墓と薔薇

十章:妄執の城(5)

 元老院から返す足で、もう一度《北の守り》へと通じる魔法陣が残された部屋へと赴く。 日に二度目の来訪に守護する騎士たちも当惑している様子だったが、こちらの言い分を聞いて納得してくれた。
「《第二の守り》を見てみたいのです。初めて入るので、時間が掛かるかもしれません」
 日がやや傾き始めている。何かしらの問題がない限り、大抵は西日が差し込む頃から入室者はその数を減らす。 これから行うことを考えれば、誰かと時を同じくして入室するわけにはいかないのでこの時刻は打ってつけだった。 そして時間が掛かると初めから宣言していれば、戻りが遅くなろうとも不審がられないだろう。
「承知致しました」
「どうぞお気をつけて」
 神殿騎士たちの優しい言葉と気遣わしげな眼差しに幾分の申し訳なさを感じながら、デュシアンは再度入室した。
 室内の短い階段を下りて地面に描かれた三つある移動魔法陣の右側へと入り、 精神魔法を振り払って初めて二枚目へと侵入した。 到着して最初に目に飛び込んできたのは、延々と真っ直ぐに伸びる暗澹とした廊下とその左右にある無数の鉄格子の牢屋だった。 誰一人そこに囚われている者などいないはずなのに、今にも鉄格子の合間から手が伸び、 落ち窪んだ囚人の目がこちらを覗いてきそうなのだ。 耳に痛いほどの静寂が、あるはずのない呻き声を拾ったような気がする。《第二の守り》はこの廊下を越えた先にある。 一枚目とはまた違う種類の恐ろしさを覚える。想像以上の陰鬱さや不気味さに背筋が凍る。
 しかし今回、用があるのは《第二の守り》へ続く正規の道ではない。デュシアンは覚悟を決めると背後を振り返り、 魔法陣の奥に真っ直ぐに伸びる、何の変哲もない階段を視界に入れた。魔方陣から眩しい光を受けているはずなのに、 数段先は完全な闇に隠れている。 これが北の守りに関する文書の中で最重要事項となっている、絶対に昇ってはいけない階段である《帰らずの階段》なのだ。 そしてこれからデュシアンが昇る階段でもある。先に待つものをうかがい知ることはできない底知れない恐怖が胸をぎゅっと鷲掴む。
(行かなければ、一生後悔することになる)
 このままの濃度が続けばレセンは絶対に城の内部へ入るだろう、子があれば絶対に。それは想像ではなく確実な未来だ。 戻れる自分が城へと入らなかったが為に、愛する異母弟を失うこととなる。
 デュシアンは気持ちを固めると、《帰らずの階段》を昇り始めた。

 昇り始めは狭く真っ直ぐだったはずの階段も、いつしか広い円柱形の建物の石壁沿いに昇る螺旋状の階段となっていた。 手すりはなく、中央を大きく吹き抜けとしている。上を見上げても闇しか窺えず、 まだどれほど昇らなければ良いのかも判別できなかった。 また、階下は吹き抜けが恐ろしくて見下ろすことができず、 今までどれほどの高さを昇ったのかすらデュシアンには分からなくなっていた。
 劣化したのか、はたまた幾人もの先人が同じ道を歩んだことで僅かずつでも削られたのか、 石階段の表面にはうっすらと砂利があり、登るたびに靴音だけではない砂が擦れるような音が響く。 その音が、自分が確かにここに存在していることをデュシアンに意識させてくれた。 ただ独り景色の変わらない階段を延々と昇っていれば、己が《ここ》に存在しているという意識が希薄になりかけるのだ。 それは、城に侵入する異物を排除せんとする精霊たちの仕業なのかもしれない。
 まるで平坦な道のりを歩んでいるかのように疲労は少ない。 けれども終わりの見えない行為を繰り返しているのは思った以上に精神的疲労が溜まる。 あとどれほど昇れば己は自己を捨ててしまうのだろうかと弱音を吐きそうになったとき、 やっと階段は終わりをみせてデュシアンの前に一つの扉が現れた。 気が緩み、ふと何気なく背後を窺えば、小さな悲鳴を上げてしまう。 眼下の階段がどんどんと消えてゆき、足元から闇が迫ってきているのだ。 闇に背を圧されるように慌てて扉を開いた。
