墓と薔薇

9章 偽られた心(6)

 ウェイリード公子の領地帰還の理由をデュシアンが知ったのは、その日の晩餐の席でのことだった。
 公子の目の前に並べられていく酒瓶の数が増える度に青くなって見ていれば、 あれが帰還理由なのだと隣席のベアトリーチェ公女に教えられた。この時期に出回る領土産の初物の麦酒や蒸留酒、 蜂蜜酒や果実酒を試飲することが仕事なのだという。そう話している合間にも彼の前に酒瓶だけが増えていく。 料理は気持ち程度のものだ。
 その様子を呆けて眺めていれば、こちらの視線に気づいたらしく『飲み比べは義務だ』と軽く溜息を吐いて公子は答えてくれた。 どこか投げやりな憂い顔にどきりとしてしまう。見慣れない真白い軍服が悪いのだ、とデュシアンは視線を逸らした。
「この辺りは昔、葡萄酒の産地だったのですよ」
 良い香りのする葡萄酒を食前酒としてふるまいながら語ってくれるのは、ブランシール家長男の奥方様だった。 晩餐はその長男夫妻と城主であるウェイリード公子、ベアトリーチェ公女と彼女の四番目の兄キア公子、 五番目の兄ディータ公子と一緒だった。六番目の兄君とブランシール家の当主である父君は、現在南の街ハイメルの視察中なのだという。
 若き城主の杯を上げての厳かな挨拶の後に始まった食事のなか、気後れしないで済んだのは奥方様とベアトリーチェ公女のおかげだった。 卓に着いた当初は、エルムドア騎馬民族の血が濃い男性が四人も並ぶさまに圧迫感を覚えていたのだが、 隣席のベアトリーチェ公女と斜め前に座る兄君ディータのやり取りのおかげで緊張も良い具合に解れた。また、 長兄の奥方様はとても気の回る方で、常に話題を振ってくれた。「口数が多くなったのは、嫁いできてからなのですよ」 と彼女は笑いながら自分の夫へ視線をやるのでちらりと静かな男性陣へと視線を向ければ、どこか雰囲気の似た公子と二人、 酒を酌み交わしていた。
 落ち着いた二人がどんな会話をするのか気になったが、すぐにも意識は隣りに戻された。
「ヴィクトールが魔人たちと契約したせいで、葡萄園の主たちは一時期大混乱だったんだって」
 隣席のベアトリーチェ公女は甘い匂いの苺酒を呷り、怪しく笑った。
 ラシェから教えられたのだが、アイゼン公爵領は《双子の魔人》と呼ばれる守り神のような存在の高位精霊の恩恵を受けているという。 それはアイゼン家の始祖となるヴィクトール・アイゼンが彼らと契約したことに因るらしい。
「どういうことですか?」
 ウェイリード公子の前に並べられた酒瓶には葡萄酒は見当たらない。不思議に思って尋ねれば、奥方様が顛末を語ってくれた。
 アイゼン家の祖ヴィクトールと高位精霊である双子の魔人との契約により、 アイゼン家は繁栄の一途を辿るだろうと誰もが期待していたのだが、そこには思わぬ落とし穴があった。 精霊の恩恵によって風土が変わり、豊かになった土のせいで収穫される葡萄は甘くなり酒に適さなくなって、 辺りの葡萄園に多大なる被害を齎したのだ。仕方なく葡萄は青果として売り出されるものの、 いくら甘くて美味としても需要と供給が全く釣り合わず、多くの葡萄棚が黄金の麦畑に姿を変えていったという。
 皮肉なことに、双子の魔人たちはヴィクトールから貰った葡萄酒が大層気に入っていたそうで、 領主一族は領土ぎりぎりの東の地に独自の葡萄園を構えることとなった。そこで何代にも渡って品種改良など試行錯誤した結果、 なんとか元の水準にまでとはいかずとも葡萄酒の味を取り戻すことに成功したのだという。ただし、 昔のように物産品となるほどの量産は見込めず、それらは双子の魔人たちへの供物用、 また大切な客人に食前酒としてふるまうのみとなったのだ。
「今では公爵領は麦の産地。お酒も麦酒が中心」
 もう一度振り返ってウェイリード公子の前にある酒瓶のラベルを見れば、確かに大麦の絵が描かれたものばかりだった。 酒瓶の形や絵の違いから、どれも違う酒造元のものなのだろう。
「でも、いっぺんにあんなに沢山飲まれて、大丈夫なんでしょうか」
 先ほど『飲み比べ』と言っていた。そのわりには一杯づつが多い気もするのだ。
「いいのいいの。ウェイは酔ったほうが丸くなるし。それよりも、一杯どうぞ」
