墓と薔薇

9章 偽られた心 epilogue


「ただいま、ラシェ」
 軽食を持って書斎を覗く。
 来客用ソファに寛いだ様子で座って資料を読み漁る従兄は、顔も上げずに気のない返事を寄越すのみ。 そんな不遜な態度に慣れただけでなく安堵すら覚えてしまう自分に対し、デュシアンは苦笑を浮かべて肩をすくめた。
 こちらに関心を抱かない従兄の横を通り抜けて窓辺のテーブルに座し、 闇夜にぽっかりと浮かぶ檸檬色の月を眺めながらパンに手を伸ばす。 平焼きの硬めのパンに挟まっているのは、薄切りにした燻製の赤身魚と玉葱とチーズだ。 ソースには若干酸味がある。馬車には酔わない質ではあるが、降りたばかりでは食べ物を口に含むのも億劫だったので、 厨房の主たるグレッグに頼んでパンに色々挟んでもらったのだ。
 グレッグの料理は美味しい――溜息と若干のパン屑を零しながら、食事の作法も忘れて感慨深く思う。 クロイツベルク城の食べ物は格別に美味しく、人々も親切で優しかったが、 客人として過ごすということは存外、緊張を強いられるものだった。 不遜な従兄と顔を合わせたり、グレッグの料理を食したりすることは、 こんなにも緊張を解してくれるものなのだと人参のポタージュをすすりながら痛感した。
(やっぱり、ちょっと食べていって欲しかったなあ)
 屋敷まで送り届けてくれた騎士たちの面々を思い出し、心底そう思う。
 ここまで護衛をしてくれたアイゼン家の騎士たちに礼もあって夕餉を用意したかったのだが、 彼らはすぐにも公爵領に帰還するとのことで、ラヴィン家での歓待は丁重に断られてしまった。 主筋の首都邸にすら寄らないのだという。このまま帰還となれば到着は、恐らく日も変わる真夜中となるのだろう。 そのような強行軍は疲れないのだろうかとは心配になるも、鍛え方が違うのだろうという結論に落ち着いた。 非常に乗り心地の良い馬車で揺られているだけで疲れきってしまった体たらくな公爵とは違うのだと苦く思う。
(そういえば、また濃い色の束帯の人たちだったな……)
 行きと同じく、帰りの護衛騎士はみな揃って濃紺だった。つまりは、 彼らは公爵領に十数人しかいない精鋭の騎士たちということになる。 アスティーヌ曰く、いかな公爵の護衛といえども精鋭騎士を借り出すのは大げさすぎるのだというが。
(やっぱり父様の遺言のせいで、公子にまで過保護がうつってるんだよね)
 不意に漆黒の公子を思い出し、顔が火照る。パンを持たない方の手の甲を頬に当てて、 ラシェが気づく前に熱が冷めるよう祈った。
「デュシアン」
「う、うん」
 急に名を呼ばれ、若干喉を詰まらせながら返事をする。胸を押さえながら慌てて水を呷って嚥下した。
 呼んだ当の本人はまたも資料から視線を上げておらず、こちらの無作法には気づいていない様子で、 デュシアンはほっと息を吐いた。
「なに、ラシェ」
「俺はもう少し首都にいる」
 その宣言に、いつもであればラシェはそろそろエルムドアの遺跡に戻る時期なのだということを思い出す。 毎年、裏庭の木蓮が咲く前に彼は首都を去る。
「ありがと、ラシェ」
 補佐の為に首都に居てくれるのだ。こちらを見ていないと分かっていても、デュシアンは感謝に頭を下げた。 下げた頭頂部に言葉が降りかかる。
「だから、ヴァシリーに依頼の手紙を出した。奴の帰還が遅れる」
「……そっか」
 それは少し残念な話だった。デュシアンは顔を上げると、唇を尖らせた。
 ヴァシリーはラヴィン家が長期雇用している警備魔道師であるが、本職は国の認可を受けた遺跡探求者だ。同じ遺跡探求者である ラシェが言語――とりわけ発音が解明されていない最古の神聖文字――を研究しているように、 ヴァシリーは神々の時代の音楽や舞台芸術の復興と再生とを専門としていた。
