墓と薔薇

9章 偽られた心(5)

 結局、アスティーヌと一緒に置いておけば話どころか廊下からも進まないと判断したのか、 ウェイリード公子は無言でベアトリーチェ公女の腕を取り、強制的に連れて行こうとした。 デュシアンにしがみ付いて連行を免れようともがく彼女だったが、 最終的には従兄の有無を言わさぬ独特の雰囲気に屈したのか、悪態をつきながら去っていく。
 ベアトリーチェ公女とは話せるようになって間もなかったので、引っ張られていく彼女を残念に思いながらデュシアンは見送った。 しかし背後のアスティーヌが殊更大きな溜息を吐いて『これで厄介者がいなくなりましたわね』と苦々しく呟いたので、 とりあえず今日のところはこれで良いのだと悟った。
 途端に機嫌のよくなったアスティーヌと連れ立って、 城の南に位置する応接室(サロン)へと入室した。 緑豊かな裏庭が見渡せる大きな窓からは日差しがたっぷりと差し込み、 光を強く反射しない柔らかな象牙色の壁と臙脂色の絨毯とが入室者の目を優しく守ってくれている。 全体的に落ち着いた色調でまとめられた室内は緊張感を和らげ、寛ぎを重視した雰囲気となっていた。
 向き合うように革張りの長椅子に座れば、いつのまにか現れた侍女が茶を淹れ、 手触りの良さそうな制服の裾を僅かに揺らしながら音もなく下がっていった。
「それで、デュシアン」
 卒のない侍女の動きに目を奪われているデュシアンの注意を引くように、アスティーヌはテーブル越しに身を乗り出してきた。
「ウェイリード公子とは、どうやって仲良くなったのです?」
 その話題に戻るとは思わなかったデュシアンは、一瞬からだを固まらせ、そしてすぐにも首を思い切り振った。 現在この応接室に二人きりとはいえ、彼の公子の居城でそのような語弊のある話題は避けたかったのだ。
「べつに仲良くなったわけじゃあ、ないよ」
 必死に否定する自分に対し、僅かに落ち込む。ここで肯定できないことが何故か悲しかった。
「あら、公子のことを『カッコいい』と言ってみるべき仲なのでしょう?」
「そ、それは誤解だよ。少し話せるようになっただけで……」
「そうなの?」
 どこか納得がいかないようにアスティーヌは眉を寄せ、こちらを観察するようにじっと見つめてから、何か思い立ったのか微笑んだ。
「でも、素敵だと思うのは確かなのでしょう?」
「え?」
「どうなんですの?」
 強く問われて、デュシアンはもう一度頭の中で整理し直した。
 先ほどの白い軍服姿は不意打ちであったことからまじまじと眺めてしまったが、ベアトリーチェ公女が『カッコいいでしょう?』 と尋ねてきた時に、まさにその言葉こそ自分が表現したかった言葉なのだと気づかされて、つい頷いたのだが。
(でも、普段の黒い礼服姿も似合ってるよね)
 またラレンシアへの道すがらに着用していた、護衛を装った簡素な服でも彼の魅力は褪せなかった。ということは服装如何に関わらず、 あの黒髪灰目の公子を『カッコいい』と自分は思っているいうことになる。そう認めてしまえば急激に恥ずかしさを覚え、 熱を持つ頬を隠すように手を当てた。恐らく赤いに違いないからだ。
(なんでわたし、こんなに反応してるんだろう?)
