墓と薔薇

十章:妄執の城(3)

 一面水浸しだった――まるで激しい雨でも降り注いだかのように。
 妖しく乳白色に光る、ぬめるような《蜜蝋の階段》を昇った先の《封印の間》へ辿りついた時、 目の前に広がった異様な光景に縫いつけられたようにデュシアンは足を止めた。僅かに青ざめて息を飲む。 以前来た時よりも、明らかに液体瘴気の占める面積が増えているのだ。
 人為的に作られた亀裂は塞いだが、そこから漏れた瘴気が時間を経て更に液体化したのだろうか。 もはや濡れていない場所を探す方が難しいほど、辺りは透明な液体瘴気で覆われていた。 それはこの場の空気に含まれる瘴気の濃度が上がったことを如実に示している。
 重々承知していたことではあったが、こうして目に見えるかたちでそれを知らしめられるとさすがに堪えるものがあり、 デュシアンは唇を引き結んだ。
 《北の守り》と呼ばれる二枚の結界は、瘴気が世界に蔓延することを防ぐ為に女神アリューシャラによって張られたものだ。 実質的に《北の守り》と呼ばれる一枚目の結界は瘴気の噴出口を塞ぐ役割を持ち、 《第二の守り》と呼ばれる二枚目の結界は現在一枚目の外側に流出してしまっている瘴気を外の世界へ一切流させない役割を持つ。 二枚目があることからこの一枚目付近の封印の間に瘴気に満ちていても、どちらの結界にも異常がなければ然程問題にされることはない。 だが北の守りの維持はラヴィン公爵の責務である。それを果たす為にも、こうして国王との謁見後にやってきたのだ。
 瘴気は外界にはない無色無臭の有毒な気体ではあるが、濃度が薄ければ身体への負担も軽い。 毒素が蓄積することもないとの研究結果もあるが、それはあくまで以前の濃度の時の研究の話である。
 明らかに上昇しているこの場の瘴気の濃度は、今後ラヴィン家当主には大きな痛手となるだろう。 結界は数ヶ月に一回程度の維持魔法を必要とするが、その際はこの有害な気体に満たされた空気に長時間触れなければならない。 つまりは瘴気を避ける為に自分を覆う膜のような魔法を解かなければならないのだ。
(大丈夫だと思うけど……)
 先程ばったりと神殿の廊下で顔を合わせた魔法宮のダグラス老将軍は、こちらが《北の守り》へ行くと知ると、 くれぐれも体調にだけは注意するようにと深刻そうな表情で忠告してくれた。 そこには、この濃い瘴気の中での維持魔法を使用することへの憂慮が大きく含まれていたのだろう。
(頼りなく思える、よね)
 国一の魔道師からすれば、こちらは卵から生まれたばかりの体毛も乾いていない雛も同然だ。 ただ平均よりも魔力の器が大きくて、そして魔力の制御ができるだけ。 もし従兄のラシェが《北の公》であれば、老将軍は何も案ずることなく全面的に彼を信頼し、晴れやかな表情で送り出したはずだ。
(実力も努力も違うから、比べても仕方ないよね。そもそもラシェに失礼だ)
 自分は問題を起こす天才だと解かっている。ダグラス将軍が心配するのも無理はない。
(せめて努力だけは怠らないようにしよう)
 卑屈にならないように、小さく笑ってから前を向く。
 不意に現れては消えていく、光として可視できる精霊たちの軌跡を眺めながら足を進めた。 この場所だけはなぜか精霊が目視できる。それをいつもの如く少々不思議に思いながら、辿り着いた漆黒のヴェールの前で歩みを止めた。 目の前の結界の向こう側、闇の奥には主神カーラの槍に貫かれた悪神がいる。そう意識するとぶるりと身体が震えたが、 けれどもそれだけだった。
 何時の間にかここを《怖い場所》という認識は薄れていた。 初めの頃は歌を口ずさんで気を紛らわせなければ、とても居られなかった。それが今ではどこか落ち着く場所にすら思えてくる。
