墓と薔薇

9章 偽られた心(7)


 微かな人の気配を感じてまどろみから抜け出すと、デュシアンは鉛のように重たい半身をのろのろと起こした。 大窓の遮光カーテンを引く侍女と目が合うと「おはようございます」と挨拶をされ反射的に挨拶を返すが、 眩しい光を背にするその顔に見覚えはなかった。
 デュシアンははっと目を開くと寝台の上で正座をし、辺りを見回した。
 自分が占拠するのは、詰めれば十人ぐらい横に眠れそうな巨大でふかふかの寝台。天蓋から垂れるのは浅葱色の紗。 曲線が美しい飴色の家具。壁に掛けられたタペストリーは藍地に双頭の鷲。そして大窓からは紺碧の湖が覗く。 全てが記憶にある己の部屋とは違う。
 ここはアイゼン家の城――思い出しての緊張に、デュシアンは完全に目を覚ました。
 侍女が退室したのを見送ってから室内履きへ足を入れ、こちらを誘うようにきらきらと輝く大窓へなんとはなしに近づくと、 眼下に広がる風景に言葉も失いしばし魅入ってしまう。
 クロイツベルク城の東を守るように広がるのは深い森と蒼い湖。朝日に煌く湖水は空よりもずっと青く、 その水面に雲の影を映す。湖を囲む豊かな樹木は黒々と生い茂っているのに、鬱蒼とした暗さは感じられない。 遠く、クノッサス峡谷へと伸びる街道沿いを鮮やかな色彩が取り巻いているが、恐らくは昨日通った街道と同じ、 雛芥子が咲いているのだろう。
 自然が織り成す美しい光景に意識を囚われていると、もう一度入室してきた侍女に背後から声を掛けられた。 振り返れば、侍女は満面の笑みを浮かべながら洗顔用の湯を用意してくれていた。 礼を告げると、気の良さそうな侍女は笑顔のまま退室していく。
 再度、心惹かれるように窓の外を眺めてから、 湯の張られた黒い陶器の手水盥(ちょうずだらい)の方へ近づいた。 人肌程度の温かい湯に手を伸ばし、その心地よさに僅かに笑みを零す。しかし水面に映る己に気づき、 濡れたままの手でそっと自分の頬を包み込むように触れてみた。
 違う――と思う。こんな感触ではなかった。もっと冷たくて、もっと大きくて、もっと固くて節ばっていて、 そしてもっと優しかった。何よりも大切なものを扱うように、けれども取りこぼさないように、しっかりと。 けれども、あの手が触れたかったのは。
(わたしじゃあ、ない)
 彼が望んだのはきっと、飴色の髪と知的な琥珀色の瞳を持つ女性。 いま水面に映っている短い金髪に緑の目を持つ娘ではないのだ。
 もう一度そう意識すれば、何も食べていないのに胸焼けがおきた。負けたわけではないのに、悔しかった。 悲しいことがあったわけではないのに、泣きたい気分となった。立っているのも億劫になるほど頭がくらくらした。 無意識のうちに唇を噛み締め、呼吸すら忘れていたことに気づき、喘ぐように息を吸った。
(へんなの……)
 頬から手を離すと、水面の自分へと指を伸ばす。波紋が広がり、映る己が歪む。 それでも自分の容姿が変化することはなかった。当たり前のことなのに、そのことに対して落胆を覚えた。

 晴れない気分で身支度を整えたのちに朝食を頬張っていると、先ほどの侍女から来客を告げられた。 ベアトリーチェ公女かと思って易く応えれば、入室してきた人物の意外さにデュシアンは目を丸くさせた。 確かにもう一度会いにくるとは約束していたが。
「おはようございます、デュシアン。あら、やっぱり今日も男装なのですね」
 咎めるような口ぶりながらも表情は楽しげだった。
「おはよう、アスティーヌ。びっくりした」
「朝から申し訳ありません。でも、今ぐらいしか時間が取れないのです」
 広げた扇の奥でアスティーヌは優雅に微笑んだ。しっかりと化粧をし、紅茶色の髪も複雑な形に編みこんでいる彼女に対し、 朝食を今しがた終えたばかりな上に髪もまともに梳いていない自分をデュシアンは少々恥じた。