 他の誰か――例えば『ダリル将軍はカッコいいか』と聞かれてその容姿を思い浮かべれば、深く納得した上で『かっこいい』と思える。 けれども、それだけなのだ。彼の公子を思い描いて感じる熱はない。そんな自分を不思議に思う。
「わたくしは、応援致しますわよ」
 何も応えていないのにアスティーヌは心得たように頷くので、デュシアンは自分の考えから抜け出して、彼女へ視線を向けた。
「なにが?」
「見たところウェイリード公子の方も貴女を気に掛けているようですしね。脈はありますわね」
「え?」
 ただならぬ方向に誤解をされていると気づくも、口を挟む間もなくアスティーヌは捲くし立てるように続けた。
「いいこと、デュシアン。公爵の護衛だからといって、精鋭騎士を四人も付けるなんて、そもそも前代未聞なことですのよ。 貴女はご存知かどうか知りませんが、アイゼン家の騎士は質が良いのです。その中でも選りすぐりの精鋭騎士は別格。 クロイツベルクには十数名しかおりませんのよ。その彼らを四人も動かしたのです」
「そうなんだ。……でも、公子はわたしのことを父様から頼まれているから」
 だからそれだけ優遇してくれている――それは解りきったこと。デュシアンはちくちくと痛む胸元に手を触れた。
「アデル様が公子に? ああ、そうでしたわね。確かアデル様はあの双子の公子たちに魔法の手ほどきを為さった方ですものね」
「そうなの?」
 初めて知った事実にデュシアンは顔をあげた。
「あら、聞いていないの?」
「公子は父様のことを『恩師のような方』って曖昧な感じで言うから」
「まあ、変な表現だこと。尋ねてみたら宜しいのではなくて?」
「うん」
 どんな関係なのだと詳しく尋ねなかった自分も悪いのだろうが、魔法の手ほどきをしたのならば『師』 と一言でまとめても差しさわりのないはずだった。それをわざわざ暈すのは、何か事情があるのだろうか。
(ウェイリード公子って、なんか色々事情が複雑なんだな)
 だからだろうか。彼の周りには薄い膜が張られているようで、どこか近寄り難い。本人の性格もあるのだろうが、 踏み込むのを躊躇ってしまう。少しは近づけたかなと思ったそばから距離を感じてしまったり。それでも、 自分たちは知人以上の関係にはなっているのではないかと期待はしていた。
「それで、公子はアデル様から頼まれているから、貴女を見守っているというの?」
 他者から改めてそう尋ねられると、どうしてか頷くのを躊躇いたくなってしまった。 そんな自分に驚きながらもデュシアンは慌てて首を縦に振った。
「公子は父様の遺言に縛られてるの。律儀な方だし」
「あの方のことです、完璧に守って下さいそうですわね」
 アスティーヌの掛け値なしの信頼に、デュシアンは自然と笑顔になった。自分が褒められたわけでもないのに、 彼の公子のことを『完璧に』と表現されたのが嬉しく誇らしかったのだ。
 こちらの嬉しさが移ったのか、アスティーヌもにこにこと微笑んでおり、ふたりでしばらく笑いあった。
「でも」
 同じ呼吸で紅茶を口に含んだ後、デュシアンは僅かに肩をさげた。
「そのせいで、たくさん迷惑かけちゃって。だから、もう助力は必要ありませんって伝えたんだけど」
「まあ、可愛くない!」
 アスティーヌは鼻白み、眉を寄せた。
「そうかもしれないけど、たくさん迷惑かけたから。これ以上、迷惑を掛けたくなかったの」
「そうしたら公子は何と?」
「なんか、機嫌悪くなっちゃって。ラシェがいるなら自分は必要ないのか、みたいな感じで」
 ラシェを引き合いに出したのが、彼の矜持を傷つけたのかもしれない。しかし、 普通ならばお守りから解放されて喜ぶとろこではないのだろうかと首を捻る。つくづく律儀な人だと思う。
「……嫉妬?」
 口元に手を当てて考え込んでいたアスティーヌが、ぼそりと呟く。その単語に、デュシアンは顔を上げた。
「嫉妬? ……そっか」
 合点がいって、手の平を打ち合わせた。
「公子よりもラシェの方が頼りになるって意味でとられちゃったのかな。だから機嫌を損ねちゃったんだ」
「……まあ」
 呆れたような感嘆に気づかず、デュシアンは一人納得して頷いた。
 アスティーヌは扇を広げて扇ぎながら、『まあ、いいですわ』とぶつぶつ呟いている。しかしまだ眉間の皺は取れてはいない。
