墓と薔薇

9章 偽られた心(1)

 末尾となる言葉に続いて己の名の最後の一文字を書きあげる前に、何かに気を取られたかのようにデュシアンは手を止めた。
 見慣れた自室をぐるりと見渡すも、目を奪われ心を満たすものは見つからない。当たり前のようにここ数ヶ月続いた日常。 それを終わりにしたのは自分なのだから。言わなければ良かったとの後悔はない。後悔はないのだが、少しだけ寂しい。
(少しだけ?)
 己に問いかけ、自嘲する。どこまでも甘ったれの自分が愚かしい。どうにかしたいと思うのに、侭ならない。 そんな自分が公爵だというのだから、世も末だ。デュシアンはもう一度、声を上げずに小さく笑った。
 気づいた時には後の祭だった。書き途中の名前の最後が軽く(にじ)んでしまっている。 慌てて羽ペンの先を上げてじっくりと眺めれば、やや滲んだ字も味があって小洒落ていた。偶然の産物に対し、笑いがこみあげてくる。 詰めが甘いと言われればそれまでだが。けれどもきっと《彼女》ならば笑って許してくれると、また甘える。
 少し書きすぎてしまったきらいもあるが致し方ないと諦め、数枚の紙を三つ折りにして上質の封筒に入れた。 垂らした蝋が完全に乾かないうちに印を押してしまえばラヴィン家の正式な書簡と成り果てる。相手は一国の皇族。友人と言えど、 それなりの流儀は通さねばならない。
 書簡をひらひらと振って蝋を乾かすふりをしながら、窓の外を眺める。日差しを遮る厚い雲に覆われた灰色の空から、 雪がふわりふわりと舞い降りている。見慣れたはずの景色が白銀色に彩られるおかげで少し様相を変え、どこか物寂しさを覚える。
(雪はあんまり、好きじゃない)
 母との過去をしっかりと思い出せるようになってから、ララドで過ごした四年間もふとした時に意識に昇るようになってきた。 茹だるような蒸し暑い室内で熱に浮かされ眩暈(めまい)と嘔吐感を我慢しながら魔法を教え込まれた数ヶ月。 極寒の寝室で震えながら思うように眠れず、いつもかさかさで荒れた手を擦り合わせ、 働く手元が疎かになれば幾度と無く叱られ罰を受けていた使用人としての四年弱。あの頃いつ眺めても、鉄格子のついた窓の外は吹雪いていた。 青銀色の空に太陽が覗くことはなく、気を抜けば時刻どころか日付の感覚すらなくなる。
(陛下は、雪はお好きなのかな)
 不意に思い出されたのは父の親友である国王陛下オーランド七世の痩せ細った姿。殆ど自室から出ることはないというが、 いつも目にする景色が雪によって変化すればその御心も少しは満たされるのだろうか。デュシアンは小さくため息を吐いた。
(ご病状は、変わらないのかな……)
 ラレンシアでのことをすべてを話し終えていない事からもう一度面会を希望しているが、なかなか宮殿から色よい返事がこない。 先日話し過ぎてしまった為にカラナス侯爵に睨まれてしまったから許可が下りないのかと邪推するが、それならば良いと思う。 具合が優れないので断られているよりはずっとましだ。
(わたしがお母さんみたく医師だったら、少しは陛下のお役にたてたかもしれないのに)
 本気で考えてみようか。デュシアンは公爵を退いた後のことをぼんやりと思い浮かべた。
「書き終わったのか」
 鋭い声に、はっと我に返る。扉へ視線を向ければ、 愛用の紺色の外套を纏ったままの従兄が扉に(もた)れ掛かるようにして立っていた。 また彼は物音立てずに不法侵入してきたのだ。いつもの事ながらその鮮やかな手口には敬服してしまうが、できればノックをして欲しいところだった。 しかし別段やましいことがあるわけではないので、特に不平不満を口にするのはやめておいた。 成人した女性として扱って欲しいとも思わないし、今の距離感をデュシアンは気に入っていた。
「今書き終わったところだよ。ちょっと考えごとしちゃった」
「お前が、か」
 嘲笑の浮かぶ歪んだ従兄の口元にデュシアンは軽い憤りを覚え、ほんの少し唇を尖らせて反論を試みる。
「わたしだって考えごとぐらいするよ」