「これ、約束でしょう?」
 アスティーヌは扇を持つのとは反対の手に持つものを、満面の笑みの横で掲げた。 黒檀の柄に最高級の豚毛が植えつけられたブラシだ。
 懐かしさに苦笑しながら、促されて鏡台の前に座る。
 『明日の昼には発つ』とアスティーヌは昨日語っていた。里帰りともいえない短い滞在であるのに、 そのひとときを他人の自分が奪ってしまうことを、ホルクス伯爵家のご家族には申し訳ないと思いながらも、嬉しさは強かった。
 最高級というだけあって、地肌に触れるブラシの先端も優しい感触で心地良かった。アスティーヌが嫁ぐ前は、 植物園で出会うとよくこうして髪を梳いてもらったり結ってもらっていた。 思い出の中の彼女には、いつも身だしなみを怒られていた気がする。
 デュシアンはそれを随分むかしのことのように感じた。 ほんの二年前までは、それが首都で暮らすようになってからの日常でもあったのに。
「昨日、父と会ったのでしょう?」
 尋ねられて、昨日のことを思い出す。伯爵はかなり酔っていて、少し様子がおかしかった。
「嫌な思いをさせてしまって、ごめんなさい」
 鏡に映るアスティーヌの眉が困ったように寄せられていた。 父君のホルクス伯爵と友人たる自分とが揉めるのは、彼女にとって辛いことだろう。 それなのに彼女に謝罪させてしまうことを、いつも以上に申し訳なく感じた。
「違うよ、アスティーヌ」
 デュシアンは後ろに立つアスティーヌを振り返り、髪と同じ深い紅茶色の瞳を下から見上げた。 アスティーヌは虚を突かれた表情でこちらを見下ろしている。
「わたしはホルクス伯爵に挨拶するべきだったんだよ。 貴女のお父上を蔑ろにしてしまったの。貴女にも、ごめんなさい」
 申し訳ないと思う気持ちが伝わるように、しっかりとその双眸を捉えた。伯爵の態度が軟化しないのは、 こちらにも原因がある。それを理解したと知って欲しかったのだ。
 驚きに揺れたアスティーヌの目が、瞬く間に穏やかな光を湛えて細まった。
「……あんな父だけれども、わたくしのことを思ってくれているのよ。父に負けないでくれて、ありがとう」
 はにかんだ笑みを浮かべるアスティーヌを見て、ホルクス伯爵へ礼儀を尽くそうとデュシアンは再度決意した。
「さ、前を向いてくださいませ」
 頭を掴まれ、真っ直ぐ向くよう強制される。
「それにしても、貴女の髪は混じりけのない金髪なのですから、長いほうが豪華ですし絶対似合ってよ。伸ばしませんの?」
 梳き始めてすぐにブラシから零れてしまう短い髪を嘆きながらの質問に、デュシアンは苦笑した。
「伸ばしたら、なんか意味がないかな、って。でも、母さまは絶対に切らせてくれないの」
 あの断髪しての北の公宣言から、もうすでに三ヶ月近くが経ち、だいぶ髪も伸びてきていた。 また勝手をすれば雷が落ちると分かっていたので、鋏を持って継母の元を訪れたのだが。果たして、 鋏はそのまま取り上げられ、髪切り禁止を言い渡されたのだ。 結い方を工夫すれば短い髪という印象を変えずにいられるから、 せめて肩まで伸ばせ、と命じられた。肩まで伸ばせばそのまま腰まで、と命じられそうな気もしないでもなかったのだが、 デュシアンとしては継母が気の済むのならばそれに従いたかった。
「貴女は本当に、セオリア夫人に弱いのだから」
 しょうがないのね、と優しい表情で溜息を零された。もちろん、継子の関係だから遠慮があるのだという意味を含んでのことではない。 アスティーヌはデュシアンが継母を深く敬愛していることを知っているし、継母の意思を誰よりも―― 場合によっては自分の意思よりも尊重していることも知っていて、揶揄してきたのだ。
「でも、伸ばせと仰るセオリア夫人のお気持ちもわかります。貴女と初めて会ったときは、あまりにも見事な金髪だったので、 (かつら)かと思いましたもの」