「公子は長男ですし、あのカイザー公子とベアトリーチェの面倒をみて育ったのです。人の世話をするのが生き甲斐なのでしょう。 好きにさせておけば宜しいのよ。貴女を見ていると世話をしたくなるのでしょう。分かる気がします」
「でも……」
 実際に大変お世話になったアスティーヌに言われてしまうと、ぐうの音もでない。
「貴女の起こす面倒なんて可愛いものでしょうし」
「危うく廃嫡にしちゃうところだったんだよ? 可愛いものじゃないよ」
「それはまた。何をやらかしたんです?」
 驚いたように身を乗り出すアスティーヌは、紅茶色の目を輝かせて話を促してきた。
 楽しいことではないのに――とデュシアンは拗ねて渋りながらも、事の顛末を語った。

 一時ほどいろいろ語り終えて喉が痛くなった頃、デュシアンは忘れていた疑問を口にした。
「里帰りは、一人でなんだね」
 アスティーヌの夫となるエルムドア皇帝の弟君に出会えるのではないかと緊張と期待を少しづつ持ってクロイツベルクに来たのだ。 拍子抜け、とは思わないが、残念に思う。それでも出発前にラシェが『来るはずない』と言っていたので、予想はしていたのだが。
「……ええ」
 話が己のこととなると途端に歯切れが悪くなり表情を曇らせたアスティーヌに、 デュシアンはアスティーヌが政略結婚であったことを思い出した。相手は父君であるホルクス伯爵が惚れ抜いた隣国の皇帝弟。 アスティーヌ自身も、嫁ぐことに全く迷いのない方だと言っていた。そもそも政略結婚は貴族の娘ならば受け入れざるを得ないことで、 その中でも最高の男性を見つけてくれた、と二年前のアスティーヌは寧ろ喜んでいた。それでも、 実際に共に暮らすようになればいろいろと思うところがあるのかもしれない。
 それに、現皇帝の治世は平静ではあるものの、十年ほど前まで荒れていた国内外において全ての禊が済んでいるわけではないという。 特に軍部の解体縮小と属国の併合問題などにはまだ若干の問題を抱えているそうで、そのことで皇帝と大公―― アスティーヌの夫君は近年、意見を対立させているらしい。アスティーヌはその大公の妃ということで、難しい立場にあるのだ。 もしかすれば、それをひと時でも忘れる為にこちらへ里帰りしたのかもしれないと考え、話を変えようと、 デュシアンは不意に思い出したことを口にした。
「そういえば、この間久しぶりに《サレイン先生》を見かけたよ。相変わらず、ちょっと怖かった」
 名を口にした途端、アスティーヌは目を見開いた。心なしか表情も青ざめる。 この話題もよくなかったのかとデュシアンは己の失敗に戸惑った。
 アスティーヌはあの恐ろしいほど冷たい態度のサレイン・ヴァルテールを大変慕っていた。 彼がアスティーヌの家庭教師であったのは彼女が十歳前後の時で、 円卓騎士団で分析官職に就いてからも頻繁にホルクス伯爵邸に出入りして話相手を勤めていたらしい。 年の離れた兄として彼を慕うアスティーヌの姿は、親鳥の後を追う雛のようで、とても微笑ましかった。 そしてサレイン・ヴァルテール自身も、彼女を邪険にすることはなかった。だからこそ話題として選んだのだが。
「先生は、お元気そうでしたか?」
「うん」
「そう、ですか」
 微笑むアスティーヌの表情はどこか陰りがあり、儚いものだった。喜怒哀楽を激しく表現する彼女であるので、 このように何かを抑えるような姿にデュシアンは驚きを隠せなかった。
「先生は遠縁、だったよね? ここに呼ばなかったの?」
「……ええ。お仕事もお忙しいでしょうし、いくら教師と生徒だったとしても、奥様がいらっしゃる手前、申し訳ないでしょう?」
「結婚、されてたんだ」
 とても所帯持ちには見えない怜悧な表情を思い出し、意外に感じた。『生涯、妻はもたぬ』と顔に書いてありそうな、 人を突っぱねた風貌を思い出し、首を傾げる。あの人に結婚を踏み切らせた女性は、さぞアスティーヌの如くたおやかで意思も我も強く、 口の上手い積極的な女性に違いないと思う。
「一年ほど前に、お仕事でエルムドアにいらしたの。その時に『結婚する』と仰ってました」
 アスティーヌは微笑んでいるつもりかもしれないが、それは失敗していた。細まる目の端が僅かに潤み、目元は赤くなっていた。 必死になってあげようとする唇が微かに震えている。
