親愛なるデュシアン様
お手紙をありがとうございました。実は、貴女の手で書かれたものが届く日を心待ちにしておりましたのよ。
貴女が本当の意味で元気を取り戻してくださったのだと分かって、安心致しました。でも、
できるならば貴女の傍でともに悲しみを分かち合い、その心をお支えしたかった。
エルムドアに嫁いだわが身をこれほど恨んだことはありません。
それに、貴女が爵位を継いだと聞いて私はもう心配でカモミールのお茶がなくては眠れない日が続きましたのよ。
貴女はたまに突拍子もないことをなさる方だとは存じておりましたが、
まさかお父上君のあとを継がれるとは思いもよりませんでした。きっと弟君の為なのでしょうが、
貴女の選択が貴女を苦しめないことを祈るばかりです。また、神殿や宮殿に巣食う闇に囚われないことを願います。
貴女はいつまでも貴女らしくいて欲しいという老婆心をご理解下さいませね。
(老婆といっても、わたくしだって嫁いだとはいえ、まだまだ若いのですからね!)
(略)
ところで、急遽決定したことなのですが、内密に里帰りすることになりました。残念ながら日数の関係や立場上、
首都まで帰るのは難しく、国境近くのクロイツベルク城に滞在することになります。つきましては、
どうかお顔を見せに来てくださいませんか?
急に決まったことなので(本当に昨日の今日なのよ!)、貴女にこの手紙が届く頃には帝都を出発しております。
貴女がいつ訪れても良いよう、クロイツベルクの城主にはこちらから伝えておきます。ですので、
お返事はクロイツベルクの城主宛にお願いしますね。私の滞在日数がいつ変化するかわからないので、
お迎えの馬車を出して頂きます。少し乱暴なお話だとは思いますが、この時期はまだ議会もお休みで大丈夫ですよね?
議会の日程に関してはお父様と同じだと思うので。他の公務は、大丈夫かしら?
この期を逃すと次にいつお会いできるか解からないので、ぜひお顔を見せて下さいませ。
追伸:
頂いたお手紙ですが、最後の名前の部分は気を抜きすぎです。全く違うことを考えていたのでしょう?
その光景が目に浮かびます。貴女は詰めが甘い。でも、そんな貴女を愛しく思っております。
ですので、貴女まで《アスティーヌ様》とか《妃殿下》とか他人行儀な敬称で呼ばないで下さいね。
貴女の大親友のアスティーヌより
六百年前、相次ぐ反乱や頻発する盗賊被害により荒れ果てていたカーリア周辺諸国を常勝騎士団を率いて鎮圧して周り、
カーリア建国の礎を築いたと伝えられているのが、小都市クロイツベルクを拠点とするアイゼン家の祖ヴィクトール・アイゼンだった。
その目覚しい武勇にて栄誉と名声、信頼を勝ち得たヴィクトールには最高位の公爵位が与えられ、
彼の一族は国境を接する帝国とは名ばかりのエルムドア騎馬民を抑える役目を建国当初から負うこととなった。
また、ヴィクトールは武勇に優れていただけでなく、人格者としても広く名が知られていた。
国境沿いという場所柄なのかアイゼン家の領地にはカーリア民族とエルムドア騎馬民の混血児が多く、
当時は混血を疎む風習があった為に混血児は周辺諸国では蔑視される傾向にあった。しかしヴィクトールはそんな混血児たちに、
己の血を受け入れ両親や出自を誇るよう広く鼓舞して回った。それが、堅実で誇り高く、己の祖や故郷を愛する領民性を生み出したといわれている。
アイゼン騎士団が常勝であったのも、
ヴィクトールの血を引く指導者たちの統率力やカリスマ性も
然ることながら、
故郷を愛する騎士たち一人ひとりの誇り高い性質に
因るものなのだという。
(誇り高い騎士、か)
間近でその人となりを知るようになったアイゼン家の長子を思い出し、デュシアンはふと頬を緩めた。
まさに彼に相応しい表現だと思う。よく知らない頃は冷たくて意地の悪い人だと思っていたが、とんでもない。
(面倒見がよくて、律儀で、……優しい
男性)
素直に感じたまま彼の青年を思い浮かべた時、ふと心臓の辺りをきゅっと掴まれたような奇妙な感覚に陥った。