 ここは遠い昔、神々がまだこの世界に住まっていた時代、ラヴィン家の祖がいた土地だと知ったからだろうか。 身に流れる血が、もしかすれば帰郷を喜んでいるのかもしれない。そう思うと、不思議とこの薄暗い城にも親近感さえ芽生える。
(変なの。ここはとても怖い場所なのに、人間が存在しない場所なのに、慣れれば落ち着くなんて)
 唇を自嘲ぎみに歪ませ、デュシアンは思考を振り払った。そして指先を伸ばし、目に見えない結界の境界面に触れる。 任意の異物を遮断する《防御壁》の魔法を解けば、とたんに軽い眩暈を覚えた。 身体中を駆け巡る不快感を振り払い、意識を結界に溶け込ませる。続けざまに掛かる精神魔法を解くのにも時間は掛からなくなった。
 閉じた瞼に映るのは虹色の半円結界。六角形の螺鈿細工のタイルのようなものが隙間なく表面を覆っている。 精霊と同じように視覚では認識できないが、これが瘴気を閉じ込めているものの本来の姿である。
 隈なく見渡すも大きな亀裂は見当たらず、デュシアンはひとまず安堵した。 女神が遺したこの結界は、作為的な力が掛からなければ半永久的に大きく崩壊することはない造りになっている。 それでも《維持魔法が必要》と定義つけられているのは、この危険な存在を決して忘れさせない為なのかもしれない。
 少しこつを掴んだのか、デュシアンは維持魔法を半時ほどで終えることができた。閉じていた瞼を開いて結界から意識を切り離し、 予想以上に重く疲れきった身体を引きずるようにして手を離した。即座に瘴気を閉ざす魔法を使用して息を整える。
 意識を現実へ戻せば、焼けつくような肺の痛みを覚えて胸元を押さえた。維持魔法の最中は全く気づくこともなかったが、 この半時に吸い込んだ瘴気のせいで、呼吸をする度に胸の奥が火傷でもしたかのようにひりひりとした熱を帯びている。 額を覆った冷や汗がこめかみを流れ、頬を通って顎に溜まった。息苦しさに下を向けば、顎の汗が液体瘴気へと滴り落ちていく。
(瘴気の流出は収まったはず)
 濃度は上昇してはいない。それなのに、今よりもずっと長く瘴気に触れていたはずの、 三枚目を構築する際に維持魔法を掛け続けた時よりも症状は重篤だ。
(身体が瘴気を浄化しきれていない?)
 基本的に瘴気の作用は一過性のもので、体内に蓄積せずに浄化されると言われている。だがそれは以前の濃度であった時の研究結果である。 濃度が上昇すれば、それもまた変わってくるのかもしれない。畢竟(ひっきょう)するに、 新しく吸った瘴気と身体に残った瘴気が合わさって症状を引き起こしているのだろう。
 これは本当に、決して外の世界に流出させても良いものではないとデュシアンは改めて認識した。
(濃度が濃くなると、こんなに違うんだ……)
 そして、維持魔法を使用する度にこのような思いをしなければならない生き地獄のような未来を見据えて、唇を噛み締めて顔を上げる。
(わたしは数年で済むけど、でも、レセンは何十年もこれを繰り返すの?)
 三年経てばレセンは成人を迎える。余程のことがない限りはレセンが次期ラヴィン公爵となり《北の公》となる。 この仕事を引き継ぎ、瘴気を身体に蓄積させていくのだ。
 無性に何かを叩きたくなった。投げれるものがあれば、そこらじゅうに投げつけたかった。 なぜ愛しい弟がこんな辛い目に合わなければならないのか。縋るものが欲しくて手を透明な結界に埋める。 外部からの侵入に反発するようにぴりぴりとした痺れを与えてくるが、その痛みのお陰でデュシアンは暫し冷静になれた。
(瘴気を少しでも消す方法はないの?)