 どうしたのかと尋ねようとすれば、まるで計ったかのようなノックの音に、阻まれた。
「失礼致します」
 アスティーヌが了承すると、先ほど茶を淹れてくれた侍女が入室してこうべを垂れた。
「ホルクス伯爵様がご到着なさいました」
「わかりました。ありがとう」
 退室する侍女の背が消えてから、アスティーヌは自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。
「お父様がお着きになったら貴女とお話する時間がなくなると思って、 貴女を先に到着させて下さるようウェイリード公子にお願いしたのです」
 実の親子よりも先に会っても良かったのだろうか。デュシアンは困惑する。
「わたくし明日の正午にはこちらを発たなければならないの。その前に、お父様の目を掻い潜ってもう一度、会いにきますわ」
 扇をパチリと閉じて立ち上がったアスティーヌには、先ほどの動揺の欠片も感じられなかった。背筋を伸ばし、 凛として真っ直ぐ前を向き、まるで決戦にでも挑むかのようだ。
「それと、お父様が貴女に会わなくて済むようにウェイリード公子に頼んでありますからね」
「それは……」
 顔を合わせれば嫌味ばかりの伯爵とは、できれば会いたくはない。アスティーヌの心遣いは願っても無いことだが、 本当に良いのだろうかと悩む。
「いいのです、気にしなくても。もともとわたくしがここへ来ること自体が極秘事項なのですから」
 にっこりと微笑んで退室するアスティーヌを見送りながら、デュシアンは言い表せない不安を胸に抱えた。


 アスティーヌが退室してすぐにもサロンへ現れたのはベアトリーチェ公女だった。
「ラヴィン公に良いものあげる」
 だから付いて来てね。にっこりと無邪気に笑う様子は、女性であるデュシアンから見ても可愛らしいものだった。
 有無を言わさぬ力で腕を引っ張ってくるベアトリーチェ公女に連れて行かれたのは城の西部、尖塔にある図書室だった。 一族用の書庫という事で全くの無人。大切な文書が保存されているわけではないそうで、デュシアンも易々と通された。
 棚に当たらない程度の日差しが入る窓辺へデュシアンを座らせると、ベアトリーチェ公女は鼻唄を歌いながら円形棚を物色し始めた。 手持ち無沙汰なデュシアンは、仕方がないので開け放たれた窓から茜色に染まる空を静かに見上げた。
「シーンがべらべら喋ってたんだけどさ」
「シーン、さん?」
 話し掛けられ、そちらを振り返る。ベアトリーチェ公女は本の背表紙から目を逸らさず続けた。
「円卓騎士で一番ガラの悪い男。品行方正なグリフィスとよく一緒に行動してるから余計に際立つんだよね。 一緒にいなきゃいいのにさ」
 デュシアンが出会う限りではグリフィス・クローファーはほぼ単独行動で、隣りに誰かがいるのを見かけたことはない。 しかし《ガラの悪い円卓騎士》と聞いて思い当たる節があった。ティアレルの執務室へ案内してくれた従騎士ユーリの首を絞めた騎士が、 確かそのような名前で呼ばれていた気がするのだ。
「そのシーンがさ、『ラヴィン公は戦いの基礎がなっちゃいない』って言ってたんだけど」
「ええ、と。はい」
 なぜそれを知っているのだろうかと、僅かに首を傾げた。 すぐに思い出せるのはウォーラズール山脈で獣型の大きな魔物に襲われた時のことだ。
「ほら、ブラウアー子爵に襲われた時にぜんぜん戦えなかったんでしょ」
「あ、はい」
 思い出し、軽く身震いした。首元もそうだが、あの大きな赤い炎は思い出すだけでもやはり気分が悪くなる。 十年前に母ごと家を燃やされた場面を思い出すからだ。ただし、あの炎の勢いを増加させたのは己の魔力だと、 思い出す度に自戒する。
「なんかすごい大きい炎だったって聞いたけど、慣れてないとそりゃ無理だよね」
 勝気で、やや攻撃的だと思っていた彼女から理解ある言葉を貰うとは思わなくて、デュシアンは僅かに目を見開いた。
「実はあたしも火の魔法って駄目なんだよねー。カイザーが聖獣に背中燃やされたの思い出しちゃうからさ。 それでね、あ、あったあった!」
 目当ての本が見つかったのか、ベアトリーチェ公女は棚から引き抜いた本を持ってデュシアンの傍に戻ってくると、差し出してきた。
