墓と薔薇

閑話:双子の魔人(6)

 どのくらい時間が経ったのだろうか。太陽は、澄み渡った東の空の中央にいる。正午にはまだ まだ遠い。
 召喚に応じて出てきた彼らは、たまにちらちらとこちらを覗き込んでくる。象のように硬質そうな 青い皮膚に巨大な背丈、凹凸のない顔、それに加えてぎょろりとした大きな一つ目は金色で、いか にも悪者といった魔物の特徴を備えているが、眼差しは心配気で優しいような気もした。もしかしたら 体調を気遣ってくれているのかもしれないと勝手に想像し、ウェイリードは苦笑した。
「僕のことは、いいんだ。魔力を全部やるから、どうかそのまま……」
 ぐらりと身体が傾く。棒を持つ魔人の方向によろめき、彼が何も言わないのをいいこと に、その足に背中を預けさせてもらった。扇を持つ魔人がこちらを僅かに振り返る。
「ちょっとぐらい、いいだろ……」
 鼻の穴はあるけれど、盛り上がった鼻梁はない。唇はないが口らしき筋は横に走っているけれど、 ずっと変わらず閉じている。硬そうな皮膚に皺はなく、眉毛もないので表情というものが読めない。 彼らが何を考えているのかが全く分からない。それでも多分、背を預けたこちらを批難しているわけ ではないとは思う。
 地に根が生えたようにどっしりとした足に寄りかかりながら、ウェイリードは深い息を吐いた。 頭が痛い。眩暈が酷い。額から嫌な汗が噴出して顎を伝って滴り落ちる。意識が朦朧として、このまま 戦争を停められずに死んでしまうのではないかと危ぶむ。決意すら忘れて倒れこんでしまいそうに なった。
 腕を動かすのも億劫だけれども、懐剣を持ち上げてアミュレットの藍色の宝玉を眺める。自分たち の目と同じ色で、片割れのアミュレット。
「カイザー……」
 己の弱さに負けそうになって、すがるように片割れの名を呟く。生まれる前から、母のお腹にい る時から一緒だった。自分の半身のような弟。
 アミュレットの銀の台座に映った己の顔が、二つにぼやける。
――カイザー……
 死ぬのは怖くない。ただ、魔力や精神力の全てを出しきっても、正午まで持たないのではないかと 思えてならなかった。そうなれば戦争を阻止できない。
 遠く離れた片割れに助けを求めるように、ウェイリードはアミュレットに向かって語り掛けた。
「力を貸してくれ。……僕たちは、兄弟(ふたご) だろ」
 普段は双子であることを嫌がってみせているくせに、都合の良い時だけ片割れにすがる自分が どこか可笑しかった。
 不意に、魔人が二人ともこちらを振り返ったような気がする。でもそれを確認する気力は なかった。
「そうだよ、貴方たちと同じ。僕は双子だ」
 似通った姿であることに腹を立てていがみ合っていた魔人たち。でも彼らも自分も、本気で 双子であることを嫌だと思ったことなど一度としてなかったのだ。自分の半身を嫌いになれる はずがない。ただ少し、意地をはっているだけ。
「……え?」
 ふと、誰かが自分を呼んだような気がして目を丸くする。それは片割れの声だったように思えて ならない。こめかみを刺激する脈動が、驚きに和らいだ気がする。
 片割れももしかしたらこちらを心配して、祈ってくれているのかもしれない――そう考えて、 ウェイリードは自分の想像に苦笑した。あの弟が≪祈る≫なんて行為をすれば嵐が吹く、と。
 少しだけ心が楽になる。陽気で活発な片割れの存在を傍に感じて、勇気が湧いた。離れていても、 どこかで繋がっているのかもしれない。それはとても素晴らしいことだと、今の自分なら素直に そう思えた。
 汗ばんだ顔を上げ、空を眺める。
――綺麗な空
