「さあ、どうぞお掛け下さい」
広い研究室に通され、デュシアンは取り合えず室内をぐるりと見回した。
部屋中央に置かれた淡黄色の
檜
材の机の上には山積みの資料と分厚い参考書が広げられ、硝子製の丸型比重瓶や、
捩じれた管を内包する冷却器、分留管、試験管、
分注器などが無造作に置かれている。部屋の隅にある巨大な遠心分離機は何だか虫の羽音のような音をたてており、
窓辺の円形ろ過器は琥珀色の液体を抽出している最中だった。むかし母の蔵書で見た器具が次々に目に入り、
デュシアンはその懐かしさと好奇心とについつい視線を巡らせてしまう。
促された席に着けば、香ばしい匂いのお茶を出される。窓辺の円形ろ過器で抽出されている液体と同じ色をしたそれを飲むにはやや勇気が必要だったが、
一口含めば意外や意外、苦味と僅かな酸味の奥に広がる深い旨味に驚かされて心が和らいだ。
ミルクを入れればまた風味が変わるのだと促されて試してみれば、それはまた格別に美味で。
室内に入ってから研究者たちの物言いたげな視線を一心に浴びながらも、デュシアンはとりあえずその視線に気づかないふりをした。
もう一口、その不思議なお茶に口をつけながら、そもそもなぜ自分はこのような部屋に案内されてしまったのか、そっと回想してみた。
事の起こりは、つい先ほど厚生院の資料室で一人の壮年の医師とぶつかってしまったことに
因る。
ぶつかった拍子にばら撒いてしまったその医師の資料を一緒になって拾い終わったあと顔をあげて謝罪し合った時に、
みるみる医師の様子がおかしくなっていったのだ。
その様変わりは、こちらが貴族それもラヴィン公爵だと気づいたから、としか考えられない。身分にあまりこだわらない国風になってきたとはいえ、
宮殿で働く人々にとってはまだまだ身近な問題で、市井で働く人々よりも敏感になる人が多いという。
この方もそうなのだろうかと思い、まったく気にしていない上にこちらが注意散漫だったことを述べ、
精神的負担が少しでも和らぐように、さっさと立ち去ろうとしたのだけれども。
なぜか腕を掴まれて立ち去るのを拒まれてしまったのだ。その医師は切羽詰まったような、
でもどこか嬉しそうでもあり本当に困窮しているようにも見える不思議な表情でデュシアンへと詰め寄り、
『是非に我々の研究室までお越しください。お探しのものは研究室務めの者がお持ち致します。ええ、我々のほうが、
不慣れな方が探されるよりもずっと素早く探すことができます。
それに美味しい茶菓子と南イスラフルの商人から買い付けた
珈琲という珍しいお茶もご用意致します。
是非に是非に』
などと早口で捲くし立ててきたのだ。
押しの強い者にはつい負けてしまうという、流され易さのせいで、厚生院併設の研究棟まで足を運ぶことに――否、軽く引っ張られてきてしまったのだった。
(なんでこんな事に)
研究室へと連れて来られたのは、ただの純粋な好意からということは有り得ない。恐らくはこちらの、公爵としての地位を求めてのはず。
先ほどのセレド王子の話しぶりからして、父アデルは厚生院への政治的介入か援助を行っていたようであるから、
新しい後ろ盾を欲してのことかもしれない。そんな事を推測するも、吐息が零れる。
(わたしじゃあ、あんまり役にたたないと思うけれど)
それでも、自分の名前だけでも役に立つというのなら、手助けできることはしたいと望む。元々別段急ぐ用事はなく、
厚生院に来たのも私用だった。ラレンシアから帰ってきて、十年前のあの惨劇当時のことを振り返れる様々な資料を求めているうちに、
最後に厚生院の資料室へと行き着いたのだ。恐らく、実母が学んでいたであろう場所へ。
(ここにいるお医者様たちの中にも、お母さんと一緒に学んでいた人がいるのかなぁ)
僅かばかり視線を巡らせて、室内にいる五人ほどの壮年の医師たちを眺める。平均年齢は四十歳程度で、実母と同年代だろうか。
ちらちらとこちらへ窺うような視線を向けてくる彼らと目が合い、気まずくなって珈琲という飲み物に視線を落とす。
(名前を出したら、覚えている人も、いるのかな……)
もしも万が一、母を知っている人がいるのなら話を聞いてみたいと思う。けれども。
(わたしの実母は公表されてない)
その事実がデュシアンの口を閉ざした。
恐らく、それは父アデルの娘への気遣いに違いない。全てを知った今、そうとしか考えられないのだ。
ラレンシアの惨劇当時、領主によってララドに売られた孤児たちの中で唯一アデル・ラヴィン公爵が見つけることの叶わなかった《悲劇の少女》。