「これ」
 黒い羊皮紙に金字で文様が刻まれた表紙を見た瞬間、身体中の血が引いて、眩暈を覚えた。僅かな記憶であっても、 この表紙だけは覚えている。ララドで最初に買われた魔道師によって、読むことを強要された本なのだ。 あの茹だるような熱い室内を思い出し、指先が震えた。
「あたしが読んだ中じゃあこれが一番分かりやすい本だったよ。だからラヴィン公にあげる。これね、 ウェイが留学先から持って返ってきたんだ」
「留学……」
 ウェイリード公子がララドへ留学していた時期があったとは先ほども聞いた。
 学術の為にララドへ留学していた公子と、ララドで奴隷として売られ働かされていた自分。今は同じ公爵家の人間であっても、 ララドに居た時ではあまりに立場が違う。その不条理さに胸が痛む。公子は何も悪くないと理解しているのに、 身勝手と分かっていながらも、『なぜ』と責めたい気持ちが膨れ上がる。
「これってララドで使われてる一般的な魔法の入門書なんだって。解かりやすいから、あっちでも子どもに大人気みたいだよ」
「……そうですか」
 表情も声も硬くなってしまう。これではいけないと思いながらも、どうしても取り繕えなかった。
「あれ、ラヴィン公もララド嫌いなの?」
「え?」
 他に誰がララドを嫌っているのか気になり、顔をあげた。
「アデル先生もララドが大嫌いだったみたいだよね。合法的にララドを壊滅させる方法はないかな、って凄いこと話しての聞いたことあるし。 あのダグラス将軍がめちゃめちゃ怒って止めてたから余計に本気っぽく思えたよ」
 ベアトリーチェ公女は当時のことを思い出しているのか、顎に手を当てて眉間に皺を寄せていた。
「それに、ウェイがララドへ行くって言ったら物凄い反対してたし。知ってる? ウェイってばアデル先生に破門されたんだよ」
「破門?」
 書庫だというのについ声を張り上げてしまい、慌てて口を手で塞いで辺りを見回した。しかし、 そういえばここは無人だったと思い出して手を離す。
「ララドに出立する前に、アデル先生から『もう師でも弟子でもない』って感じに言われたみたい。 ウェイってば先生のことすごく尊敬してたのに、止めるのを振り切って留学しちゃったんだよね」
 恐らく、自分のことがあって父はララドという国自体を快く思っていなかったのだろう。 己の娘が奴隷となっていた国へ愛弟子が留学するのは気持ちの良いものではなかったはずだ。 自分を深く愛してくれていた父の気持ちが今のデュシアンには手に取るように想像ができた。
「それで、公子と父は和解できたのですか?」
 まさかそれがあったから厄介な遺言を託したのではないだろうかと勘ぐってしまう。父ならばやりかねないと思う。
「もちろん。なんだかんだ言って、帰ってきた直後から普通だったよ。それでもウェイは『先生』って呼ばなくなってたけどね。 アデル先生はそれはそれでちょっと寂しいって言ってた。ウェイなりのケジメだったみたいだけど」
「あの、じゃあ、公子が父を『恩師のような方』と仰るのは――」
「やだ、ラヴィン公にそういう言い方してるんだ。もー、頭堅いんだから」
 ベアトリーチェ公女は仕方ないなとばかりに苦笑した。
「誰が何て言おうとも、ウェイにとってアデル先生は恩師だよ。誰よりも頼りにしてたもん」
 これでやっと、ウェイリード公子のおかしな言葉を理解することができた。デュシアンはどこかほっとして、微笑んだ。
「でもさー。なんていうか、あたしには今いち解からないんだ」
 喋りづらかったのか、ベアトリーチェ公女はデュシアンの前の席に座り、頬杖をついて外を眺めた。
「なんでウェイはララドに留学したいって言い出したのかな、って。あ。あたしがこんな事言ってたって秘密にしてね」
 ちらりとこちらを見やるも、すぐにも外へと視線を戻した。デュシアンは差し込む西日に様相を変える公女の姿をじっと見つめた。
「精神魔法を研究したいって思いは、恩師のアデル先生の制止も振り払うほど強かったのかなって、 今のウェイを見ると考えちゃうんだよね。あの頃は――五年前は、そうだったのかもしれないけど。今は――」
 僅かに口ごもり、しばらくしてから続けた。
