もう戻れない。
死した精霊たちの妄執へと身を浸らせば、
人間だけの力でそこから抜け出すのが不可能であることは悪神に言われずともウェイリードは十分理解している事柄であった。
自分があの時に――五年前に《北の城》の内部から戻って来られたのは、生まれた時から傍らに存在した光の精霊のおかげだった。
その光の精霊が亡くなった今、もはや戻るための手段を失っていた。
人間の傍に居つく酔狂な低位精霊というのは、限りなく寿命が近く、
自らの墓標として人間を選んだのではないかとの推測がララドの研究録には綴られてあった。
固有意思のない低位精霊のなかでも老成することで薄い自我を持ち得た固体が、最期を共に歩むに相応しい存在を見極めて見守りるのだと。
そして、その存在の命の危機があれば献身的に力を使って護るのだという。
五年前、北の城内部より現実へ戻ろうとする己の身体中には、おぞましいほどの数の亡霊の手が絡みついた。
その手を振り払う為に闇雲に魔力を放出させたが効果は無かった。
「戻れる」と告げてきた悪神の言葉を信じて城の内部へ侵入した浅慮を悔いながら諦めかけたとき、
光の飛礫が亡霊を退けた。傍にあった光の精霊が、波長の違う魔力を強引に拾い上げて守ってくれたのだ。
あの精霊が傍にいなければ、迎えに来てくれたアデル公の手を認識できずに妄執の一部となっていただろう。
そのかわり、無理を強いられた光の精霊は力尽き、城に取り込まれた。悪神が「戻れる」と保証したのは、
そうした精霊の献身を見越してのことだったのだ。
城内部へ入ったことはアデル公に決して口外するなと約束させられ、その後ララドにて闇の高位精霊との契約を行ったために、
神殿からはその契約のせいで傍の光の精霊が逃げたと誤解されていた。
だが実際は、浅はかな行動によって尊い存在を失っていたのだ。
己を墓標にと見定めてくれた精霊へ報いるような生き方をしなければならないと常に思うのだが。
(自分の行動に、悔いてばかりだな)
ウェイリードは僅かに溜息を零し、足を止めた。
十九段目である。
(また悪神の言葉を信じるのは滑稽だが……)
そうするしか他に彼女を助ける手立ては無いのだ。恐らくまだ自分もラヴィン公も、悪神の興味の範疇にある。
城内部にとりこまれる人間を眺めるのは飽きたと口にした時もあった事から、二人とも戻れないという事態にはならないだろう。
そもそも悪神は《嘘》で人を惑わせることはない。ラヴィン公を内部へ誘導したのも、
彼女の傍にやや特殊な樹木の精霊がついており、且つ現実から引っ張り上げる人間が助けにやってくることを見越していたからだ。
自分のときも、精霊が傍におり、アデル公がいたから城に誘導されたのだ。
だが奇妙なことに、すべてを吐露するこちらに対し、アデル公自身は「会ったことはない」と言っていた。
その言葉を先ほどまでずっと信じていた。
だが、会っていないはずがないのだ。そうでなければこの階段を昇って迎えになど来られないのだから。自分がそうであるように。
(嘘をつくのはいつだって人間だ)
アデル公はなぜ悪神と会っていた事を隠したのか――その理由は全ての事象を照らし合わせれば自ずと判明するだろうが、
ウェイリードは頭を振って思考から抜け出した。考えてはいけない。今は疑うべきではないと。
(彼女を助けることに集中しなければ)
答えるもののない、死者への詰問は後回しにする。
足を止めた十九段目から上部を眺めれば、いつしか登りつめた塔内壁に沿う螺旋階段が延々と続くのが目に映る。
だが、これはまやかしなのだ。
視線を戻し、なんの変哲も無い、石が積み上げられた壁に手を触れ瞼を閉じる。
北の守りの結界構造部に精神を繋げる要領で魔力を働かせれば、紛いものの気配が消え失せた。
目を開くと、あのときと同じ、天も地もない闇の世界に取り残されていた。
足に踏みしめるべき地の感触がなく、闇の中に落ちていっているようにも、
逆に昇っているようにも感じられて目眩が起きる。
視覚できない壁に手が触れる感触だけが、現実へと戻る要となるのだろう。
五年前のアデル公がこちらへ手を伸ばしながらも踏み込んでこなかったのは、この壁から手を放せなかったからだと今更気づかされた。