「はじめて会った時?」
 アスティーヌと出会ったのは、もう忘れてしまったが、どこかの貴族の屋敷での夜会だった。もしかすれば、 ホルクス家の夜会だったかもしれない。恐らくは首都に引き取られて、家出事件を起こした後。 家出捜索に神殿騎士を駆り出した為に存在が公になり、ラヴィン家としてはせめて顔見せだけは済ませなければならなくなったのだ。 そうして、父にどこかの夜会へ連れられて行った。
 貴族の娘としての礼儀作法も付け焼刃であるし、見知らぬ場所で着飾った多くの人々に囲まれて 緊張に凝り固まりながら、ずっと父の後ろに隠れていた。それなのに誰かの計らいで父と離れなければならなかったのだ。 壁の花と化せば、たちまち多くの貴公子たちに周りを取り囲まれた。名を名乗られ、名を尋ねられ、手に触れる許可を求められ、 露台に出ようと促された。困りきっていた時に救いの手を差し伸べてくれたのが、アスティーヌだった。
 男性のあしらい方がなっていないと手厳しく説教され、助けてもらったのにも関わらず、 その時はアスティーヌに対して『ちょっと怖い人』という印象しか抱けなかった。 一向に慣れることができなかった社交場からすっかり抜け出したのちは、 植物園で顔を合わせるようになり、交流を持つようになったのもそれからだった。
 アスティーヌは植物園には観賞にやって来ていたようだったが、デュシアンは父のつてで動物の世話の手伝いをさせてもらっていた。 縦横無尽にじゃれてくる小動物たちによって髪や服は常に乱れていたし、デュシアン自身も頓着していなかった。 そんな姿で園内をうろうろしていると決まってアスティーヌと出会い、 身だしなみに関してお説教をされ、その後に髪を結い直してくれるようになった。 次第に、アスティーヌはブラシを持参して来園するようにまでなっていた。何かあるとすぐに『しょうがないのね』 と言いながらも助けてくれる彼女は、そんな言葉とは裏腹にどこか楽しそうだった。
「植物園で会うと、貴方はいつも埃だらけで髪も乱れてて」
「そうだったね」
「動物の餌まみれの時もありましたわね。あの時ばかりはぞっとしましたわ」
 アスティーヌは当時を思い出したように楽しげに微笑み、続けた。
「でも、いつも貴女は楽しそうでした」
「……うん、楽しかったよ」
 社交の場が肌に合わなくて、父はその代わりに自然や動物と触れ合う機会を設けてくれた。 植物園の動物たちの世話は、貴族の子女たちに罰として科せられることが多いらしいのだが、 デュシアンにとってはまたとない楽しい仕事だった。気ままな猫を追いかけるのも、甘えん坊の小猿の餌やりも、 大型爬虫類の巣の掃除も、なにもかもが楽しかった。また、そこで働く人々も優しくて、こちらを暖かく見守ってくれた。 父の人徳あっての事だったのだろう。
「貴女の笑顔を見ると、わたくしまで楽しくなって、元気になれました」
「そう、だったの?」
 そのわりには、よく怒っていた気がするとデュシアンは意外に思って首を傾げた。するとアスティーヌはせっせと 髪を梳きながら、子どものように口先を尖らせた。
「わたくしの前で何も気にせず常軌を逸した言動を取るのなんて、貴女とベアトリーチェぐらいでしたのよ」
 ベアトリーチェ公女と並び語られるほど突飛な行動をしていたかなとデュシアンは僅かに苦笑する。
「でも、それが嬉しかったのです」
 あの頃を思い出すかのようにアスティーヌは目を細めた。
「ホルクスの名もあって、傍に寄ってくるのは名の知れた貴族の子女たちだけ。 それでも彼女たちはわたくしを前にすると気に障ることをしないよう常に緊張し、わたくしのご機嫌ばかりとっていた。 彼女たちは本当の姿をみせてくれませんでした。友達と呼べる関係だったのかすら、分からず仕舞いでした」