 湧き上がった疑問に淡い期待も抱けず、首を振る。世界に広がり始めた瘴気を消し去る為に、この島の自然は全て枯れ果てた。 しかもそれは女神アリューシャラだから行えたこと。人間にできるとは思えない。
 そもそもこの島にいた、自然を司る大地や樹木の精霊たちの殆どがその時に命を落とし、 多くの同胞が命を落とした場所に精霊は寄り付かなくなった。だからこそ、この島は永遠に荒れ果てた土地となったのだ。
(瘴気の濃度を少しでも下げられるなら、わたしはどんなことでもするのに)
 強く、そう願ったそのとき。
「やあ、北の公」
 背後から掛けられたその声に、デュシアンは凍りついた。人の気配はなかった。物音一つなかったのだ。
 瞬時に振り返り、無意識にも半歩身を引いて声の主との距離を取る。
「考え事の邪魔をしちゃったかな」
 数歩先に、見目麗しい、ひょろりと背の高い闇色の男が立っていた。
 どうしてこんな至近距離まで近づかれて気づかなかったのだろうか。 彼は液体瘴気で満たされたこの場所において水音ひとつたてないで、どうやってここまでやって来たのか。 その得体の知れなさに背筋がぞくりと震える。デュシアンは怯えとともに、辛うじて我慢できた悲鳴を飲み込んだ。
「あなたは……」
 名も知らぬ漆黒の男。象牙色の肌はまるで何年も陽の光に当っていないかのように青白くすらあり、 それとは対照的に長く艶やかな髪は夜の帳のような闇色だった。
 出会うのは二度目。初対面の時に、この男はこちらが自分を知っていると主張し、名乗らなかった。 しかしこのように完璧な黄金比の男のことを見知っていて忘れてしまえるほど記憶力に乏しいわけではない。
 けれども、本能では何かに気づいたのか、早くこの場を離れろとでも言わんばかりに心臓が異常なほど素早く動いて警鐘を鳴らす。
「この床、不愉快極まりないね」
 顔を僅かにしかめる男の足元は、気のせいか液体瘴気よりも浮いているようにも思える。
「急に増えた瘴気に精霊が怒って、だいぶ液体にしてしまったみたいなんだ。 液体になった分だけ空気中の濃度は少しは薄まったけど、それでもまだまだ人間には辛いだろうね。 人間の不完全な想像力が作り出す《魔法》では全てを防げるわけじゃないし。この濃度は、病弱な者にとって危ういかな」
 不意に、ここは国王陛下が訪れたりするのだろうかと気になった。床に伏せるオーランド七世が病をおしてくることはないだろうが、 もしも王族にここへ訪れる義務などがあるならば、果たしてセレド王子は大丈夫なのだろうか。 百年前の呪いとまでいわれる王家男子に降りかかる病の魔の手がすでにセレド王子を蝕み始めていれば、 視察程度の短い時間であったとしてもその進行を早める可能性もある。国唯一の王子ということもあるが、 例え策略に嵌められようとも、父王を案ずる彼をデュシアンは悪くは思えなかった。
「君はここを長年訪れることになる王家の王子や弟が心配だよね」
 心の内を透かすかのような言葉に、デュシアンは驚きに目を見開き、男の一挙手一投足をじっと凝視した。 すると男はほんの少しだけ、嗤った気がした。
 見え隠れする悪意とも取れない不可解な感情に、デュシアンは顎を引いて考えた。
(わたしは、北の公。《北の守り》を守護する者)
 もしもここで不穏な動きをすれば、それを抑えなければならない。以前はこの男をここへ置いて立ち去った。 しかし今日は、この男がこの場から出て行くのを見送ってからでなければ、自分はここを出ない。そう強く決意する。 精霊の息吹を感じやすいように意識を魔力に集中させれば、辛うじて水や風の精霊の存在を感知する。 幸運なことに《北の守り》は己の背後にある為に、そちらを気にすることなく男へ魔法を放つことができる。 何かあっても対応できるよう、けれども男を刺激しないよう気を配りながら、その動向を窺った。
「ねえ北の公。君は瘴気がどうやって浄化されるか知っているかい?」
 こちらの警戒を全く意に返さないように、男は一歩前に出ると質問を投げかけてきた。 答えを催促するように、無邪気に小首を傾げている。