それは近頃度々自分に訪れる不思議な現象だった。どうしたことだろうかと深く考えようとした矢先、
窓の向こうに豊かな緑を彩る暖色の花を認め、意識はそちらに奪われた。
「ポピーだ」
街道沿いに広がる美しい天然の花畑。《双子の魔人》の守護によって極寒の冬が存在しないアイゼン家公爵領にて、
野に群生するのは鮮やかな
雛芥子だ。
まるで神の国へと導かれているような、幸せと喜びを運ぶ風景だった。
緩やかな風に揺れる赤と橙の雛芥子に見送られながら、
デュシアンを乗せた箱馬車は蒼い湖を持つ城塞都市クロイツベルクの外門を潜った。
街路沿いに建つ民家の壁は純白。屋根や窓枠、扉や露台は黒に近いぐらいの藍色で統一されており、
橙で統一された首都の住宅街よりもずっと堅く冷たい印象を受ける。それに加え、
ところどころの露台からは深い藍色地に浮かぶ双頭の鷲の旗が垂れ下がっており、厳かな景観に拍車をかけていた。
しかしそこかしこに植えられた街路樹は桃や梨など実のなる木で、街の雰囲気にそぐわずとも可愛らしい花を咲かせている。
石畳の
轍に揺れる馬車を追いかけて手を振る元気な子どもたちに気づき、
デュシアンは辺りを詮索するのを一時中断して手を振り替えした。
アイゼン家の紋章が施された馬車に躊躇いもなく近づいて無邪気に手を振る子どもたちの表情を見る限り、
景観から窺える物々しさと人々の暮らしぶりとは関係性がないのだと、なぜか嬉しさを覚えた。
そうしているうちに、外門を潜るまでは湖と共に遠くに見えていた薄灰色の城が眼前に迫っており、
ふと、昨日読んだ本の一説をデュシアンは思い出した。
(遠い昔まで遡ると、公子とわたしって血が繋がってることになるんだよね)
カーリア首脳部はアイゼン家に新興国での爵位と土地の自治権を与えるだけでは手ぬるいと思ったのか、
エルムドア騎馬民と手を組まぬよう、ラヴィン家の一人娘をヴィクトールの長男へと嫁がせた。彼女が産んだ子どもたちにそれぞれラヴィン家、
アイゼン家を継がせることで、女神アリューシャラから守護を託されたラヴィン家の血を二つに分断したのだ。
それまではずっとラヴィン家だけで守り抜いてきた《北の守り》の守護を任せることで、アイゼン家をカーリアに縛りつける強い枷を作り出した。
(神殿からお城になっただけ……か)
ラシェが言うには、ラヴィン家は代々、子を神殿に人質として奪われ、徹底的な管理の元で婚姻が取り決められていたという。
アイゼン家へと嫁に出された彼女も幽閉先が神殿から城になっただけだとラシェは言い張った。それでも、
彼女が嫁いで以降はそんな非人道的な幽閉も婚姻管理もなくなり、
ラヴィン家を継いだ彼女の長男は公爵として尊重されるようになったとそうだ。生家であるアイゼン家の働きもあったのだろうが、
ヴィクトールと懇意にしていた元法皇の初代国王聖アレクシスの提言もあったと言われているらしい。
(でも、《彼女》にとっては政略結婚だったんだよね……。幸せ、だったのかな)
幼い頃から両親と離され神殿の奥にて育ったラヴィン家の娘は結婚することになって初めて外界を知り、
こうして馬車に乗ってクロイツベルクの城へとやってきたのだろう。何もかもが初めてで結婚する為に外へ出されて、
どんな思いでこのお城を見上げたのだろうか。デュシアンは痛ましい思いで深い息を吐き、古い祖へと思いを馳せた。
緩やかになった馬車の速度から、そろそろ止まる頃合なのだと知らされた。さすがはアイゼン家の馬車。
身構える必要もなく穏やかに停止した。扉を開けようかと逡巡している間に思い切りよく扉が開き、
眩しい日差しと芳しい花の香りが飛び込んできた。
「ようこそ、アイゼン公爵領に!」
「ベアトリーチェ公女!」
馬車の扉を開けて歓待してくれたのは、苛烈な赤薔薇ベアトリーチェ・ブランシール公女だった。
そよ風に揺れるぬばたまの黒髪はいつもと違って低い位置で纏められ、白い生花が品良く挿されている。