 鴨肉料理に合うかどうかは別として、ベアトリーチェ公女が杯に甘い混合酒をなみなみと注いでくれる。 麦酒や蒸留酒よりはずっと飲みやすいが、それでも酒は酒。大胆に注がれた杯に困惑し、 助けを求めるように自然とウェイリード公子へ視線を向けてしまう。
「遠慮はいらない」
 視線の意味を正しく理解して貰えず、デュシアンは酷く落胆した。しかしすぐにも己が抱いたお門違いの期待を慌てて打ち消した。 助けを求める無言の訴えを、他人の彼になぜ理解して貰えると思ったのか。
(馬鹿だな……)
 自分を愚かだと思うのに、どこか一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。それを紛らわすように、 デュシアンは甘い香りの酒を呷った。喉がかっと熱くなる。それは自分の甘えた性分への罰だと思った。
「良い飲みっぷり! 次はこれ! お勧めのスモモ!!」
 目を輝かせるベアトリーチェ公女が更に杯を満たしてくれるので、それも一気に呷った。
「ビビ、煽るな」
 途端にこちらを戒める公子の言葉にどこか嬉しさを覚えた。自分でも分かるぐらいしまりのない顔で笑ってしまう。
「はいはい」
 少し不貞腐れたように肩をすくめるベアトリーチェ公女が次に注いでくれた果実酒は、一気に呷ることはなかった。
「それにしてもラヴィン公ってば、そういう格好の方が似合ってるんじゃない?」
「え?」
 指摘されて、デュシアンは改めて自分の服装に視線を落とした。
 大胆にあいた胸元は繊細なレースの刺繍で隠すように上品に縁取られ、 やや高い位置で絞られた腰から優雅に裾が広がるさまは大人びた意匠となっていた。 この深い緑色のドレスはベアトリーチェ公女が『瞳の色に似合うから』と言って貸してくれたものだ。
 最初は丁重に断ったのだが、侍女たちは有無を言わさぬ口調で『ベアトリーチェお嬢様のたってのご要望でございます。 叶えないわけには参りません』と意気込むもので、その勢いに負けたのが半分。もう半分は、先ほど公女から聞いた話に理由があった。 クロイツベルク城の者たちはベアトリーチェ公女の帰還をいつでも待っており、 彼女の望みを叶えることで歓迎の意を示そうと躍起になっているというのだ。そんな事情を鑑みれば、折れざるを得なかった。
 しかし着付けられて鏡の前に立たされると、『借りて良かったのかも』と考えを改めた。侍女たちも、 それはそれは大層褒め讃えててくれた。
「髪の毛も、そこまで短くなかったんだね。いつもは上手く留めてたんだ」
 肩よりは遠いが、顎よりはやや長い。伸びてきた髪を切ろうとは思ったが継母が許してはくれず、 最近はうまく纏めることで短い髪の印象を保っていた。現在は、服を着付けてくれた後に侍女たちの会議によって纏めた髪は解かれて、 耳の辺りに花飾りを留めることでドレスと合わせてくれた。時間が余ったからと、薄化粧も施されている。
「短いのもいいけどさ。悔しいけど、猪女の言う通り、長い方が似合うと思う。てゆーかさ、まじりっけなしの金髪で綺麗」
「あ、ありがとうございます」
 真面目な顔で褒められると、どうして良いか分からず礼をもごもごと口にした。
「ビビの言う通りです。新しい公爵閣下がこれほど可愛らしい方とは存じませんでしたよ」
 杯をあげて、片目を瞑ってみせるのはディータ公子だった。もともとこういった軽い社交辞令が苦手ではあったが、 ウェイリード公子に似た顔で『可愛い』と言われたことで余計に動揺してしまい、不自然なほど表情が硬くなってしまった。
「貴女のように純カーリア系の愛らしい女性と出会えた幸運を、主神に感謝しなければいけませんね」
 追い討ちをかけるような口説き文句に対して乾いた笑みしか浮かべられず、誤魔化すように杯に手を伸ばした。
「黄金の波うつ髪と、翡翠と見紛(みまが)う瞳は……、そう、 知識の神ララドに愛された花の精霊フロルのようだ」
「ディータは女性とみれば誰でも口説くから騙されちゃ駄目だよ、ラヴィン公」
 ベアトリーチェ公女は呆れたように半眼で、玉葱がたっぷりのキッシュにフォークを突き刺した。

 そうして一時ほどの楽しい時間を過ごす。その間、デュシアンはベアトリーチェ公女からラシェの悪口を山ほど聞かされた。 前々から気づいてはいたが、その嫌いようは一種異様なほどで、寧ろ逆に『好き』なのではないかと疑いたくなるほどであった。 真相は分からず仕舞いだが、嫌悪から生じる悪口ではないだろうと想像できた。