 神々と共に暮らしていた時代の物はその殆どが主神と悪神との戦いの折りに被害を受けないよう、 知識の神ララドや歌と踊りの女神アニカを筆頭に多くの神々によって隠された。あらゆる知識あらゆる文化、 芸術が眠りについた場所はいつしか《遺跡》と呼ばれるようになり、各地の遺跡には腕に覚えのある学者たちが集うようになっていた。 しかし、知識を司る神ララドによって遺跡内部には探求者を試すかのような強力で難解な防衛魔法や迷宮魔法、 妨害魔法や精神魔法が施され、その為に解明が進まないのが現状でもあった。また厄介なことに、 遺跡は一年の内に《開花》の時期と《休眠》の時期を持ち、年中遺跡に篭ることもできないのだという。
 そういった遺跡を研究対象とする魔道師たちは《開花》の時期に研究に専念できるよう、 《休眠》の時期には貴族や豪商に警備魔道師として雇ってもらい、生活の保障を受けることが多い。 実はヴァシリーを雇っているのも亡き父アデル・ラヴィンが彼の研究を支援したいと願ってのことだった。 デュシアンとしても彼の人柄を好んでいるし、その研究対象には大変興味があった。必ず可笑しなお土産を持って帰ってくるので、 彼の帰還を楽しみにもしているのだ。
 その彼が帰ってくるのが遅れるということは、ラヴィン家の警備にも影響が出る。
「イリヤにも負担掛けちゃうよね……」
 神経細やかな若執事を思い出し、軽く唸った。
 ヴァシリーがいない間の警備は主にイリヤに頼んでいるのだが、彼には執事としての仕事がある。 祖父である老執事がいるとはいえ、その気苦労は計り知れないだろう。かといって、 警備専門の魔道師を短期で雇用することは大変難しい。
 己の不甲斐なさの皺寄せが、ラシェだけでなくヴァシリーやイリヤにまで広がっているのを知り、 申し訳けなさ故にデュシアンは頭を抱えたくなった。
 そんなデュシアンの悩みなど知ったことではない従兄は、軽い溜息を吐いた後、膝上の資料をテーブルに放り投げた。
「それにしても早かったな。もう少しゆっくりするかと思ったが」
 やっとこちらへ顔を向けてくる。
 腹の底まで探るような鋭い視線に晒され、心臓が跳ね飛んだ。 やましい事はないが、自覚した感情を知られるには相手が悪い。冷や汗が額に浮き上がる。
「うん。アスティーヌも帰っちゃったし」
 意味もなく背筋を正し、緊張していることを悟られないように、食事を続けるふりをして視線を逸らす。
「……そうか、帰ったか」
 ラシェはどこかぼんやりとした呟きを返すだけで、早い帰還の理由について追求してはこなかった。 そのことにデュシアンは人知れずほっと胸を撫で下ろす。アイゼン家の自然は豊かで、行く前はそれも楽しみにしていた節もあり、 当初の予定ではもう一日ぐらい滞在するつもりだったのだ。
「大公殿下にお会いできるかと思ったんだけど」
 話を逸らすように、行く前に散々言われたことを蒸し返す。だからかラシェも、うっとおしそうに顔を顰めた。
「来ないと言っただろうが。今はおいそれと首都を離れられる身じゃない」
「アスティーヌの周りって、そんなに状況が良くないの?」
「そうだな。良いとは言えん」
 だからホルクス伯爵の機嫌も悪かったのかもしれない。娘思いの父君だ、 自分が選んだ夫によって娘が辛い立場に置かれている状況に、さぞ胸を痛めていることだろう。今更ながら、 やはりもっと上手に立ち回るのだったと後悔する。
「皇帝とその弟の大公が軍部縮小と属国の独立に関して意見を対立させているのは、このあいだ話しただろう」
「うん」
 前皇帝時代に近隣諸国を侵略する為に膨れ上がった軍部を、代替わりしたこの十年ほどで徐々に解体し、 現在では最盛期の十分の一ほどにまで縮小されているらしい。 どこまで縮小するかについては皇帝と、軍部の頂点にある大公が意見を異にしているという。
 また、侵略し属国とした国々の独立に容認派の皇帝と、 もともとそれら周辺諸国は百年前までは帝国の一部だったという歴史的背景から独立を許可しない大公とで、 対立しているのだという。
 軍部や一部貴族は大公支持に回っているとはいえ、帝国一般市民から慕われているのは、 軍部縮小によって浮いた国庫を用水路や橋の復旧、街道整備や弱者救済などにまわし、 平和を有言実行してきた皇帝だ。
「端的に言えば、大公の方が分が悪い。だが、双方の言い分にはどちらも正当性がある。 エルムドアは《呪いの森》のせいで、カーリアよりも魔物被害が圧倒的に多い。 軍部を縮小し過ぎれば対処できなくなる。また、近隣諸国は百年前までは帝国の一部であり、 当時の女帝の専断で独立が許されたという背景がある」