襟元に赤いリボンを結んだ真白いブラウスと踝まで隠れる裾の長いスカート姿は首都で見かける姿よりもずっと淑女らしい。
まさに正真正銘、一城の姫君だ。
それなのに彼女は背後に控える騎士たちに命じるわけでもなく、気軽な仕草で手を伸ばしてきた。お嬢様の装いの彼女が、
貴公子風礼服を着たデュシアンの手を取って引っ張り出すその光景は、どこかちぐはぐな印象を与えることだろう。
「こんにちは、お世話になります」
久しぶりに地面に降り立ったデュシアンは、少しよろけながらもベアトリーチェ公女に向けて頭を下げた。
「ひとりで馬車に乗って暇だったでしょ。本当はあたしが馬車で迎えに行きたかったんだけどさ、駄目って怒られたんだよねー」
小首を傾げて肩をすくめ、吊りあがりぎみな大きな瞳を細めて可愛らしく笑う。その仕草や口調には、
傍流とはいえ大貴族の姫君然とした取り澄ましたところが全くない。多少強引なところは否めないが、
悪気もなく自分の欲望のまま素直に突き進む姿はデュシアンにとって親しみやすく、また周囲の反応を恐れることのない強さが羨ましく映った。
「良かった、ラヴィン公が来てくれて。ウェイは遊んでくれないしカイザーは一緒に来なかったしで、暇だったんだ。
あたしが首都に帰るまで居てよね」
正面から伸ばされる両手に腕を取られ、お願いするように可愛らしく上目遣いで覗き込まれても、デュシアンは残念なことに首を横に振るしかなかった。
「そうしたいのはやまやまですが、申し訳ありません」
「ええー」
ベアトリーチェは不満そうに眉を寄せて唇を尖らせたが、デュシアンの意思は変わらなかった。
先日ラレンシアへ出掛けて首都を空けたばかりなのだ、ラシェのことを考えればそうそう出掛けてばかりもいられなかった。本来ならば、
彼もエルムドア方面の遺跡へと調査に戻りたい時期のはずなのに、未だ首都に居てくれている。
己のみがのうのうと気分転換のように外出ばかりもしていられなかった。
それに、国王陛下への謁見のこともある。とりあえずは時間を置いてみるにしても、そろそろ返事を貰いたいところなのだ。
しばらくするとベアトリーチェも気持ちを切り替えたのか、明るさを取り戻したように表情を輝かせた。
「まあ、いいや。二、三日は居るんでしょ? とりあえず、城を案内してあげるよ!」
「はい。ですが、まず城主の方にご挨拶させて下さい」
黙っていれば気ままな彼女の調子に引きずられてしまう。礼儀を通す為にと慌てて主張すれば、ベアトリーチェは目を丸くさせて小首を傾げた。
「城主って、今はこっちに帰ってきてるからウェイだよ」
「そうなのですか」
城主という言葉とウェイリード公子とを結び合わせれば、いけない想像が膨らむ。
(城主の、公子)
謁見の間の豪華な椅子に気だるげに足を組んで腰かける漆黒の青年。宵闇に包まれた室内に映える、窓の向こうの怪しげな赤い満月。
肩に止まる蝙蝠と膝元の黒猫。妖しく煌めく冷淡な灰の瞳。何事にも興味の薄い、酷薄ながらも魅惑的な口元。
まるで物語の吸血鬼のような佇まいを思い浮かべて、つい苦笑が漏れる。やはりどう想像しようにも、太陽の下の健全な王子様像には行き着かないし、
恐らく――失礼ながら、似合わないことだろう。
「今ウェイのこと、変な想像したでしょ、闇夜の城の魔王みたいな感じで。口元がひくひくしてるし」
「し、してないです」
詰問するようにじっと見つめてくる猫目から視線を逸らし、首を素早く横に振る。
「目が泳いでるし。ウェイに言いつけてやろー」
「公女っ」
情けなくも表情を歪めれば、ベアトリーチェは楽しげにころころと笑い声をあげた。
「じょーだんだよ、冗談。あたしも想像できるし、黒ばっかり着てるウェイも悪いし。……でもさ、ウェイの中身がそんな魔王みたいな人間じゃないって、
ラヴィン公はちゃんと知ってるでしょ?」
「それはもちろん。公子はとても親切で――」
ウェイリード公子の人となりを自分なりに語ろうとすれば、不意に鼓動が早くなり、頬が熱くなった。彼の公子のことを先程も表現したはずなのに、