 デュシアンは震える指先を握り締め、挑むように男を見つめた。
「アリューシャラ様がこの辺りの樹木や緑のちからを使用したと伝わっているので、 恐らくは樹木の精霊や大地の精霊のちからを借りれば浄化できると、思います」
 ことばにしてから初めて気づく。近くに樹木や草花や土はないが、自分の傍には樹木の精霊がついているのだ、と。
「残念ながら、君の傍にいる精霊ひとりの力では、ほんの一かけらの瘴気すらも浄化できないよ」
 こちらの考えることを見通しており、男は楽しげに首を振った。
 一瞬、なぜこちらに樹木の精霊がついていることを知っているのかと疑問に思ったが、 それは公然の秘密となっていることを思い出す。
「瘴気は火で燃やすことはできず、風や水では拡散させてしまいかえって広げてしまう。 大気に混ざった瘴気を根本から浄化するには、樹木や大地や花の精霊のちからを借りて、 彼らの親元である木や土、草花の持つ浄化能力を使用する必要がある」
 男は静かに辺りを見回した。
「君も気づいているだろうけど、ここには水や風、火に属する精霊はいても、大地や樹木に属する精霊は皆無だ」
 永遠にこの島が荒地であることが、緑に宿る大地と樹木の精霊がいないことを告げている。気配すら感じられない。
「樹木の女神が瘴気の浄化に成功したのは、この城の深部に全ての木の始祖となる彼女の産みの樹があってこそだ。 もちろん、それだけでは到底足りるものではなかったから、辺りの樹木や緑のちからも吸収した。 そして、母が死ねば胎児も存在してはいられないように、この島の樹木の精霊と大地に属する精霊は死に絶えた」
 だからこの島全体が緑ひとつない荒地なのだ。
 それはまるで禁呪の後遺症のようだった。永遠にブリザードが吹き続けるララド。灰の雪が降り続ける色を失った小国の首都。 植物を育むことのない荒れた大地を作り出した瘴気は、悪神の作りあげた禁呪であったのではないかとすら思える。
「アリューシャラ様も、じゃあここで……」
 母体となる樹木がなくなれば、いくら女神といっても元精霊の彼女には耐えられないのだろう。明確には伝わっていないが、 彼女は力尽きたと聞いている。
「ここで、霧散した」
 氷のような凍てつく口調だった。今まで浮かべていた笑みがなくなり、無表情となる。 底の見えない深淵の瞳から一切の光が消える。それは、男がみせた初めての《感情》ともいえた。
 ぞくりと肝が冷え、肌が粟立つ。デュシアンは逃げ出したい衝動に駆られたが、それを堪えた。
 ゆらゆらと、互いの間を精霊が光となって漂う。それが何往復した頃だろうか、男は気を取り直したのか口元に笑みを浮かべた。 また嘘で感情が隠される。おかしなことに、デュシアンはどこかほっとした。
「ねえ北の公」
 そういえば、ラヴィン公と呼ばれることはあれど《北の公》と役職名で呼ばれることは滅多になかった。 この人ぐらいだとぼんやり思う。
「主神との戦いがあったはずなのに、この城に傷一つついていないのは変だと思わない?  ここを浮遊する光がなぜ知覚できるのか、深く考えたことはある?」
 男は広い袖に隠れる両腕を広げ、大げさに天を仰ぐ。
 尋ねられ、確かに不可思議だとデュシアンは思った。ここで主神と悪神が己の主義主張をかけて戦いぬいた。 悪神は負け、主神の槍で貫かれた。そのような場所であるのに、床に傷一つ見つけられないのだ。 それとも騎士同士の戦いのように、武具のみの純粋な腕力勝負だったのかと邪推する。 しかし神々の戦いがそんな貧相なはずはないと即座に否定した。そもそも、 二神の戦いが激しかった為に水の神バル=ロアはその身を蛇竜に転身させて、この土地に住まう人々をカーリア大陸へ導いたのだから。 ラヴィン家の祖はその時バル=ロアに守られた一人でもある。
「ベイヘルンの森を知っているよね?」
 男の話は唐突に変化した。デュシアンはやきもきしたが、それを全く意に介さず男は続けた。