 ひとくち水を含み、デュシアンはベアトリーチェ公女と共に退室する為に立ち上がった。軽くふらりとするも、歩けないほどではない。 室内の男性陣と奥方様に挨拶をし、なんとはなしに最後にちらりとウェイリード公子を見やった。 彼も相当飲んでいるはずなのに顔色一つ変わりなかった。しかし詰まった軍服の首元は緩められており、ついそちらを凝視してしまう。
 すると不意に灰の視線がこちらへ向いた。不躾にもじっと見つめてしまった後ろめたさから慌てて目を逸らす。 しかし今度は公子がこちらを観察するような強い視線を向けてくるので、なぜか動けなくなってしまった。
(なんだか、熱い)
 飲み過ぎたかとデュシアンは思った。
「いくよー」
 足取りの危険なベアトリーチェ公女に腕を取られると、呪縛から解かれたように自然と身体が動いた。 こちらを束縛するかのような視線もなくなり、気もそぞろにもう一度あたまをさげて退室した。
 しんと静まりかえる仄明るい廊下に、三人分の足音が響く。客室まで送る役目をかって出てくれたディータ公子が後ろに続いている為に、 腕を組む二人しておかしな方向へ進んでも軌道修正がかかるので、安心して迷えた。
 客間に着いて扉前で就寝の挨拶を交わすも、その頃にはベアトリーチェ公女は立ったまま、うとうとし始めていた。 仕方ないとばかりにディータ公子が抱え上げ、艶やかな笑みを浮かべて就寝の挨拶を残し、颯爽と立ち去っていく。 逞しさに惚れ惚れとしながら、その背を見送った。
 二人の姿が見えなくなったので欠伸を抑えながら室内に入ろうとすれば、不意に視界の端に何か動くものが映って興味を引かれた。
(なに?)
 廊下の隅、明かりと明かりの間にできる暗がりで、何かが動いている。ごく低い位置。小さいもの。好奇心が疼き、 明かりの下に現れる《それ》を息を殺してしばし待った。
 そうして待っていると優しい黄色の明かりに姿を映し出されたのは、足取りの軽い灰色の毛並みの子猫だった。 ふわふわの尻尾が歩く度に左右に揺れる。片耳がぴんと立っているのに、もう片方の耳は寝てしまっているのが、 愛嬌があって可愛らしい。子猫はこちらに気づいたのか、ちらりと視線を向けて足を止めるものの、 とりとめて興味が続かなかったようですぐにも視線を逸らして己の道を歩み始めた。
 デュシアンにとって猫の存在は別段珍しいものではない。それでも、 まるでこちらを誘うように揺れるふわふわの尻尾に心が惹かれて止まなかった。お酒のちからのせいなのか、 夜間――それも他人の城だというのに、ついその後ろをふらふらとしながら追いかけてしまった。
 ひと気のない、薄明かりに照らされた物静かな長い廊下を抜け、月明かりの差し込む中庭が見下ろせるバルコニーを横に、 邪魔をする長い裾を僅かに持ち上げながらその尻尾を追いかける。 このとき運良く巡回警備の隙をついていることをデュシアンは知らない。
 そして、昼間にベアトリーチェ公女が言っていた『ヴィクトールの祟り』という言葉を思い出したのは、その角を曲がった瞬間だった。 なにやら、たぷんとした柔らかいものにぶつかって、よろよろと三歩ほど後退する。ぶつかったものを確認した途端、 冷水を頭から掛けられたかのように、我に返った。つま先で歩くようなほろ酔い気分が彼方へと吹っ飛ぶ。
「客人が他にいるとは耳にしていたが」
 刺々しい口調に、忌々しいものを見るような目。たぷんとした柔らかいものは、通常の人よりもやや突き出たそのお腹だった。
 己が猫であったなら、驚きと警戒と緊張に尻尾も毛も髭もぴんと立ってしまっていたことだろう。
「ホルクス、伯爵」
 出会い頭に衝突したのは、アスティーヌの父であるホルクス伯爵その人であった。この伯爵には初対面からずっと嫌われていて、 デュシアンは相対するのを苦手としていた。
 そもそも伯爵が己の半分も生きていないこちらを目の仇にしているのには理由があった。伯爵は、普通ではない間柄の男女から生まれ、 育ちの卑しい(・・・)《妾腹の子》であるデュシアンが、 己の娘に悪影響を与えるのではないかと危惧しているようなのだ。野心家で三人の娘を権力者と政略結婚させてはいるものの、 家族を思いやる心はとても強い人でもあった。