城の内部は死んだ精霊たちの記憶で成り立っている為に、知覚できても実体はない。
同じように幻覚で出来たベイヘルンの森では精神と身体が分断されることなく移動することができるが、
ベイヘルンよりも桁違いに多くの精霊の死によって歪められたここは、そうはいかない。
在りもしない城を知覚させる為に強引に精神だけが抜き取られ、現実を歪ませる力に負けた肉体は精神に反して動けなくなる。
身体は止まったままであることに気づかず、知覚だけ与えらることで城を歩き回っていると錯覚させられているのだ。
だから恐らくは、ラヴィン公の身体はすぐ近くにあるはずだった。
そのとき、激しい風が前方より吹き抜けた。目も開けられぬほどの強いそれは、風と知覚しながらも実際は違っていた。
妄執の塊となっている精霊たちのざわめきと荒れた心模様が、波のように強弱をつけながら風として伝わってきているのだ。
怒りと悲哀、混乱と絶望に入り乱れた激しく煩雑な感情が、風と共に直接脳内に押し入ってきて、意識に溶け込もうとする。
まるでそれが己の感情であるかのような思い違いを起こし、あまりに強烈な感覚と感情の揺れ幅に、獣のような咆哮をあげそうになった。
意識を強く保たねば、周囲が闇一色ということも相まって、すぐにも感化されて心を病んでしまいそうなほどだ。
(早く、早く助けなければ)
しばし耐えれば風が一旦収まった。収まることを知っていたからこそ、耐えられた。だがこの風は何度でもやってくる。
このような場所に長く居ては、あの弱い彼女が持たない。ウェイリードはいつになく焦り、目を凝らして闇に潜む周囲を見渡した。
彼女の傍の生きた樹木の精霊が迎えに来た生者の気配に気づけば、なんらかの方法で彼女の居場所を伝えてくれるだろう。
いつもは穏やかな光の粒として彼女の傍らにある精霊であったが、
人型をとって彼女を慰めるように抱きしめていた姿は普通の樹木の精霊とは異なっていた。
聖典に綴られる始祖に近しい姿であったことから古参の存在であるのかもしれないが、かといって力ある高位精霊というわけでもなかった。
なにかの特別な木から生まれた精霊であるのかもしれないし、
異なる力の精霊同士が何かの拍子に混ざり合って生まれた新種の精霊かもしれないが、とにかくただの低位精霊とは違う。
それを知っているからこそ、悪神も彼女を内部に行かせたのかもしれない。一般的な樹木の精霊は大した力を持たないのだ。
闇に目が慣れてきたのか、それとも樹木の精霊が力を使い始めたからなのか。
十歩ほど先に僅かな光源を見つけ、ウェイリードは息を飲んだ。
今までその存在に気づけなかったのが可笑しいほどに近い位置に、彼女――ラヴィン公爵は座っていた。
「ラヴィン公!」
やがて光源ははっきりとした薄桃色の花びらとなり、上空から、座る彼女へと降り注いでいた。
まるで精霊の光に押しつぶされるかのように身を縮め、こちらの呼び声には全く反応せずに横を向いたままだった。
近づき抱えて戻りたいところだが、この手を離して近づけば、自分はおろか彼女も帰ることができなくなる。
動けないことが口惜しく、ウェイリードは苛立たしげに歯噛みした。
「ラヴィン公!」
張り上げた声は彼女の耳には届いていない。
彼女の目は開いているのだが、何かを映している様子はなく、虚ろな表情だ。
まるで、アデル公の葬儀のときのように……。
「ラヴィン公!」
恩師の最期を思い出し、託されたその宝を護れない己の情けなさをなじるように、ウェイリードは彼女を呼んだ。
振り返らない彼女は、このままでは戻れない。物理的距離があって声が届かないのではない。彼女の心に届いていないのだ。
どうすればいい――ふいに、廊下で彼女を呼び止め、無視された時のことを思い出す。彼女をなんと呼んだら足を止めたのか。
「デュシアン・ラヴィン! デュシアン!!」
彼女は途端に小さく肩を震わせた。声がした方角を探すように周囲をゆっくりと見回す姿は、ひどく寂しげで憔悴した様子だった。
今まで見たこともないほど心細そうで、泣くのを堪えているかのような表情だ。泣き虫だというアデル公の言葉を思い出す。
