墓と薔薇

十章:妄執の城(4)

 未だ肺の内側を刃で薄く削られるような鈍い痛みは消えない。呼吸をする度に喉は火傷をしたようにひりひりとする。 脱力感が身体を襲って歩くことも億劫で、たまに膝から力が抜ける。
 デュシアンは足に意識を集中すると手すりを駆使しながら《蜜蝋の階段》を慎重に降りた。 薄ぼんやりと仄明るい《柱の間》を進みながら、ともすれば止まってしまいそうになる足を強引に動かした。 休みたいと身体が悲鳴をあげているが、意地でも足を止めなかった。
 たった一回、それも、あと数えるほどしかない内のたった一回。 爵位を継ぐレセンやその子孫はこのような辛い思いをするのは数回では済まされない。 それを考えると我慢もできた。しかし今己が我慢しようとも彼らの負担が減るわけでもない。 本当の解決方法は別にある。
(わたしは戻ってこられる)
 漏れた瘴気を安全に消し去ることができる。そして、誰もが戻って来ることのできなかったこの城の内部へと入り込んでも、 戻ってこられるというのだ。だがそれを保証したのは彼の悪神である。
(信じても、良いのかな……)
 元は主神カーラの夫。けれども彼女に討たれ、千年以上もの間この城で槍に貫かれて捕縛されたままの神。 主神カーラが罰を与えた相手と言葉を交わし、あまつさえその言葉を信じるということは、 主神への冒涜になるのではないか――大して信仰心はないものの、デュシアンの心には僅かに波紋が広がった。
 ウェイリード公子ならどうするだろうか――自然とそう考え、デュシアンは首を振った。彼はいま首都に居ない。 それにもし居たとしても、このようなことを相談できるはずもないのだ。悪神と出会ったなど、どうして言えようか。 それはラシェにだとて同じこと。気が狂れたと思われるか、 それとも悪神の魔力に呑まれたとのではないかと逆に心配されてしまうかもしれない。 例え信じてくれたとしても、恐らく二人とも「絶対に入るな」と口を揃えるだろう。 しかしそれでは何の問題の解決にもならないのだ。
(わたしが戻ってこられる状態なのは、来月の末ぐらいまで)
 悪神は理由を語らなかったが、そうやって期限を付けられると真実味を増す。 重い腰を上げさせる為に設けた期限かもしれないが、急がなければならないと意識せざるを得ない。
(でも、すべてが嘘だったら?)
 自分が城の内部へ行ったとしても、漏れでた瘴気は消せないうえに戻ってこられないかもしれない。
 けれども、もしも行かなければ「行けば瘴気の濃度を薄められたかもしれなかった」という掻き消せない後悔の念を抱きながら、 レセンやその子たちが苦しむ姿を生涯に渡って見続けることになる。 それだけでなく、精霊が作りだした虚妄の城の真実に辿り着いたレセンが、不確定要素ばかりであっても城内部に入ってしまうかもしれない。 そうなれば異母弟は二度と戻ってこない。そんな未来に耐えられるのか。
(耐えられるはずはないよ)
 ならば答えは決まったも同然だった。悪神の思惑通りに動くことになると理解していながらも、結局のところそうするしかないのだ。
(悪神を、信じよう)
 それは主神カーラへの冒涜かもしれない。だが、そうする他にすべがないのだと自分を納得させた。
 デュシアンは考えるのを一旦やめると、目前に迫った移動魔法陣へ足を踏み入れた。 絡みつく支配の魔力を振り払い、瞬時に神殿の一室に戻る。
 しかし、神殿に戻り魔方陣からただの土床へと歩み出た途端に青い光の向こうに人影を見つけ、反射的に魔力を集中させた。 またたくまに汗が額を覆う。《暗殺》という言葉が瞬時に思い浮かぶ。自分の無防備さに呆れた。
「ラヴィン公」