「まだアスティーヌに構っておったのか、この恥知らずめが! 妾腹の分際でのこのこと現れおって」
 唾を飛ばさん勢いで怒鳴り散らす伯爵の剣幕に、デュシアンは萎縮した。もともと怒鳴り声は好きではない。長い間、 己の支配者であったララドの商人を思い出すのだ。感情のままに怒鳴り、鞭打つ狂気の目が脳裏を掠めて身体が固まった。
「アスティーヌはお前のような妾腹の恥知らずが近寄っても良い立場ではない! それが分からぬのかっ」
 呂律が回らないながらもこちらを攻め立てることに命を掛けているように必死だった。
「だいたいこんな大事な時に、妾腹の娘を呼ぶとは。しかもわしの目を盗むようにして会うなど、まるで逢引のようではないか。 わしはアスティーヌをそのように育てた覚えはない。あれは、アスティーヌは……」
 興奮に真っ赤に染まった目元が僅かに潤み、言葉を詰まらせた。
 伯爵が泣いてしまうのではないかとデュシアンは驚愕した。そうして少し冷静になれた。いくらアスティーヌがいないとはいえ、 今までこれほど強く非難されたことはなかった。常に遠まわしにねちねちと嫌味を言うぐらいで、 直接的に怒鳴りつけてくることはなかった。
 いま目の前にいる伯爵は酒の臭いを漂わせており、恐らく深く酔っているからゆえに感情が抑えきれないでいるのだろう。 それに気づいてしまえば、デュシアンは落ち着きを取り戻すことができた。
「お前のような汚らわしい娘と付き合うようになってからアスティーヌは間違った方向に進むようになってしまったのだ!  親の意見も聞かず、自分勝手な娘となった! 全部、全部、お前のせいだ!!」
 伯爵の顔は真っ赤で、言っていることは支離滅裂だった。けれどもその興奮状態から、親子の間でなにか問題が起きていて、 伯爵の納得のいかない事態となっていることは推測できた。そんな中、良く思っていない者が自分の娘と密かに会っていると知れば、 伯爵の激怒も理解できるものだった。そもそも、同じ城内に招待されながらも挨拶ひとつしなかったのは、 やはり良いことではなかったのだ。だからこそ常識がないとの意味を込めて《妾腹の子》と揶揄されるのだ。父や母が悪いのではない、 ましては妾腹だから悪いのではない。全ては自分の至らなさのせい――デュシアンはそれを痛感した。
「いくら交友を反対されているからといって、お父上君である伯爵を蔑ろにするかたちでアスティーヌと会ってしまったことは、 お詫び致します。申し訳ありません」
 誠意を込めて、深く頭を下げた。
 アスティーヌとの交流を許して貰おうとは思わない。ただ、 やはり父である伯爵の全く預かり知らぬところでの密会は良くないのだと身に沁みて理解した。だからこそ、 どれだけ邪険にされようともこれからは堂々と会い、手紙を交わそうと決意した。
 顔を上げて、伯爵としっかりと視線を交えた。先ほどよりも若干落ち着いたようにも見受けられる姿を見て、 誠意と意思を伝えようともせずに逃げ回っていた今までの自分が間違っていたことを悟った。伯爵はそれが通じない相手ではない。 寧ろ、今まで真正面からぶつからなかったことが、伯爵に悪印象を与えていたのだろう。
 そうだとすれば、デュシアンにはどうしても伝えたいことがあった。伯爵に思いなおして欲しいとは望まない。ただ、 自分は自分のことを《そう》は思っていないと意思表示をしたかったのだ。
「わたしは確かに父と母の正しい婚姻のもとで生まれたわけではありません。ですがわたしは、父も母も義母も尊敬し、 愛しています。そして父も母も義母も、わたしを愛してくれています。親が愛してくれる自分の存在を、 汚らわしいものだとは思いません」
 それに――と続く言葉の飲み込んで、静かに伯爵を見つめた。
(わたしが堂々としていなかったら、父様やお母さんだけじゃなくて、 わたしを受け入れてくれたセオリア様やレセンに対して失礼だもの)
 自分の存在を、自分の生まれを、自分の父と母を、――恥じない。デュシアンは堅く決意し、 いつもならば逃げ出すような場面であるのに留まり、伯爵の反応を待った。
 薄い口髭の下の唇が、僅かに震えて横に引き結ばれていく。赤かった顔が、だんだんと青白くなる。 感情的に怒り狂うような態ではなくなったが、冷静さを取り戻したようにみえる伯爵の様子に緊張が増した。
「……生意気な小娘が」