その存在は、世間一般の公表されている表向きの文書からは父の手で抹消されているが、
保管されている正式文書にはありありとその出身が記されている。ロアの村に住まう女医の娘――ラレンシアへ行って少し調べるだけで、
その女医の名は安易に判明するだろう。
実母の名が知れれば、わざわざ父が隠してくれた《悲劇の少女》が自分だと世間に判明してしまう。ララドに売られ、
四年間奴隷として働かされていた過去を持つ。人々はそれだけの事実で、どれだけの想像を膨らますだろうか。
父アデルがデュシアンの実母の名を公表しなかったのは、娘が奴隷であった過去を隠す為だったのだ。母の名前さえはっきりしなければ、
どれだけ時間が経とうとも過去が暴かれることはない。
(奴隷だった過去を恥じることはないけど、でも、余計な詮索はされたくない)
それは己の為でもあったが、継母や異母弟の為でもあった。これ以上自分のせいで二人に迷惑を掛けたくないのだ。
(そういえば、『故郷だ』って言っちゃった)
村への馬車の中、こちらを気遣わしげに見つめるウェイリード公子に、ロアを故郷だと告げてしまっている。母の墓所で眠ってしまった時も、
『母の墓だ』と伝えてしまった。
もしも彼が正式文書を見る機会があったり当時の事を何か覚えていたら、その記憶とこちらの発言とを照らし合わせることで、
父が隠してくれていた過去に気づかれてしまうだろう。
それでも例え彼が事実に辿りついたとしても、容易にそのことを口外するとは思えないと、どこか確信めいた信頼がある。
(でも、気づかれていないと、いいな……)
理由なんてない。なんとなく、そう願わずにはいられなかった。
「お口に合いましたでしょうか?」
急に現実に引き戻されて、デュシアンは慌ててカップから手を離し、灰色の口髭を生やした優しげな医師を見上げた。
「とても美味しいです。えと」
なんという名前の飲み物だっただろうかと逡巡する。
「
珈琲です」
「こうひい、ですか。あの、あそこのろ過器の……ですか?」
やや躊躇い気味に窓辺の器具を指差せば、満面の笑顔を返される。
「左様でございます。ろ過器をご存知でいらっしゃいますか」
そんな指摘にどきりとしてしまう。たまたまだと笑ってごまかし、なんとなく名前も用途も分かるほかの器具の説明を求めてみた。
知らないと思わせていた方が、気が楽なのだ。
「珍しい器具ばかりでございましょう」
「はい」
内包する捻れた管に沿ってぐるんぐるんと下に落ちていく水色の液体を見つめながら頷く。母も昔同じものを見ていたのかと思うと胸の内側が暖かくなり、
口元が緩む。
「全てイスラフルから取り寄せたものです。医学や医療技術の面ではあちらに大きく遅れていますのでね」
デュシアンは静かに頷いて、彼の地のことを思い浮かべた。
南の大陸イスラフルは精霊の加護を失う替わりに鉄鋼の加工応用技術を会得した。造船技術も飛躍的に向上し、
未だ精霊の意思と支配力が強い海へと出ても、強引なまでの推進力でもって他大陸へと繰り出している。
また同民族での紛争が長年繰り返されたことから武器と医療技術においても目覚しい進歩を遂げており、どちらの技術もカーリアが敵うことはなかった。
カーリアで扱っている医療器具の殆どがイスラフルから輸入されたものだという。ただし、彼らの扱う《武器》は精霊が悲鳴を上げて嫌がることから、
《禁呪》と同じ扱いで使用を禁じられている。
「ところで、こちらへの御用事はなんでございましょう? 我々手の空いている者がお調べ致します」
口髭の医師の御用聞きに、デュシアンは戸惑いを覚えた。
厚生院への用向きは、十年前のラレンシア地方に蔓延した病気と、それを治療できる薬について調べることだった。
初めは黒死病と報告のあったあの病気は、父アデルの調査の結果、熱病の一種であったという事を知った。その熱病の全貌と、
当時の領主が領民の為に買い渋るほど高価な薬の確認と、その薬が何故に高価であるのかを知りたかったのだ。
それらについて医師手ずから教えて貰えるのは願ってもないことなのだが、実母に関わる事なのでそうもいかない。
奴隷であった過去が露呈しては、いらない話題を産んでしまう。
デュシアンは困惑を悟られないように曖昧に微笑んで、
資料室へ来た
尤もらしい理由はないか考えを巡らせ、一つ思いついた。
「あの、陛下のご病状はいかがなのかな、と思いまして」
厚生院所属の医師が典医のはずなのだから、訪れる理由にはなる。それにずっと気になっている事柄でもあった。