「ララドでの研究が評価されて研究室も貰ってるけど、ウェイはもう精神魔法をほとんど研究してないんだよね。 《禁呪の魔女》のアミュレットの研究を手伝う時に使用してるみたいだけど、あとはぜんぜん関係ない事やってるし」
 小さく溜息を吐き、藍色の瞳に西日を写した。
「なんの為に危険を冒してまで、危険人物になってまで、精神魔法を研究しようと思ったのかな……」
 それは独り言のようだった。目の前にデュシアンがいるのも忘れて、複雑な思いに耐えられず、思わず呟いてしまったのかもしれない。 もしくは、聞いてもらいたくて呟いたのかもしれない。それは分からないが。
「ベアトリーチェ公女は、公子のことを心配されているんですね」
 従兄たるウェイリード公子のことで苦心する彼女に、深い共感と好意を持った。兄弟従兄弟は仲が良いほうが嬉しい。デュシアン自身、 今は反抗期とはいえレセンとは上手くやっているとは思うし、ラシェとは昔ほどわだかまりなく仲良くできている。 二人のことが大好きであるし、何かあれば心配する。また、反対も然り――だと思っている。
「当たり前じゃん。ウェイとカイザーはあたしの『兄』なんだから」
「お兄さん?」
 従兄を《兄》と思う気持ちならば分からないわけではないが、ベアトリーチェ公女の言葉にはもっと違う響きが含まれていた。
「あたし、クロイツベルクで育ってないの」
「え?」
「三歳からずーっと、首都。お母様が亡くなってから、アイゼン家で暮らしてるんだよ」
 僅かに首を傾け、ベアトリーチェ公女は苦笑しながら教えてくれた。
「お母様が亡くなったって意味がよくわからなくて、お母様の遺体の傍で、 いつも通りにお母様に話しかけながらままごとしてたんだって」
 それはあまり覚えていないんだ、と公女は肩をすくめた。
「でね、見かねたウェイとカイザーが両側から声を掛けてきたの。『一緒に遊ぼう』って。あの頃はね、 本家のふたりは王子様みたいな存在で、『遊ぼう』って言われてすごく嬉しかった」
 本当に嬉しそうに、恐らく当時も同じ顔をしたのだろう、ベアトリーチェ公女は幼子のように無垢な笑みを浮かべた。
「それでもね、なんとなくお城の雰囲気が変なことに気づいて、お兄様たちもお父様もすごく悲しそうで、 傍にいくとあたしも『悲しい』になりそうで怖かった。だから、ずっと笑顔をくれる双子と叔母様のそばにいた。叔母様はお母様の妹だからそっくりだし、 双子はあたしを楽しませることに命を掛けてる感じで、あたしにお母様がいないと感じさせる余裕を与えないようにしてくれたの」
 ふたりの公子が従妹たる彼女をとても大切にしている理由が分かったような気がした。彼らは未だ、 彼女を悲しみから――すべてから、守っているのだ。
(わたしと同じ)
 父に全力で守られていた自分と同じ。デュシアンはベアトリーチェ公女に共感と、ごく小さな苛立ちを覚えた。
「首都に帰らなくちゃいけなくなった双子と公爵夫妻と一緒に、あたしはクロイツベルクを離れたの。そのままずっと、 今も、あたしは首都のアイゼン家で暮らしてるんだ。こっちには、ウェイかカイザーと一緒じゃないと、『帰ってこれない』の」
 無理やりな笑みを浮かべる公女は、そのまま視線を外に逸らした。
 なんでもないように言いながらも、ベアトリーチェ公女はどこか自分を責めているように感じた。恐らく彼女自身、 《それではいけない》と気づいているのかもしれない。デュシアンは漠然とそう思った。けれども言葉を挟まず、 彼女がもう一度口を開くのを辛抱強く待った。
 日の沈みかけた空の天辺が彼女の瞳と同じ、藍色に染まる頃。
「あたしもさ、ラヴィン公みたいな笑顔でお母様のお墓参りしたいなって思ったんだ」
 唐突に、公女の視線がこちらに戻ってくる。まさか自分の話題になるとは思わなくて、デュシアンは驚いて目を見張った。
「ラレンシアにね、一緒に行って良かったよ。ありがと、ラヴィン公」
 それが言いたかったんだ――ベアトリーチェ公女は懸命に笑って、泣きそうになるのを堪えていた。デュシアンは気づかないふりをして、 一緒に微笑んだ。父に守られていた自分と重ねた彼女に感じた僅かな苛立ちは、どこかへ掻き消えた。


(2009/08/25)

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