 薄い雲は地上で何が起きていようとも変わりなく蒼い空の中をのんびりと流れ、首都の方角へと旅 をする。同じ雲を片割れが首都で見るに違いないと変な確信を持ち、ウェイリードは笑った。
 依然、意識は朦朧とする。それでもまだ魔力も精神力も尽きず、召喚を続けられる気がした。 先ほど切った手首の傷に強く触れて、その痛みで意識を繋ぐ。意識さえ失わなければきっと どうにかなる。先ほど失いかけた希望は取り戻したのだ。あとは強い決意を胸に、 アミュレットの形を手のひらに覚えさせるようにしっかりと握るだけだった。


 そろそろ正午に近かった。魔力の消費はもはや限界を通り越しているのだろう。ウェイリードは 先ほどから大地の魔人の足に身体を預けており、殆ど動かない。しかし魔人たちが消えない事から 考えれば、意識はあり、精神力と己の生命力で召喚を成立させているのだろう。あの小さい体の どこにそんな力があるのか。セリムはただただ祈ることしかできなかった。
 部下たちは皆、激しい強風を真っ向から受け、食い入るような面持ちで静かに低地を見下ろして いる。(わめ)き散らしているクラーナハ 侯爵一派を気にする者などもはや誰もいなかった。
「閣下!!」
 その時、参謀が低地ではなく風の壁のある背後を指差した。そちらを振り返れば、驚くような光景 が広がっていた。
 風の壁ができた亀裂の向こう側で、何時の間にか集まっていた後続部隊の騎士たちが一様に笑顔を 浮かべ、それぞれ武器を投げ捨てて甲冑も脱ぎ始めたのだ。彼らの傍に控えていた皇帝派の間者たちは 縛られ、こちらから見えやすい位置に転がされる。口々に何かを叫んでいるが、風の音が邪魔をして 聞こえない。しかし、口笛を吹き、飛び跳ね、隣りの者と抱きつき、華奢な若者を胴上げし、 尋常ではない喜びを身体全体で表現していた。後続部隊を率いる将が、年甲斐もなく笑顔で両手を 上げて円を作った。
 セリム・ハースはそれを見た途端、弾かれたように大股でクラーナハ侯爵の傍まで近づき、その 襟首を掴んで地へ投げ飛ばした。突然のことに唖然とする侯爵を副官たちが羽交い締めにする。 侯爵の護衛たちも同様にして拘束した。
「血迷ったか、セリム!!」
 泡を吹きながら叫ぶクラーナハ侯爵を、誰もが無視した。
 皆の目がこちらを注目するこの瞬間をずっと待っていた。セリムは大きく息を吸い込む。
「皇帝陛下の崩御に伴い、皇太子殿下首都掌握の報あり!!」
 強風にも負けぬ宣言に、息を呑む一瞬の静寂ののち割れんばかりの歓声が上がった。それは激しい 風音をも勝り、西の丘陵は狂喜の熱に包み込まれた。
「白旗を掲げろ!! ウェイリードに見えるように高く掲げるのだ!!」
 機転の利く参謀は『失礼』と適当な口ぶりで呟き、拘束されているクラーナハ侯爵の純白の マントをひん剥いた。でっぷりとした体に合わせて作られた特注品のそれは、面積も広い。 遠くまでよく見える良い旗となるだろうと、騎士たちは多いに笑った。


 太陽はまだ頂点ではなかった。身体は完全に魔人の足に預けたまま、少しでも動けば均衡を崩して 倒れてしまう。もはや自分の力ではただ立つことすら不可能となっていた。それでもまだもう少し頑張 らなければいけない――そう思いながら手首の傷に触れたが、痛みを感じなくなっていた。 そんな時、耳が風以外の音を拾う。
 人の声。それも大勢の人が好き勝手に叫ぶような歓声だ。こんな強風の中、どうして人の声が聞こえ るのだろうかと不思議に思いながらも、何かに導かれるようにウェイリードは顔を上げた。
 正面、西の丘陵に白い何かが翻っている。視界が何十にもぼやけているらしく、とんでもなく大勢 の騎士たちが丘陵の端にずらりと並び、武器を捨てて手を振っているのが見えた。
――夢?
