偶然という名の運命の悪戯からは逃れられない事を悟り、廊下の中央にてデュシアンは立ち止まった。
ため息を吐く己の姿が磨かれた大理石の床に歪んで映りこみ、それを視界の端にぼんやりと捉える。
こんなことになるならば神殿の入り口で従兄と別れず共に執務室に向かえば良かったとの後悔の念に襲われるが、仕方がないと諦めた。
真正面からこちらを射抜く瑠璃色の瞳は運命をも司る主神カーラの祝福を勝ち得たと言わんばかりに自信に満ちていた。
そのような支配者然とした傲慢な
双眸に囚われれば、
気弱な者は何を置いても従わずにはいられないだろう。デュシアンも例に漏れず、
無視する気にはなれずにその瞳の主――セレド=アレクシス王子がこちらへやってくるのを静かに眺めて待つしかなかった。
廊下を行き交っていた者たちは皆足を止め、何かが始まるのかと期待の込もった眼差しでこちらを注視し始めている。
月初めの祝賀会での出来事が知れ渡っているのだろう。求愛行為をみせた王子と、それを撥ね付けた相手。
その組み合わせは、しっかりと教育されているはずの侍女や騎士たちの好奇心すら刺激してしまうもののようだった。
まるで歌劇の舞台の上に放り出されてしまったかのような緊張に、掌が汗ばむ。
のちに後悔するとも知らずにデュシアンは皮の手袋をはずして素早く外套のポケットにしまいこんだ。
「やあ、デュシアン」
緊張に心音が早まるデュシアンとは対照的に、セレド王子は周りの視線など全く意にかえさないのか、
それとも生まれ出でてより常に人目に晒されてきたことによる慣れか、完璧な笑みを浮かべて目の前までやってきた。やや癖のある金髪が頬の横で揺れている。
中性的な顔立ちに
然して恵まれているわけではない細身の体躯ではあるが、
堂々とした態度には女々しさは微塵も感じられない。
祝賀会までは気に留める瞬間がなかった為に、はじめて正面から王子を観察し、その存在をはっきりと意識した。大層な美青年なのだ。
見惚れそうになりながらも、こちらを注目している人々の視線にデュシアンは我に返った。すぐにも半歩下がってこうべを垂れようとしたのだが。
「殿下にはご機嫌麗しく――」
「堅苦しい挨拶はいいのだよ。もっと楽にして欲しいのだけどね」
軽く小首を傾げたセレド王子は艶やかに微笑んだ。
お辞儀をしようとした中途半端な姿勢をやんわりと止められ、デュシアンは背筋を伸ばすしかなかった。
「君が宮殿側にいるなんて珍しいね。この偶然に私は感謝しなくては」
優しい目で、勘違いしろと言わんばかりの甘い言葉を吐き掛ける。
どうして王子が急に自分に構うようになったのか、デュシアンはそれを計り兼ねていた。
時間が経ったことで随分と冷静に祝賀会の時の事を考える余裕はできたが、だからといって王子の行為の正しい意味を理解するのは難しかった。
結局、何と返事をして良いのか分からず曖昧に微笑むしかなかった。そんな自分のいい加減さに呆れながらも不思議と落ち着きを取り戻した為に、
今まで目に入らなかった存在を認識することができた。
王子の背後には円卓騎士団のダリル・フォスター将軍とその筆頭騎士ジェノライト・アリスタ卿が控えていたのだ。
すぐさま異様なほどの居心地の悪さを覚え、思わず出そうになった溜息を慌てて飲み込んだ。
ダリル将軍は穏やかな微笑みを浮かべて黙礼してくれたが、アリスタ卿は随分と気難しい表情を浮かべてこちらを観察している。
(しょうがないよね。公衆の面前で叩いちゃったし……)
王子の側近であるアリスタ卿からすれば、主の面子を汚した相手は敵として認識されていてもおかしくはない。しかも、
騎士の鍛え上げられた体躯と頭二つ分も高い背丈で、凄まじいほどの威圧感を与えてくるのだ。
《北の守り》内でブラウアー子爵との悶着があった直後のことでもそうであるが、この騎士は揺るがない精神の強さを持つ。もしもう一度、