「カーリアの首都東に広がるあの森は突然の災害に襲われて、樹木だけでなく多くの精霊や妖精が《焼かれた》。 その精霊たちの怨念が集合体となって、焼け野原となったはずの場所に森を知覚させている。 ベイヘルンが《永遠平原》と呼ばれるのは、精霊の怨念によって森が知覚されているが為に、 誰もあの地に本物の樹木を植えることができないからなのだろう? 《現在》を生きていない《過去》の精霊たちは、 自分が生きていた頃のままの状態を、永久(とこしえ)に保存しようとする」
 男が何を言わんとしているのか理解できて、ぞっとした。
「この城もベイヘルンの森と同じ、精霊の妄執の塊なんだよ。君は今、幻の中にいるんだ」
「まぼろし」
 誰もそのような事を教えてはくれなかった。もちろん北の守りに関する文書にも記されてはいない。 だが、目の前の男が嘘をついているようには思えなかったし、何よりも説得力がある。ベイヘルンという見知った例があるからこそ、 否定することはできない。
「いま目にしているこの光も、柱も、壁も天井も、どれも精霊の記憶に過ぎない。戦いがある前の姿で保存されているんだよ。 死んだ精霊たちの集団での強い思い込みが、現実に虚構の姿を作り出してしまっているんだ」
「あなたはどうしてそんなことをご存知なのですか?」
 あまりにも詳しすぎる。神々がいた時代のことはもちろん、北の城に関することは曖昧なことが多い。それなのに、 目の前の男はあまりに詳しすぎるのだ。
「そんなに僕を《僕》と認めるのが怖い?」
 しっとりとした囁きは甘く、眠気とは違う虚脱感を誘発し、まるで頭を芯を痺れさせる麻薬のようだった。 デュシアンはそれをどこかで知っている気がした。身体はその感覚を覚えている。額を押さえ、薄ぼんやりとした思考で記憶を辿る。
(ああ、そうだ)
 霞の向こうにすんなりと見えた記憶。どうして忘れていたのだろうと唇が戦慄く。
「あなたは……」
 三枚目の結界を構築するときに、この一枚目の結界の亀裂を直すのを手伝ってくれた。 あのときは魅了の魔法で操られていた為に《それだ》と気づけなかったし、そもそも出会った記憶があの後には消えていた。 だから今の今まで気づかなかった。初対面だと思った時、この青年は『僕を知っているはず』と言った。それはその通りだったのだ。
(もう何度も会っていたんだ)
 こんなに恐ろしい存在、――《悪神》に。
 デュシアンは結界を背に、ずるずると力なく座り込んだ。液体瘴気に濡れてしまうことも、もはや気にする余裕はない。 酸欠になりそうなほど小刻みに浅く呼吸を繰り返す。
「……悪神」
「思い出したみたいだね」
 青年は黄金比のその顔を、悦楽に歪ませた。
「腰が抜けてしまったかい、かわいそうに」
 他人事のように取り澄ました表情で大げさに嘆く。
「なぜ」
「なぜ、なに?」
 言葉の続きを促すように膝を折ってデュシアンと目線を合わせ、 その美しい(かんばせ)を寄せてくる。
 デュシアンは荒くなった息を整えながら、自分が何を問おうとしているのか、鈍る頭を働かせた。
 目の前の青年は、己が《悪神》であることを否定しなかった。だが、それならば理解できないことが多すぎるのだ。 まず、悪神は主神カーラの槍でその身を貫かれて身動きできないはず。それなのに目の前の青年はこれだけ動き回っている。 そしてもっと理解できないのは。
「貴方は、この結界を直してくれた」
 瘴気は槍に貫かれた悪神の呪詛とも言われている。その瘴気を閉じ込める《北の守り》の崩壊を、悪神自ら力を貸して食い止めたのだ。
「結界を直したのは君だよ、北の公。君は僕に直接魔力を流すことで魔法陣なしに僕を一時的に召喚状態にし、使役して修復させた。 僕を使役した人間はなかなかいないから誇っても良いよ」
 そのようなこと誇れるはずもない。デュシアンは座りながらも悪神を睨む。 神殿の者たちは、主神カーラの加護があったからこそ《北の守り》の亀裂を直す奇跡が起きたと語っていたが、 真実は推測からあまりにかけ離れていたのだ。
「それにね、この結界は基本的に僕を閉じ込めておくものではない」