 はっきりしない意識に、ふわりとした緩やかな風を感じる。隣りに立つ風の魔人が山鳥の扇を振るう のを止めて、最後とばかりにこちらへ小さな冷たい風を送ってきたのだ。なんで勝手に手を止めるの だろうかと不審に思って魔人を見上げれば、その丸い金色の目が導くように丘陵を向いたので、 誘われてもう一度そちらへと視線を戻した。
 高く掲げられた白い旗。丘陵に並ぶ大勢の騎士たちは武器を持たず、口々に何かを叫びながら手を 振っている。それは目の錯覚ではないのだ。
「クーデター……」
 ウェイリードは茫然と小さく呟いた。
「僕は――」
 やり遂げたのだ。その達成感と感動に、頭がくらくらした。喜びに目が滲む。
 彼らは誰も死ななかった。家族とまた会えるのだ。それが心の底から嬉しかった。
 ウェイリードは力を振り絞って身体を魔人の足から離し、己の左右に立つ双子の魔人を見上げた。 随分と高い位置から見下ろしてくるぎょろりとした二つの目を交互に見やってから微笑んで、頭を 下げた。
「ありがとうございました」
 そして、頭を下げたまま、均衡を崩して倒れこんだ。身体が重くて腕も動かず、受身は取れない。 衝撃を覚悟して目を閉じた。
 しかしいつまで経っても痛みが自分を襲うことはなかった。どうしたものかと目を開ければ、 地面に激突する一歩手前で、宙に浮いていた。身体に触れるのは柔らかい感触の山鳥の羽毛。 魔人の扇が激突を防いでくれたのだ。静かに地面へと横たえられると、羽毛が鼻を微かに (くすぐ)りながら離れていく。
「お疲れさま、ヴィクトールの子ども」
 どちらの声かは分からない。唐突に頭上から降ってきた言葉に驚き、ウェイリードは確認しよう と視線を動かすが、その時にはすでに双子の魔人は姿を掻き消していた。先ほどまで傍にあったあの 暖かみのある重量感はもうない。すぐに消えてしまう事もないのにと拗ねるも、頬を撫でる風と受け 入れてくれる優しい大地に、一瞬感じた寂しさは吹き飛んだ。彼らは目に見えずともこうして傍に いるのだ。
――人間の言葉を喋れるなら、もっと早くに声をかけてくれればいいのに
 身体は全く言う事を聞かないが、それはさしたる事でもないかのようにウェイリードはうつ伏した まま笑った。
――カイザーも、ありがとう
 この繋がった空の向こうにいる片割れに、今なら素直に言える気がした。『双子で良かった』と。 笑顔でそう告げれば、片割れはきっと気味悪がるにきまっている。それを想像すると、もっと おかしくて笑いが込み上げてきた。
 しかしそんな楽しさも、東の丘陵から駆け下りて来る馬の蹄の音で掻き消えてしまった。―― 父が、来る。
 アイゼン家は六百年前のカーリア王国併合当時から現在まで、北のバルバロッサ湿地帯、南の ウォーラズール山脈、東のベイヘルン永遠平原と並んで、首都を守る西の要として尊重されてきた。 アイゼン公爵領が完全な自治を許されているのは、その要としての役割を期待されているからだ。 だからこそ今回の戦争は不本意であっても、アイゼン家の強さと存在意義を今一度首都へ知らしめて 地位を盤石なものとする良い機会でもあり、真っ向から受けて立つべきだったのかもしれない。 父がどう判断していたのかは、分からない。
 けれども、そんな判断は自分にはできないと思った。きっと永遠に。それは、アイゼン家当主として は失格なのかもしれない。父が公爵としてこの行為をどう思っているか、ウェイリードはどこまでも 不安を募らせた。尊敬する父から言い渡される言葉を想像し、胸が重くなる。
「ウェイリード」
 片膝を付いてしゃがみこんだ父に上半身を起こされるように抱き上げられ、呆気に取られた。乳飲 み子のようで少し気恥ずかしい。ダリル先生や見知った精鋭騎士たちも父の背後に控えている のだ。
「ウェイリード」
 汗で額に張りついた前髪を、震えた父の手が払う。その藍色の目は、見た事もないぐらい 苦悩に揺らいでいた。こんなに動揺している父を見るのは生まれて初めてで、ウェイリードは驚きと 緊張に身を固めた。
「無茶をしおって」
「父上……、怒っておられますか?」
「当たり前だ」
 いつもよりも切れのない声で、覇気もなく怒られる。
「僕は、……嫡子失格ですか?」