「どうせ、夕飯のことだろう」
「違うよ!」
 立ち上がって抗議する。
 今日は本当に違うのだ。横目で窓の外をちらりと眺めながら、呟いた。
「陛下のご病状が、心配だなぁって思ったの」
「……そうか」
 近寄ってきたかと思えば、ちょっと意地悪い手つきで髪をくしゃくしゃにされてしまう。 こうやって優しく撫でられるのは親族の愛情を感じて面映いものだが、せっかく綺麗に纏めてもらった髪を乱されるのは不本意だった。 襟足を纏めて捻り、纏めずに残しておいた短めの髪の影に隠すように内側にピンで留めてしまえば、 伸びてきた髪を切ることなく短い髪の印象を保つことができる。髪を切らせたくない継母の巧みな技術によって、できあがっている髪型なのだ。
「ラレンシアの領主……?」
 長い指先が書き終えて重ねてあった一つの手紙を持ち上げ、宛て名を目にしたのちにその眉頭を怪訝そうにひそめた。
「あ、うん。モーリスの孤児院を受け入れてくれるっていうの」
 髪がおかしくなっていないか後頭部を触って確かめながら答える。
「移動資金まで出してくれるんだって。情けないけど、ちょっと助かっちゃった」
 孤児院を受け入れてくれる土地を探す為に父アデルと親交のあった地方にイリヤが書簡をばらまけば、 なんの因果かラレンシアの領主が名乗り出てくれたのだ。現在の領主は大変な明主だというから安心して任せられる。しかも移動資金や護衛の騎士はもちろん、 移動後の土地建物の確保までも面倒をみてくれるという太っ腹ぶりだ。ラヴィン家としては孤児院の援助はもちろん惜しまないつもりだったけれども、 先立つものがあまりにも少なかった。なにせ名門公爵家という肩書きにも関わらず貧乏貴族なのだから。
「不思議だよね。ラヴィン家ってあんまりお金持ちじゃないのに、《北の公》なんて大きな肩書きをよく持てたよね。昔はお金持ちだったの?」
「北の公が金持ちである必要があるのか?」
 鼻で笑われ、少しだけ悔しくなったデュシアンはラシェにちょっと詰め寄って食い下がる。
「だって、ほかの由緒正しい貴族の家は――例えばアイゼン公爵家とかホルクス伯爵家とかレニス公爵家とかカラナス侯爵家とかってみーんな、 お金持ちでしょ? なんでうちだけって思っても可笑しくないじゃない」
「そもそもお前はラヴィン家がなぜ《北の公》であるのかを知らないのか?」
「う、うーん。確か、《北の守り》を創った女神アリューシャラ本人が、ラヴィン家の祖にその管理を任せたんだよね」
「だから、なぜアリューシャラがラヴィン家を選んだか、だ」
「知らない、です」
 迫力に負けて言葉尻を濁せば、ラシェはあからさまに呆れたと言わんばかりの仕草でこちらを見下すように眺め、首を後ろを撫でた。 お前の相手は肩が凝る――以前そう言われて傷ついたこともあったが、今更この従兄の言動に傷つくことなどない。 図太くなったものだと独りごちる。
「叔父上はお前にとことん甘かったからな。どうでもいいことは教えなかったのだろう」
「重要なこと、だよね?」
「家長のくせに自分の家の歴史も知らないとなれば、恥知らずと嘲笑われても文句は言えんな」
 言っているそばからすでに彼が嘲っている。そういう所が意地が悪いのだと口を尖らせれば、 額を指先で軽く弾かれた。
「まだアリューシャラが一精霊に過ぎなかった頃、ラヴィン家の祖は彼女と契約を交わしていたからだ」
「契約、してたの?!」
 軽い衝撃に狼狽(うろた)えて額に手を当てながら、デュシアンは素っ頓狂な声を上げた。 ラシェは不快そうに鼻を鳴らす。
「そうだ。だから彼女はラヴィン家にその保護を任せた。貧乏領主に過ぎず、 あまつさえ《移民》だったラヴィン家が爵位を与えられ祭り上げられて重宝されたのは、結界を維持する魔法を託されたからだ。 幼い娘を神殿に楯に取られ、以後ラヴィン家当主は飼い殺しの神官となった」
「な、なんか、頭が痛い」
 聞いたこともない事実に頭を軽く抱える。