僅かに戸惑う。
「――優しい方だと思います」
口に出してから気づく。優しいなんて表現では本当は足りない、と。
けれども、自分が見知った彼をそれ以上に適切な言葉で表現することができなかったのだ。
(優しい人なんて、たくさんいる)
その枠組みに彼も一緒くたにしてしまうことに躊躇いを覚えた。それがどうしてなのか、デュシアンは自分でも分からなかった。
「よしよし。分かってるじゃん」
ベアトリーチェ公女は自分のことのように嬉しそうに笑うので、深く考えるのを止めた。
「それで、ウェイでも挨拶必要なの? いらなくない?」
「お世話になりますので。馬車のお礼もお伝えしたいですし」
顔を合わせることには、緊張があった。
実は船を下りてから今日まで十日ほど経ったが、ウェイリード公子には一度も会っていなかった。本来ならば、
公子が公爵領へ帰還する前に亡き父が彼に預けた書類を返して貰う為に会えるはずだった。しかしその書類もラシェを通して手元に戻ってきている。
船上でのやり取りが尾を引いているのかもしれないと思うと、胸の奥が締め付けられるように酷く痛んだ。泣きたい気持ちにすらなった。
けれども、たとえ露骨に厭な顔をされても会いたいと思った。滞在の挨拶やら馬車のお礼やらを述べるのではなくて、ただ――彼に会いたいのだ。
(わたし、公子に会いたいんだ)
すとん、とその思いが当然であるように胸に収まった。あまりにしっくりくるので驚き、胸に手を当てる。
「しょうがないなあ、じゃあまずウェイがいる部屋に案内するよ」
つまらなそうに溜息を吐いたベアトリーチェ公女に急に袖口を掴まれて、デュシアンは顔を上げた。
そのまま引っ張られるようにして歩き出し、考えるのをやめた。
城内に入ってしまえば、どうやら彼女の護衛の騎士たちはお役御免となったようで、二人きりとなる。それもそのはず、
護衛がおらずとも軍服姿の騎士たちがやたらと廊下を行き来しているのだ。彼らは一様に礼儀正しく挨拶をしていく。
純白の軍服をまとった騎士たちの明朗で清廉な姿が目に眩しい。
「なんだか、騎士の方が多いですね」
「全部が職業騎士じゃないよ。騎士の叙勲を受けてる文官も多いから。っていうより、公爵領全体的に、兼業騎士が多いんだけどね」
「兼業騎士?」
「普段は騎士とは全く別の仕事してて、何かあると騎士としてクロイツベルクとかに出仕が許されてる人のこと。準騎士って感じ?」
「そういう方もいらっしゃるんですね」
ためになるなぁと大きく頷いた。
「土地柄ね、そうせざるを得ないんだよねー。エルムドア方面から魔物はよくやって来るし、
ハイメルは未だにちょっと
諍いが絶えないし」
「ハイメル……え、と、確か鉄鉱資源が豊富な?」
「お、よく知ってるじゃん」
「昨日ラシェに聞いたんです」
そう答えれば、ベアトリーチェは物凄い厭そうに顔を顰め、足を止めて手を伸ばすとデュシアンの両頬を横に軽く引っ張った。
「あたしの前であの冷血男の話はしないで」
「……ふぁい」
解放された頬を摩り、『なぜ自分の頬はこうも人に引っ張られてしまうのだろうか』と真剣に悩みながら、
とりあえず話を変えようとまた騎士の話に戻した。
「ところで、もしかして束帯の色に意味がありますか?」
黒に近い濃紺の束帯を
靡かせる騎士が一人、僅かな目礼と共に風のように通り抜けていく。
馬車の護衛をしてくれた騎士たちと同じ色合いだが、城内に入ってからは初めてすれ違った色だった。
「色が濃いほど位の高い騎士なんだよ。一番濃いのは城主一族の深い藍色だけどね。藍色といえば、建物とか旗とかも藍色ばっかでしょ。
あれってヴィクトールの、愛情という名の執念の賜物なんだよ。奥方様の目の色が藍色だったんだってさ」
「とても仲が宜しかったと本で読みました。え、と奥方様は確かユーリエ、でしたっけ?」
「あ! ここではヴィクトールは呼び捨てでもいいけど、ユーリエ様は『様付け』で呼んでよね。ヴィクトールが祟るから!