「……瘴気を閉じ込めておくもの、です」
 樹木の女神アリューシャラが作り出した二枚の結界は、悪神を封じ込めておく為に敷かれたのではない。
「うん、そうだね。だから壊れたら大変だろう」
「……瘴気は、貴方が作り出したのでは、ないのですか?」
「完全な不可抗力だよ。槍が刺さっていれば、血ぐらい出るだろう?」
 まるで不本意だと言いたげに肩をすくめてみせる。それはあまりに人間臭い仕草だった。
 聖典アニカでは瘴気は悪神の血と表記されてある。だから当然の如く、それを悪神が猛毒に変えたのだと理解されている。 けれどもこのような言い方では、まるで《血》そのものが最初から人間にとって害あるもののように聞こえた。 そして悪神本人はその意思なく毒を撒き散らしているようにも取れる。
「君が信じるかどうかは分からないけれども、僕はね、北の公。人間が滅びることを良しとはしていないのだよ」
 信じられるはずもなくデュシアンが眉根を寄せれば、悪神は殊更心外そうに片眉をあげて微苦笑を浮かべた。
「僕がなぜカーラに討たれたのか、よく思い出してみて」
「なぜ、討たれたのか?」
 主神が悪神へその愛槍を向けたのは、悪神が《(ことわり)》に反する強大なちから、 つまりは《禁じられた呪文》を人間に授けたからだ。 その為に主神は、己の夫である神フェイム=カースを愛槍でもって大地に縫い付けた。
「人間に、禁呪を与えたから?」
「そう。人間の根本を覆す不条理なまでに強い力を人間に与えたから、僕はカーラの怒りをかった。 だからこうして串刺しにされているんだ」
 《こうして》と言いながら、その胸に槍も傷もない姿で動き回っている。
「人間を害したからではないんだよ。それどころかね、僕ほど人間を好む神はいないと思うんだ」
「そんなこと」
 信じられるはずがないと続ける前に、悪神は続けた。
「僕が《禁じられた呪文》を人間に与えたのはね、人間を滅ぼしたいからじゃあない」
「じゃあなぜ」
「絶望の淵に立たされた誠実な人間の目の前にその状況を打開できる禁呪を提示した時、 彼らは総じて信仰と常識と倫理観との狭間で迷い、葛藤に苛まれるんだ。 そして力を行使することを選んだ者は、その後にどれほど罪悪感で塗れた凄惨な人生を送るのか、想像できるかい?  僕はね、人間の悩みもがく姿が見たくて、《禁じられた呪文》を与えるんだよ」
 ぞっとした。血の気が引ける。目の前の《いきもの》はまるで自分と変わりない生態に見えるのに、 その本質は得体の知れない凶悪な化け物なのだ。
「決して人間の存在を疎んでいるわけではない。むしろ僕ほど人間への好奇心に溢れている神はいない。 君たちが滅ぶなんて以ての外だよ」
 笑顔でそう述べる《神》からすれば、人間は研究対象なのだ。その無邪気な探究心を満たす為に、 多くの人々が《禁呪》に手を染めて破滅していった。その破滅すら、この《神》の好奇心を満たす娯楽に過ぎないのだ。
 その理不尽さにふつふつと怒りが沸いてくる。
「悪趣味だと思うかい? でもね、ふらふらと悩み、苦悩する人間の弱さはたまらなく魅力的なんだよ」
「魅力的?」
 他者から暴言を浴びても一言も返さず耐えている《魔女》と呼ばれる女性を思い起こす。 彼女のせいではないのに《禁呪》をまとっているだけで、 どのような扱いを受けているか。彼女が迫害されている実体のほんの一欠けらしか知らなくとも、激しい感情の波が襲う。
「貴方のせいで」
 怒りにかられ、目の前に揺れる漆黒のローブを掴もうとする。だが、その手がすり抜けたのだ。勢い余った手首より先が闇に消え、 驚きに目を見開いて、手を引っ込める。 遠い昔に同じような感覚をどこかで味わった気もして、波立った感情が不思議なほどに穏やかになる。
「……精神体」
 当たり前のことであるのに、今さら理解する。はっきりとした姿で目の前にいる悪神は肉を持たないのだ。
「僕が人間に与える力には死の運命すら覆すものも多い。それでも、君は僕を恨む?」
 衣擦れの音ひとつたてずに悪神は立ち上がる。