「……アスティーヌ」
 胸に痛みを覚えて息を飲む。当時のアスティーヌがそんな思いを胸に秘めているなど知りもしなかったのだ。
 だが、アスティーヌは晴れ晴れとした笑顔を鏡越しに見せた。
「そんな顔をなさらないで下さいまし。北の守りに関わるラヴィンとアイゼン、そして末端のホルクスの家に生まれた者には、 どうしても人々の思惑が付いて周るものなのです」
 純粋なお嬢様が、どうして規格外の自分に構うのだろうと常々思っていた。 ラヴィン家の名はあっても外腹で血筋も怪しまれていた自分を、貴族の娘たちは遠巻きに見ていた――今思えば、 距離の取り方がお互い分からなかったのもあるだろうが。そうしたなかでもアスティーヌだけは積極的にこちらに働きかけてくれていた。 社交の場から逃げ、貴族としての枠を外れてしまったこちらを厭わずにいてくれた。 それをずっと不思議に思いながらも、傍に来てくれることが実はとても嬉しかったのだ。
 しかしその理由を知り、胸が痛む。友人に囲まれている印象が強かったのに、 彼女にとっては孤独と変わりなかったのかもしれない。
「貴女がいて下さって、良かった」
 ただ、自分の存在が少しでもアスティーヌにとって助けとなったのなら良かったとも思う。 デュシアンとしても、彼女と会えれば嬉しかったし、一緒に過ごす時間は楽しかったのだから。
「それにしても、あの時はびっくり致しましたわ」
 しんみりした場の空気を変えるように、アスティーヌは明るく声を上げた。
「あの時?」
 出会うといつもアスティーヌは驚いていた気がしたので、デュシアンとしてはどの事を言われているのか見当がつかず、 首を傾げた。
「あの巨大な爬虫類です! あんな凶暴な生き物に近づいて、背中を硬質ブラシで擦っているのが公爵家の令嬢だなんて、 誰が想像できまして?」
「お腹が一杯なら、あまり怖くなかったよ」
 人を丸呑みできるらしいあの大型爬虫類は、岩肌のようにごつごつとした自分の背中を洗ってもらうのが大好きだったのだ。 擦られているうちに気持ち良さそうに目を閉じていく姿を見るのは一興でもあったし、 アスティーヌだってその姿を見て「大変興味深いですわ」と言っていたのにとデュシアンは思い出す。
 けれども確かに、客観的に見れば少し異様な光景ではあったのだろう。彼女を迎えに来た、 元家庭教師のサレイン・ヴァルテールもあの時ばかりは表情が強張っていた。しかも、 少々のことでは表情を変えることのないと思っていた人がしばし口も閉じずに唖然とし、 我にかえった瞬間左手で剣を抜き、すぐに離れるようこちらに怒鳴ったのだ。彼のあんな感情的な様子は見れるものではないと、 アスティーヌものちに語っていた。
「あの時は――」
 思い出したまま彼女の元家庭教師の名を出そうとして、その言葉を止めた。 不自然な沈黙となり鏡越しにアスティーヌと視線が合う。物言いたげなその眼差しにもう一度その名を口にしようとして、 それを飲み込んだ。
「デュシアン。貴女は、公爵になるとご自分で決意なさったのでしょう? その決断を、後悔していませんか?」
 髪を梳かれながらの唐突な質問に話を逸らされたのかと一瞬落胆したが、彼女の雰囲気から考えてそれは違うと思いなおす。
「後悔してないよ」
 継母や異母弟と一緒にいる理由を求めて公爵となった。二人を守りたかった、二人の傍にいたかった。 役者不足だとはよく理解しているものの、ならなければ良かったと後悔したことはない。 むしろ目に映る世界が広がったことから、公爵となって良かったとさえ思えてくる。 たくさんの人に迷惑を掛けて申し訳なさと不甲斐なさは覚えているけれども、後悔はしていなかった。
 アスティーヌは納得するように、微かに笑みを深めた。
「わたくしは、後悔しているのです」
 はっきりと告げられた言葉に息を飲む。