 憎憎し気にそう吐き捨てると、ホルクス伯爵はそれ以上何も言わずに立ち去っていった。意外な反応に、拍子抜けする。
 足音が遠ざかって聞こえなくなると、大きな溜息が零れた。
 最後の一言は余計だったかと色々考えたが、後悔はなかった。むしろ清清しい気分になって、 がちがちになっていた身体を解そうと伸びをした。
(部屋に帰ろう……)
 もと来た道を戻るべく踵を返す。すると何やら強い視線を感じて顔を上げた。明かりの届かない廊下の壁に、 背を預けて佇む人影が目に留まる。
「あ」
 驚きに息を飲む。暗がりであっても、その影のかたちで誰であるのかすぐに分かった。
 いつからそこにいたのだろうか、仲裁に入られなくて良かったと安堵する。城主たる彼に出てこられては、 伯爵に自分の思いを伝える機会を生涯逃したことになったかもしれない。恐らく彼もそれを察してくれたのかもしれないと期待した。
「夜の一人歩きは感心しない」
 ぴしゃりとまず一言、灸を据えられる。怒られているはずなのに、 デュシアンはどうしてか口元が緩むのを堪えられなかった。締まりの無い顔をしているだろうと自覚する。
「君にそう指摘するのは初めてではないような気がするが」
 こちらがそんな態度だからなのだろうか、口調に呆れたような色が混ざる。
「クロイツベルクの騎士も使用人も教育は徹底してある。だが、夜間は酒に酔って前後不覚となった者がいないとも限らない。 空き部屋にでも引きずり込まれれば終わりだ」
 考えてもいなかった方向の指摘を受け、デュシアンは己の迂闊さに赤くなった。 自分が異性から《そういう対象》として見られるということを常日頃あまり意識することがなかったからだ。
「勝手に出歩いてしまって、申し訳ありません」
 そもそもここは他人の城であり、自分はただの客人だった。そのことも合わせて反省する。
 しかも言い訳はできなかった。酔っていたとはいえ『猫を追いかけていた』との理由はあまりに滑稽で、 寧ろ信じてもらえない可能性もある。また、子どもじみた己の行動を恥じる部分もあった。
 その時、にゃあ、と至近距離から鳴き声が聞こえた。デュシアンは僅かに目を見張る。聞き間違いでなければ、 人影――ウェイリード公子の腕の中から聞こえたようなのだ。
「あの」
 まさか、そんなはずは。デュシアンは公子に近づいて、疑いの視線を向けた。
「……いま、そこで捕まえた」
 ばつが悪そうに公子は眉を寄せ、デュシアンにも見えるように腕の中に収まっているものを見せてくれた。それはやはり、 先ほど追いかけていた子猫だった。
 こちらには見向きもしなかったくせに公子の腕の中では随分と大人しくしている姿を見て、 デュシアンは少々悔しくなって唇を尖らせた。
「そこは居心地がいいのね」
 手を伸ばして頭を撫でる。小さな子猫の身体は、決して大きくはないデュシアンの手のひらにも余るもので、 誤って公子の腕やら腹部に触れてしまう。公子は何にも反応を示さなかったが、デュシアンは一人で赤くなって、手を引っ込めた。
「あの、公子の猫ですか?」
 恥ずかしさを紛らわすように尋ねた。
「いや。今はじめて出会った」
「でも、大人しくしてますね」
 まるでそこにいることが当たり前であるかのように、子猫は大人しく抱えられていた。
 不意に、こんな光景をどこかで見たような錯覚に陥った。そしてすぐに、それは錯覚ではなく昔の記憶なのだと理解した。 緑薫る風が頬を撫でる感触すらも思い出す。
 あの時。植物園内の白詰草が絨毯のように敷き詰まった丘の上で、薔薇を抱いて座りこんでいた。傍を通り掛かったのは、 生まれた瞬間から知っている園の猫。イスラフル産種であるのに毛足が長い。 いつものように撫でさせてくれるのかとその灰色の毛並みに手を伸ばせば、甘えた仕草で擦り寄ってくる。しかしつぎの瞬間、 その猫は薔薇を一輪咥えて丘を駆け下りてしまったのだ。棘も取っていない枝が、まだ子猫に近いあの子の口を傷つける恐れがある。 その恐ろしさに、慌てて追いかけた。
 どういうわけか、猫の目的地は丘下に佇む一人の青年の元だった。青年も当然のような態で、 走り寄って来た猫を迎え入れると自然な仕草で抱き上げた。そうすると、猫は咥えていた薔薇をぽとりと白詰草の上に落とす。 青年は右腕で猫を抱きながらそれを拾うと、それが薔薇だと気づき、猫の口周りを確認しているのが見えた。
