神殿騎士は騎士団組織よりやや抜け出ており、防衛協議会の議長であるコーエン男爵の支配下となっている。
その為に、ここであった出来事はどこに報告するよりもまず先に男爵の耳に入ることになっている。
人の良い男爵は、二度目ということで大事にしない為にも、まずはダグラス将軍だけに声を掛けてくれたのだろう。
「ご配慮、痛み入ります」
これもひとえにコーエン男爵の采配。気弱な性質ではあるが情け深い議長に対し、ラシェは頭を下げた。
《第二の守り》へと足を踏み入れるのが、今回が初めてでなかったのは己の中では僥倖だった。
異質な空間には各地の遺跡で慣れているとはいえ、やはりこの延々と両脇に続く牢獄はどこよりも異様な場所だ。
初めて目の当たりにしたときは、圧倒されてすぐに動くことができなかった。
(臆病なあいつがよくこんな場所に入れたな)
この牢獄と廊下には恐怖を煽る精神魔法の一種が掛けられているというからには、引っかかっていてもおかしくはない。
壁に掛かる蝋燭の僅かな光源を頼りに牢の中をひとつひとつ覗きこみ、ラシェは慎重に探していった。
しかし、数十とある牢の全てを確認しても従妹の姿はどこにもなかった。もちろん幻視の魔法が掛かっていればその限りではない。
さすがに《北の城》に遺された古い時代の未知の魔法までは確実に感知できなかった。
ラシェは軽く頭を振ることで思考を切り替えて牢獄の廊下を抜けると、迷宮魔法が掛けられた迷路へと踏み込んだ。
入る度にその道筋が変化する為に、デュシアンがいるとすればここであろうというのが同一見解であった。
ここを抜けた先の結界構築部はそれほど広くない一室で、何の仕掛けもない。
一度迷路を抜け切って二枚目の結界構築部へと足を踏み入れるが、やはり従妹の影も形もなかった。
(いるとすれば、やはり迷宮か)
意識さえあって前に進んでいれば、いずれ迷路からは抜けることができる。二時もここから出られなくなることなど有り得ない。
恐らくは迷路内で、何らかの理由によって意識を失ったのだろう。
何度も挑めば、いつか従妹が倒れた道が現れるだろうと安易に考えていた。
しかし、その思惑は半刻ほどで打ち砕かれることになる。
忍耐力には残念ながら自信がない方だった。だが、冷静さを失えば従妹の痕跡を取りこぼしてしまうかもしれない。
そう思えば、成果のあがらない行動を繰り返す苛立ちも治まった。
「ラシェ」
急に呼び止められ、もう一度迷路へと挑もうとする足を止めて振り返る。
一枚目へと探索に入っていたはずのダグラス老将軍がやって来たのだ。途端に、嫌な予感が過ぎる。
「妙なことが起きておる」
将軍が困惑気味に表情を歪めるのを久しぶりに見たと場違いなことを思いながら、ラシェは額の汗を拭った。
「一枚目付近に漂っていた瘴気が、液体も気体も全て綺麗に消えておる」
それと従妹の行方と、どういう関係があるというのか。
どれだけ探しても従妹を見つけることができずに焦れていたラシェは、老将軍の言葉をすぐに理解できなかった。
「一枚目にも、三枚目を敷く為にある予備の魔方陣の先にもおらなんだ。
それでここにもおらぬのなら、――覚悟が必要かもしれぬ」
「覚悟……?」
背筋に緊張が走る。今までずっと消えることのなかった胸の奥に鎮座していた何かが心臓を強く掴む。
「この迷宮魔法に何度挑んだかの」
「七回は」
「それで見つけられぬなら、恐らくここにはおらん。おったとしても、通常の方法では探せないじゃろう」
「通常の方法?」
「一度外へ出ようか。今のお前さんは冷静さを欠いて、思考能力が低下しておる」
不憫そうに見られ、動揺に視線が定まらなくなる。そんな自分自身に驚き、片手で顔を覆った。
「アイゼン公に願ってウェイリードを首都に戻してもらうのが良い。精神魔法もそうじゃが、
《目》があればまた違うじゃろう。わしでは取りこぼす危険がある」