 開いた扉からは眩しい光が溢れて先は見えず、驚き慄くその身に幾つもの光の手がにゅっと伸び、 体を掴まれるようにして扉の内側へ引っ張り込まれた。慌てる時間すらないほんの一瞬で光から投げ捨てられるように、 仄暗い石造りの廊下に己一人で立っていた。背後を振り返ったが通ったはずの扉はどこにもなく、ぞっとした。
 真っ直ぐに伸びる灰褐色の廊下はどこまでも薄暗く、左右どちらも奥まで続く。 窓のない閉鎖された空間に、煌々と灯る蝋燭が影を伸ばす。どこからかやってきた生ぬるい風が、 まるで人の手のような感触で頬を撫でて通り過ぎていった。 その気味悪さにぶるりと身体が震えた。静寂が耳に痛く、緊張と恐怖に呼吸が荒くなる。 誰もいない。けれどもここは何者かの気配に満ちているのだ。 精霊の気配が濃いのかと思えば、それとは違うと思う。
(進もう)
 ここは、受け入れがたい死を迎えた精霊たちの妄執が生んだ城である。 ベイヘルン永遠平原の《森》のように、精霊の強烈な監視があってもおかしくはない。
(どっちだろう?)
 左右どちらを見ても、廊下の行き付く先は分からない。ならば目の前の蝋燭の火の動きから風の向きを確認し、 風上となる右方向へと進むことを決めた。目的地は女神アリューシャラを産んだ《始祖の樹》。大地に根を下ろす巨木であるのなら、 少なくとも土のある場所を探さなければならない。往々にして、それは建物外部であるはずだ。 まずは外に出ることを考え、風の吹き込む入り口を探すこととした。
(リディスさんの塔のほうが、怖いかも)
 朽ちかけた床板や苔の生えたぬるっとした階段。廃墟同然の彼女の研究塔を思い出して比べることができるだけの余裕がある。 自分で考えていたよりも北の城内部に入り込んでから冷静でいられることに驚いた。 ウォーラズール山脈を一人歩きした時の方が、よほど緊張したのかもしれない。
 しかし歩き始めてすぐに、正面に現れたものを見てその余裕が全く消え失せた。
 二十歩ほど先に、全体の印象が薄ぼんやりとした表情が分からない《ひと》の形をしたものが、 ゆらゆらと左右に揺れながらこちらに向かってやってきたのだ。しかし、目の錯覚かと期待する前に霞のように消え失せる。 恐怖に足が止まった。
(ゆ、幽霊?)
 しばらくすると、先ほど感じた生ぬるい風が頬に触れた。気味の悪いその風に引かれるように振り返ると、 慌てて両手で口を塞いで悲鳴を堪えた。 そこには、重い足を引きずるように歩く《ひと》のかたちをしたものの背中があったのだ。 いま確かにその《ひと》はデュシアンのすぐ傍を通ったのだろう。けれどもまたすぐに、 まるで蝋燭の光に溶けるようにその姿は掻き消えた。
 早鐘を鳴らす心臓と、荒ぶる呼吸。デュシアンの手は知らず震えていた。
 《ひとり》に気づいてしまえば、感覚は鋭敏に《彼ら》を知覚する。正面からやってくる冷たい風とは違う生ぬるい微風。 静謐であるはずなのに、音にならない慟哭を耳が捉える。ゆるゆるとした風とうっすらとした人肌の感触が、 前から後ろからと引っ切り無しに続く。閑散としているのに市場のような密な空気に息がつまる。
(いやだ)
 足が動かなかった。鳥肌がたち、膝が震えた。しかしここで止まってしまえば彼らと―― 精霊の記憶の中に取り残された人々と同じになってしまう。《彼ら》は北の城へこうして入城し戻れなくなって朽ち果てた人々だ。 その存在とその思いが、永遠に幻の中に閉じ込められているのだ。
(動け)
 ここへ何をしにきたのか。デュシアンはそれを思い出して自分に言い聞かせた。 もしも自分が彼らと同じようにこの妄執の城を徘徊する亡者になろうとも、それは為すべきことを遂げたあとだ――と。
(怖いけど、彼らは何もできない)