 そうしている頃にやっと自分は彼らのところへ到着した。青年はどこか薄ぼんやりとした表情でまじまじとこちらを見つめてくる。 それを不思議に思いながらも、息が切れて苦しくて、胸を押さえながら彼を見上げた。
 短い問いかけと共に、目の前に薔薇が一輪差し出される。身なりの良い姿から貴族だと思われたが、嘘ばかり並べた軽口はない。 物静かな青年を見上げ、その穏やかな双眸に父と同じ慈愛を見出して嬉しくなった。こちらにつられるように、 青年もその綺麗な藍色の目を細めて僅かに微笑んだ。
 あれは、五年ほど前の出来事だった。
「公子は猫を宥めるのがお上手なのですね。あの時も――」
 そこではたと言葉を止めた。客観的に考えれば、あれは劇的な記憶ではない。 公子が覚えているはずもないとどこか落胆して視線を落とした。
「……覚えているのか」
 しかし、驚きの混じった低く深い声に顔を上げる。まるで示し合わせたかのように、互いに言葉を発せず視線を重ねた。
 五年前、日の光のもと緑の絨毯の上で、たったひととき猫を交えた会話をしただけ。それなのに、 あの時とは場所も状況も違う暗がりの廊下で、猫を挟んだだけなのに同じ記憶に辿りつく。その奇跡のような偶然にデュシアンは感謝し、 自然と表情が綻んだ。
「実は、あの時にお会いしたのはカイザー公子だと思ってました」
 僅かに公子が眉を寄せたのを見て、デュシアンはすぐにも首を振った。 この公子が双子の片割れと間違われることを嫌っているのをよく知っていたが、カイザー公子に人違いで話してしまっている手前、 言わないわけにはいかなかった。それに、はっきりと当時の記憶を思い出した今ならば胸を張って断言できる。
「目の色が今と違いますが、よく思い出せば笑い方も雰囲気も貴方です」
 どうして間違えたのだろうと苦笑した。ふたりはどんなに容姿が似て、気質が似ていても、歩き方も違うし口調も違う、 性格も違うし笑い方も違う。
 カイザー公子は目尻を下げて口の端を大きく上げ、豪快に、悪戯っ子のように笑う。 けれどもウェイリード公子は目元を僅かに細めて口端を微かに持ち上げるだけ。それでも、 心の内が柔らかに変化したとわかる笑みとなる。見ただけで胸を締め付けられるような幸福感に満たされる。 あの白詰草に佇む青年は、確かにこちらへ一時の幸せを与えてくれた。
「もう、間違えません」
 あの時の笑みを思い出し、幸福感に微笑んだ。
 こちらを見下ろしたまま絶句したウェイリード公子の時間を動かしたのは、腕の中の子猫の鳴き声だった。
「……送る」
 身を翻し、こちらが付いてくるのが当然だとばかりに歩きだす。その傲慢な背を慌てて追い、許されるような気がして横に並んだ。
「あの、目の色ですが」
 昼間にベアトリーチェ公女が言っていたことを思い出す。
「精霊との契約が理由だと聞きました」
「そうだ。片目を差し出した」
 答えてくれないのではないかと思ったが、案外すんなりと喋ってくれた。横の彼を見上げて表情を探るが、 不快そうな様子はないことに安心して続けた。
「あの、目を差し出したって、どうやってですか?」
「抉り出そうとしたが――」
「え!」
 思わず足が止まる。あがった自分の声が思った以上に廊下に響き、びっくりして口元を押さえた。
「必要だ、というから」
 こちらが足を止めてしまった為に、必然的に公子も足を止めて振り返る。月明かりのなか佇むのは、吸血鬼の城主ではなく、 清廉な一人の青年だった。
「しかし精霊が気分を害し、結局魔法で行われた」
「気分を害す?」
「目を要求されて慌てふためく矮小な人間の――私の姿が見たかったということだ。腐っても闇の精霊だ、 おおもとに似て下種な趣味を持つ」
「おおもと?」
 背筋を冷たい指先で撫でられたような感覚に、小さく身震いした。闇の精霊がよりどころとするのは一柱しかいない。 彼の悪神、フェイム=カースだ。
「戸惑いもなく眼球を刳り貫こうとする私の姿はつまらなかったらしい」
 潔い、との一言で済ましても良いものなのか、デュシアンには計り兼ねるものがあった。 『目を差し出せ』と言われて躊躇いなく自分に刃を立てる――、一体どのような信念を持っていればそのような芸当ができるのか。
(そこまでして、精神魔法を研究したかったの……?)