「二年前の決断を、深く考えなかったことを、後悔しております」
 繰り返された告白に振り返りそうになったが、その頭をやんわりと止められた。このまま向かい合わず、 鏡越しに聞いて欲しいということなのだろう。
「自分の過ちに気づいた時には、もうすでにエルムドアの地を踏んでいたのです」
 ぽつりぽつりと語り出しながらも、アスティーヌはデュシアンの髪を梳く手を休めることはなかった。
「殿下とお会いして結婚が決まっても、全く気がつきませんでした。殿下は立派な軍人で素敵な殿方ですから、 わたくしはその縁談に喜び舞い上がり、妻となる運命を受け入れました。お父様に感謝したほどです」
 そう、アスティーヌは己の縁談をことのほか喜んでいた。あの頃には、今のような陰りはなかった。 こんな切ない表情で微笑むような友ではなかった。
「カーリアでの成人を待たずして嫁ぐことになり、この公爵領を抜けてクノッサス峡谷を越え、国境に辿りつきました。 殿下のお出迎えに応じる為に、馬車から降りて徒歩で国境を越えたのです。……その時、背後から風が吹きました」
 髪を梳くその手が震え、離れていく。アスティーヌの視線は落とされたまま、こちらを見ることはなかった。
「追い風であるのに、どうしてか足を絡め取られるかのような錯覚を覚える風でした。ふと、 誰かに引き止められたかのような気がしたのです」
 あれは、いま思えば双子の魔人の思し召しだったのかもしれません――アスティーヌはそう呟き、続けた。
「振り返れば、ずっと遠くの丘の上からこちらを見下ろす人影が見えました。あんなに遠くに居るのに、 それが誰であるのかがわたくしにはすぐに分かりました」
「アスティーヌ」
 どうしてかデュシアンにも分かってしまった。丘の上に立ち、去り行くアスティーヌを見下ろすそれが誰であるのかを。
「そのとき、わたくしは初めて自分の気持ちに気づきました」
 振り返ろうとするその肩を掴まれる。鏡越しに見つめ合い、悲しげに微笑むアスティーヌの心を知ることとなった。 その切なさに胸が苦しくなり、鼻の奥が痛くなる。どうしてこのようなことになったのか。これは誰にも防げなかったことなのか。 自分のことではないのに、デュシアンは泣きたい気持ちになった。一番泣きたいのはアスティーヌであるはずなのに、 鏡の中では自分の方が酷い顔をしていた。
「わたくしは殿下の花嫁としてすでに国境を跨ぎ、エルムドアの地を踏んでいました。 多くの人々と国同士の事情が絡まった婚姻です、今更やめるなんて言えるはずもない。 丘へ駆け戻って、その身に縋りつくことなんてできませんでした」
 アスティーヌは当時の葛藤を思い出してか、激しく首を振る。
「兄のように思っていました。兄として慕っているつもりでした。離れることが辛く感じるのは家族だからだと思っていたのです。 でも、それは違いました。わたくしは、忙しさにかまけて自分の感情に向き合わなかった。深く考えようとしなかった。 いいえ、その先にあるものを恐れて、深く考えることに躊躇していたのです」
 長い沈黙ののち、アスティーヌは顔をあげて微笑んだ。
「わたくしは、サレイン・ヴァルテールを男性として愛していたのです。そのことを、エルムドアに渡ってから気づいた」
 そうしてデュシアンの肩から手を離すと、アスティーヌは前に回り膝をついて直に視線を合わせてきた。 諦めることを覚えたかのような彼女の老成した表情に、デュシアンは唇を引き結んだ。
「わたくしは殿下の妻となり、サレイン先生は妻を娶られた。 これがわたくしが選んだ未来。自分の気持ちに向き合わなかったことへの代償」
「そんな」
 戦慄く唇で無情な現実を嘆く。