「例えば、禁呪で永らえた命が命を繋ぐかもしれない。禁呪によって運命を変えられた者が、他者の死の運命を変えるかもしれない。 それは君にとって、悪?」
 詭弁だと思う。けれども《悪》とは言えない自分の弱さがもどかしくて、デュシアンは視線を落とした。
「それで、僕が人間を滅ぼす気もこの結界を壊す気がないことも、理解してくれた?」
 頷いて良いのか戸惑った。人間からすれば悪趣味な好奇心をもつ悪神だが、その好奇心故に滅ぼされる心配はない。 ただし個人としては害される可能性も捨てきれないので、警戒は怠れなかった。
 そもそも悪神が精神体とはいえ動けるとはどこにも記されていない。その好奇心を満たす為に人を選んで現れているのだろうか。 そして出会った人々は、現れたことを神殿に伝えることができないような事態に陥ったのではないか ――それはつまりは、禁呪の使用に踏み切ったということ。
「ところで、北の公。君は瘴気を消し去りたいと思わない?」
 ぎくりと身体が固まる。いま一番気がかりなことを指摘され、好奇心の餌食になるのだろうかと緊張する。
「身構えないで、大丈夫。僕はいつも人間に禁呪を与えようとしているわけではないよ。 昔は多くの人間とも共に暮らしていたのだしね」
 どこか懐かしむような声に顔を上げ、人に有らざる漆黒の双眸をしばし見つめて困惑した。
「さっきの話に戻りたいのだけど、そろそろ立たないかい?」
 このように悪神の言葉に耳を傾けることを主神カーラは許さないだろうかと思案しながらデュシアンは立ち上がった。 悪神が数歩離れてくれたこともあり、膝の震えは納まる。気化の速度が速いのか、瘴気に濡れた服はすぐにも乾いた。
「この城が精霊たちが生きていた頃のままだと話しただろう?」
 先ほど悪神は、この城は精霊の妄執の塊だと言った。それは主神カーラとの戦いがある以前の姿であり、 瘴気を閉じ込める為に北の守りが敷かれる前であり、女神アリューシャラが世界に広がった瘴気を浄化する前の姿であるのだ。
 デュシアンは弾かれたように目を見開いた。
「……始祖の樹が、ある」
 悪神はアリューシャラの産みの樹がこの城の深部にあると言った。それが嘘でないのなら、 この妄執の中に現実では枯れたはずの樹木があるのだ。それも女神を育んだ大樹が。 それだけではない、精霊たちの記憶が城が平和であった時のものであるというのなら、 産みの樹の傍には女神アリューシャラ本人が存在する可能性もあるのだ。
 デュシアンは期待に顔を上げたが、悪神の穏やかな笑みを目の当たりにし、僅かに動揺する。
「君は自分で嘆くほど愚鈍ではないよ、デュシアン」
 慈しむような声色は、亀裂が入った結界の修復を手伝ってくれた時と似ていてどきりとする。 まるでそれはこちらを罠に嵌めようとする悪神の手に思えて一旦冷静になった。
「高位精霊は自分が契約した人間の血と魔力の匂いを覚えている。君が真にラヴィン家の娘であるのなら、 例え精霊の記憶に過ぎない存在であっても樹木の女神は君にちからを貸すだろう」
 瘴気が消せるのだ。デュシアンは高鳴る胸を押さえた。
「ここで呼びかければ、届きますか?」
「届かない。信じられないなら、やってみれば分かると思うよ。ここと二枚目の結界付近は精霊の妄執の影響が最小限に抑えられているんだ。 そうしないと精霊の記憶に飲まれて人間はここから抜け出すことができなくなるからね」
 ならばどこで呼びかければ良いのか。そう尋ねる前にデュシアンは気づいて青ざめた。
「第二の守りの移動魔法陣の、すぐ後ろの階段ですか」
 移動魔法陣で行ける範囲で唯一、城の内部へと伸びているあの階段は、決して昇ってはならないとされている。 なぜならば、二度と帰って来られなくなるからだ。 昔、多くの者たちが真実を求めて北の城内部へとあの場所を経て侵入を試みたが、誰一人戻ってくることはなかったという。
「あの階段は静と動の狭間」
「静と、動の狭間……?」