「世界の破滅を防げる唯一の人間を傍におけば大陸に無数ある神殿の中でも頂点に立てる。 千年ほど前の当時はまだ一地方の神殿に過ぎなかったカーリアの神殿は、ラヴィン家を得ることによって総本山となっていったんだ」
「なんか、分かったような、分からないような……」
 言い方に棘があり、ラシェの神殿への思惑が見え隠れするようにも思える。とりあえずそこには曖昧に頷き、気になった点を口にした。
「あの、《移民》ってどういうこと?」
「……蛇足的な話になるが、知っておいて損はないか」
 ラシェは彼にしては珍しく一拍間を空けてから視線を逸らし、そんな独り言を呟いてから続けた。
「ラヴィン家はそもそも北方に領地を持っていた」
 デュシアンが北と聞いて思い浮かべたのは因縁の地ララドとの国境にもなる、首都より北の、人を食らう蛇竜が住む広大な湿地帯だった。 蛇竜が住むという事実以外は大層美しくも神秘的な景観を誇る観光の穴場であり ――しかしあの地へ観光に行くような命知らずはあまりいないと後に知ったが――父と共に眺めに行ったこともある。
「北方って、バルバロッサ湿地帯の辺りとか?」
「いや。もっとずっと北だ。海を越えた向こう――」
 傷のない滑らかな指先がそっと眼鏡の弦をあげる。赤に近い茶の瞳に剣呑な光が宿る。
「今では草木も生えぬ、魔物の土地となった場所」
「まさか、北の、城……?」
 悪寒が背筋を登りつめ、身を縮ませた。背後、風に揺れて僅かな振動音を立てた窓にすら怯える。
「悪神フェイム=カースの根城近辺に広がっていたバルロアの森をラヴィン家の祖は管理していた」
「そんな場所の土地を? それに《バルロア》の森って……」
 北の城はララドよりもずっと北の孤島にある。遥か昔はこのカーリア大陸と地続きだったそうだが、主神カーラの裁きの鉄槌によって切り離され、 またその衝撃によってカーリア大陸も二分されたと伝わっている。
「まだフェイム=カースが主神カーラの夫であり、ただの神の一人に過ぎなかった頃、あの辺りには緑深く多くの人間も住んでいた」
 人間と神が共存していた神話の時代。あまり語られることがないのは、確証となるものがないからだと言われている。 《聖典アニカ》では世界と神々を創造した主神カーラについての記述と彼女と彼女の夫たるフェイム=カースの壮絶な戦い、 それから後の《北の守り》の成り立ちについての節が主で、神話の時代についての記述はほんの数行。熱心な神教徒ではないデュシアンに分かるのは、 そのぐらいだった。
「ラヴィン家が管理していたバルロア森にはその名の通り《水の神バル=ロア》の住処である湖があり、 そこには数多くの妖精を従えた《歌と踊りの女神アニカ》も住んでいた。あの頃の森には神やそれに順ずるような神格の高い精霊たちが多くいたそうだ ――フェイム=カースを慕って、な」
「あの悪神を、慕って……?」
「そういう時期もあったということだ」
 デュシアンの引き攣ったような声に反応するように、ラシェは皮肉げな笑みを浮かべた。窓枠に腰を預け、楽な姿勢で続きを語る。
「フェイム=カースは闇の精霊を統べる神であると同時に、如何なるものにも囚われない自由を司る神であり、 最も人間を重宝した神でもあったそうだ」
「え?」
 驚きを隠せないこちらに、神妙な顔つきで首を振る。
「但し、重宝といっても庇護したわけじゃない。フェイム=カースは親しみやすい神であったと同時に、恐ろしい神でもあった。 人間のことは利己的な欲求を満たす存在として丁重に扱っていただけだ」
「利己的な、欲求?」
「フェイム=カースは人間が悩み苦しむ姿を見ることを好んでいた」
「なに、それ……」
「絶望に局面した人間に、それを打破できる分不相応で且つ犠牲の大きい力をちらつかせ、 彼らの感情が激しく揺れ動くさまを覗き見ることを奴は何よりも好んだ。 神から見れば、人間の心の迷いや葛藤自体が不思議で可笑しなものだったんだろうな」
 その悪神の趣向こそ人間の自分には到底理解できそうにない。デュシアンは力なく首を振った。