弱虫で泣き虫。それでも前を向いて微笑む姿が、船上で父の手紙を燃したのちの彼女の笑みが、脳裏を過ぎる。
(弱くない。君は決して弱くない)
彼女を信じ、駆け寄りたい衝動を堪え、もう一度叫ぶ。彼女が反応するのは「名」なのだ。
「デュシアン! こっちだ! こちらへ来るんだ!」
うつろな中にも鈍い光のあるオリーブ色の瞳と出会う。彼女はこちらを認識したと思われるが、動かない。名には反応している。
それなのにどうして彼女は従ってくれないのか。強引に引き戻せないもどかしさに募る苛立ちが声に滲んだ。
「デュシアン!」
焦れながら幾度も名を呼び続けるが、一向に動かない。声は届いている。名にも反応した。
ほかに何が必要なのかウェイリードは考えを巡らせた。
(呼びかける、相手か)
闇の中、もはやこの世にいない人物を彼女は待っているのだ。――ララドで見つけ出された時のように、アデル公を。
彼女が誰よりも待ち望む人物ならば彼女に何と呼びかけるのか。真綿で包むように大切にしまいこむ娘に、
アデル公はどんな声色で呼びかけていたのか。一度だけ神殿の中庭で見掛けた二人の姿を思い出し、
優しく導くその声を真似た。
「……おいで」
一呼吸おき、荒ぶる心を落ち着けて囁くように語りかけた。物理的距離は関係ないことから声量の問題ではない。
彼女の心に添う音でなければならないのだろう。
「おいで、デュシアン」
彼女は切なげに目を細め何かを探すかのように視線を散らしながら、ふらふらと立ち上がった。
アデル公を真似た判断は正しかった。だが、敗北感が胸に残る。《己》では駄目なのだと思い知らされる。
「こちらにおいで、デュシアン」
その心はまだ精霊の妄執が支配する世界に取り残されているのか、表情は虚ろだった。
だがこちらの呼びかけに反応するように、彼女は足を踏み出した。
彼女が通る道には輝く花びらが降り注ぎ、それが生者を屠ろうと伸びてくる闇の手から彼女を護っていた。
傍らの樹木の精霊の力であろうが、その精霊の姿は光に紛れて判別がつかなくなっている。
波長の違う魔力を拾い上げて魔法として具現化させることは、精霊にとって負担が大きい。
彼女の精霊は一度、ウォーラズール山脈で無理をしている。今回のことを合わせれば、
もはや存在しているだけでも奇跡なのかもしれない。
しかし、おかしなことに、弱ってはいるが生命の危機に陥っているようには感じられなかった。
(普通ではない)
城の記憶を曲げる生者を決して許さない亡者の怨念を、こうも完璧に防いでいる。他の精霊よりも力の弱い樹木の精霊が、だ。
見目は低位とは若干違うとはいえ、力は高位精霊の足元にも及ばないような取るに足らない存在に感じ取れた。
悪神から何らかの干渉を受けたのか、それとも力を隠していたのか。どちらにしろ、人在らざるものの思惑が絡んでいるのは確かだ。
(だが、彼女が無事であるのなら、今はどんなものの思惑だろうと構わない)
目の前までやって来た彼女は足を止めると、ぼんやりとこちらを見上げたのちに微笑んだ。
あの時の――植物園で猫と薔薇を介したやり取りをした時のような、自然で無邪気な笑顔だった。
惚けた自分を叱責し、ウェイリードは片手を差し出した。まるでダンスを申し込むみたいだなと場違いなことを考える。
だが彼女も微笑んだまま、どこか嬉しげに口元を綻ばせながら手に手を重ねてくれた。
その呆気なさに一瞬固まってしまうが、すぐにもその手を強く掴むと半ば強引に身体を引き寄せた。
身体の芯が定まっていない彼女は簡単に、ぶつかるように腕の中に収まった。反射的に片腕で抱きしめた身体は、
肩も腹も腕もなにもかもが華奢だった。
自分が力を入れたら途端に壊れてしまうのではないかと思えるほどだ。その脆さが恐ろしくて、更に力を込めて抱き込んだ。
腕の中にいるのは、もはやアデル公の宝ではない。
(私の、だ)
己自身の意思で感情で、大切にしたいと思う女性なのだ。
想いを明確な言葉にして認めてしまえば、胸につかえていたものがすっと消え失せた。
『そうだ』と認めてしまうのをあれだけ恐れていたのにも関わらず、心は軽くなった。やっと呼吸が楽になった気がした。