 独立してから百年も経っているのに、その歴史的背景を振りかざすことは些か横暴のようにも思えた。 しかしエルムドアからすれば忌々しき歴史なのかもしれないと思えば安易に批難もできず、眉を潜めるに留めた。
「でも、皇帝陛下と大公殿下は手を取り合ってクーデターを起こしたんだよね、どうして今になって対立しちゃうの?」
 前皇帝治世の帝国と近隣諸国は、圧政と搾取とが横行する混沌の時代であったという。 それを憂いた皇子たちが、手を取り合って父皇帝を廃した。あの頃の兄弟は目指すところは一緒だったはずなのだ。 なぜそのまま共に歩んでいけないのか。
「今だからこそ対立しているんだ。 十年前のあの時は、何が何でも前皇帝を止めなければならなかった。その後どのように国を治めていくかについて、 事前に確認し合う余裕がなかったのだ。手をこまねいていれば、 第三皇子を使ってもっと多くの国が滅亡の一途を辿るところだったからな。それを阻止することで二人は頭が一杯だった」
「第三皇子?」
 初耳の存在に、首を傾げた。十年前に『第三皇子』の肩書きということは、皇帝には大公の他にもう一人弟がいることになる。 しかしその存在は語られてはいない。
「第三皇子の存在は、禁忌そのものだ。お前が知らないのも当然だろうな」
 疲れたような溜息と共に、ラシェは首を振った。
「クーデターの少し前に、十歳の第三皇子ひとりの力で、ある小国の首都が壊滅した。 そこで生き残ったのはその皇子と、彼が抱える少女のみ。 彼ら以外の人間はもちろん、動物や植物などありとあらゆる命が消失し、存在していた欠片すら残さなかった。 首都だった場所は、すべてが灰となり色を失った。――あれは、悪夢のような光景だ」
 彼にしては珍しく、息苦しいかのように表情を歪めた。そんな従兄に気づくこともなく、デュシアンはぼんやりと呟いた。
「……鏖殺(おうさつ)
 誰かに唇を操られたかのように、その言葉を口にする。それは禁呪の一種だと脳が記憶を示す。そんな自分に自分で驚いた。
 どうして禁呪の呼び名を知っているのか、どこで知る機会があったのか――辿った記憶の奥に、 底の見えない深淵を宿す黒い双眸の青年を見つけ、背筋を死人の手で撫でられたかのようにぞっとした。 冷えた指先を口元に当て、薄気味悪さに込み上げた吐き気を我慢する。
「禁呪に関して博識なのは結構だが、それを披露するなよ。疑われる」
 ラシェは「誰」に疑われる――とは言わなかったが、言わずともデュシアンには理解できていた。 得体の知れない不安を空気と共に呑み込み、胸元を押さえた。
「でも、禁呪は」
 この世には存在しないはず。そう続けようと思ったが、ラシェが以前、 ララドには禁呪の手がかりが残っているかもしれないと言っていたのを思い出して口を閉ざした。 それに生きた実例がいる。――魔女リディスだ。
 ラシェは満足そうに、鷹揚に頷いた。
「そうだ。ララドには禁呪に関わる何かが残っているのではないかと言われている。 だが、普通の人間が例え禁呪の節を目にしたとしても、それを具現化させるのは不可能だ」
「発音、できないから」
 答えに辿り着いたことを喜ぶように、ラシェは珍しく目元を和らげた。
「現在の知識では禁呪の句すら、誰もそれを言葉に乗せることはできない」
「なら、どうしてその皇子様は使えたの?」
「精霊の声が聞こえていたのかもしれん。精霊は千年の時を経ても、失われた神々の時代の言語を使用する。 禁呪の発音も彼らの声から学べるやもしれん。極稀に幼少期に精霊を視たり精霊の声を聴いたりする者もいるらしいからな」
 不思議と胸騒ぎがして、デュシアンは首を傾げた。
「ただ、十二歳で天性の聴覚を得るのは例にない。大抵は記憶が残らないほど幼い頃の一時期だけで、 幼児期によくある妄想の一種と区別が付かないと言われている」
「でも、その皇子様は聴こえたんだよね」
「真偽は不明だが、そうでなければ説明がつかないからな」
「誰も本人に尋ねなかったの?」
