墓と薔薇

閑話:双子の魔人(5)

「なぜウェイリードが……」
 エルムドア帝国将セリム・ハースは嵐のような風を真正面から受け、西の丘陵にて立ち尽くして いた。手に持つ望遠鏡を部下へと預け、戦慄く手を額に当てる。こちらとアイゼン騎士団の布陣する 東側の丘陵との間の低地を北から馬に乗って疾走してくるのは、見間違うはずもないアイゼン家の 長男。実の息子に等しく思っているウェイリードだった。
 甲冑も着けず軽装で、主だった武器も見えない。馬には鞍も手綱も着いておらず、手に持つのは なぜか木の枝。頼むからそのまま疾走を続けて南に抜けてしまってくれと祈る。
「気でも()れたのか。それとも己の命で 戦を停めようとでも思っているのか」
 背後から嘲りが聞こえ、僅かに振りかえる。
「……クラーナハ侯爵」
 騒ぎを聞き付けたのだろう、この世で一番憎らしい壮年の男が扇で顔を半分隠し、そこに 立っていた。
 己の欲望の為に皇帝の犬となり下がったその侯爵は、欲望のまま搾取を続けた象徴かのような でっぷりとした腹を煌びやかな服装で包み、浮腫(むく) んだ指の全てに金細工の指輪をはめていた。その恰好から分かる通り、命を掛ける 戦いに参加する気は毛頭ない。 戦いがはじまればすぐにも後退し、安全な場所まで避難する。こちらが皇帝の (めい)に従って時間通りに戦争を仕掛けるかどうかを見張る 為にここにいるのだ。
「自分の命を楯にして戦争を停めようとでも考えているのか。それほどの価値があると自分で思って いるとすれば、どれだけ頭の悪いガキなのか。アイゼン家もたかが知れているな」
 喉元まで出かかった反論を、セリム・ハースは飲みこんだ。この侯爵を説き伏せようと しても無駄なのだとここ数ヶ月の間で厭というほど思い知ったのだ。結局、皇帝は皇太子派の厄介払い も兼ねてこの戦争を引き起こそうとしているのだから。
 西カーリア大陸の多くの国々を軍事力でもって蹂躙し続けたエルムドア帝国の目下の敵は、東西の カーリア大陸を跨いで領土を持つ大国カーリアとなった。カーリアは長年、戦争 から遠ざかっている為に軍隊としての力を弱めていた。叩くならば、大義名分のある今なのだという。 しかし、バルバロッサの蛇竜を帰順させたダリル・フォスターや、大隊を一人で捻り潰せる ダグラス・ルーズフェルト将軍など際立った力を持つ人材も多く、それを≪危険人物≫と称して 力の程度を外部へ漏れないよう隠してしまうカーリアとの戦争は大変危険な賭けでもあった。
 それでも戦いを仕掛ける理由はウォーラズール山脈近くの国境沿い、ハイメル地方の奪還にあった。 鉱物資源豊富なハイメルは、度重なる敗戦によって六百年前からアイゼン公爵家所領地となって いる。貪欲な皇帝派の貴族たちは悪戯に戦争を仕掛けてアイゼン騎士団を疲弊させ、首都カーリアに 圧力を掛けてこの地をブライト皇子と引き換えに奪い戻す狙いなのだ。
「馬が足を止めそうです!」
 部下の声に、セリムは絶望的な眼下を見おろした。
 ウェイリードは馬の足を止め、両軍の合間となるその場へと迷いない様子で飛び降りた。
 いくら峡谷の風があるといっても、こちら側からの矢や魔法はあの低地まで十分に届く。 騎馬隊の総突撃となれば逃げ場もなく背の低い草木と共に踏み潰されるだろう。
 もうすぐ朝日が昇る。薄紫色の空と地平線の間に鮮烈な光の末端が顔を覗かせた。 幾許(いくばく) も猶予がない。セリム・ハースは絶望に己の硬い黒髪を掻き毟った。



 ウェイリードは狭い低地を南へと疾走する愛馬の鬣を強く引いた。彼女の足が緩まったところで、 一気に飛び降りる。後方とした坂の向こう、東の丘陵には父の指揮するアイゼン騎士団が。正面の 緩やかな坂の頂き、西の丘陵にはハース将軍率いるエルムドア軍が。
 キアの筋書きの通り、戦争を仕掛けるかたちになるのでアイゼン家は先に動けず、エルムドア軍も こちらが何もしなければ攻撃してくる気配はみせない。しかし日が昇ればたちまち状況は変わる。
「行くんだ」
 もし失敗すればここは凄惨な雨が降り、激戦の地となる。愛馬の口元を押し、もと来た道へと 戻るよう指示する。しかし彼女は梃子(てこ) でも動かなかった。