「ウェイリード、公子」
胸元から、かすれた声が己の名を呼ぶのが聞こえる。
ウェイリードは歓喜に沸く心を静めきれず、唇の端を歪めた。
彼女が己の名をその唇にのせる、それがどれだけ嬉しく尊いことか。きっと彼女は知らない。
僅かに身体を離して至近距離で様子を見やった。まだ現実と虚構の区別がつかないでいる表情ながらも、
その目には理性の光が灯っていた。だが疲労の影は隠せていない。
「目のいろが、藍色です」
何を言うのかと思えば、そんな他愛も無いこと。それが彼女らしくて可笑しくもあり、自然と目元が緩む。
目の色が藍色であるだけで多くの人々が己をカイザーと取り違えるのに、彼女は欠片も疑わず己だと気づいてくれるのだ。
「五年前、会った時と同じ色……。そっか、あの夢も、ウェイリード公子だったんだ」
彼女はよく分からないことを呟き、微かに笑んだ。
「いつも、夢の中でも、助けてくれる」
息も絶え絶えで、それでも溢れるように出てくる言葉を口にしなければならないと使命感に燃えるように、彼女は独り言を呟き続けた。
まだ少し、意識が混濁しているのかもしれない。
「父様かと、思いました」
まるで星を欲しがる子どものように伸ばされたその手が頬に触れる。冷たくて、まるで氷のようだった。
「これは、夢?」
夢とうつつに心を半分ずつ置いている彼女は、夢心地な眼差しで尋ねくる。
「現実というには違う。死んだ精霊の妄執の中だ」
「精霊の、妄執……」
そのとき、また激しい風が吹き抜けていった。
風の縄で身体を四方に引き千切られるかのような錯覚と、自分のものではない激しい怒りと嘆きとに精神をもっていかれそうだった。
苛む暴風のなか、身体を丸めて嗚咽する彼女にウェイリードは気づくと、片手でしっかりと抱き込んだ。
すぐにも両腕が背に回る。その感触が、精霊たちの負の感情を吹き飛ばした。
すすり泣く彼女を抱き込む腕であやすように撫でて励まし続け、風が収まるまで耐え忍んだ。
「戻ろう」
「……どこへ?」
ぐったりと身を預けてくる彼女は、激情の奔流に疲れ果てたように問い返す。
自分がいまどこにいるのか、それすら判断が付かなくなっているようだ。
(どこへ……?)
だが改めて問われ、ウェイリードは答えを言い淀んだ。
ここならば誰にも何も臆する必要はない。立場も状況もなにも考えずに彼女に触れることができる。
神殿の目も、暗殺の手もない。二人きりのこの場所なら。
(ああ、そうだ。ここならば)
永遠に共に在れる。
神殿から命を狙われたとき、自分の立場を改めて理解した。そして、今後どれだけ恋う相手ができたとしても、伴侶を得ることはないと決意した。
現公爵たる父、巫女であった母、跡取りになる片割れ、法皇を志す従妹。それら家族とは違い、
伴侶とその間にできるであろう子どもには恐らく暗殺の手が伸びるからだ。それを分かっていて、誰かと添い遂げる気にはなれなかった。
だが、ここならば。
「いやっ」
一瞬、己の暗い願望を読まれて否定されたのかと思ったが、そうではなかった。
死の匂いを漂わせる精霊の闇色の腕が、振り落ちる光の花びらを掻い潜って彼女へと伸びていた。
恐れをなして震える彼女は更にこちらへと身を寄せてくる。
ウェイリードはララドで得た精霊を焼く呪いの言葉を舌に乗せた。
確実に正しい発音ではなく、しかもすでに死した精霊相手であった為に効き目はあまりないであろうが、
闇色の腕は恐れをなしたように引き返していった。
(愚かなことを)
このような場所に身を置いても、それは一瞬でしかない。しかもそれは自分の望みでしかない。
知らぬ間に精霊の冥い感情に思考が引き摺られていることに気づく。ウェイリードは自分勝手な欲望を払拭するように、
背には触れながらも彼女と距離を取った。
「これから現実へと戻る。みな、心配している」
決して叶えてはいけない感情を、彼女のなかに残してはいけない。だから、戻ればこの手を離さなければならない。
その前に、忘れぬようにオリーブ色の目を見つめた。
今後このような間近で見つめることは叶わないだろうと思いながら。
「今回のことは全て忘れるんだ。誰にも何も語ってはいけない。