 ラシェは虚を突かれたような表情をし、僅かに口篭った。その質問に戸惑った様子を見せるが、 やがて深い溜息とともにぽつりと呟いた。
「皇子は意思表示をしなかった。……人形のようだったんだ」
「そっか……」
 急激な物悲しさに襲われ、質問したことを悔いた。
 精霊の声が聞こえるということは、常に見えない雑多の中にいることと同じだといわれている。昼夜を問わず精霊たちは囁き、嗤う。 どんなに強靭な精神力を持つ者でも、数日のうちに気がふれるという。
「倫理観の薄いララドですら、精霊との契約時に祝福を耳に受けることを禁じている。 万が一精霊の悪戯で耳に祝福を受けようものなら、聴覚を捨てなければならない」
 指先を揃えた手を耳の前に振り下ろす仕草をし、その残酷さを示した。デュシアンは息を呑む。
「話がずれたな」
 ずれてもいない眼鏡の弦を指先で押し上げながら、ラシェは話を元に戻した。
「つまりは第三皇子にこれ以上禁呪を使用させない為にも、また荒れた治世を正す為にも、 二人の皇子たちはクーデターを起こした。二人は《いま》を変えることに必死で、その後のことを考え、話を詰める余裕がなかった。 それは当時、皇子たちの傍にいた者も同じだった」
「だから、今になっての対立も仕方ないんだね……」
 合点がいき、デュシアンは小さく頷いた。
「これ以上禁呪を使用させないことが、第一だったからな」
 禁呪によって生まれた傷は、永遠に近い時を経ても癒えることはない。ララドが神話時代から永久凍土であるように、 恐らく鏖殺(おうさつ)の使用されたその地も永遠に命が育まれることなく灰の雪が降り続けるのだろう。 二人の皇子が立ち上がらなければ、カーリアもそうなっていたのかもしれないと思うと、ぶるりと身体が震えた。
「それで、その第三皇子はどうなったの?」
「亡くなったらしい」
 禁呪を使用した最重要人物であるのに、曖昧な伝聞調でしか生死が語られないのは随分と不可解だとデュシアンは首を傾げた。
「幽閉されている、父と共に殺された、実はどこかで生きている。遺体を誰も見ていないが為に諸説囁かれているが、 現皇帝は二番目の弟を『亡くなった』と宣言している。皇帝の名誉にかけて、禁呪は二度と使用されることはない」
 それはまるで、第三皇子は生きていると暗に語っているかのように思えた。けれども、その真偽を尋ねてはいけない気がして、 デュシアンはラシェが望んでいるように思えたので話題を変えた。
「ラシェは詳しいね」
 十代の殆どをエルムドアで過ごしたと聞いていた。事情に通じているのも当然かと思ったのだが、 思ってもみなかった返事を受ける。
「クーデターには父も俺も関与していた」
 当たり前のように告げられる事実に、ぽかんと口を開けながら瞬き、簡単な引き算をした。
「十年前って、ラシェは十七歳だよね?」
 今の自分よりも年下どころかカーリアでは未成年だ。それなのに一国のクーデターに参加していたというのか。 魔物相手ではない、人相手の難しい戦いである。
「エルムドアでは男子の成人は十五だ。当時の第一皇子は十九。第二王子は十七だった」
「そっか」
 少年期の決死の覚悟と成功が今のラシェの礎となっているのだろう。 常に彼が纏う、漲る自信と自尊心は負けなしの実力から得たものかと思っていたが、その経験があってこそのものなのだ。 少し従兄を理解できた気がしてデュシアンははからずも笑みを零した、しかしすぐにそれも引き攣る。
「そういえば、ウェイリードに至っては十二だったな」
「え?」
 思い出したように紡がれた名前に、必要以上に反応してしまう自分が恨めしい。デュシアンは頬を若干赤くしながらも、 明後日の方向へ視線を向けているラシェに気づかれてはいないことに安堵した。
「奴はクーデターに直接関与をしたわけじゃないが、無駄死にするはずだったエルムドア、 カーリア両国の騎士たちを命を掛けて守ったらしい。 違法な魔法の行使があったからカーリアではあまり表沙汰にされていないと聞くが、その事で奴の信望者も多いとか」
 敵も多いが、味方も多い――ダリル将軍の不思議な言葉を思い出し、その《味方》とはこの事が由来しているのかと納得した。