 恐る恐るそう訊ねれば、父の眉間に余計に皺が寄った。
「嫡子失格――か。どうだ、お前たち」
 父は背後に控えていた部下へと振り返る。すると彼らはすぐにも跪き、胸に手を当てて深く頭を 垂れた。もう神殿騎士ではない師ダリルまで、迷いなく頭を垂れている。
「これが答えだそうだ」
 状況を飲み込めないでいる息子に、父は珍しく微苦笑を浮かべてみせた。
「お前は私の誇りだ。ウェイリード」
 その一言に、身体中から力が抜けていった。父はこんな自分へ当主失格と認定するどころか、 誇りだと言ってくれたのだ。ウェイリードはみるみるうちに自然と頬を緩ませた。
「父上――」
 何と言葉を返して良いのか分からないのに父を呼び、けれどもどうにも目が回って気持ちが悪 かった。
 体調の悪化が伝わったのか、肩を抱く父の手の力が一層強まる。その力強さに、まだ残っていた 己の使命を思い出した。
「父上。……ハース将軍を、奥方さまの元に、無傷で帰してあげてください」
 父は弾かれたように目を見開いた。しばしこちらを見つめた後、神妙な面持ちでゆっくりと 頷いた。
「約束しよう。お前が危惧するような事は起きぬ。必ず生きてリリーの元へ返す。セリムに 責任など絶対に取らせない」
 父がそう言うならば、何も心配はいらない。大きな安心感にウェイリードは意識が薄らぐ中、 微笑んだ。とても眠かった。身体中がだるくて、瞼を開けていることすら難しかった。ただ、眠っても 良いのだと思える今が、幸せだった。
「ウェイリード」
 疲れによる幻覚でなければ、瞼を閉じる前に見た父は泣いていた。アイゼン家の軍神と恐れられた 負け知らずの騎士が、部下の前にも関わらず、静かに泣いていたのだ。
 ウェイリードは深い幸福感に包まれながら眠りに陥った。
 その後、勘違いした父に揺さぶられても半日ほど目を覚ますことはなかった。

 クノッサスの祝福の風が喜びを謳うようにくるくると舞いながら、枯れかけた冬芝の裾を揺らし、 どこまでも遠くへと吹き抜けていった。



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 身体がだるくて動くのも億劫で、寝台の中で小さく丸まった。視界がぼんやりしていて気を抜くと 眠ってしまいそうになる。それでも弾んだ胸がずっとどきどきと早鐘を鳴らしていて、眠るなんて 勿体ないと惑わせてきた。
 公爵領から届いた一報を聞いた時、傍に付いていた母は卒倒してしまった。しかし片割れの自分と しては鼻が高いものだった。さすがは自分の兄だと高揚しドキドキして、絶対に睡魔に負けるものか と手に持つアミュレットを握り締めた。
「カイザー。言いつけを破ったね」
 待ちかねていた人物の来訪に、カイザーは重い身体を起こして喜んだ。怒ると怖い師がちょっと 不機嫌そうな表情で入室してきても、お構いなしに捲し立てるように喋った。
「先生、ウェイが戦争を停めた! 高位精霊を召喚したんだって! 双子の魔人だ!」
「こらこらカイザー。魔力を大量に失っているんだ、安静にしていなさい」
 飛び跳ねたい勢いで動くこちらの頭は師に押さえ付けられ、枕に逆戻りとなる。
「十二歳には低位精霊の召喚すら許されていないのにね」
 困ったように目を細めながらそれでもどこか満足そうに師は微笑み、蹴飛ばしてしまったシーツを 引っ張って肩まで掛けてくれる。こういう手際の良さはさすが、童顔でも父親なだけあるとカイザーは 密かに感心していた。
「二人とも元気になったら罰則を覚悟してもらわないと」
 腰に手をあててちょっと演技がかった仕草で師は宣告し、顎を反らす。
「えー?!」
「ウェイリードは召喚魔法を使用したし、カイザー、君は祈りに魔力を込めた。二人とも、私との 約束を破ったのだから当然だろう?」
「だ、だってさ」
 師の罰則は体力勝負のことが多い。アイゼン家邸宅前庭の草むしりや、王立植物園の動物小屋の 掃除などなど。魔法に関わることであるのならもう少し楽しめるのだろうが、罰というだけあって、 楽しさを見出せない作業を課してくる。師はそういった作業を見付けるのが実に上手いのだ。
「俺は悪くないし……」
 罰が嫌で小さく反論すれば、しっかり聞こえていた師がにっこりと笑った。