ここで王子に手を上げようとすればきっと彼は全力でこちらを排除するだろう。柔なこちらとしては、
腕の一本や二本がどうなるかは覚悟しなければいけない。
けれども、デュシアンはそれを快く受け入れた。主君へ手をあげた不敬が二度とないよう見守って欲しいのだ。祝賀会では王子が許したといっても、
己はあまりに短慮で浅はかだと自覚しているからだ。それは今回のことだけではなく、
リディスのことやクラメンスでのことも含んでいた。自分では収めきれない事柄に口を挟むことで、誰かを無意味に傷つけ、
無用な争いを起こしてはいけないとの自戒を立てていた。
「ジェノライトが魅力的なのは知っているけれど、私も負けていないはずだよ」
潜められた声で指摘され、デュシアンは慌てて視線を目の前の王子に戻した。
「厚生院に用事なのかな」
気を取り直したのか、王子は今しがたこちらが足を向けていた曲がり角の先をちらりと眺めた。
「はい」
用事を深く追求されては困る。デュシアンの声が僅かに震えた。
「そう。アデル公も医療や福祉方面にはちからを入れておられたからね。殊更、ララドの奴隷制度に関しては他国のことながら気を削がれていたようだよ」
変に反応してはいけないと即座に己を律する。王子は何か知っていてこちらを揺さぶっているのかもしれないし、
ただの偶然なのかもしれない。それでも王子の後ろにはダリル将軍とアリスタ卿が控えている。
丸みを帯びた高い天井は王子の少し高めの声をよく響かせ、背後にいる彼らにも聞こえているはずなのだ。
デュシアンは出生や過去を恥じているわけではない。ただそれらが今更露見することによって、
無用な騒ぎと噂の種になりたくないだけなのだ。継母はすべて既知であるから大きく構えていてくれるだろうが、
異母弟は細部を知らない為に困惑させてしまうかもしれない。
(わたしが、ララドで奴隷だった時期があるって知ったら、レセンはどう思うんだろう?)
得体の知れない少女をある日突然「姉だ」と紹介されて、大した反発も見せずにその事実を受け入れてくれたが、
幼いながらに色々と悩み、考え、苦しんだはずだ。それを今更繰り返して欲しくないと願っていた。自分のことで精一杯な思春期の弟が、
想定外の異母姉のことでまた悩みを抱えるのはあまりに忍びなく思えたのだ。
「ご息女たる君がその任を引き継ぐとなれば、厚生院もアデル公もきっと喜ぶだろうね」
「そうでしょうか」
困惑しながらも薄く微笑む。何事にも疎い自分に父と同じようなことができるはずもないとの自嘲は抑える。
「きっと、君でなければできない事があるよ。私はそう思う」
それでも何かを望むかのように、王子の瞳には芯の通った光が宿っていた。デュシアンは吸い寄せられるように
その瞳を見つめる。先ほどの甘い言葉とは裏腹に、この言葉には真実味があった。その変化を不可解に感じながらも、
もしも自分に何かできることがあるのならば手を尽くしてみたいと自然に思ってしまえる光がそこにあるのだ。
「殿下、お時間が」
「分かっているよ」
やや不機嫌そうなジェノライト・アリスタ卿の声に王子は手を上げて答える。しかし焦りを見せるところはなく王子の視線も足も動かなかった。
「手に触れても?」
「え?」
了承など待つ気はないのか王子は素早く強引にデュシアンの手を取ると、その敏感な指先に口付けを落とした。
デュシアンは慣れないその熱に危うく小さな悲鳴をあげそうになるが、失態に気づき悲鳴ごと息を飲んだ。不覚にも、
王子に許したのは甲に醜い傷跡が残る左手なのだ。
ウォーラズール山脈にて魔物に負わされた傷は適切な処置の甲斐なく皮が引き攣ったような三本の爪跡を残している。
先ほど緊張の折に手袋を外してしまっていた為に、令嬢にとっては忌むべき場所の傷を王子の目に晒してしまっているのだ。