 そっと胸元のアミュレットに触れて気持ちを落ち着かせると歩み出した。

 現れてはすぐに消えゆく亡者の中をすり抜けるように回廊を進み、階段を見つけては下に降り、 分かれ道にぶつかれば蝋燭の動きで風向きを確認した。入り組んだ城内であるはずなのに、不思議と迷いは感じない。 何かに導かれているというよりは、進むべき道を感覚的に知っていると表現するほうが正しいだろう。 理由の分からない確信めいた本能のような何かが働いていた。 精神魔法に掛けられて、動かさせられているのかもしれないとぼんやりと思うが、魔法の気配は感じられなかった。 正しい道を歩んでいるのだからと、そのことに関して考えるのを放棄する。
 窓のない宵闇の城内を進むうちに、出会う《ひと》の姿は徐々にまばらとなっていた。 だが数が減るに従って彼らは確かな輪郭と色を持つようになり、その独り言もはっきりと聞こえ、明確な意味を持つようになっていった。 恨みつらみを淡々と語る者、家族に会いたいと嘆く者、発狂した様子で出口を探し回っており何度も出会う者、 何の気力もなく脱力して座りこむ者……諸々。彼らは精霊の記憶であるから当然、誰一人としてこちらに構ってくる者はいない。 それが何よりもデュシアンの心を静めてくれた。
「わたしの意志を継いでください」
 ふいに凛とした声が響く。話し掛けられたのかと思ったデュシアンの体は瞬時に強張るが、そうでないと思い直して緊張を解いた。 ここに生きたひとは己しか存在しない。《彼ら》は精霊の記憶のなかの登場人物に過ぎないのだから。
 しかし、出会う亡者たちの一様に常人とは異なる気のふれたかのような様子とはあまりにかけ離れた正常な語り口に、 デュシアンは足を止めてその声の主を探した。
 珍しく開かれた扉の一室に、楚々とした佇まいの女性が座っていた。 金色の髪の上に巫女のヴェールのようなものを深く被り、目元は窺えない。
「わたしの意志を、継いでください」
 彼女はもう一度繰り返した。その澄んだ声にはこうして人を立ち止まらせ、耳を傾けさせる力がある。 精霊たちも彼女を蔑ろには出来ないのだろう、はっきりとした輪郭を持つその姿はひときわ異彩を放っていた。 だが、彼女に対して不思議と恐怖は感じなかった。そっと扉に手を触れて、彼女の言葉の続きを待った。
「わたしの代わりにカーラの神槍に掛けられた魔法の意味を、理由を、人々に証明してください」
 彼女が語り出した内容は、意外なものだった。
「神槍?」
「カーラは……を壊すために……、あの槍に魔力を込めて人を……」
 急に何かの干渉にあったかのように彼女の姿が闇に侵食され、声も掠れていく。彼女が伝えたいことの半分も分からない。 デュシアンは一心に耳を傾けた。
「支配と魅了は……ラのちからです。それで北の……。……相殺するために、フェイム=カースは……を……」
「支配と、魅了? 《北の守り》を視察する時にかかる精神魔法のこと?」
 主神カーラの神槍は《北の守り》にて悪神の身体を貫き、そのまま大地に深くに突き刺さっている。 彼女の話を欠片から結びつけ、その槍に込められた魔力とは結界を視察するときに掛けられる 《支配》と《魅了》の精神魔法のことを思い浮かべた。しかしそれを掛けたのは誰だと伝えたいのだろうか。 純粋に疑問を覚えて首をひねる。フェイム=カースではないのだろうかと。
(待って。悪神は、北の守りの結界が壊れることを良しとしていないと言ってた)
 その言葉を信じるならば、あの結界を壊したいと望むものが他にいることとなる。 目の前の女性は、それをこちらに伝えようとしているのだ。 しかしところどころ掠れた声からは彼女の伝えたいことが殆ど分からなかった。
「どうか、証明してください。世界を護ったのは、女神アリューシャラなのです。 わたしたちは、アリューシャラ様に祈りと感謝を捧げるべきなのです」