今日の終わりに悪いことが起きるよ!」
ベアトリーチェは両の口端を引き上げて、にたにたと怪しく笑った。
面白い冗談だなと思いつつ、デュシアンはじっと彼女の瞳を見つめた。
「藍色はベアトリーチェ公女やカイザー公子の目の色と同じですね」
「そうだよ。五年前まではウェイもそーだったけどね」
「え?」
つい足を止めてしまう。ベアトリーチェも数歩先で振り返った。
「最近まで顔合わせたこと殆どなかったから知らないのも当然かなぁ。あたしもラヴィン公の顔、ちゃんと真正面から見たのって、ウェイの研究室でだし」
覚えてる? と小首を傾げられ、頷いた。部屋主のウェイリード公子は不在で、その代わりにいたのが双子の弟君のカイザー公子と彼女だった。
本当に、つい最近の出来事だった。
「あの、どうして目の色が?」
「ララド留学中に精霊と契約してね、あの目の色になっちゃったんだって。あんまり詳しいことは話してくれないけど。
カーリアに帰ってきた時はびっくりしたんだから。カイザーは拗ねるし、危険人物認定されちゃうし」
「そう、だったんですか」
あの不思議な色の瞳は生まれ持ったものではなかったのか。残念なような、当然のような、複雑な心中だった。
それと同時に、何か引っかかりを覚えた。
(なんだろう、何かあったような……)
大切なことを忘れているような気がした。いや、忘れているというよりも、勘違いをしているような。記憶の海に潜りながら、
考え込んだ。
「それよりもさぁ、ラヴィン公ってば、ほんとーにアスティーヌに会いにきたの?」
ベアトリーチェの暢気な質問に思考を奪われ、デュシアンは頷いた。
「はい、そうですけど」
「ラヴィン公ってば、あの《猪女》と話しが合うわけ?」
「いのしし?」
「まあ! わたくしが猪ならば、貴女はさしずめ猿ってところでしょうね」
声の主は前方、ベアトリーチェの背の向こうからやってきた。口元をレースに縁取られた扇子で隠し、
露わにした眉間にくっきりと皺を寄せている。紅茶色の真っ直ぐな髪が印象深い、
気位の高そうな美姫。二年前と変わらぬ容貌に、デュシアンは声を上げて喜んだ。
「アスティーヌ!」
「デュシアン!」
駆け寄って互いの手を取り合う。しかし帝国皇帝弟の妃となった彼女にそれはあまりに無礼だったと慌てて引き下がろうとするデュシアンに、
アスティーヌの手が力強く止めた。
「お久しぶり、デュシアン。来てくれて本当にありがとう」
涙ぐみながらも瞳に慈愛を湛えてこちらを見つめるアスティーヌに、デュシアンの脳裏にはこの数ヶ月自分に取り巻いた出来事が駆け抜けて、
不意に縋りついてしまいそうになった。それでも深い息を吐いて心を落ち着かせて微笑めば、アスティーヌはやや驚きながらも満面の笑みを浮かべてくれた。
言葉はいらなかった。
「それにしてもデュシアン。その格好、それに髪の毛!」
気をとり直したのかアスティーヌは手を離すと、やや距離をとって目を皿のようにし、デュシアンを隅々まで観察した。
「噂は本当だったのですね、自分の
御髪をばっさりと切ったなんて。
どこかの陰険な伯爵の髪も一緒にばっさりと切り捨ててしまったという噂も本当ですの?」
「ラヴィン公ってば、ベルガー伯爵にそんな事したの?」
ベアトリーチェが後ろで激しく笑っている。
「ま、まさか!」
「わたくし、貴女がそんなことをするはずはないと信じて、貴女の髪をいじる為に最高級の豚毛を使用したブラシを持参しましたのに!