その醜さに不快感を示すわけでもなく、王子は平然とその傷跡を眺めていた。口付けたのならもう用はないだろうと、
それとなくデュシアンは身を引こうとしたが、左手はがっちりと掴まれたままだった。
そして
徐に、男性にしては滑らかな指先で甲の醜い傷跡を労わるように撫でられた。
急激な羞恥心にデュシアンの頬は熱くなる。
「一目見たその時から、貴女の
虜となりました」
甘い言葉に中性的な印象を与える美しい微笑み。驚きに真正面から王子を見据え、呆気に取られる。
しかし
静謐な湖面のように穏やかな瑠璃色の瞳に感情は映らなかった。
《恋》とはそんなものなのだろうか――そんな疑問が浮かぶ。恋とは、もっと相手をも飲み込むような雨後の濁流のごとき激しさを伴うものなのではないか。
少なくとも己が《魅了》の魔法を掛けられた時に擬似体験した恋情は、身も心も焦がすような強い思いに囚われて、
自分を抑えることが難しかった。けれども王子のその瞳には相手を熱情に取り込もうという意思がまるで感じられないのだ。
恋を知らないデュシアンの胸には違和感だけが残る。口説かれたはずなのに体温にはなんら変化は起きず、
むしろ覚めたように握られた指先が冷たくなっていく。
「殿下」
背後から主を戒めたジェノライト・アリスタの声によって、二人は長いこと見つめ合う状態から抜け出した。
「解かったよ。じゃあ、デュシアン。またね」
もう一度、まるで名残惜しいと言わんばかりに指先に口付けを落とされて、やっと左手は解放された。今度はその熱には何も感じられなかった。
(わたしを口説いて、何か得があるの?)
二人の最強の騎士に護られた王子の背中を眺めながら、心の中で問いかける。
失敗から誇張された美談が生まれ、純粋に教義を信じ主神を崇める人々からの支持は上がっている。
それはアリューシャラへ《主神》の鞍替えを狙う《ラウラ・ルチア派》の人々が自分を法皇とすることで台頭したいが為の策謀だとダリル将軍から聞いていた。
今、自分は《ラウラ・ルチア派》に利用されようとしているという。だからこそ、セレド王子のこの不可解な言動を疑ってしまうのだ。
彼の王子もラヴィン公爵を利用しようとしているのではないか、と。彼の求愛はまさに演技そのものなのだから。
(利用、されるのかな)
そう思えたら楽なのだが。デュシアンは王子が語る偽りの中の真実の思いが気になって仕方なかった。
(わたしにも、できることがあるのかな)
それはラレンシアでの出来事やララドでの過去が関連しているのだろうか。
王子はそれを全て知った上で何らかの働きを自分に期待しているということなのだろうか。
それとも、《ラヴィン公爵》が介入し解決できる問題があるのだろうか。それは本人に聞かなければ想像を域を出ないが。
(殿下がわたしに求めているのは恋心じゃないのだけは、確かだよね)
漠然としながらも確信めいた思いを抱きながら、デュシアンは己が進むはずだった道へと視線を向けた。
謁見の間を取り巻く回廊から伸びるその渡り廊下の先には、
騎士宮や魔法宮と同じく宮殿から独立した敷地が用意された厚生院と医術に関わる研究所や資料室が設置されている。
もともと政治的意図があって厚生院を訪ねるつもりではなかった。
ただ単に、ラレンシアであったことの裏づけとほんの一欠片の偶然を――己の赤子の時を知る人との消極的な接触を――求めていただけだった。
そこに他の目的を混ぜてもまだ心に余裕はある。
(できる事があるのなら、がんばりたいな)
それが吉とでるか凶とでるかは解からないが。それでも自分の世界が開けるのならば、
王子の思惑に乗ってみるのも悪くないのかもしれないと、デュシアンは思った。
(2008.5.13)
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