「……お前は忠義者だな」
 肝の座った愛馬に微笑みかけ、勇気を貰う。嵐のような風が後方から吹き抜けていく。寒さなど 微塵も感じなかった。
 機は熟した。
 ウェイリードは手に持った長い枝を振り、枯草が点々と残る黒土の大地に思いきりよく円を描いた。 樫の木の枝は魔力と相性がよく、描かれた円はたちまち蒼い光を上空に向けて発する。召喚魔法が戦い には向かないと言われているのは、この不必要に目立つ光のせいでもある。つまり、敵方に対して 召喚魔法を使用するから対策を練れと宣言しているも同然なのだ。だからこそ、ここからは迅速に 続きを描きあげてしまわなければならない――弓矢が降ってくる前に。
 己の身体を幾重もの矢が貫くというおぞましい結末を予期しながらも、ウェイリードは死をもう 恐れてはいなかった。死を恐れて何もしなかったことを一生悔やみ続ける未来の方が、ずっと恐ろしい と知ってしまったからだ。
 陣を描き終わると枝を投げ捨て、束帯から引き抜いた飾り剣で一気に手首を切り裂いた。 大地に赤黒い血が飛び散って染みこむ。枯れかけた雑草を濡らす朝露が朱色に濁った。
 後方からの風がぴたりとやみ、張り詰めた空気が辺りを包み込む。
「これ以上、峡谷を血で汚されたくなかったら、出てこい!!」
 この一度きりの機会を失敗するわけにはいかない。ありったけの声を張り上げて、 ウェイリードは魔力を放出した。


「召喚魔法を行使する気です! 閣下、如何なさいますか?」
 地に何かを描きはじめたウェイリードの異変に対して年若い参謀が声を荒げたが、 セリムは何も決断できないでいた。
 枝が通った跡には蒼い光が発せられ、紋様が浮かび上がっている。形から考えれば、確かに 精霊や聖獣を召喚する魔法陣だろう。しかしウェイリードはまだ十二歳、召喚魔法など 行使できる年齢ではない。
「何をしている、急ぎ矢を放て! あのガキを射殺せ!」
 クラーナハ侯爵が扇で眼下を指し、怒声を浴びせて弓矢隊を急かす。
 それを見てセリムは我に返り、侯爵の肩を強引に引っ張った。丸い体がよろめく。
「ウェイリードはまだ子どもだ! 召喚魔法などできぬ!」
「≪魔王の子≫を忘れたのか?」
 侮蔑するような目でこちらを睨む侯爵の言葉に、この世の終わりの如き恐ろしい光景を思い出す。 全てが灰燼と化したあの地は一年経っても未だ手付かずで灰の雪が降り積もっている。
「十歳にて国一つ滅ぼした我が国の第三皇子のことを、よもや忘れたわけではあるまい。あの アイゼン家のガキがそうでないとも限らん」
 そう言いながらクラーナハ侯爵は肩を掴むセリムの腕を乱暴に払い退けて乱れた襟元を整え、 声を張った。
「あのガキを血祭りにあげろ!」
 狂気染みた号令に、弓矢隊が騒然となる。
 率いる少将が指示を仰ぐように視線を寄越す。しかしセリム・ハースは指示を出せなかった。
 ≪魔王の子≫と呼ばれた、憐れなほど強大な魔力を持つ皇子のことを忘れたわけではない。ウェイ リードもそれに匹敵する魔力を持ち合わせていないとも限らない。それでも、己の子とも思う少年を 射殺す命令を出せるはずがない。そんな私情が心を支配した。
 ウェイリードのことは赤子の頃から知っているのだ。小さな手のひらをこちらへ伸ばして笑う、 可愛らしい赤子だった。この十二年、成長をずっと見守ってきた。養子に欲しいという願いは 我が子の生まれた今ですら、強く残っている。何度、ライノールを困らせたことか。
「ハース将軍」
 クラーナハ侯爵がすっと身を寄せてきて扇の向こうで厭らしく囁いた。
「貴公一人の叛逆で、どれだけ多くの人間が命を落とすと思っている?」
 途端に、現実に戻される。絶望と悔しさに顔が歪んだ。激しい憤りを抑え込む。
 妻と我が子だけならば、どんな思いをしようとも卑劣な愚行に荷担するつもりはなかった。その 覚悟は己にも妻にもできていた。しかし人質は彼女らだけではない。共に出陣した部下たち の大切な家族や恋人たち、数万にも及ぶ命が自分の采配に掛かっているのだ。
 セリムは苦々しい思いで眼を閉じ、顔を背けた。震える拳を握り締める。
――許せ、ウェイリード。お前が寂しくないよう、私も必ず後を追う
 息子に等しい少年を射ることに、もう迷いはなかった。