「フェイム=カースが人間に与える力は次第に、確実に強大なものへと変化していった。死人を蘇えし、何万もの人間を一瞬の内に消滅させ、 見えるはずのない遠くの景色やこれから起こり得る出来事を垣間見る目を与えた――これらの力はカーラが人間に許す理を超えていた」
「……禁じられた呪文」
 ラシェは小さく頷いた。
 神々がいた時代では定められた(まじな)いの言葉を紡ぐことで、 魔法は成立していたそうだ。 その中でも主神カーラによって禁じられた呪いの言葉が《禁呪(きんじゅ)》 と略されて呼ばれるようになった。現代では呪いの言葉自体が失われているはずだが、 禁呪だけはどこかでひっそりと根を張り、歴史の端々でその存在は確認されていた。
「多くの人間が禁呪を使用したのち悔恨と恐怖と狂気とで破滅に追い込まれ、世界中の自然にその爪あとを残した。ララドの永久凍土もその一つだ」
 永遠に雪に閉ざされた呪われた地にも関わらず、ララドは人も知識も栄華を誇っている。あの地のブリザードは、 神への激しい恋情に身を滅ぼした男の鬼哭(きこく)だと、 ララドにいる時に誰かから聞いた気がした。彼の悪神は恋心までも弄んでいたのだ――そう思うと、小さな怒りが胸に沸いた。
「夫の度重なる己への反抗に痺れを切らしたカーラが」
 続きを話してもいいか、とラシェこちらを覗きこんでくる。デュシアンは慌てて頷いた。
「制裁を下すためにカーラが北の城へと現れた時、水の神バル=ロアは巨大な蛇竜へと転身すると、北の城近辺に住まう人間たちを護り、 今のカーリアとなっている地へと運んだ。バル=ロアによって運ばれてきたラヴィン家の祖は、だから《移民》というわけだ」
「はじめて聞いた。ラヴィン家がそんな所に住んでいたなんて」
「そうだろうな。その辺りの話は聖典から削除されている。ラヴィン家が《移民》であることを知る者はこのカーリアでは聖職者の極一部だ。 まあ、千年も昔のことだから、今更移民もなにもないがな」
 確かに、自分も父も異母弟も典型的なカーリア人の特徴である金髪に色素の薄い色の瞳をしている。 他のカーリア系民族と何ら違ったところはない。デュシアンは一通り自分を見回してからラシェへと視線を戻した。
「でも、なんで聖典から削除されてるの?」
「カーラの神格を貶めるからだ」
「え?」
「バル=ロアが人間を避難させた理由を考えてみろ。巨大な力を持つカーラが己自身の力を制御できず、 自らが護るべき人間にも危害を加えてしまっていたからに違いない。カーラの万能感を削ぐ話は神教にとっては禁忌だ。 それに、人間を護ったのは一神に過ぎないバル=ロアというのも決まりが悪い」
 それに――ラシェは一呼吸置き、静かに語った。
「一説によれば、バル=ロアはアリューシャラの願いを受けて人間を護ったとも言われている」
 事実だとすればそれがどういう意味を持つか、今のデュシアンには理解できることだった。
 人間にとって誰が救いの神であるのか、それは神教にとっても重要な教えの一つだという。「だからラウラ・ルチア一世は……」とぼそりと呟けば、 ラシェは少しだけ驚いてみせたあとに笑みを浮かべた。のんびり家の従妹の察しの良さに、やや感動でも覚えたのだろう。
「神殿はずっと、 カーラよりも他の神を(あが)め信仰することを提唱しようとするラウラ・ルチアのような存在が現れることを、 恐れていたんだろう。ラウラ・ルチアに関する書物や彼女の手記などが全て禁書となったり燃やされたりしたのも、 聖典で削除した部分を日当たりの良い場所に出させない為でもあったはずだ」
「そんなに、都合が悪いの?」
「少しでも人々が疑う余地を残したくなかったんだろう。教義が割れれば世界も割れる。千年も続く繁栄が傾くことを、神殿は恐れたのかもしれないがな」
 現在の安寧の裏に虚偽があるように、真実には混乱が表裏一体の如く付いてまわる。 だからこそ、真実を知った者の殆どが真実を隠す神殿を糾弾するわけでもなく、黙殺しているのだろうか。 そもそも、神話を隠蔽している神殿が正しいのか正しくないのかを、デュシアンは簡単に判断することができなかった。