半ばダグラス将軍に引っ張り出されるように、ラシェは外へと連れ出された。
神殿の部屋へと戻れば、不審気なアイゼン公爵とホルクス伯爵がコーエン男爵と共に待ち構えていた。
「瘴気の件がありますので、申し訳ありませんがお呼び致しました」
コーエン男爵は、セレド王子とビアシーニ枢機卿、ダリル将軍も、そのうちやって来ると続けた。
「我々も先ほど一枚目を確認したが、瘴気はほぼなくなっているようだった。
そのことと、ラヴィン公爵の行方が不明なことに繋がりがないと考える方が不自然だ」
アイゼン公爵がそう告げれば、ホルクス伯爵も頷いた。
「しかしあの娘がどうやって瘴気を消したというのか。傍にいるとかいう樹木の精霊か」
「あの量は精霊一体でどうにかなるものではないと思うのですが」
コーエン男爵が否定すれば、伯爵は「ではどうやって」と機嫌が悪そうに問いた。
「……精霊の妄執か」
ぽつりとアイゼン公爵が呟いた。
「あの城は死んだ精霊たちの記憶の塊だ。その記憶の中に、女神アリューシャラや樹木の精霊たちが存在してもおかしくはない。
その力を借りたのだとすれば、あの娘は《階段》を昇ったのだろう」
誰も何も言わなかった。言えなかった。ラシェは口の中が渇いて言葉が出てこなかった。反論すべきだと思うのに声が出なかった。
北の城の内部へと繋がるあの《階段》を昇るはずがないのだ。
なぜならあの階段は昇ったが最後、戻ってこられなくなると誰もが知る話であるからだ。
そんなことを忘れるほど従妹は愚かではない。そして、命を掛けるほど瘴気を消すことは重要なことではない。
瘴気なんて、たとえ消したとしても時間が経てばまた少しずつ洩れ出てきてしまう。そんなものに、命を懸ける必要など……。
(命を、懸ける?)
デュシアンは瘴気が増えたことに思い悩んでいるようには思えなかった。だが、
本当にそうだったのか。自分はちゃんと見てやれていたのだろうか。
兄貴分として、自分は何をしていたのだろうか。ラシェは思考のめぐりが鈍い頭を抱えた。
どうしようもなく臆病で弱弱しい、けれども大胆な従妹が。叔父上の掌中の珠が。ただの普通の娘が。
命を懸けたというのか。
「ウェイリード公子を呼び戻して頂くことは可能ですか」
コーエン男爵の言葉が随分と遠くに聞こえた。
「機密事項に当たりますので、伝書鳩ではなく公爵家の方か、もしくは我がコーエン家の人間を伝令にお使い頂けますか?」
「カイザーに行かせよう。伝令を受け入れる用意を促す先触れだけ飛ばす」
「お願い致します」
「馬と西門の経路確保は私がしておこう」
「伯爵、ありがとうございます」
幾人かの気配が消え、のろのろと顔を上げるとコーエン男爵と視線が合う。
「ラヴィン家の方へは、一連のことも含めてこちらから連絡させて頂きます」
デュシアンの行方が知れないと、伝える。
あのひとが倒れるのではないか――瞬時に、線の細い姿が浮かぶ。
深く愛している継娘が北の守りで消息を絶ったと知れれば、あのひとはきっと倒れる。
まだ夫を亡くして半年も経っていないのに、それなのに。
「大丈夫ですか、ラシェ殿」
「はい」
支えたい。駆けつけたい。夫を亡くし、泣けなかったあのひとのもとへ。
だが、今はここを離れるわけにはいかない。従妹の無事を確認するまでは、ここを離れられない。
離れてはいけない。
(無事だ)
絶対に。自分の家族を悲しませることを、あの娘がするはずはない。何も告げず、何も残さず、消えるはずはない。
それを信じなければいけない。
ラシェは大きく息を吐き出し、踏み出そうとする気持ちを抑えた。
そして、ウェイリードがクロイツベルクから首都へと戻るまでの長い間、絶望と希望の両極端の感情と戦い続けた。
(2012/3/30)
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