 ベアトリーチェ公女と同じ疑問が喉を掠めたが、寸でのところでそれを飲み込んだ。従妹である彼女ですら立ち入れない事情なのだ。 たかが恩師の娘ごときに彼が話す謂れもない――デュシアンは自分でそう思いながらも、勝手に傷ついた。
「もしかして、目の下の傷はその時のですか?」
 今は見えないが、朝日に照らされたその顔に薄っすらと傷が残っていたのを思い出す。あの時は、 その傷がもう少し上でなくて良かったと思ったのだが。
「光の具合でまだ傷跡が見えるのだな……」
 公子は指先を傷跡と思われる場所へ持っていき、僅かに撫でた。
 どちらかともなく、歩くのを再開した。それでも会話は続く。
「でも、片目だけを差し出したんですよね?」
 ならば何故、両目ともが藍色から灰色になっているのか。差し障りないだろうかと思いながら尋ねた。
「右目は精霊と交換して灰色となったが、左目は元のまま藍色だ。両目の色が違っては余計に目立つ。兄弟子がちょうど、 色を変える魔法を研究していたので、左目の色を灰色に変えてもらった」
「精霊の目を、元の色に合わせることはできなかったのですか?」
 デュシアンとしては至極当然のように湧き上がった疑問を口にした。
 すると公子は僅かに眉を寄せ、不快とも迷いともとれる奇妙な表情を浮かべた。
「……精霊のちからの方が強かった」
 急に公子は足を止めた。デュシアンも止まり、彼を見上げる。
 もぞもぞと動く子猫をウェイリード公子は解放する。暗がりに姿を消すその小さな身体を目で追い、やっと気づく。 自分にあてがわれた客室の前に戻ってきたのだ。
 思ったよりもずっと早く着いてしまう。子猫の足取りばかり追っていた為に全く気づかなかったのだが、 どうやら同じ場所をぐるぐる回っていただけのようで、距離はそこまで離れていなかったらしい。それをなぜか残念に思う。
「気味の良い色でないことは理解している」
 思いがけない言葉にデュシアンは顔を上げて首を振った。
「綺麗な色だと思います」
 心からそう思う。よくみれば青みがかったその目の色を、何度『綺麗だ』と思い観察したことか。
「だが普通ではありえない色だ」
 気落ちしているようには窺えない。けれども、どこか自嘲めいた響きに焦燥感を覚えた。
 公子が己の目の色の変化をどのように思っているのかは分からない。気にはしていないが、 他人から指摘されるのは苦手としているのかもしれないし、根底の部分では気にしているのかもしれない。どちらでなくとも、 『元の色に合わせないのか』と尋ねたことが『なぜそのような色に合わせたのか』と彼には聞こえてしまったことだけは事実。 それを覆したくて、デュシアンは慌て首を振った。一歩前に出て距離を詰め、随分と高い位置にある公子の顔を見つめた。
「そうかもしれませんが、わたしは綺麗だと思います。ずっと見ていたいと何度も思いました。でも、 恥ずかしいからあんまり見れなくて」
 綺麗だと思うから見ていたいのに、ずっと見ていられない。そのもどかしさを分かって欲しかった。今だとて、 羞恥からその双眸を見つめて話すのは難しい。しかしいま目を逸らせばまるで灰の瞳から逃げているように思われてしまいそうで。 だからこそ、デュシアンは自分が映りこむその瞳をしっかりと見つめ返した。
「それに、あの植物園で出会った時から変わらず公子の目はとても真摯で優しくて、穏やかです」
 こちらを見守るような瞳は誠実で、表情以上に感情豊かだった。色は違えどあの頃と何も変わらない、 厳しい態度でありながらも隠せない優しさを宿すその瞳は変わらない。彼が彼である限り、瞳の色の違いなど何の問題があろうか。
「だから、藍色でも灰色でも、どちらの色であっても、わたしは公子の眼差しが」
 思いの丈のまま続けようとし、続く言葉の重みに急に我にかえる。それでも止まらなかった。
「好きです」
 勝手に唇から紡ぎ出され、小さいとはいえ明確な音となって自分の耳に響いたその《ことば》に一瞬呆けてから、 のぼせたように一気に顔が熱くなった。間違ってはいない。その意味が示す感情は、確かに己の中に存在する。
「あ、あの、わたし」
 継母が好きでレセンが好きでラシェが好きで、イリヤが好きでグレッグが好き。 彼らになら毎日だってその言葉を面と向かって言える。それと同じ意味であるはずなのに。それなのに、 なぜ自分はこんなにも動揺してしまうのか。耐えられなくなって、デュシアンは今度こそウェイリード公子から視線を外した。