「結局、己が語った全てを記録し後世まで伝承することを望んだアニカの遺言は叶うことはなかったという ことだ。彼女の名が付けられた聖典からは穏やかだった神話の時代は削除され、人間を護り、 転身の影響で身体と精神が引き裂かれたバル=ロアの最期は語られることもなく忘れ去られていった」
 ラシェは窓辺から身体を離し、結露の向こうに覗く白銀色の眼下を眺めながらそっとため息を吐いた。
 祖を助けてくれたバル=ロアの最期も気になったが、それよりもずっと燻っていた疑問がデュシアンの喉を滑り出てきた。
「ラシェは、このお話はどこで知ったの? 神殿が隠すなら、神学校では教えないでしょ?」
「ララドだ。アニカが最後に訪れ霧散した土地でもあり、彼女の言葉通りに伝承を全て書き残している書物が保管されている。古代文字で、だがな」
 こちらを見ないで答える従兄に、デュシアンはやや気がかりを覚えた。
 ララドへ行ってから、ラシェは変わったというイリヤの言葉をふいに思い出す。 それはこういった教えに懐疑的な部分を持ち合わせるようになったことを指しているのかもしれない。またラシェがよく分からなくなる。
「ねぇ、ラシェ」
 手を伸ばし、意味もなくその外套の一部を引っ張る。ほんの少しだけ、心配になる。
「言っておくが」
 嫌そうにラシェは顔を顰めてこちらを見下ろしてくる。明らかに、こちらが何を言いたいのか分かっている様子だ。
「俺はラウラ・ルチア派でも無神論者でもない。全てを創り出したカーラに多少は感謝している。そして神は確実に存在する。 ただ俺たち人間の前から姿を消しただけだ」
 眼鏡の奥の瞳はいつもと変わりなく、デュシアンはそれにほっとして表情を緩ませた。
「この世界に残った四柱の神以外は、二度と現れないだろうがな」
「四柱の、神?」
「水の神バル=ロアと歌と踊りの女神アニカ、悪神フェイム=カース、そして――女神アリューシャラだ」



◇     ◇     ◇



 会話も終えて、ほんの少しだけ機嫌の良いラシェと共に一階へ降りれば、待っていたかのように若執事のイリヤがエントランスに控えていた。 実はこの金髪の美丈夫に(かしず)かれる事に慣れるのには相当の時間を有したのだが。
 先ほどの会話で記憶が浮上しており、イリヤとラシェとが険悪な雰囲気であったのをすぐにも思い出す。 仲直りしたのか気になり無言で隣りを見上げてみるが、従兄は無表情だ。さっきまでとは打って変わり、たいそう不機嫌な雰囲気を醸し出している。
「お出かけになるのですね、お嬢様」
 用意してくれていた黒い外套を羽織らせてもらう。背後のラシェが思い切り身体を背けて待っていることに気づいていたが、 デュシアンは気にせずのんびりとイリヤに向き直った。
「ちょっと宮殿に用事があるの。それでね、イリヤ。手紙を出しておいてもらえる?」
「畏まりました」
 イリヤは受け取った複数の書簡のうち一つの表面に記された宛名へちらりと目線を落とし、そっと穏やかな微笑を浮かべた。
「ひとつはアスティーヌ様、ですか」
「うん。ずっとアスティーヌ――妃殿下には自分でお返事していなかったから。今度こそ書かないといけないかなって思ったの」
 二年前にエルムドア帝国皇帝の弟君のところへ嫁いでからも、彼女は頻繁に手紙をくれた。もちろんデュシアンもきちんと返事を返していたのだが、 父を亡くしてからはずっとイリヤに代筆を頼んで、当たり障りのない返事ばかりをしていたのだ。 彼女とは首都にいた頃よりも、こうして離れて手紙のやり取りをするようになってからの方が親しくして貰っている気がした。 以前は家同士の――主に彼女の父君に因る――しがらみや、自分自身の貴族への偏見から認めることができなかったが、 今ではとても大切な友人だと断言できる。
「きっとお喜び下さいますでしょうね」
「そうだといいな。今まで代筆、ありがとう」