 少女の声がする。高い声を発したその姿を確認する前に、黒い影が動き少女を隠した。張り詰めた空気がこちらに圧しかかる。 額の汗がこめかみを通り、顎まで垂れた。
 魔法陣から溢れ出る青い光の向こうに、二つの人影があった。一人は濃紺の軍服を着た立派な体躯の男で、 彼はその手を腰に下げた剣の柄にあてていつでもそれを抜けるような体制でこちらを警戒していた。 もう一人は、その大柄な男によって背後に隠された金髪の少女だった。 彼女は男の広い背からちらちらと顔を覗かせながらこちらを窺っている。先ほどの声は彼女であろう。
 そんな二人の姿を認識し、自分が誰に対して魔法を向けようとしているのかを理解して、 デュシアンは慌てて魔力を霧散させた。安易に《暗殺》だと思ってしまった己を恥じる。
「申し訳ございません」
 男に護られる少女へと跪き、こうべを垂れる。
 《少女》と近年、真正面で拝謁したのは確か円卓騎士団のダリル将軍の執務室だった。そのときは気づけなかったが、 恩人でもある少女の姿を今ならば忘れようはずもない。濃紺の軍服を着た男に護られた彼女は、 ミリーネ=エレオノーラ・パルヴィス王女。セレド王子の妹君であった。
 そして、彼女が連れている護衛がまとう紺の軍服は、彼が王室警邏隊所属の騎士であることを示していた。 彼らは王族へ刃を向ける者が何者であっても、その殺傷に咎めがない規定がある。 万が一でも魔法を放っていたら首は繋がっていなかっただろう――たとえラヴィン公爵であったとしても。 頬を打ったことのあるセレド王子が連れている円卓騎士とは権限が違うのだ。 デュシアンは自分の首が繋がっている幸運に嘆息した。
 まだ警戒色を解こうとはしない騎士の横に歩み出て来たミリーネ王女は、申し訳なさそうな表情で優雅に腰を落として礼をした。
「こちらこそ、このような場所で待ち伏せしてしまって、ごめんなさい。どうぞお立ちになって下さい。 あなたを跪かせたとレセンが知ったら、わたくしレセンに口をきいて貰えなくなりますもの」
 口元に手を当ててころころと笑うミリーネ王女は王女というには少々気安く、普通の少女のようで、とても可愛らしかった。 デュシアンも単純に好感を抱く。
「ご無礼をお許し頂き、有難く存じます」
 立ち上がってもう一度こうべを垂れる。堅苦しいと思いながらも護衛の騎士の手前、慎重になってしまう。
 本来ならば、王族に対する距離感はこうあるべきなのだ。父と親友ということで気安い国王陛下や、 何かしらの謀を持って接してくるセレド王子への態度こそ、不敬極まりない。
「やはり、ブライトの忠告通りに外で待っていれば、あなたを驚かせて警戒を抱かせることもなかったのですね」
 ミリーネ王女は隣りの騎士を見上げて反省するように苦笑した。
 名を聞いて初めて、王女の隣りの騎士が黒髪黒い瞳のブライト・レニス公子であることを知る。 ラシェから聞いた話では、彼は本来は隣国エルムドア帝国の人間であり、養子とのこと。 確かに純エルムドア系らしく体躯にも恵まれて騎士に相応しい雄雄しさを持つ。 彼はレニス公爵家の跡取りでありながら元老院の騎士でもあったはず。
(警邏隊と元老院の騎士は、制服が一緒なんだ)
 そんな、どうでも良いようなことを思う。
 やっと緊張を解いたブライト・レニス公子が黙礼するのにあわせて、デュシアンは軍服から意識を離して小さく返礼して応え、 本題に入った。
「あの、それでなぜこのような場所で?」
 ここは待ち合わせや待ち伏せをする場所には不向きだ。 床は姫君が座るには決して適さない剥き出しの土であるし、待機用の椅子などもないのだから。
「執務室に窺いましたらラシェ殿から貴女はこちらだとお聞きしたのです。執務室で待つことも勧められたのですが、 その……」