「城全体が虚構でできていながらも、ここは静寂が保たれている。けれども、あの階段を越えた先からは精霊たちの記憶の移り変わりが激しく、 人間はその妄執に取り込まれて抜け出すことができなくなるんだ」
「……中に、入らないといけないのですか」
 そのような場所へ分け入らなければならない。自分を心から案じてくれる家族の事を思えば軽はずみな行動はできないとデュシアンは思う。 異母弟やその子孫、セレド王子の為にも瘴気を消し去りたいが、死を覚悟して入ることが正しいことなのだろうかと、眉を寄せる。
「城に入り込んだ人間は大勢いたが、その中で二人、戻ってきた者がいるんだ」
「そんな話、聞いたことがありません」
 自分が知らないだけなのかもしれないと頭の片隅で思う。神殿には法皇庁幹部ではないと閲覧できない文書が山とあるらしい。 そこには記載されている事実なのかもしれないが、公では誰一人戻ってくる者はいなかったとされている。
「一人目はその事実を闇に葬られた。二人目は黙秘している」
 それはもっともらしい嘘にも思えたが、次の言葉でデュシアンは完全に固まった。
「その二人と君には共通点がある。だから、君は必ず帰ってくることができる」
「共通点?」
「それは秘密だよ。でも、帰ってくれば恐らく君は気づくだろうね」
 人を堕落せしめた悪神の言葉をそう簡単に鵜呑みにはできない。そこまで愚かではないと唇を引き結ぶ。
「いいかい、デュシアン」
 警戒するこちらを懐柔するような穏やかな口調になり、悪神はぐるりと辺りに視線をまわした。
「勘の良い人間ならば、この城が精霊たちの作り出した虚構だと気づく。それならば、 城の深部に始祖の樹があるかもしれないと仮説をたてるだろう」
 悪神は漆黒の双眸をデュシアンへ戻した。
「例えば、君から爵位を譲られ公爵となった弟は、身体が瘴気まみれとなる前に早めに子を成すだろうね。 そして愛しい我が子がいずれ爵位を継いで己と同じように瘴気を吸う立場になるのだと考えた時、 どう感じると思う? 君の弟は、ここが妄執の城であるという真実に辿り着いたなら、どうすると思う?」
 戻れずとも、いや、戻れるとは最初から念頭になく、瘴気を消し去る為に内部に入るだろう。 たとえ半分しか血が繋がっていなくともあれだけ愛してくれる異母弟が、己の子にどれだけの愛情を向けるのか。 想像するに難しくない。
「子の為ならば己を滅することになろうとも禁呪に手を伸ばす親の愛を、僕は知っている」
 デュシアンを通して過去の誰かを思い出しているのか、悪神は酷薄な笑みを浮かべた。
「君の弟は瘴気は消せても戻れない。あの階段を昇ったが最後、永遠に妄執の中に取り残される」
 それは、このままでは恐らく必ず訪れるであろう未来。
「もちろん、君が城内部から帰って来られるという選択肢があったことは君しか知りえない。誰も知らないことだ。 でも、君は行動を起こさなかった罪悪感に生涯耐えられる? 弟が北の守りから帰ってこない未来が訪れたら、 君はそのあとを、どう過ごす?」
 このままの濃度ならばきっと、セレド王子の病を誘発させてしまうだろう。 そしてレセンは己の子の為に城に入り瘴気を消して、二度と帰っては来ないだろう。 ただ自分に勇気がないばかりに訪れるその拷問に等しい未来を想像するだけで、身悶えするほどの苦しみが胸の奥を襲う。 禁呪など提示しなくても、悪神は充分に人の心が揺れ動くさまを見ることはできるのだ。
「しばらく考えてもいいけれど、君が戻れる状態でいられるのは、そんなに長い間じゃないよ。……そうだね、春先までかな」
 まるでその時が待ち遠しいかのように悪神の声が弾む。
 デュシアンは訝しむように見上げるが、そのときには悪神の姿は霞がかっていて表情を窺い知ることはできなかった。
「それから、二度目の入城は君も戻れない。それだけは忘れないようにね」
 そう言い残すと、悪神は闇に溶け込むようにその姿を掻き消した。



(2011/3/7)

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