 そっと微笑めば、イリヤも人好きのする笑みを浮かべた。イリヤは使用人という事からこちらとはやや距離を置こうとするが、 いざとなると兄のように自分を庇ってくれる。ラシェとイリヤを足して二つに割ってくれたら素晴らしい兄ができることだろうと、 デュシアンはぼんやりと考えた。とりあえず、外見はどちらでも良い。
 しばらく無言で見つめてしまい、はじめは不思議そうにしていた若執事もだんだん困惑気味に首を傾げ出したので、 デュシアンは慌てて可笑しな思考から離れた。
「それから、孤児院のことも、ありがとう」
「私はなにも。アデル様のご人脈あってのことでございますから」
 そう喋りながら、イリヤは首に暖かな黒い毛皮を巻いてくれた。首が埋もれて顎まで温かい。
「それに、今後もラヴィン家との繋がりを大切にしたいおつもりなのでしょう」
「うん。でも、わたしではこうも上手くまとめられなかったから。感謝してるの」
「勿体無いお言葉です」
「じゃあ、行ってくるね」
 すぐに帰ってくる用事であるから声を掛けなかったのだが、継母が厨房のある廊下からちょっと焦ったように顔を覗かせて手を振ってくる。 その手は粉塗れで、振るたびに細かい粉が宙に飛び散っていた。デュシアンは苦笑して振り返したのち、 ラシェを伴って外へと繰り出した。
 突如の冷気に屋敷へもう一度入りたくなるが、そこは我慢。さくさくという雪を踏み潰す軽快な音を気に入り、 デュシアンは機嫌の悪い従兄の背を追いかけた。やはり雪景色を見ると、ここはもうララドではないと分かっているのに、 心臓がどきどきしてしまう。だから、なるべく周りを見ないように、従兄の背中だけを見て歩いた。
 前庭を抜けて門を出ると、まるで今自分に口があるのを思い出したかのように突然ラシェが声を掛けてきた。
「デュシアン」
「何? ラシェ」
 さすがに街路にでると雪は水っぽさを増し、 長靴(ちょうか)の踵やらつま先やらにべちゃべちゃと纏わりついて不快になる。 それらを削げ落とすように歩きながら、斜め前を歩く従兄を見上げた。
「あまりイリヤに心を許しすぎるな」
「え?」
「足元を掬われても知らないぞ」
 そう言われるそばから、変な歩き方をしていた為に足元が滑った。すぐにまわされた従兄の腕に支えられて転ぶことは回避したが、 「遊ぶな」と頭ごなしに怒られてしまう。別段遊んでいたわけではないのだが、そのことへ反論するのはとりあえず置いておいた。
「ラシェ、まだ喧嘩終わってなかったの?」
 また滑りそうになり、慌ててラシェの外套の袖を掴む。どうも溶けかけた雪の上は足をとられやすく歩きにくい。
「そうじゃない。あいつは……純信者だ」
 ラシェが足を止めたので、デュシアンも歩くのを止めた。著しくは、歩きながら喋るのは危険と思ったからかもしれない。
「そうだとしても、それの何がいけないの?」
 敬虔な神教徒であることの何が問題なのか。デュシアンは首を傾げた。
「純信者は聖職者に忠実で、使用人には不向きだ」
「どうして?」
「仕えるべき屋敷内の醜聞を法皇庁に報告するかもしれん」
「そんな……。そんなこと、イリヤがするはずないよ」
「どうしてそうだと言える。根拠は」
 何かに苛つくように、強い口調で詰問される。
「だ、だって。イリヤはずっと昔からラヴィン家にいるんでしょう?」
 イリヤは両親を早くに亡くし、ラヴィン家にて執事をしている祖父の元に引き取られたそうだ。 幼いうちから父アデルと親交を持って主従の契りを交わしていたと聞いている。彼は主を崇拝していた。 その彼が、主が亡くなったとはいえ、主の家を裏切るはずはない。それに、彼の誠実な人となりを知っているデュシアンには、疑いようもなかった。
「わたしは、イリヤを信じてるよ」
「……わかった」
 何か言葉を飲み込んだのだろう。ラシェはそれ以上何も言わなかった。




(2007.11.25)

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