 躊躇いがちなミリーネ王女の様子に、あのラシェと同室で待つのを戸惑う気持ちは分かるとデュシアンは納得しそうになるが、 そうではなかったらしい。
「ラシェ殿のお耳には入れたくない話なのです」
「それで、こちらに? 仰って頂ければ殿下の御許まで伺いましたが」
「はい。日を改めても良いかとも思ったのですが、それではいつになってしまうか分からないので。 できるだけ早くお伝えしたかったのです」
 ラシェに聞かれたくなく、できるだけ早く伝えたいこと。 そんな重要な事が王女と自分との間であるのだろうかとデュシアンは訝しんだ。穏やかで優しげな風貌の姫君であるが、 あのセレド王子の妹君だと考えると気は抜けない。
「一体なんのお話なのでしょうか」
「あの」
 話を進めようとしたミリーネ王女は、しかしこちらを見つめて聡明そうな瞳を丸くさせ、 すぐにも悲しいことがあったかのように僅かに眉尻を下げた。
「ラヴィン公、もしかしてご気分が優れないのでしょうか?」
 口元に細い指先をあてて心配げに尋ねられ、デュシアンは瞠目する。
「いいえ、ご心配には及びません。話の続きを伺えますでしょうか?」
 呼吸の度に肺が痛む。それを耐えきれずに顔に出してしまっていたのだろう。デュシアンは慌てて笑みを取り繕った。
「レセンのことでお話があるのです」
 どこか納得しきれない様子であったが、ミリーネ王女はためらいながらも語り始めた。
「レセンのこと、ですか」
 ミリーネ王女と異母弟のレセンは同年でともに神学校に通い、幼い頃から面識もあるので性別は違えど親しい友人だと聞いている。
「警邏隊のサリアに体術の指南を受けているのですが、ご存知でしょうか?」
「体術の指南?」
 まったくの初耳で、デュシアンは小さく首を横に振った。
「いま神学校は長期休暇中ですから、一日のうちのかなり長い時間を稽古に当てているようなのです」
 最近のレセンの様子は確かに少し変だったかもしれない。朝にどこかへ出かけたら夕方までは戻って来ない。 どこへ出かけるのかと尋ねれば、先輩の研究室の手伝いをしていると答えが返ってきた。 夕方、屋敷に帰ってくるとすぐさま自室に篭り、しばらくしてから顔を見せる。 酷い時にはいつ帰ってきたのか分からない日もあった。だが他に特に変わったところは見られなかった。 強いて言うならば、たまにちょっとした動作で顔を顰める時があって、 まるで節々に痛みを抱える老人のようだと気になってはいたが。
「サリアは小柄ですが体術に大変優れております。 レセンが彼女に体術の稽古を受けているのは、円卓騎士のジェノライト卿へ一矢報いる為だそうなのですが……。 サリアの稽古の付け方は性急すぎると思うのです。ブライトにも確認してもらったのですが、やはりちょっと異常だと」
「騎士になる為であるならば、あれだけ激しい稽古も理解できます」
 思いがけない話に、デュシアンはブライト・レニス公子を見上げた。
「騎士? レセンが?」
 目の前の立派な体格のブライト公子やダリル将軍、ウェイリード公子などの騎士たちと比べると、異母弟は細くて華奢だ。 デュシアンの知る騎士の印象からあまりにかけ離れ過ぎて、どうも結びつかなかった。
「騎士を目指すにしては年齢的に少し遅くはありますが、ないことはありません。相当苦労されるとは存じます。 ですが、あれは少々いきすぎの域に達しているかと。警邏隊だけでなく円卓騎士もその様子を気にしているようで、 確認に来られてます」
 無論、元老院の騎士たちも止めに入るべきか困惑しております――とブライト公子はそこに続けて口を閉じた。
「差し出がましいかもしれませんが、あまりに見ていられないのです」