 急に鮮明になった声が高らかに語りだす。その主張にデュシアンの胸は震えた。
「あなたは、ラウラ・ルチア一世?」
 当然答えはない。法皇任期後の消息が不明となっているラウラ・ルチア一世だが、北の城に入って最期を迎えた説もあった。 彼女は己の肉声を後世に残す為にここへ入城し、訪れて戻ることのできた誰かが、 自分の果たせなかった思いを継いでくれるのを望んでいるのだ。
「精神魔法を研究してください。ペレウラ雪山の闇の高位精霊……ルドがちからを貸してくれます。 わたしは彼と契約を交わそうとして、……ら、追われた」
 彼女の話に耳を傾けていたのだが、背後に緩やかな風が吹きぬけていくのを感じて意識はそちらに若干逸れた。 ここまで導いたなにかが、その風に誘導を掛けてくる。それに抗えず、森とも水とも思える香りに誘われるように背後を振り返り、 廊下を緩やかに通り抜けていく女性の姿を認めた。
 彼女の背を覆うのは、人の世にない若葉のような緑色の髪。長いそれは真っ直ぐに伸びて、引きずる白い衣に彩りを与えている。
 デュシアンはなぜかその後ろ姿に懐かしさを憶えた。記憶の片隅に重なる何かがあるような気もしたが、 それが分からずもどかしさを覚えた。
「……ジル、ゆるして」
 先ほどまでの意思の強い口調とは違った女性らしい切ない哀願に、デュシアンは弾かれたように部屋の彼女を振り返った。
 しかしそこにはもう誰もいなかった。牢屋とも思える窓もない石壁の室内に、ぽつんと椅子が一つあるだけだった。
 他の亡者たちとは違い、いつかここを訪れる者に対して毅然と己の主張と願いを告げていた法皇が、 女性に戻って許しを求めた相手。それは、異端者として彼女を捕らえたといわれれるジルベルト・ネヴォラ枢機卿だった。
 生涯を独身で通したネヴォラ枢機卿に許しを請ったラウラ・ルチア一世。 少なくとも彼女は、主義主張を何よりも一番に掲げたが為に己の思いを抑え、ここで最期のときを迎えたのだ。 十一年目の提唱以前のふたりがどのような関係だったのかを思うと、切なさに胸が痛む。
(行かなくちゃ)
 ここで止まっていても仕方がないのだ。ラウラ・ルチア一世のことは一先ず捨て置き、 回廊を先に行く緑の髪の女性の背を追った。
 デュシアンには精霊は見えないが、彼らを視ることのできる者たちが書き起こした書物から、その姿かたちは知っていた。 人では有り得ないあの髪の色から考えて、彼女は樹木の精霊であろう。緑の髪、背後からでは分からないが恐らく肌の色は杏色。 瞳は慈悲深い黄緑色のはず。デュシアンの傍にいる精霊と同じだ。
 彼女を追いかけていけば地上か、もしくは樹木のある場所へ辿りつくのではないかとデュシアンは考えた。
 精霊であろう彼女も消えたかと思えば急に現れるので、幾度となくはらはらとさせられた。 二股三股と分かれる道を臆することなく進む彼女を追いかけていけば、この城の中庭と思われる場所へと辿り着いた。
 日の光が一切なかった回廊を抜けた先の中庭には、 まるでそこだけが切り貼りされた楽園であるかのように穏やかな陽光が降り注がれていた。 緑溢れる芝生の奥にそびえる何千年と生きたであろう巨木が、その強い生命力を誇るようにほうぼうに枝を伸ばし、 新緑の葉を広げている。どっしりと不動に構える幹。一目でそれが何であるのかを理解した。
「……始祖の樹だ。これがアリューシャラ様の産みの樹木?」
 巨木の根元で、生い茂る葉から差し込む木漏れ日にうたれながら、先ほどの樹木の精霊が誰かと話していた。 相手は小柄な少女だ。柔らかそうな蜂蜜色の髪、淡い色の瞳。どこか見覚えのある顔――。 それは毎朝鏡の中で見かける人物に随分と似ていた。
「わたし……?」
 朗らかに微笑んでいるその姿は、今の自分よりも少しだけ幼いように感じられるが、よく似ていた。
(あの人は、ご先祖様? だとすればあの精霊は、まさか、アリューシャラ様?)