「これだけ魔力を失って倒れておきながら、自分は悪くないっていうのかい?」
 声が低い。笑顔なのに、眉間の皺がすごい。直視できないほどの何かがその表情に満ちており、 カイザーは慌てて視線を逸らした。
「はい、すみません。お――僕は悪いことをしました」
 師の迫力に気圧されて、項垂れると謝った。
 それに、魔力を失ったのは事実なのだ。正常時から考えると三分の二は無くなっている。
「素直で宜しい」
「でも先生」
 師が調子を戻したのを目敏く捉え、弁解も試みた。
「俺、ウェイの声が聞こえたんだ」
「え?」
「呼ばれたような気がして、気づいたら魔力を流してた。全部、アミュレットの宝石にに流れこん でて、途中で怖くなったけど、ウェイに届いているような気がしてそのまま続けたんです……」
 それまではずっと、言い付け通りにただ祈っているだけだったのだ。しかしある時突然、片割れの 声が聞こえたと思ったら直後に動悸が激しくなって、酷い頭痛と眩暈に襲われた。気づいたらどこも 身体に異常はなくなっていたけれど、魔力が勝手に流れ出していたのだ。
 その時は、片割れがどんな状況に陥っているかなんて知らなかった。クロイツベルクの城で 祈っているのだと思っていたのだから。
「……そうかい」
 神妙な面持ちで了解したように頷くと、師は金色の前髪に手を差し込み、深い息を吐いた。
「君が倒れたと聞いて、そうかなとは思ったよ。ウェイリード一人の力では魔人たちを半日も召喚 したままでいられるはずがないからね。ヴィクトールの血に甘い彼らも君の祈りに気づいた んだろう。君たちが双子だということにも運命を感じたのかもしれないね」
「俺の魔力が役に立ったの?」
 片割れのアミュレットの宝玉に吸い込まれていく己の魔力を感じていながらも、半信半疑だった。 驚きに目を丸くすれば、師は首を縦に振った。
「カイザーの助けがなければ、ウェイリードは無事では済まなかっただろうね」
「え?!」
「魔力は血と同じなんだよ、忘れたかい? 魔力は≪血≫、魔法は≪傷≫として考えると分かり易い と教えただろう」
 驚きに上半身を起こしそうになったカイザーの体を、師は寝台へ押し戻しながら続けた。
「傷を負えば流れ出る血の如く、魔法を使用すれば身体に取り巻く魔力が減っていく。傷の規模が大 きければ血が大量に流れてしまうのと同様に、魔法の威力が大きければ魔力の減りも激しい。召喚魔法 は魔法の中でも特に大きな傷だ。しかもウェイリードが召喚したのはただの精霊じゃない、高位 精霊。召喚した状態を続ければ瞬く間に魔力は底を尽きてしまい、大人でも半刻は続かない」
 一旦そこで言葉を止めて、声を落とした。
「魔力は血と同じように、減りすぎれば命にかかわる。半日も精霊を召喚し続けた ウェイリードが無事なのは、奇蹟に近いのだよ」
 カイザーは報を受けてから初めて、倒れた母の気持ちを理解した。己の身体が引き裂かれるような 感覚に身体の芯が震える。全身の血が、下がったような気がした。
「……ウェイは、死ぬ気だったの?」
 師は何も答えなかった。沈黙の答えに、カイザーは憤りと背筋が凍るような恐怖を覚え、動揺に 顔を強張らせた。
「ウェイは馬鹿だ。戦争を停められたって、自分が死んじゃったら意味ないのに!」
 恐ろしさを拭うように片割れを責めたてた。そうしないと、あまりの衝撃に耐えられそうに なかったからだ。
「自分の命よりも大切なものがあったのかもしれないね」
「命よりも大切なもの?」
 そんなものはあるものかと師を睨むように見つめる。穏やかな翡翠色の双眸がこちらを 見下ろしてきた。
「さあ、私には≪騎士≫という者の気持ちは分からないからね」
 師は暗に『君の方が分かるのではないか』と告げてきた。確かに、アイゼン家の男子は生まれ出でて の騎士とされる。物心つく前からその心得を教えこまれてはいるが、はっきり言ってしまえばそんな ものは自分には身に付いていない。なんだかんだ言いながら一緒に悪戯を敢行する片割れにだって、 騎士道なんてものに目覚めているようには思えない。嫡子だからと礼儀正しくしてはいるけれど、 それは父や人の目を気にしているからに過ぎない。