嘆かわしいですわ、悲しいですわ!」
手に持つ扇子を真っ二つに折らん勢いで両手で握っているので、デュシアンはそわそわした。
「短い髪、可愛いじゃん」
頭の後ろで手を組んで、つまらなそうにベアトリーチェがそう述べれば、アスティーヌは鋭い眼差しをそちらへ向けた。
「貴女は長い髪のデュシアンを知らないからそう言えるのですわ! それはもう美しい巻き髪でしたし、
レースがたっぷりの桃色のドレスが似合って人形のように可愛らしかったのですから!」
「なにそれ、自分は昔から知ってるっていう自慢?」
「あら、事実ですわよ」
藍色の瞳と紅茶色の瞳がしばらく火花を散らしながら睨み合う。
挟まれたデュシアンは初めてみる二人の《日常茶飯事》に呆気に取られて立ち尽くすことしかできなかった。
「だいたいなんでこんな所を出歩いてるわけ? おとなしくサロンで待ってればいいのに」
ベアトリーチェが大きく足を踏み鳴らした。
「ウェイリード公子から内密にデュシアンの到着を教えて頂きましたの。ぼうっとサロンで待っていることなんてできませんわ」
アスティーヌは胸を大きく逸らして腕を組んだ。
「余計なことを」
舌打ち紛れに呟かれた言葉に、アスティーヌは憤慨したように息を大きく吸い込んだ。
「まあ! デュシアンはわたくしに会いにわざわざこちらまで来てくれたのです、どうして余計な事と仰るのかしら。
公子はとても気の利く方ではなくて?」
再度無言で睨み合う二人に、やっと精神的に状況に追いついたデュシアンは、穏やかならない二人の仲裁を試みた。
「あ、アスティーヌ! ベアトリーチェ公女! 落ち着いてください、え、えと、あの」
「お妃だかなんだか知らないけど、偉そうなのは相変わらず! ああ、地位を手に入れて、更に増長した?」
しかしベアトリーチェはデュシアンには目もくれず、皮肉気に鼻で笑う。
「貴女も成長がないこと!」
アスティーヌも荒く息巻く。
「自分こそ!」
「貴女ほどじゃないわ」
「あんた――」
何か喋ろうとしたベアトリーチェの口が、白い袖口から伸びる大きな手によって遮られた。もごもごと手の中に言葉が消える。
「従妹の無礼な振る舞い、どうぞお許し下さい」
低く響く声に、デュシアンはどきりとした。顔を見なくとも声で誰なのかは分かる。この城の現主だ。
「――まあ、良くってよ」
興奮が収まったのか、アスティーヌはばつが悪そうに赤くなった顔を扇子の向こうへ隠した。これでどうやら二人も休戦らしく、
デュシアンはほっと息を吐いた。
助かったと礼を言おうと救世主たるその手の主を見上げれば、意外な驚きに言葉を失ってしまった。
「どうした?」
灰色の双眸がこちらを捉えて訝しげに見下ろしてくるので、慌てて照れ笑いを浮かべて首を振った。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません」
動揺を隠しながら礼を述べれば、いつもよりも幾分柔らかい表情を浮かべるウェイリード公子と視線が交わった。
不意に胸が高鳴る。
「構わない。どうせビビが君を連れまわしたのだろう。無事に到着しているとの報告は受けている」
船の上での遣り取りを忘れたかのような穏やかな口調に、嬉しさが溢れて自然とデュシアンの口元は綻んだ。
「馬車と護衛の方まで用意して頂いて、ありがとうございました。二日ほど、お世話になります」
「滞在中困ったことがあれば遠慮なく侍女に申し付けるといい。部屋には後ほど案内させる」
「はい」
「私は失礼する。妃殿下、ラヴィン公爵、どうぞごゆるりと」
見る者の目をしっかりと意識している洗練された美しい角度で
頭を垂れたのち、
純白の軍服をまとったウェイリード公子はその場を辞していった。
その背を見送りながら、デュシアンは胸元にそっと手を当てた。会えてこうして言葉を交わせれば、それだけで心が弾む。
《会いたい》との思いは偽りではなかったのだと気づかされる。
「今日は魔王じゃなかったでしょ」
不意に真横からベアトリーチェに覗きこまれ、惚けていた顔をしっかりと見られてしまう。彼女がにやにや笑うもので、
極まりが悪くなって後退りした。
「王子様みたいな格好も、見れたもんでしょ?」
「はい。なんかとても格好良かったです」
素直に思ったままを口にしてから、頬がカッと熱くなった。自分はなんて恥ずかしいことを言っているのだろうか、と。
確かに格好良かった。白い軍服はよく似合っていたし、さまになっていた。それでもやっぱり、
童話などから思い描く《王子さま》像とは少し違うけれど――素敵だった。なんだか更に顔が熱くなる。
「本人に言ってみてよ。どんな顔するか見てみたいし」
そんなこと、どのような顔で伝えれば良いというのか――デュシアンはベアトリーチェのからかいに首を振って拒否を示した。
「まあ、デュシアン。いつの間にウェイリード公子とそのように仲良くなったんですの?」
どこか責めるような、けれども期待するような含みのある言葉に、デュシアンは激しく首を横へ振った。別に仲良くなったわけではない、と。
「鬼の居ぬ間、でしょ」
ベアトリーチェがそっぽを向きながらくすりと笑って呟けば、
「まー! 誰が鬼ですって?!」
アスティーヌの怒りが再燃する。
こうしてまた二人の舌戦が勃発することとなり、通りかかった騎士が状況を察してウェイリード公子を連れてきてくれるまで、
嫌味の応酬が止むことはなかった。
(2009/2/13)
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