 慌てふためく中、不意に影が差し掛かる。なんだろうと僅かに顔を上げたその両頬が、大きく硬いものに包まれた。 それが公子の両手だと気づいた時、頭の中が真っ白になった。何も考えられなくて、ただただ心臓だけが煩く鳴り響く。 手のひらが触れる頬が際限なく熱く、指先が掠める輪郭や首筋がひどくくすぐったくて、身体の芯が震えた。 あえぐような呼吸を繰り返し、悲しくもないのに涙がうっすらと滲んでくる。熱を発する公子の身体が近い。気を緩めれば、 膝から崩れ落ちそうだった。
 微量なちからで誘導されるようにもう少し顔を上げさせられると、先ほどよりも近い位置に灰の瞳があった。 仄暗いなかでもこれだけ近ければ、その目に宿るなんらかの強い感情を見つけることは容易い。しかし、その感情がなんであるのかを、 デュシアンは判断できなかった。ただ、自分が絡め取られてしまうのではないかと思うほどの力強い意思をその目に垣間見、 吸い寄せられるように見つめ返すことしかできなかった。
 硬い親指が優しくなぞるように唇に触れる、その痺れるような感覚に肩をすくめた、その時。
 にゃあ――と、小さく、けれどもまるでその場を諌めるかのようにはっきりとした鳴き声が足元であがる。
 至近距離で見つめていたその灰の目が、まるで魔法から覚めたかのようにはっと見開かれた。 信じられないものを見るかのようなその目に、デュシアンは僅かに傷つき、身を引いた。簡単に拘束は外れた。当然だ、 公子の手には全く力が入っていなかったのだから。
「わ、わたし、その、……おやすみなさいっ」
 送ってくれた礼もそこそこに、就寝の挨拶を早口で告げて、室内に入りこんで扉を閉めた。明かり取りもつけず、 扉に背を預けたままずるずると座り込む。破裂するのではないかと思えるほど早く動く心臓に手を当てた。
(いま)
 まだ頬に触れられているかのような感覚があり、身体がぎゅっと震えた。それは決して恐怖や嫌悪からくるものではない。 かといって、父や継母に触れられた時とは違う。もっと未知のもの。
 子猫の鳴き声が無かったら、どうなっていたのだろうか。それが分からないほど愚かではない。 自分はきっと逃げられなかっただろう。脆くて壊れやすいものに触れる ような優しい手は、振り払えば簡単に外れたはず。そうできなかったのは、灰色の双眸に宿る意思の強さに負けたせいだ。
 それなのに、我に返った公子はまるで自分の今の行動が信じられないといった表情となった。夢から覚めたような、 やっと目の前にいる人物が自分が思い描いていた人物と違うと気づいたかのような。
(わかんない……)
 扉の向こうで、僅かに人の動く気配がする。恐らくウェイリード公子が自室へ帰っていったのだろう。 足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ついさっきまで彼に触れられていた頬に自分の手を当てる。全く違う感触。 途端に熱の篭る眼差しを思い出し、身体中が熱くなる。そんなこちらを残して、彼は自分だけ魔法から覚めた。
(わけが、わかんない……)
 なんだか泣きたくなって、立てた膝に頬を擦りつけた。
 それでもいつまでもそうしているわけにはいかなくて、ふらりと立ち上がると、ドレスを脱ぎ捨てて窓辺に近い寝台に身を投げた。 ベアトリーチェ公女から月明かりのある日のこの部屋からの夜景は素晴らしいと聞いていたが、 そちらを向く気になれずに枕に顔を押し付ける。
(だれと、間違えたんだろう?)
 思い浮かぶのは、たったひとり。彼の元許婚、リアーヌ・カラナス公女。たまに植物園で見かけた、飴色髪の綺麗な女性だ。 穏やかで控えめで賢く、見るからに貴族のご令嬢とわかる品のある物腰。気難しい表情ばかりの黒髪の公子の傍に立てば、 これほどお似合いのふたりもいないだろう。きっと何かわけがあって婚約を解消したに違いない、未だに仲が良いと噂さるのだから。
 ぐるぐるとそんなことを考えていながらも、居心地の良い寝台のおかげで、 健康なデュシアンはそのまま眠りの世界へと引きずり込まれていった。


(2009/8/25)

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