何を聞かれても、覚えていないと答えるんだ。見たことは誰にも話してはいけない。誰にもだ」
「どうして?」
半ば反射的に聞き返してくる彼女の頬に手を触れた。
「話せば、君はラヴィン家の始祖やラウラ・ルチアのように神殿に幽閉されるかもしれない。
それはアデル公だけでなく私も――、誰も望まない」
「……幽閉」
うつろう意識のなか、彼女は僅かに身体を強張らせた。安心させるように、その背を撫でる。
両手でしっかりとその身体を抱けないことが、もどかしい。
「すべて私に任せるんだ。魔力を失って疲れているだろう、眠りなさい。
目が覚めた時には全てうまくいっている。君は何も語らず、尋ねられても覚えていないとだけ答えればいい」
これだけ精神が疲れていれば彼女は簡単に眠りの魔法に掛かるだろう。
見上げてくる彼女を見つめながら、ウェイリードはこれからの計画を練ろうとするが。
「……いいえ」
見つめ合っていた夢見心地の瞳にみるみると意思が宿る。夢から覚めたのだ。
「いいえ、ウェイリード公子。それはできません」
彼女は少しだけ身体を離すと、知性を取り戻した瞳で一心にこちらを見上げてきた。
今の言葉のどれかが、彼女の琴線に触れてしまったのだろうか。
「わたしはわたしのした行為に自分で責任を負う義務があります。それは、貴方が教えてくれたことです」
彼女の言葉は驚くほどの力強さを秘めていた。
弱く脆いのに、強くあろうとする。その姿に惹かれたのは事実だが、見過ごすことはできない。
「わたしは自分で、城に入った経緯を説明をします」
「駄目だ。一つ間違えれば全てが終わる」
「それでもです」
「駄目だと言っている。言うことを聞け、デュシアン」
咎めるように制すると、彼女は目を大きく開いて呆けた。だがすぐにも表情を引き締めて、主張を変えることはなかった。
「ウェイリード公子なら上手に収めて下さることは分かってます。
でもこれ以上、わたしを駄目な公爵にしないで下さい。わたしは貴方みたいになりたい。貴方や、ラシェや、父様のようになりたいんです。
だから、わたしから責任を取り上げないで下さい」
人に任せてしまった方が楽だと知っている。それでもそうせずに、拙いながらも彼女は前を向いている。
これが彼女なのだ。こんな彼女だからこそ、――愛しく思っている。
ウェイリードは諦めるように、大きく息を吐いた。
「……わかった」
大切だからと真綿に包むように守るのは、その方が楽だからだ。彼女は傷つかないし、手の内における。
しかし、前を向こうともがく彼女はそれを望まない。望んではいないのだ。できるならば彼女の意思を尊重したい。
それでも譲れない部分もあった。それを納得させなければ、ここから連れて戻すことはできない。
「君が出会ったもの、見てきたものは全て君の胸の内にしまうと約束してくれ。決して語ってはいけない。
君は階段までしか踏み込んでいない。城の内部には入っていないと、嘘をつけ」
真正直な彼女に嘘を付けるのだろうかと疑問が浮かぶ。だが、人間は嘘をつく生きものだとも思い知った。
彼女だけが例外なんて在り得ない。
「幽閉されるから?」
「自分が目にしたものを神殿の人間に語って、何も起きないと思うのか」
彼女が自分と同じものを見たのかどうかは定かではないが、もしもラウラ=ルチアに関することを少しでも語れば、
異端者狩りは廃れたという態をとる神殿であっても、動かないはずがない。
純信者の衆目を集めてしまっている身は、ともすれば誰よりも危うい立場にある。それは、法皇候補であった己が良い例でもあった。
「……まるで、わたしが何を見たのか知っているみたい」
茫洋とした様子の彼女に不意をつかれ、僅かに動揺する。
「あっ、目の色が……」
驚いたようにこちらを見上げる彼女の視線から、己の左目が動揺の隙をつかれて精霊の力に負けたことを悟る。
歪な己の姿を一番晒したくない相手に見せたその恥辱に顔を逸らしたが、今更隠しても遅い。
それに片手は彼女の背に、片手は壁にある為に、今すぐ手を翳して戻すことは難しかった。
「それが、本当のウェイリード公子の姿なんですね」