 顔を上げ少将へと目配せし、攻撃の許可を与える。百の弓手が矢を( つが)えた。彼らの誰一人として、子どもを射殺すことなど望んでは いない。その後悔を全て己が引き受けようとセリムは将として決意した。
 開戦の狼煙となる手を振り上げる。その瞬間。
 空に吸い込まれるかのような強烈な突風が真正面の低地より吹きつけてきた。眼を開けることを忌む ような激しい強風の連続に、前列へと歩み出て弓を構えていた騎士たちは体勢を崩し身を屈め、 弓も矢も風に攫われた者が殆どだった。
 丘陵に居る騎士たちは皆、足を踏ん張って斜めに構えることで強風をなんとかやり過ごしている。 鍛えあげた騎士よりも更に一回り大きな体躯のセリムでさえ、立っているのがやっとだ。線の細い者 たちは軽く吹き飛ばされて後方に倒れこんでいた。
「なんだ、あれは!」
 部下の声が聞こえ、激しい風に顔を歪めながらセリムは目を凝らし低地を見下ろした。
 ウェイリードを挟むようにして、人間の三倍はあろう程の身丈の巨人が二体、どっしりとそこに 立っているのだ。二体はそっくりな外見で、剥き出しの腕や胸板は筋肉で盛り上がり、その皮膚の色は 毒々しい青色だった。ぎょろりとした大きな一つ目が灰金色の髪の間から覗いて いる。一見して凶悪な魔物と見紛う忌まわしい姿であったが、不思議と恐怖は感じなかった。
 よく見てみると、一体は右手に山鳥の羽で出来たような大きな扇子を持ち、それを振りまわすこと でこの強風を生み出していた。もう一体は左手に太い木の幹のような棒を持ち、それで数度地面に 叩き付けて足元が揺らぐ程の地震を創り出している。それぞれ違う力を扱っているようだ。
 あれら巨人が、ウェイリードの呼び出したものなのだろう。しかし魔法陣に呼び出された精霊を幾度 か目にしたことがあっても、あのような異形の者は見た事がない。低位の精霊であれば姿は皆 同じ。だとすれば、あれらは聖獣か高位精霊となる。
 十二歳の子どもが熟練魔道師も難儀する召喚魔法を成功させたのだ。こんな状況にも関わらず、 セリムはウェイリードを誇らしく思った。
「あ、あれは聖獣ですか?」
 一個師団を潰す力を持つ聖獣かと恐れ慄いた誰かが叫べば、参謀が応えた。
「違う、高位精霊の、≪双子の魔人≫です!!」
「双子の、魔人……?」
 セリム・ハースはその名を繰り返した。
 双子の魔人――それはこの地クノッサス峡谷に住まう高位精霊の通称だった。似通った姿だが、扱う 力の性質は全く異なる。扇を持つ方が風の高位精霊で、木の棒を持つ方が大地の高位精霊なのだろう。 ヴィクトールが契約を交わして以降、彼らはアイゼン家にとって恵み神となったが、戦いの為の 召喚に応じることは一度としてなかったと言われている。それなのに何故、この戦場への召喚に応じた のか。
 疑問に思考が飲み込まれながらも、吹き止まない強風に煽られて飛ばされそうになった細い参謀の 背を咄嗟に支えた。
「も、申し訳ありません」
「屈んでいろ」
 華奢な参謀の肩を押さえて強制的に座らせると、セリムは自陣を見まわした。
 襲いくる竜巻のような強風と地震の前触れのような不安を増幅させる低い地響き、時折突き上げて くる地中深くからの衝撃に、自陣は隊列を大きく乱していた。馬は落ちつきを失って激しく嘶き、 騎士たちは騎乗は危険とみなして馬から下りている。一歩でも動けば身を持っていかれそうな風の 中では立っているだけで精一杯で、とても前に進めるものではない。圧倒的な精霊の力を前にして、 身体を屈めるように座り込む者が増えていく。
 自陣を見渡し、疑問は更に膨らんだ。相手は人間が太刀打ちできないほど強大な力を持つ高位精霊で あるはずなのに、怪我を負っている者が全くいないのだ。それどころか、風に煽られて無防備に均衡 を崩した者が、急激に伸びた草の塊によって地面との激突を防がれたのを目の当たりにする。それは 人間の魔法では間に合わない対処の早さだ。
「まさか」
 セリムは部下の手から望遠鏡を奪い取った。