「公子は何をしたの?」
 知りたいと思う。十二歳の頃の公子が一体何をしたのか。何を思って騎士たちの命を守ったのか、 どんな違法な事をしてしまったのか。十二歳という子どもの頃の公子は一体どんな男の子だったのか。 まるで英雄譚をせがむ幼子のように、胸を期待に膨らませた。
「奴に聞けばいいだろう」
 至極当然のように言われてしまい、膨らんだ希望が萎む。恐らくラシェには悪気がない。そして、いつもの意地悪でもない。 ただ、そんな雑談を出来るほどこちらが打ち解けているのだと勘違いしているのだろう。
 肩を落とし、諦める。ここで強引に聞こうとすれば、初めて知った感情を悟られてしまうかもしれない。 それは大変気恥ずかしいことであるので避けたかった。だから、『そうする』と興味なさげに返答するしかなかった。
「ラシェはどんな事をしたの?」
 安易な気持ちで尋ねたことを、数秒後に後悔する。
「第二皇子の援護をする為に皇帝派の人間を抑え、殺した」
 なんて事もないように告げられた言葉。しかし、室内に重く響く。
 絶句するデュシアンに、ラシェは皮肉げに嗤った。
「俺は人殺しだ。……恐ろしくなったか?」
 いつもの意地悪い表情でこちらを馬鹿にするように睥睨するが、 眼鏡の奥の鋭い印象しか持てなかった赤茶の瞳が、こちらの反応を見定めるように僅かに揺れた。 いつもは平然としている従兄が初めて見せた弱さに、デュシアンは平静を取り戻した。
「怖くないよ。信じてるもん」
 鼻で笑うラシェの肩から緊張が抜け落ちたように思えた。
「辛いの?」
 いつもならば誇り高い従兄にそんな事を尋ねるなど出来ようはずもないが、今ならば許される気がした。
 ラシェは、緩慢に首を横へ振る。いつもの冷たい感じはなかった。
「皇子たちを助けると自分で選択した。その決断を後悔してはいない」
 人を殺めたという過去をラシェは受け入れている。
「そっか」
 どんな状況で、どんな事情で人を殺めたのかは分からない。 けれどもその事実を忘れずに生きているラシェをそのまま受け入れようとデュシアンは思った。
「お前は辛いか?」
 不意の問いにどきりとし、ラシェをまじまじと見る。
 見透かすような双眸がこちらをじっと見つめていた。物言わぬ眼が語りかけてくる――全てを知っていると。 お前も口に出せない過去を持つのだろう、と。
 ラレンシア地方が故郷であることを話してしまっているし、 こちらの実母ラトアンゼが首都で医師を目指していたのも知っているのだろう。 そして、父アデルからウェイリード公子に預けられていた文書は、ラシェを通して返還された。 その中身と全ての事象と照らし合わせれば、勘の良いラシェが気づかない方がおかしいのだ。
 滅多にない従兄の労わりの眼差しに泣きそうになりながら、彼と同じく首を横に振った。 《過去》があるのは誰もが同じと気づかされる。
「わたしは運が良かったんだ。辛いって思っちゃいけない気がする」
 誰かと比べる必要はないと理解しながらも、自分の過去を辛いと思うのは、 同じようにララドで売られた人々に申し訳ない気がしたのだ。 自分はたった四年で奴隷の烙印から抜け出すことができたのだから。
「……そうか」
 全てを知っても尚、何も聞かず何も言わずに受け入れてくれる従兄の優しさに感謝しながら、デュシアンはもう一度、 繰り返した。
「本当に、運が良かった……」
 もう少し父が見つけてくれるのが遅ければ、恐らくは――。
 こちらの全身を舐めるように見下ろしてきた買い主のことを思い出し、 デュシアンは身震いした。ララドの多くの奴隷がそのような目にあっていることを意識しながら。

 だがデュシアンはこの時、まだ理解しきれていなかった。
 あの妨害魔法が張り巡らされた魔法都市ララドで、奴隷となった少女を探し当てる確率がどれほど低いものなのかを。 それは天文学的な数字になり得ることを――デュシアンは知らなかった。


(2010/6/3)

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