「陛下、ですか?」
なぜか少し残念そうに医師たちはそれぞれしょんぼりと肩を落としたように見えた。
「ご容態は安定されております――と、我々にはそう答える事しかできないのです」
「あ……。そうですよね」
また思慮が足りなかったのだとデュシアンは眉を寄せた。それでもやはり気になることは気になる。
「あの、お薬ではご病状は改善されないのですか?」
「現在お飲みのものでは現状維持がせいぜいなのです」
「イスラフルのお薬でも、ですか?」
カーリアよりも医学が進歩している彼の地の薬でもってしても陛下の病状の改善にはならないのかと落胆するが、
そうではないと医師は首を振った。
「いえ。陛下はイスラフルのお薬をお飲みにはなりません。
できれば、イスラフルから近年入ってくるようになった滋養強壮に効く薬草を調合したお薬をお飲み頂きたいのですが……」
歯切れの悪い言葉は、つまりは『飲んで貰えていない』ということだろう。回復へ向かう薬を服用しないとは、
なみなみならない事情があるのだろうか。デュシアンは無言で応えを求めれば、医師たちは互いの顔を見合わせた。
「薬を認可された
大先生と陛下は仲互いをされてまして」
「
大先生?」
デュシアンは僅かに小首を傾げた。
「ジョエル・ファロン高司祭様です」
「え?」
こちらの反応を窺うかのように躊躇いがちに紡がれた名に、デュシアンの心臓が跳ねた。口髭の医師を食い入るように見つめてしまう。
その名は、実母が自分へと遺したあの手紙に綴られた、実母にとっての師の名前だった。そして、国王オーランド七世陛下の言葉を借りるならば、
実母と父アデルを引き裂いた人物の名でもあり、父が生涯許さなかった相手でもある。
(そういう事だったんだ……)
デュシアンは先ほど王子との邂逅で得た、胸の中のもやもやとした燻りが晴れていくのを感じた。
(殿下が言っていた『わたしでなければできない事』って、この事だったんだ)
実父と高司祭との間にあったと想像される確執が国王陛下にまで及んでいる。そこにデュシアンが関わっていることを知っているセレド王子は、
当事者であるデュシアンに二人の仲を取り成し、国王陛下に新薬の服用を勧めることを求めているのだ。
そうと知ってしまえば、それは王子の願いや命令ではなく、デュシアンにとっても使命であり義務となる。国王陛下の命が掛かっているのだから。
(でも、陛下にお会いできないことにはどうにも……)
カラナス侯爵の心証を悪くしてしまったからなのか、それともご病状が芳しくないのか。なかなか面会の予約が取れない現状では、
どうすることもできない。いっそ、王子に頼んでみるかとも思うが、それも良い案かと独り言ちる。
「そんなに引っ張るでない」
その時、閉まった扉の向こうから、不機嫌そうにしゃがれた老人の声が聞こえた。デュシアンは顔を上げて、なんとなく扉の方を振り向く。
「はやくはやく」
「はやくお入りくださいってば」
数名の男性が、どうやら不機嫌そうな老人を急かしているようにも聞こえる。
すると、珈琲なるものを出してくれた口髭の医師が飛びつくように走り寄って扉を開けて誰かを迎え入れ、愚痴を零した。
「帰ってくるのが遅いのですから心配しました」
「わしは
耄碌したわけではないのじゃぞ。別に迎えなどいらんのに寄越しおって」
「それは解っておりますが、お早く中へお入り下さい」
「なんじゃ、その言い草は。お前らに言われんでもわしは入る、ここはわしの部屋だからのう!」
そんなやり取りが聞こえたのちに入室してきたのは数名の助手らしき医師たちを従えた老人だった。老人は不機嫌そうな声から想像するまま、
年を重ねた者特有の温和さとはかけ離れるほど気難しげな表情を浮かべており、
眉間には刻まれた皺はもう永久に消えることがないと思われるほど深く抉れていた。しかし齢七十ほどであろうが背筋はぴんと伸び、
矍鑠としている。
不意にこちらを見た老人と目が合う。すると丸眼鏡の向こうの理知的な青い瞳がすっと細まった。乾いた唇が瞬時に引き結ばれる。
見間違いでなければ、その皺だらけの手元が僅かに震えた。
老人が纏うのは聖職者の証である白い法衣だった。腕には医師の証である朱色の一本線が引かれた腕章が輝く。
たっぷりと広がる長い白髪の上に載った帽子は赤地に金糸で刺繍が施されており、それは司祭職に就いていることを示す。医師であり高司祭でもある老人。
首都に帰還してからそれとなく巫女ロザリーに尋ねたところ、当てはまる人物は一人しかいないという。