忌避することなく当たり前のように受け入れる言葉に、吸い寄せられるように彼女を見下ろした。
しばし見詰め合う。
「どっちも、ウェイリード公子の目。やっぱり綺麗で、神秘的」
ふふと楽しげに笑い、唇に弧を描く。そこには偏見も、侮蔑も忌避もみられない。ただ純粋な好奇心のみ。
これ以上ないほど気持ちが高ぶり、ウェイリードはもう一度強くその身体を抱いた。
「こ、公子?」
胸に頬を寄せることになるほど強く抱きしめられる理由が分からないのだろう、上擦った彼女の声に僅かに苦笑する。
「このまま戻る。目を閉じて、何も考えずに私の身体だけに意識を向けるんだ」
「……はい」
彼女に触れた行為の名分を後付けし、素直に身を任せる華奢な身体をしっかりと抱き込む。
ウェイリード自身も目を閉じると、意識を壁に残す手へと移した。
何かに強く身体を引っ張られる気配があった。それは五年前に戻ったときと同じ感覚だったので、躊躇うことなく目を開いた。
映りこんだのは闇ではなく灰褐色の石の壁。石で出来た階段に変わらず立っていた。だが先ほどとは違い、
片方の手にはしっかりとした重みがある。
腕の中の黄金色の頭頂部に頬を寄せ、樹木の女神に祈りを捧げる。貴いひとを連れて戻れたことへの感謝を。
「ウェイリード公子?」
未だ目を閉じたままの彼女に本格的に不審がられる前に腕の中から解放すると、
今まで支えられていたものを失ったことへの不安からか、慌てた様子で手が伸びて服を掴んできた。自然と唇の両端が上がってしまう。
閉じたままの瞼の奥でも光を認識できたのだろう、痙攣するその瞼を薄っすらと指先で撫でた。
「もう目を開けても大丈夫だ」
促されるままに開いたオリーブ色の眼差しが、現実に戻って初めに映したのはこちらの姿である。ウェイリードはそれに満足しながら、
足元の覚束ない彼女の為にと理由をつけて抱き上げた。まだぼんやりとしているのか、抗議や抵抗はない。
それどころか、遠慮がちにこちらの胸元に指先が添えられた。まるで灯火を掲げられたかのように、そこだけが熱くなる。
魔方陣のある牢獄の前まで戻ってくると、見慣れた光景への安堵からか無意識にも息が零れた。
「あの、下ろしてください」
身体をもぞもぞと動かす彼女を、名残惜しさを隠すようにすぐにも下ろす。
心地よい重みと熱が、今度こそ完全に腕から消えた。その喪失感に、感じたことのない切なさを覚える。
「瘴気はどうなったのですか?」
今更な質問に、ウェイリードは僅かに苦笑して答えた。今ならば、彼女の質問になんでも答えてやれると思いながら。
「充満していたものは消えうせた」
「消え、た……?」
呆然としながらも、彼女は泣き笑いのような複雑な表情をみせた。
「……よかった」
肩を震わせながら目元を両手で覆う。手で隠れる前に見えた彼女の目は赤くなっていた。
何が彼女をここまで追い詰めたのか。それが知りたくてウェイリードは訊いた。
「なぜ、瘴気を消そうなどと考えた」
「……辛かったんです」
目を手で覆い俯いたまま、彼女はきれぎれに答えた。
「濃度が濃くなっていて、身体の中の瘴気が浄化しきれていなくて、維持魔法を使ったら、とても苦しくて」
気づけなかった事態に、ウェイリードは頭を殴られたような衝撃を受けた。
彼女の身体に瘴気が蓄積されているのだ。解毒はどのようにすればいいのだと、カーリアに文献はあるのかと、
誰ならば詳しいのかと、頭の中が激しい混乱に陥る。
「わたしは二年で済みます。でも、レセンは生涯、こんなふうに苦しまなければならないのかと思ったら、
レセンの子どもも苦しむのだと思ったら……」
無力さを嘆くように首をふると、彼女は続けた。
「わたしなら、瘴気を消して戻って来られると――」
「悪神が君にそう言ったのだな」
弾かれたように上がった顔は涙に濡れていた。零れおちそうなほど目を見開き、唇は驚愕に震えている。
その涙を拭ってやりたいと思った。だが、弱っている心に付け入るような気を惹く行為はすべきではないと己を律し、
伸びそうになる手を押し留めた。彼女への想いを意識した以上、これからは言動に注意を払わなければならない。
「公子も、知って……」
