墓と薔薇

閑話:レハール伯爵夫人のはかりごと(1)


「デュシアン様。どうぞくれぐれも、貴族のご夫人方にはお気をつけ下さいませね」
 円卓騎士団で分析官職に就くティアレルの再三の忠告をもっと真剣に受け止めておくべきだったと思い知ったのは、 レハール伯爵夫人の茶会に顔を出した時だった。


 レハール伯爵家からのお誘いは今年に入って三回目。短期間に執拗に繰り返される茶会へのお誘いは、 これ以上無碍にできるものでもない。セレド王子の成人の儀に出席した事で、 「喪に服している」との断り文句もとうとう使用できなくなってしまったことも、断りづらい要因の一つだった。
――まあ、どうせお見合いのようなものだろうし
 ラシェ曰く、伯爵家の当主シメオン・レハール高司祭は長男をこちらに紹介したいようだったという。 ということは、そのレハール家が催す茶会は恐らくは見合いのような場であるのだろうと、デュシアンは高をくくっていた。
 取り合えずは一度茶会に出席し、それとなくお付き合いを勧められればやんわりと断ればいいと思っていた。 爵位はこちらの方が明らかに上位。いくらレハール伯爵が法皇庁にて顔が広い権力者といえども、 北の公を担うラヴィン家に強く婚姻を迫れるほどの権限はない。優位な立場であることに胡坐をかきつつ、 安易な気持ちでデュシアンは伯爵邸を訪れた。
 しかし、サロンとなる温室に通された時、その予想が全く見当違いであったことを悟った。 蘭の芳しい香りに包まれた室内には、いくつかの円形テーブルを囲むように十名ほどの貴族の夫人たちが談笑していた。 貴族の夫人たちによる本物の茶会の席であったのだ。見合いだと思っていた自分が少し恥ずかしくなり、 デュシアンの頬は僅かに上気したのだった。
 そんなデュシアンの訪問を、夫人がたは穏やかに且つ友好的に受け入れてくれた。 彼女たちは総じて浮つくところもなく落ち着いており、表面上は全くもって害意や不必要なほどの好奇心は感じられなかった。 そして皆とても博識で、話題は流行の衣装や髪型、お芝居の演目だけでなく、 レムテストの橋の建設不振やエルムドアの皇帝と大公の対立、ウォーラズール山脈の鉱床採掘計画まで、幅広く語り合っていた。 この国では女性は政治に口を挟むことを厭う傾向にあり、 彼女たちの意見が茶会でしか披露されないことを残念に思う。 そして彼女たち自身もその事に憤りを感じているのかもしれない。 だからこそ、表舞台に立つティアレルが圧力を掛けられているのだと改めて状況を理解した。 しかし穏やかに語り合う夫人たちを見ている限りは、ティアレルが神経質になるほど重圧を与えてくる人々には思えなかった。
 茶会の主催者であり、話題の主導権を握るイルマ・レハール伯爵夫人はエルムドアの貴族出身とのことで、 カーリアでは珍しい黒い瞳を持っていた。知的に煌く瞳は温かみに溢れ、気難しげな皺は一つも見当たらず、 しっとりした口ぶりには気品があった。夫君よりも十歳は年若く、五十を少し出た齢だというが、年齢よりもずっと若く見えた。
 しばらく世間話をしている内に、思慮深く細やかな気遣いで場をまとめるイルマ・レハール伯爵夫人に対し、 デュシアンは特に好感を抱いた。彼女の周りに夫人がたが集まるのも納得してしまう。
「ところでデュシアン様。ツィラという歌姫をご存知ですか?」
 話題がセレド王子から逸れたことに少し安堵しながら、デュシアンは首を振った。
「いいえ」
 貴族の女性が『歌姫』と呼ぶのであるから恐らくは王立劇場の舞台に上がる歌い手のことだと窺える。
 観劇は社交とは切っても切り離せない関係であり、デュシアンは劇場に殆ど足を踏み入れたことはなかった。 取り留めて興味が薄いというわけではないが、とにかく社交が億劫だったのだ。 こうした穏やかな場であれば遠のくこともなかったかもしれないが、ラヴィン家の令嬢という肩書きはそれを許さない。
「一度お聴きになられると宜しいですわ。国一の歌姫とも名高いのですよ」
 こちらの無知をひとかけらも咎める事なく、隣席の男爵夫人がたおやかに勧めてくれる。 継母セオリアと同い年でもある彼女は、姉のような眼差しでこちらを見守ってくれた。
「歌が上手いというだけでなく、とても美しい女性でもありますの」
「珍しい赤い髪をしていますわよね」
「ツィラのお母上君はララドの生まれとか。稀に先祖返りをするとは聞いておりますが、 それはもう彼女の情熱的な歌を体言するかのような燃えるような赤髪ですのよ」