(この方が、ファロン高司祭様)
母の恩師で、自分の赤子の頃を知る唯一の人物。
心臓が大きく跳ねる。じっと見つめ続けていれば、老司祭はすっと視線を逸らした。
「お、お邪魔しております」
言わなければいけない事はたくさんあるはずなのに、どうしてか喉元からそんな言葉しか出てこなかった。そもそも、
何をどう言って良いのやら、皆目見当も付かないありさまだった。
(どこかで、お会いしているのかも)
気難しいその表情に、ほんの少しだけ見覚えがある気がする。神殿に出入りするようになったので、どこかですれ違ったのかもしれないし、
それは分からないが。まさか赤子の時分の事を覚えているはずもなく。けれども、どこか懐かしさをデュシアンは覚えた。
「御用はなんでしょうな。このような研究室にはご縁のないお嬢さんにお見受けしますが」
「せ、先生!」
冷たく突き放すかのいうな物言いに、周りの医師たちが批難の声をあげた。
まさかこのように拒絶されるとは思わなくて、デュシアンも戸惑った。母似の自分が、その娘だと分からないはずはない。
ラトアンゼの一人娘として快く存在を受け入れてくれるのではないかと、愚かしくもどこか期待していたのだ。
母が託そうとしていたその人は、本当にそうなったら迷惑であったのだろうかと急激に悲しくなった。しかし同時に疑問も沸きあがる。
先ほど初めて顔を合わせた時、僅かだけれどもファロン高司祭は動揺を見せた。それはこちらに何らかの感慨があることを示している。
(だとすれば、どうして……)
どうしてこちらの存在を受けれてくれないのだろうか。喜んでくれないのだろうか。デュシアンは困惑に胸元のアミュレットへ手を伸ばした。
「先生。もうちょっと言い方ってものがあるのではないですか」
「優しくしく接しなきゃ駄目ですよ」
「それじゃあ冷却器のようですよ、大先生」
周りの医師たちはまるで子どもに言い聞かすかのように責めたり助言したりしているが、当の高司祭本人はむすりと不機嫌そうにそっぽを向いたまま、
耳を貸さないといった態だ。
その様子から、どうやら彼ら医師たちは自分とこのファロン高司祭の関係を知っているのだろうと推測できる。つまりは、
実母のこともちゃんと分かった上でここに連れてきて、自分と高司祭とを引き合わそうとしてくれたのだろう。
「わしは研究の続きがある。申し訳ないが、部外者はお引き取り願いましょうかのう」
「は、はい」
ぴしゃりと厳しい言葉を投げつけられ、デュシアンは反射的に立ち上がった。もう一度高司祭を見つめてみるけれども、室内に入って来た時以来、
まったく視線を合わせてはくれない。弟子と思しき医師たちが引き合わせてくれようとした事実を汲めば、
高司祭はこちらに悪い印象は持ってはいないはずなのだけれども、この拒絶はもしや父に何か言われたのか。それとも――。
(責任を、感じていらっしゃるのかも)
『ファロンが話してさえいれば』とは国王陛下の言葉だ。同じように、後悔されているのかもしれない。
(だとすれば、わたしは引き下がっちゃ駄目だ)
父アデルから離れたのは母ラトアンゼの意志。その意思のせいで誰かが責められたり、責任を感じたりするのは間違っている。
それでもこの拒絶の態は、今日いきなり瓦解できるような固さではない。とにかく、出直そうと思う。
連れられてここにやって来たという今日の出会いはあまり良い印象は与えない。
デュシアンは小さく息を吐いて、思った以上に緊張している自分を励ました。
「あの、
こうひいもごちそうになりましたのに、名乗るのが遅れました」
高司祭にだけでなく医師たちも一通り見回し、頭を垂れた。
「わたくしはデュシアン・ラヴィンと申します。故アデル・ラヴィンの娘です。どうぞ、お見知りおき下さい」
名乗っても、ファロン高司祭はやはり視線は外したままだった。頑としてこちらを見ようともしない。それでもデュシアンは負けるわけにはいかなかった。
「また、日を改めて伺わせて頂きます」
今度は自分からこちらを訪れる意思があることを示して、最後にもう一度ファロン高司祭を見つめた。
国王陛下のこともあるけれども、何よりも、この頑なそうな老司祭とちゃんとお話しをしてみたいのだ。――母が自分を託すつもりだった、この方と。
後ろ髪を引かれながらも、近いうちにまた訪れようと自分のなかで誓いをたて、デュシアンは部屋を後にした。
(2008.11.26)
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