「だからデュシアン。貴女は自分の気持ちにきちんと向き合って、後悔しない決断をしてください。 ラヴィン家の多くの祖先が嫁ぎ先を選べなかった。でも、今はそんな時代じゃない。貴女は自分で判断できるのです。 幸せを自分の手で逃さないで下さい」
 アスティーヌは、膝上にぎゅっと握られたデュシアンの手に手を重ねた。
「わたくしは、殿下と生きます。あの方を支え、共に……いきます」
 涼やかな笑みを浮かべ、今度はそう決断したのだとアスティーヌは示した。後悔を抱く余地がなくなるほど悩んだ結果なのだろう。 だからか、そこに不幸のかけらを見つけることはなかった。
「デュシアン。最愛の友である貴女の幸せをずっと祈ります。だから、秘密を共有して下さい」
 夫と共に生きていくことを決断してもなお、その心の奥には侵し得ぬ神域たる思いが存在する。 少しでもアスティーヌの心を軽くできるならば秘密を共有しようと、デュシアンは神妙に頷いた。


 アスティーヌと立ち代わるように入室してきた侍女に城主との面会を申し込めば、すぐにも手配をしてくれた。 昨日の今日であるので顔を合わせづらいものがあるが、帰還の旨を人づてで告げるわけにはいかない。アスティーヌが帰るのであれば、 自分がここに滞在する理由もなくなる。そもそも、もう一泊して今宵の晩餐を乗り切る自信がなかった。 いかにベアトリーチェ公女が居たとしても。
 侍女の案内を受けて廊下を歩きながら、デュシアンはうろうろと視線を彷徨わせていた。 汚れるのが気にならないのかと心配になるほど真白い軍服を華麗に着こなす騎士たちやきびきびと動き回る使用人たちは、 朝から溌剌とした様子で働いている。彼らは総じて客人たるこちらに愛想が良く、 黒髪の騎士が笑顔で通り過ぎる度に心臓は跳ね上がるばかりだった。 これから面会に行くのだから、廊下を歩いているわけがないのだ。そう理解しているのに、過敏になってしまうのだ。
(反応しすぎだよね)
 それは昨夜のことがあるから仕方のない事なのだと、独り言ちた。
 改めて、あの熱を持つ優しい指先やこちらを捕らえる意思の強い双眸を思い出す。途端に頬が熱くなるが、 すぐにも首を振って冷静さを取り戻した。
 あれは公子の意思ではなかった。彼は酒に酔い、恐らくは恋しい人とこちらとを見誤ったのだ。
(そう、公子は間違えた)
 我にかえった公子は、自分の目の前にいるこちらを見て酷く狼狽した。 彼にとって、こちらへ手を伸ばしたことは不本意だったのだ。
 それを再認識し、切なさと悲しさに胸が苦しくなった。不意に涙がせり上がり、戦慄く唇を噛んで抑える。 制御できない感情を持て余し、デュシアンは頭を抱えたくなった。だが、先ほどアスティーヌに『自分の気持ちと向き合え』 と言われた事を思い出す。
(また、逃げるところだった)
 今までの自分は困ったことに直面しても、向かい合うのを極力避けてきた。継母や異母弟との事も、父と実母の事も、 実母の死にも、そしてララドでのことも。大切な事柄と向き合い考える事をやめて目を背けることで、様々な問題を起こしてきた。 何度も身をもって経験してきたのだ。
 だからこそ、湧き上がっては不安定にさせてくるこの思いを感情を、 今度こそしっかりと見極めなくてはいけないとデュシアンは思った。
 もう一度、頭の中を整理する為に、胸元のアミュレットに触れて僅かに視線を落として自分に問いかけた。
(わたしは、間違えられて悲しいんだよね?)
 その問いには是と思う。心が悲鳴をあげているかのように、胸が痛む。
(じゃあ、……間違いじゃなければ、嬉しいの?)
 間違いではないということは、それはつまり、あの指先の熱も深い欲すら感じた仄暗い瞳も、 他の誰でもなく自分に向けられたものということ。そして、現実に覚めることなく口付けられたということ。
 デュシアンの心臓は急激にどきどきと自己主張をし始めた。
(あのまま、キスされても良かったの?)