 ミリーネ王女は胸元で両手を合わせ、祈るようにこちらを見つめた。
「サリアにそれとなく声を掛けているのですが、レセンのほうが意固地になっていて、それには逆らえないと言うのです。 当人のレセンもわたくしの言葉には耳を傾けてくれません。今日も朝からずっと稽古を続けていて、 このままではいつか遠くない日に倒れてしまいます」
「レセンは、どちらで稽古を受けているのですか?」
 姉としては真意を確かめなければならない。友人をここまで心配させてしまっているのだから。
「元老院の棟にある修練場にいます」
 こちらが動くと知ると、ミリーネ王女は安堵したように瑠璃色の瞳を輝かせて微笑んだ。

 宮殿から繋がる元老院への入棟許可が下りたとき、濃紺の軍服に身を包んだ警邏隊の騎士が案内を買ってでてくれた。 上司であるブライト・レニス卿から話を伺っていると言われ、その手際の良さと対応に感嘆する。
 騎士は「最近の名物になっております」と控え目に笑いながら、修練場まで案内してくれた。 そこは三階分ほどを吹き抜けにした地下の円形施設だった。
 騎士が「あちらです」と指を差す階下を吹き抜けから見下ろし、そこで動く二人に目を奪われる。 体格的には殆ど変わりない二人が組み手を行っているのだが、 赤い髪のほうは殆ど動くことなく金髪のほうを軽くいなして投げ飛ばしていた。受身の練習でもしているのかとも思えるが、 赤い髪のほうの片足が倒れた金髪の背を容赦なく踏みつけたのちに腹を蹴ってその身体を転がしている様子から、 それだけではないことが窺い知れる。
 遠目でも弟を見間違えるはずはない。
「レセン」
 一方的になぶられる金髪のほうを見ていられなくなり、「その内階段は危険です!」と叫ぶ騎士の制止を振り切りながら、 修練場内壁をぐるりと回りながら下りる、狭くて手すりのない石階段をデュシアンは無我夢中で駆け下りた。
 三階分を下りる頃には組み手を行っていた金髪のほう――レセンは己を何度も蹴り上げる赤髪の騎士の足を払って立ち上がり、 額の汗を乱雑に拭っているところだった。辺りは敷き詰められた砂が舞って、埃っぽい匂いが充満している。
「レセン」
 未だ燻る瘴気に冒された肺の痛みに堪えながら、掠れた声で名を紡ぐ。粟粒のように小さな声であったのに、 異母弟はそれを拾い上げたのか、弾かれたようにこちらに顔を向けた。
「あ、あねうえ?」
 汗を拭う手を止めて、レセンはこちらを見ると固まった。
「レセン!」
 デュシアンは弟の傍まで慌てて駆け寄ると、その全身を確認した。
 汗でへばりついた砂が全身を汚している。服は埃と砂まみれで所々破けており、むき出しの腕は掠り傷と打ち身による痣だらけだった。 まるで数人がかりで暴行を受けたかのように酷い有様だが、奇妙にも顔にはかすり傷ひとつない。
 異母弟をここまで痛めつけた人物が視界に入り、それが女性騎士だったことに驚嘆する。 それも、騎士というには身体付きも細身でレセンよりも若干小柄だ。 その彼女が先ほどまで異母弟を投げ飛ばし、蹴飛ばしていたのだ。
 彼女はこちらに会釈はしたものの、姉弟の会話を邪魔せぬようにか一歩下がるとそっぽを向いて、 目も醒めるような赤髪の埃を払っていた。その緑の目と真白い肌とを合わせて、古ララド人の先祖返りだとぼんやり思う。
「姉上、なぜここに」
「ミリーネ殿下が教えて下さったの。殿下はとても心配していたよ」
 レセンは苦虫を噛み潰したかのような表情で舌打ちすれば、後ろの女性騎士は笑いを堪えているかのように手で顔を覆った。 それが気に障ったのか、レセンは不意打ちとばかりに女性騎士に肘鉄を入れるが、難なく交わされる。
「暇なので特訓を受けているだけです、嘘をついたことは謝ります」