「会っている。このことも口外してはいけない」
「わたし、まさか、悪神だなんて、でも……」
「奴がどれだけの人間の前に姿を現しているのか分からない。だが、奴が動き喋ることは記録には残っていない。その意味は分かるな?」
「はい」
「奴についての話ならば、何れ折を見て私が聞く。だから誰にも――ラシェにも話すな」
頷く彼女の頬を流れる涙をただ眺めながら、
いつか彼女の口から悪神との会話内容を全て聞き出す必要があるとウェイリードは密かに考えた。
「でも、相手が悪神だと分かっていて、その言葉を信じたのは私の意志です。
わたしは、わたしが出来ることをせずに、
公爵となったレセンやその子どもが苦しむ姿を、横で見ていられる自信はありませんでした」
赤くなった目がこちらを一心に見上げてくる。まるで肯定と容認を請うように。
「わたしは、自分の人生を何度やり直したとしても、同じ選択をすると思います」
打開する力を持っていても状況に恐れをなし何もせずに訪れた未来で、どれほど悔いることになるか。
彼女の決意は十二の時の己の決意に似ていた。だが、決意をする側とされる側とではこれほど感じ方が違うのかと思い知らされる。
「君は、馬鹿だ」
あのとき、怒り狂って罵ってきたカイザーの気持ちが今更ながらに分かる。
「二度と、こんなことをするな」
言い聞かせようとも無駄なことは分かっていた。弱虫で泣き虫なくせに、思いのほか意思は強い。
事実、彼女は微笑んだままで頷かなかった。意思を曲げる気はないのだろう。
それが酷くもどかしく、だが、それを修正できる立場にないことに苛立ちを強く感じた。
(……ならば、護ればいい)
彼女が言う事を聞かないのならば、これからも護ればいい。今までのように、そして今まで以上に。
二年経てば彼女は公爵ではなくなる。その後はきっとラシェが良縁を見つけることだろう。それまでは。
(私が一番傍で護る)
その身も、心も。
この二年が永遠であればいいと、望む。
彼女と同じように、何度同じ時を繰り返そうとも同じ選択肢を選ぶ自分と彼女は、相容れない運命にあるのだろう。
時が過ぎれば諦められる日がくるはずだ。例えば、彼女が誰かに嫁げば――ふいに彼女の故郷の幼馴染だという男を思い出す。
そう、アデル公に似た雰囲気のあの男が彼女を故郷に連れ帰ってくれれば。
見えないところで幸せに暮らしていると知れば、きっといずれこの想いも消えてなくなるはず。
ただの情景となり、笑って思い出せる記憶となる。
(落ち着け)
だから今は、感情的になってはいけない。
彼女を幸せにできない己が、手を伸ばしても良いはずがないのだから。
「君から戻るんだ。私もすぐに後を追う」
決意を胸に、彼女を移動魔方陣へ促した。あの部屋で待つ人々たちをいい加減に安心させてやらなければならない。
「飛んだ先に協議会の出席者が数名控えている。約束はたがえるな」
「はい、大丈夫です。ちゃんと説明できます」
状況を理解したのであろう、意識は完全にしっかりしているようだった。
先に戻って場を平定させておきたい気持ちもあったが、彼女を残して先に魔法陣を作動させる気にはなれなかった。
「あの、ウェイリード公子。迎えに来てくださって、ありがとうございました」
魔方陣へと足を踏み入れる前に彼女が軽く振り返る。
「わたし」
何かを言いかけて、だが言葉を飲み込んだ。
一瞬苦しげな表情を浮かべ、すぐに唇を引き結んで首を振る。今がそのときではない、と言いたげに。
「頑張りますから、見守ってください」
意気込みを語ると、彼女はこちらの返答を待たずに陣の向こうに掻き消えた。急に消えたことに一瞬ひやりとしたが、
神殿の部屋へと戻っただけだと思いなおす。やはり、彼女の姿が視界に映らないとどうも落ち着かない。
見守れと告げた彼女の言葉に従うべく、ウェイリードもすぐに魔方陣へと足を踏み入れた。
その背に悪神の声が響いたような気がしたが、すでに魔方陣が発動した後で、確認するすべはなかった。
――さあ、これで準備は整った――
(2012/8/28)
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