 少女と話している精霊へと視線を向ける。若葉色の豊かな髪が、女性らしい体の曲線を隠す。 杏色の肌を持つという樹木の精霊とは違い、彼女の肌は白い。 女神になった精霊ならば当然、下位精霊たちとは違って固有の容姿を持っていてもおかしくはない。
 この北の地がまだ人と神々の住む地であった頃、ラヴィン家の祖はここで暮らし、 始祖の樹木の精霊アリューシャラと契約を交わしたと言われる。しかし目の前の二人からは、 ひとと精霊という垣根のない友人のような、姉妹のような親密さが見て取れた。 その光景を、どこかぼうっとしながらしばし眺め続けた。
 ふいに、ほっそりとした白い手が祖先の頭に触れたかと思えば、それはすり抜けた。ぎくりとデュシアンの身体が強張る。
(実体と、精神体)
 これは恐らく、まだ女神アリューシャラが一精霊に過ぎなかった頃の記憶なのだろう。 世界の創造の中で後期に生み出された人間と、初期から世界の一部として生み出された精霊とは、存在するかたちが違う。 肉体を持つ人間と異なり、精霊はいわば思念と精神の塊だ。その為に、両者が触れ合うことはできない。
 触れ合えない二人がそれでも微笑みながら手を繋ぐ姿を、どこか切なくそして懐かしく思い、胸が熱くなった。 それはラヴィン家の血が為せる業なのか、はたまた記憶の奥深くに似た思いを持っているからなのか。
 互いを見合って囁き笑いあう、まるで親友のような二人にデュシアンは近づいた。彼女たちの唇は動いているのに、 その言葉を耳にすることができなかった。あまりに記憶が古過ぎて、精霊たちも忘れてしまったのだろうか。 それでも色あせることのない幸せそうなふたりの姿から、精霊たちの思い入れを強く感じた。 きっとこの時間を愛して止まないのだろう。
「ちからを、貸して下さい」
 楽園の記憶の中、二人が繋ぐ手にデュシアンも手を重ねた。記憶の二人も互いに触れ合うことはできていない。 そしてここにいる自分も彼女たちに触れることはできない。それでも思いは同じなはず。
「お願いです、アリューシャラ様。瘴気を浄化するために、力を貸してください」
 精霊の妄執が支配する記憶の中では確かに存在する、今では失われた始祖の樹と精霊アリューシャラ。 魔力に香るラヴィン家の血に反応してくれることを切に祈りながら、樹木の精霊が反応を示す波長で魔力を流し続けた。
(お願い……)
 強い思いと共に、ぎゅっと目を瞑る。
 そのとき、幹に耳を寄せているわけでもないのに樹木の中を通る水の音が響いたような気がした。 強くて優しい風が下方から巻き上がり、頬を撫ぜて昇っていく。それと同時に、 自分の魔力がどんどんと吸い取られていく感覚に陥った。まるで魔力を根こそぎ奪っていくかのような強引で性急さだ。
 記憶の中の始祖の樹がこちらの魔力を認識してくれたのだろうか、地響きにも似た底知れない深いちからを感じ取る。 そのとき何故か誰かに呼ばれた気がして目を開き顔を上げれば、 頭上の葉の一枚一枚から雨のように緑の光がデュシアン目掛けて零れ落ちてきた。あまりの眩しさに目を細める。
 葉脈をなぞるように浮き出てきた数多の光の粒子は零れ落ちるとデュシアンの身体を滑り、そのまま樹木の中心に集っていく。 集合体となり膨張し続ける光は、その大きさが樹木を覆い隠すほどになると収縮を始め、 幹に飲み込まれるようにして消えていった。