 自分の命を掛けて誰かを救おうなんて、そんなご大層な信念を同じ子どもの片割れが持っている なんて思いたくない。そんな勇気なんてなくていいと、カイザーはシーツを手繰りよせて頭まで 被った。
「俺には分かんないよ! 俺は見ず知らずの人間よりも、ウェイの命の方がずっと大切だもん。 知らない騎士たちが生き残ってウェイが死んだりしたら、俺……」
 子どもじみた事を言っていると自覚がある。片割れの行いはアイゼン家の人間として立派だと 褒めるべきなのだろう。しかし、もし片割れが命を落としてしまったら、自分たち家族はどうなる のか。それを考えはしなかったのか。自分たちはウェイリードにとってその程度の 存在なのか。悔しさと悲しさにカイザーは頭を抱えた。
「カイザー」
 シーツ越しに、師の手が触れる。
「家族を大切に思う君の気持ちはとても素晴らしいものだよ。帰ってきたら、そのままウェイリードに ぶつければいい」
「……ぶつけても、いいの?」
 思いを肯定されて、カイザーはシーツから頭を出した。にっこり笑った師を見上げる。
「当たり前だろう? 君たちは兄弟だ。そうやって自分の気持ちをぶつけて、相手に自分がどれだけ 相手を大切に思っているかを教えてあげるんだ」
「でも……」
 感情的には許せない行為でも、世間一般からは賞賛されるべき行為だったとは分かっていた。 片割れが両軍を止めていたからこそ、戦争を回避できたのだ。片割れは大勢の人間の命を救ったの だから。それを批判するなど、許されることではないと思っていた。
「崇高な理念における自己犠牲なんて、家族にしてみれば≪糞食らえ≫だろう?」
 上品な深紅の礼服に身を包み、何をするにしても気品ある優美な師は微笑んだまま、 聞き間違いでなければ『糞』などという言葉を発した。
 呆気に取られてぽかんと口を空け、それからしばらくして、見た目とは不釣合いな師の発言に 苦笑した。
「……ちょっと先生を見直した」
「お褒めに預かり光栄です」
 師は少し変わった人だった。にこにこ笑いながらなんでも受け流して、言動が演技がかる時があっ て、でも真面目に話を聞いてくれて、思いがけない言葉をくれることもある。たまに常識外れの ことを堂々と言う事もあるし、世界の中心は自分だと思っているんじゃないかと疑う時も あるけれど、全部をひっくるめて尊敬できる人だった。父とは違った意味で、傍に居て安心できる 存在だった。
「先生」
 カイザーはシーツから手を出し、アミュレットを見せた。
「俺、ウェイが帰ってきたらアミュレットのこと、謝るのよそうと思ってるんだ」
 それは、自分の魔力がアミュレットへと吸い込まれていくのを感じた時からずっと考えて いたことだった。今は、そうする方が良いのだと確信している。
「このまま俺のアミュレットがウェイの手元にあれば、ウェイに何かあった時、きっとまた 俺が手伝えるかもしれない。だから知らないふりして、このままにしておこうと思うんです」
 師は何も言わず、幼子にするようにこちらの頭を撫でた。子ども扱いされて癪ではあったが、 その手を振り払うのは躊躇(ためら) われた。諦めてそのまま続ける。
「俺、修行をもっともっと頑張ります。いつでもウェイに魔力を分けてあげられるように」
 そう宣言すれば、師はいつもよりもずっと優しく微笑んだ。
 カイザーも笑い返し、額に乗る暖かな手のひらの感触に導かれるようにそのまま眠りについた。
「ゆっくりお休み、ふたりとも」
 最後に聞こえた密やかな声に、口許が(ほころ) んだ。



 エルムドア帝国内のクーデターは成功を遂げる。表向きは現皇帝の崩御による政権交代とされており 皇太子たる第一皇子が帝位を継ぐこととなった。こうして暴戻の限りが尽くされた帝国内外 は、ゆっくりとだが確実に安寧を取り戻していくこととなる。
 しかしセリム・ハース将軍は多くの者から引き止められるも、将軍位を返上。妻子を連れて領地へ と戻り、地方における騎士の育成と教育に力を注ぐようになった。彼が表舞台へと出てくるように なるのはそれから十年以上経った後となる……。

(2007.8.1)

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