 またも『是』と思う心に偽りはなかった。もはや耳が心臓かと思うほど、 煩く耳朶に心音が鳴り響いた。頬は際限なく熱い。
「こちらでございます」
 思ったよりも早く城主の執務室に着いてしまい、デュシアンは心の準備が終了しないうちに侍女の叩音を許してしまった。 短く応じる声が聞こえ、今日一番に心臓が跳ねる。紅潮した頬の熱は治まりそうにない。
 無常にも侍女によって扉が開け放たれる。促されれば入室するしかなかった。
 この城の若き主は朝日が差し込む窓辺に立ち、斜に構えてこちらを迎え入れた。 二日酔いでもしているのか、公子は徒労した様子でほんやりとこちらを眺めたまま微動だにしなかった。 仄暗い闇を感じさせる灰色の双眸はこちらの動きを捕えるような力を持ちながらも、 どこか彼自身が何かの魔法に囚われているかのようにも感じられる鈍い光を宿している。その視線に晒され、 どきりと胸がいっそう高鳴った。
(優しいその目が、好き)
 昨日の自分の言葉を急に思い出し、同意する。そして、はたと気づいた。
(好き)
 手を胸に宛て、その言葉を繰り返す。まるで噛み合わなかった歯車が、 やっと噛み合って回り始めたかのように満ちた感覚に襲われる。探していた言葉を思いあて、深く納得した。 頭よりも身体の方がずっと前から理解していたのだ。
(わたし、ウェイリード公子が好きなんだ)
 優しい眼差しだけではない。差し伸べてくれる大きな手も、常に真摯で誠実な性格も、信念を貫く誇り高い精神も、 危機には身を呈してくれる強靭な身体も、穏やかで低く響く声も、たまに向けてくれる微笑みも、全部好きなのだ。
(好き、なんだ)
 幾度となく自分を襲った不可思議な感情に相応しい名前は、――恋。ずっと、ウェイリード公子に恋をしていたのだ。
 そう自覚すると、デュシアンの頬は火照った。初めて知った感情に気恥ずかしさを覚え、僅かに瞳が潤む。
 侍女が退室した時の扉の閉まるほんの小さな音を合図にするように、互いに自我を取り戻す。止まっていた時間が動きだす。
「昨日はすまなかった」
 ウェイリード公子は厳粛に謝罪を口にしたので、デュシアンは急いて首を振った。
「いいえ」
 今までの彼が自分にしてきてくれた事を考えれば、非を感じている彼から早く罪悪感を取り払ってあげたかった。 むしろ気に病まないで欲しいと願う。
 そうして大切なことを思い出し、やっと手にした感情が奈落の底へ転がり落ちていくのを見送った。
(わたしは好き。でも、公子は……)
 思い人がいる。確かめたわけではない。けれども、 昨夜の公子は明確な《誰か》を求めて手を伸ばしていたように思えて仕方なかった。 それはきっと自分ではないとデュシアンには強い自信があった。知り合ってまだ数ヶ月。 その間に、求めて貰えるような何かあったわけではない。近寄る機会はすべて父の恩恵に預かっただけ。 彼からすれば、自分はただの恩師の娘。手を伸ばして貰える要素は皆無だ。
 胸を抉られるかのような痛みを伴う考えを振り払い、デュシアンは口の両端を上げて微笑みをかたち作った。 船上で矢から庇われたことを思い出す。恩師の娘を身を呈してまで守ろうとする義理堅い青年をこれ以上無駄に苦しませたくはない。 そのぐらいならば自分が煮え湯を飲んだ方がずっとましだと思う。
「公子がかなり酔っていらしたことは知ってました。わたしは気にしてません。公子もどうか」
 忘れてしまって下さい――その一言が喉をつかえた。鼻の奥がつんと痛み、不意に真顔になってしまう。 つぶさに観察するような視線を向けられ、気を取り直すと、おどけるように肩をすくめて苦笑を浮かべた。
「わたしも忘れますから、公子もどうぞ忘れてしまって下さい」
 笑って嘘をついた。
 忘れるなんてできない。きっと永遠にあの眼差しを思い出し、胸を焦がす。気づいてしまった今、 これは一生分の恋なのだと確信している。それが初めての恋にのぼせたただの思い込みであったとしても、 今はそんなふうにしか思えない。
 デュシアンは瞬きを繰り返し、浮かび上がろうとする涙を抑えこんだ。
「アスティーヌ妃殿下が午後にもお帰りになるそうなので、わたしも妃殿下をお見送りしたら失礼したいと思います」
 ざわめく心を落ち着かせたい。傍にありたいと望むけれども、今は一刻も早くこの室内から、 彼の気配を感じるこの城から立ち去りたい。 そんな思いを飲み込むと、胸を張って堂々とした態で告げた。
「……用意しておく」
 ウェイリード公子は何か言おうとしたのか口を開いたが、躊躇ったように眉を僅かに寄せて、結局短く応えただけだった。
「ありがとうございます」
 今度こそ心から微笑んだ。首都へ、ラヴィン家邸宅へ帰れることへの安堵から自然と零れでたのだ。
「それでは、失礼致します」
 軽く礼をした後、目に焼き付けるようにもう一度公子へ視線を留めてから退室した。 その背をウェイリード公子がどんな表情で見送ったのかを知らないままに。

 初めて知った恋は、それと知った瞬間に砕けて散った。


(2010/6/2)

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