 はらはらと、葉が幾枚も落ちてくる。そのひとひらの葉が手におさまると、まるで硝子のように砕け散った。 新しい風がそれを吹き運び、静寂が戻る。傍に居たはずのふたりは、いつの間にかいなくなっていた。 大樹の根元にデュシアンただ一人が立ち尽くしているだけだった。
(消えた)
 判然とそう思う。漏れでた濃い瘴気が浄化されたのだと確信できた。なぜならば《北の守り》のあの場所も、妄執の城の一部なのだから。 きっと力は届いているはずだ。
「……良かった」
 喜びを感じるのも束の間、貧血のように視界が一瞬真っ白になり、身体の芯が揺らぐとその場に膝をついた。 かなりの魔力を短時間で奪われたのだ、頭の中はぼんやりとし、くらくらとする。疲労感からひどく眠かった。
 魔力は《血》、そして魔力を使用することは《傷》と表現される。 血と同じように、器に対して魔力が三分の一も失われれば一時的に昏睡状態にも成りえるのだ。
「帰らなくちゃ」
 心配してくれる人たちのもとへ。
 継母、異母弟、従兄の顔が思い浮かぶ。それから、会いたいと願うひと……。
(ウェイリード公子)
 レムテストで彼と会えるといいなと願ったことを思い出し苦笑する。 あのときはもうすでに無意識でも彼を「好き」だったのかもしれない、と。でも、本当はいつから「好き」だったのだろうか。 魅了の魔法を掛けられた時は違うかもしれない。では、紛失した書類を確認する申し出をしてくれたとき?  北の守りのなかで倒れた自分を運んでくれたと知ったとき? 北の守りの綻びをひとりで修復することを気遣ってくれたとき?
(わかんない、気づいたら好きになってた)
 なぜだろうか、もっと考えなければいけないことが沢山あるはずなのに、頭のなかはウェイリード公子のことでいっぱいだった。 モーリスの村まで付いてきてくれたときや、ブラウアー子爵の手から救ってくれたときのこと。 海賊船から飛んできた矢から身を挺して守ってくれたときや、母の眠る地で見守ってくれたこと。 夜半のクロイツベルク城で口付けられそうになったこと。そして、それを謝罪されたこと。
(あれが、さいご?)
 否定されたことが、彼の最後の記憶。いやだ――と思う。思いをなにも伝える前から拒絶された。その記憶が最後だなんて。
(あいたい)
 会って、ちゃんと言いたい――好き、と。
 けれども、それは叶いそうにない。
 まるで泥の中に落とされたかのように全身が言うことを聞かないし、指先ひとつ動かすこともできない。 だから、自分の上半身が均衡を崩して倒れこむのを防ぐことも受身を取ることもできなかった。 けれどもまるで真綿の詰まった袋の上に落ちたかのように、何の衝撃も感じられなかった。
 葉がはらはらと落ちてくる。身体にあたっては砕け、風に運ばれる。繰り返されるそれを眺めるしか術がない。
 視線すら動かすこともできないままその場で倒れるデュシアンの周囲が、蜃気楼のようにみるみると揺らめきはじめていった。 陽光輝く楽園だけでなく仄暗い回廊までもその姿を薄めてゆき、背後からやってきた闇にじわじわと溶けこんでいく。
(精霊に、異物だと思われた……?)
 急激に崩壊する記憶の世界に取り残されながら、暗闇に囲まれたデュシアンの意識はどんどんと遠のいていった。

 まるで全てを無に帰したように、あたりは漆黒の闇となる。こうして人は、精霊の妄執に飲み込まれていく……。


十章(表) 終
(2011/8/1)

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