 すぐに体勢を整えてこちらに向き直ると、レセンは不貞腐れたように言い放った。 先輩の研究室の手伝いだと言って出かけていた手前、ばつが悪いのだろう。
「やっぱり、騎士になりたいの?」
 嘘をついたことはこの際おいておくとして、本題にはいる。飲み込みの早い弟のこと、めきめきと力をつけていくだろうと思う。 華奢な体格だって、これからどうにでもなるかもしれない。だが、元老院の騎士すら心配する性急な稽古を放っておくことはできない。
「そういうわけではありません」
「じゃあ、どうして?」
 護身術は神学校で習っているはず。それでは足りないのだろうかと考えるが、デュシアンは神学校に通ったわけではないので、 それがどの程度役立つ授業であるのか想像ができなかった。
「ラシェだって騎士に近しい体術を会得しています。僕が同じように鍛えてはおかしいでしょうか」
「『僕』だって」
 レセンの言葉使いに間髪入れず、女性騎士は堪えられないと言わんばかりに噴き出した。 すぐにも怒りに頬を朱に染めたレセンは彼女を蹴りつけたのだが、それもひらりと交わされる。 そんな彼らの様子を見て、デュシアンはこのレセンの全身の暴行痕が彼女によるものだとやっと納得できた。 遠目から見ていただけではやはり自信がもてなかったのだが、この女性はとても体術に長けている。 その細身のどこに強さの秘訣が眠っているのか、 自分と僅かばかりしか体格の変わらない女性をデュシアンは感心しながら眺めた。
 不意に視線が合い、舐めるように全身を眺めてしまった非礼を詫びた。
「不躾に申し訳ありません。わたしはデュシアン・ラヴィン。ご存知でしょうが、レセンの姉です」
「あたしはサリア・クーベルですぅ。王室警邏隊の一員でーす。どぞ、お気になさらず弟君とお話の続きをどうぞ」
 綺麗な所作で敬礼をくれた女騎士サリア・クーベルの話言葉には、少しだが独特の訛りがあった。 その訛りに嫌というほど聞き覚えがあり、デュシアンはしばし凍りつく。
「姉上?」
「あ、うん」
 訝しげに顔を覗き混まれ、デュシアンは慌てて現実に戻った。 なぜララド人――それも下町を出身としている人間が、王室警邏隊に所属しているのだろうかと僅かに興味が引かれた。 しかし今は異母弟のことが先決だとレセンに向き直る。
「それで、ラシェと同じようにって、遺跡探求者になりたいってこと?」
「え、あ……」
 どこか戸惑ったようにレセンは視線を反らした。その態度は肯定ととっても良いのだろうか。
 レセンはいつだって、ラシェが語る遺跡の話には興味がありませんといった顔をして、彼の話題に乗ってくることはなかった。だから、 まさかそのような夢を持っているとは終ぞ思いもしなかったのだ。けれどもよくよく思い返せば、 同じ遺跡探求者のヴァシリーとは何やら楽しげに話しているのを見た覚えもある。 だとすれば、話す人物に問題があったのだろう。 デュシアン自身はラシェ恐怖症は克服したが、レセンは未だにラシェとは距離を取っている。
 しかしラヴィン公爵を継ぐならば、首都を長い間空けることになる仕事に就くことは難しい。特に、 開花と休眠を繰り返す遺跡に関わる仕事に就くことは限りなく不可能だ。成果をあげることはできない。
「来月にも、エルムドアの遺跡に足を伸ばされるんですよねぇ。エルムドアには未開封の遺跡がまだまだたくさん残ってますからぁ」
「おい!」
 女性騎士の暴露にレセンは怒鳴って抗議した。
 珍しい異母弟の慌てた様子とその内容の両方にデュシアンは胸にわだかまりを覚えた。 隣国のエルムドアまで出掛けるという大切なことを話してくれなかった寂しさよりも、苛立ちが僅かに勝る。 見当違いと思いながらも、姉の自分が知らずにこの女性騎士が知っていることへの嫉妬が胸を焦がした。