「その容姿から、歌と踊りの女神アニカの化身と謳われてますわ」
 夫人がたは口々にツィラという名の歌姫を湛えた。美の女神とその美しさを競ったと言われるアニカを引き合いに出されるのだ、 恐らくは大変な美女に違いないのだろう。あの美女リディスとどちらが美しいのだろうかと不意に思いつき、 その歌姫を見てみたいと思った矢先だった。
「実は今日、こちらにその歌姫を招いておりますの」
 レハール伯爵夫人はさらりと告げると、傍に控えていた女中に歌姫を連れてくるよう言伝た。
「まあ、ツィラをここに!」
「さすがはイルマ様」
「あの歌姫をお呼びになれるなんて、面識のあるイルマ様だからこそできることでございましょう。羨ましいわ」
 感嘆をあげる女性たちの声に笑顔で頷きながら、レハール伯爵夫人はデュシアンへと視線を向けた。
「最近舞台に上れないと聞いていたので、良い機会だと思いましたのよ。彼女には申し訳ありませんが、 このような機会がなければ一個人の茶会で国一の歌姫を呼ぶなど、なかなかできませんもの。ぜひ、 デュシアン様にツィラを紹介させて下さいませ」
 温室の空気が微かに変わり、誰かが入室してきたことを窺わせた。
 衣擦れと共に現れたのは、誰もが目を惹かれる華やかな美女だった。 高く結い上げた髪は深い赤。髪に差しこまれた白い大輪の花が、珍しくも鮮やかな赤髪に落ち着きを与えている。 舞台用の衣装であるのか襟ぐりは広くざっくりと開いて真白く豊かな双丘が覗くが、いやらしさは感じられない。 背はすらりと高く姿勢も良いので、ただ立っているだけで人目を引き、その場に彩りと明るさを与える。 周囲に咲き誇る紫の胡蝶蘭は、もはや彼女を引き立てるただの背景と成り果てていた。
 女神アニカの化身とはよく言ったものだと、目の前に現れた女性の美しさと雰囲気にのまれるように感心していると、 宝石のように輝かしくも気の強そうな緑の瞳と視線が交わった。
 その刹那、赤髪の歌姫ははっと息を呑み、威嚇する鳥のごとく胸を膨らませた。 瞳は怒りに燃え上がり、眉は不愉快さを示すように大きく吊りあがる。
「イルマ様には申し訳ありませんが、わたくしこの場で歌うことなどできません!」
 彼女は興奮したように叫んだ。そして視線をデュシアンに捉えたまま表情を歪ませた。艶やかな唇がわなわなと震えている。
「わたくし、どんな顔をして貴女様の前で歌えば宜しいのかしら?」
 憎悪に近い表情で睨まれ、思い当たることのないデュシアンは困惑に首を傾げた。
「あの、わたしがなにか……」
 すべて喋る前に、頭から水を被る。
 かっとなった歌姫が、傍らの配膳台(ワゴン)から硝子製の水差しを奪い、 デュシアン目掛けてその中身をぶちまけたのだ。隣席の男爵夫人から小さな悲鳴があがる。
 濡れた前髪を額につけたまま茫然と彼女を見上げれば、せいせいしたように満足そうな歪んだ笑みを浮かべて鼻で笑っていた。
 そうして赤髪の歌姫は優雅な礼をその場にひとつ残して踵を返し、靴音を響かせながら温室を出て行ってしまった。
「デュシアン様、すぐにもお着替えを」
 レハール伯爵夫人に促され、真っ青になった女中が慌てて柔らかいタオルを差し出してくれる。
 それを受け取りながらデュシアンは隣の男爵夫人が濡れていないかちらりと確認した。 あの歌姫の怒りは自分だけに向いたものだった。そのとばっちりを与えては申し訳がないと思ったのだが、 男爵夫人は水の被害を免れたようだったので取り合えず安堵する。
 思いも寄らない出来事が降りかかったのに、不思議にもデュシアンの心は落ち着いていた。 水が冷たいせいもあるのかもしれない。
「あの、彼女はなぜ?」
 なぜ自分を見ただけで怒りだしたのか。顔を拭ってからレハール伯爵夫人を振り返れば、彼女は気の毒そうにこちらを見ながらも、 突然の出来事に対して動揺した様子はなかった。それを見て、この騒動は必然だったのだとデュシアンは理解した。 そして、圧力を掛けられるのは何もティアレルだけではないのだと、やっと悟る。公爵たる自分は、 もしかすれば分析官の彼女よりも期待は大きいのかもしれない、と。
「彼女の名前はツィラ・ブラウアー」
 伯爵夫人が立ち去った歌姫の名を告げた時、デュシアンは頭を叩かれたかのような衝撃を受けた。
「元子爵であられるコール・ブラウアー殿の長女です」


(2010/6/15)

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