 遠方、東の丘陵に布陣するアイゼン騎士団にも同じ風が吹き付けており、隊列どころではなくなって 混乱をきたしているのが見える。クノッサスの祝福の風がアイゼン家に仇なす方向から吹くことなど、 契約以後あっただろうか。ウェイリードが呼び出した高位精霊たちは、味方であるはずのカーリア陣地 をも襲っているのだ。
 望遠鏡をもう一度部下へと放り、低地を見下ろした。
 扇を持った魔人は風を均等に振りまき、もう一方の魔人が振り下ろした棒から円状に力が広がって 行く様が波動となって目に見えた。風も地震も、等しくこの戦場一帯を駆け巡っているのだ。
 その目的は一つ。エルムドア軍も、アイゼン騎士団すらも動かさないこと。きっとそれは 正午までの時間制限付き。それが意味することは――。
「ウェイリード、お前は……」
「なんなんだ、この風は! あの化け物どもをガキもろとも射殺せ!  魔道師はどうしたのだ!!」
 風の力がほんの少し弱まった時クラーナハ侯爵の叫び声が耳に触り、振り返った。腰でも抜かし たのか己の側近に両脇を支えられながら半歩づつ後退し、青ざめた表情で当り散らしている。
「この強風では矢も魔法も意味を成しません」
 どこか冷静に返す参謀は、もしかしたらウェイリードの企みに気づいたのかもしれない。セリムは 静かにその遣り取りを眺めた。
「な、ならば後方の部隊に援軍を頼め! 高位精霊と契約している魔道師を連れてこい!!」
 怯んだ侯爵は今度は護衛騎士に向かって大声で命じた。しかし返ってきたのは悲鳴のような声 だった。
「だめです、風の壁ができていて通れません! と、閉じ込められました!!」
 先ほどの地震で何時の間にか後方の地面には亀裂が走り、南北に伸びていた。低地から吹き 上げてくる強風はある程度上空まで昇りつめると方向を変えるらしく、勢いを衰えさせることなく地面 へ向かって滝のように降り注ぎ、その亀裂に吸い込まれていた。深い亀裂と風が、丘陵の陣内に いる人間を閉じ込めているのだ。これでは背後に下がれないだけでなく、後衛に控えている部隊との 連絡も取れないだろう。そのうち前線の異常に気づいて後続部隊が確認しに来ようとも、亀裂へと吸い 込まれる激しい風の音が邪魔をして言葉を交わすことすらできないに違いない。
「鳩を飛ばせ! 後方陣地へ戻る鳩がいるだろう!! 魔道師にこの風をどうにかするよう命 じろ!!」
「それが、飛ぼうとすらしないのです」
 伝書鳩は箱の中で全て羽を閉じ、微動だにしない。鳩の身体を持ち上げて上空に向かって放り投げ ても、落下を防ぐように少し飛んだだけですぐに箱傍まで帰ってきてしまう。本能に忠実な動物たち は、自然を司る高位精霊の力の前に屈服しているのだ。
 それでも諦めずに鳩を投げる侯爵とその配下たちの姿はどこか滑稽で、セリムは笑いたく なるのを抑えた。
「無駄だ」
 侯爵は引き攣った顔で、振り返る。
「自然を操り、動物を支配するあの魔人たちの力の前では如何なる生き物も無力となる」
「なんだと?」
「向こうのアイゼン騎士団も同じことだ。魔人がいる間はどちらもこの場から動けん。 彼らの前では 戦いなど以ての外だ」
「それをどうにかするのが貴様の役目だろうが! この腰抜けの能無しめが!」
 暴言を聞くに耐えなかったのか、部下の一人が抜刀しかねない殺気を放つ。軽く振り返って視線 で抑えた。
 その時、一際強力な風が吹きぬけ、身構えていなかったクラーナハ侯爵の丸い体が転がった。 護衛騎士たちが三人掛かりでその身体を受け止めて、転倒を免れる。癇癪を起こす侯爵を 眺めながら、セリムは目を細めた。
 どうせこの男の命運もあと少し。
――必ず殿下たちが吉報を下さるはずだ
「それまで……」
 低地へと視線を戻す。
 耐えてくれというにはあまりに小さな身体。魔法の才に長けているとはいえ、高位精霊をずっと 留めたまま彼らに力を行使させた状態を維持するのは酷なことだ。それに一般的に考えれば、正午まで 魔力が持つはずがない。しかし持たなければ開戦によってあの小さくも勇敢な命は踏み潰される のだ。
―――耐えてくれ……
 それは部下たちやその家族の為の祈りではなく、たった一人の少年の命だけを尊び憂う、 切なる願いであった。

(2007.8.1)

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