「本当なの、レセン」
 不満に声が低くなり、咎めるように訊ねれば、レセンは渋々といった態で頷いた。
「……本当です」
「だから、性急な稽古になっていたの?」
「……はい」
 知識の神ララドの魔力によって創られている遺跡は、魔法の才能はもちろん、 身体能力に優れていなければ一歩踏み入れただけで死の危険が降りかかる場所だ。そのような所へ行くことを考えれば、 身体を鍛えることは当然だろう。来月に入ると言うならば、性急な稽古も仕方がないと頷けた。
「でも、そんな大切なこと、どうして言ってくれないの?」
「姉上だって、急に出かけるじゃないですか。理由も告げず、遠地へ」
 あまりに厳しいレセンのその眼差しに、息を飲む。逆に咎めるような青い双眸を見て、 自分勝手なのはこちらだと今更ながらに思い返す。
 急に理由も告げず出かけるたびにレセンがどんな思いだったのか、どんな気持ちになるのか。どれだけ蔑ろにされていると思ったか。 同じことをされて改めて、自分の非道な行いに気づかされる。
「ごめん、ごめんなさい、レセン」
 公爵となってから、己のことばかり考えて周囲の人々の思いを蔑ろにしてきている。デュシアンはそれをよく理解していながら、 結局は同じことを繰り返してしまうのだ。そんな自分に辟易するように首を振った。
「いえ、僕も口が過ぎました。姉上が、北の公だということは理解してます」
 レセンは視線を落とし、小さく息を吐く。もう一度こちらに向けられた瞳はいつもの穏やかさを取り戻していた。 そしてはにかむように笑う。
 気づけば、また背が伸びていた。成長が早い、と一抹の寂しさが胸を過ぎる。
「ちゃんと戻ってきます」
 ほんの少し語調を緩めて宣言するように呟かれたその言葉には温かみがあった。そこにはこちらへの深い愛情と労わりがある。 それは五年前と変わらない。十歳に満たない感受性豊かな少年期に、 新しく増えた家族へ深い愛でもって受け入れてくれたあの頃と何も変わらない。それにどれだけ救われたことか。
「わたしも」
 レセンがこちらを注視する。
「わたしも、ちゃんと帰ってくるから。母様とレセンのところに、必ず」
(だから、わたしは行くよ。あなたがいなくなる未来の可能性を少しでも減らすために)
「姉上、またどこかへ行かれるのですか?」
 言葉にせずとも伝わったのだろう。レセンは胡乱げに眉を寄せた。
「うん。北の城へ行ってくる。瘴気をどうにかしなくちゃいけないから」
「北の城? ……ああ、北の守りですね」
 嘘は何一つ言っていない。勘違いしていると理解しているが、特に訂正はしなかった。
「ちょっと帰りが遅くなるかもしれないけど、ちゃんと帰ってくるから」
「はい。お気をつけ下さい」
 素直に頷くレセンの頭を撫でそうになり、その手を我慢する。なんとなく、もうそんなことをしてはいけない気がしたのだ。
「ありがとう。それから、レセン。ミリーネ殿下がとても心配しているから、ちゃんと理由を話して差し上げて。友達なんでしょう?」
「分かりました」
 ばつが悪いのか、レセンは若干頬を染めながらしぶしぶの態で頷いた。
「でも、僕は稽古をやめるつもりはありませんから」
「……それは、うん。レセンが決めることだと思うから強要はしないけど、無理はしないで。 心配している人がいるのを忘れないでね」
「はい」
 微苦笑を浮かべるレセンを眺めながら、デュシアン自身も己の言葉を心に刻んだ。
 もう迷いはなかった。


(2011/8/1)

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