墓と薔薇

閑話:双子の魔人(4)

 白みがかってきた東の空で、明星がその輝きを薄めていく。ウェイリードは窓辺の寝台の上に転 がり、懐剣を抱きながら月の緩やかな移動を夜がな追っていた。無意識のうちに受け取ってしまった 本は開くこともせず机の引き出しに放ってしまっている。それが気になって、一睡もできなかったの だ。
 キアの計画は途方もなく無謀で危険な賭けだった。いくらヴィクトールの血を継いでいる とはいえ、自分はただの子どもに過ぎないとウェイリードには自覚がある。自分が人より優れて いるのなら、常日頃から悩んだりはしないと憤りも覚えた。
 幼い頃から魔道師としても優れていたヴィクトールのような天賦の才のない自分には、誰一人と して救う力もない。父や母に命を尊ばれ、守るべき対象者をも捨てて逃げる卑怯者なの だという思いが心を(さいな)んだ。
 己の無力さの許しを請うように、ウェイリードは懐剣の鞘を握り締めた。
――カーラ様……
 主神に祈りを捧げても一向に気持ちは晴れない。寝台の上で寝転がって祈るからだろう かと思うが、そうではないとどこかで理解していた。許しを請う相手が違うのだ。それはハース将軍 であり、エルムドアの騎士たちであり、カーリアの騎士たちであり、彼等の家族。許しを 請うべきなのは、彼等へなのだ。
――僕にヴィクトールのような力があったら……。才能があったなら……
 自分の無力さが、ひどく悲しかった。悔しかった。祖先を誇らしく思うことはあれど、その才を 妬んだことははじめてだった。
 ハース将軍は、もう二度とその手に御子を抱くことなく、奥方様に会うことなく、命を断つかも しれない。そして、自分は慕っている将軍や顔見知りの騎士たちを失うのだ。恐ろしさの奥に 待つ空虚さに胸が締めつけられた。
 不意に、聞こえるはずのない赤ん坊の泣き声が聞こえた気がする。全身が戦慄き、身を縮めて頭を 抱え、耳を塞いだ。御子を抱いた将軍の幸せそうな笑顔が脳裏から離れない。打ち捨てられた犬の 死骸が、何度も網膜に映り込む。確定的な絶望に目の奥が熱を持った。
――僕のせいだ……、僕に力がないから……!
 身を丸めて震えながら己を責めつづけ、ウェイリードは朝を迎えることとなった。


 早朝、国境近くに構えた陣へ発つ父と騎士たちを見送る為に、城に残る二人の精鋭騎士と三人 の従兄たちを引き連れて、ウェイリードは城主として内門に立っていた。峡谷の風が祝福の伊吹と なり、首都のような(かじか)む寒さと まとわりつく朝靄を掻き消す。雲の流れは緩やかだった。強いのは地上の風のみ。
 これが父との今生の別れとは思わなかった。ただぼんやりと、父は死なないはずだとどこか 確信めいたものが心の中を支配していた。世の中に父を殺せる存在があるとすれば、それは病気と 老衰、母だけだ。
「ウェイリード」
 名を呼ばれ、ウェイリードは父を見上げた。
 いつも裁判官の黒いローブに包まれた身体は白銀の鎧に包まれ、聖典か法律書を持つ手には柄の 太い槍が握られている。この一ヶ月ろくに休まずにいた為に疲労感は拭えないが、身体より発する 気は背後に控える若い精鋭騎士たちを遥かに凌駕し、圧倒的な存在感を示している。
 父は誰よりも立派な騎士だった。それが誇らしくあったが、随分と遠い存在に感じた。誰も助け られない、力のないちっぽけな自分がそんな人の息子であることが申し訳なくすら思えて居心地の 悪さを覚えた。
「城を頼む」
 どうせ自分は逃げるのだ――不貞腐れるように視線を逸らし、小さく頷いた。嫡子らしくない感情 的な態度をとってしまい、父を落胆させてしまったのではないかと内心心配したが、寝不足の せいだと自分を誤魔化す。
 しかし父に動く気配がなかった。不思議に思い、ウェイリードは何気なく顔を上げて父と視線を 交わし、瞬時に戸惑いを覚える。
 今の父の表情には、己の子どもを危険な地へと残すことへの悔恨や悲愴感は皆無だった。家族の情は 伝わってこない。その代わり伝わってくるのは、己の代わりに城主を任せる者への≪信託≫と ≪期待≫。家臣に何かを頼む時の領主としての厳格な表情だった。
 ウェイリードは目で語る父――否、領主から正しくその思いを汲み取り、驚きに一瞬、 息を止めた。心にずしりと圧し掛かるのは、≪責任≫の文字。
「……はい、父上」
 ふつふつと湧き上がるのは歓喜だった。広がる喜びに肺が膨らみ、久しぶりに笑顔が 零れた。父は自分を認めてくれた、城主として認めてくれたのだ――恐怖よりも、喜びが 勝った瞬間だった。
 父は『城を頼む』としか言わない。『どうしろ』とは指図しないのだ。思えば母に『逃がす』と 約束したが、父は自分へは『逃げろ』と一言も発していなかった。父が母との約束を反故としたこと にはひどく驚かされたが、≪城主≫として己で判断することができると父が信頼してくれたことが嬉 しかった。同時に重い責任を課されたが、それすらウェイリードにとっては喜びの起爆剤にしか ならなかった。
――僕は、アイゼン家の騎士だ
 生まれながらの騎士――その矜持を守れる。誇らしさに頬が緩む。
 父は僅かに顔を歪めた。それは≪父親≫として≪子ども≫を(うれ )う顔だった。しかしすぐにも唇を真一文字に引き結び、 (まぶた)を閉じた。内に秘めた何かを鎮めるように静かに深く 息を吐き出すと目を開き、迷いの欠片もないように身を翻した。
「行くぞ」
 父の背が遠くなる。続く騎士たちの向こうの逞しい父の背が見えなくなるまで、 ウェイリードは穏やかな気持ちで見送った。
「ウェイリード様。貴方様は我等が命にかえてもお守り致します」
 城に残った精鋭騎士が二人、背後で跪く。ふり返り、忠義者の彼らの垂れた頭上を見つめた。
 彼らのことはよく知っていた。妻子を持つ、陽気で気のよい人たちだ。彼らを見据えながら、 遠くの光景に思いを馳せる。
 父に追随して行った騎士たちにも、すでに出陣した騎士たちにも家族や大切に思う人がある。 そしてそれは、エルムドアの騎士たちにも言えること。そんな彼らがあの首都の外壁に放置されて いた犬の骸のような姿で帰ってきたら、家族はどう思うだろうか。
――僕にしか、できないこと
 キアの言葉を強烈に意識する。契約すら結んでいない高位精霊を呼ぶのは≪血≫と≪記憶≫が成せ る(わざ)。≪双子の魔人≫たちは祖 ヴィクトールへの恩義とその血の匂いを覚えているという。召喚には、ウェイリードという個人に 応えるのではなく、ヴィクトールの子孫に応えるのだ。
――低位精霊の召喚なら、やれる
 召喚魔法が十五歳以下に許されていないのは子どもには分不相応な魔力を消費するから。 ある程度の魔力の器もあって、扱いさえ間違えなければそこいらに浮遊する低位精霊を魔法陣へと 引っ張り込む分には失敗は少ない。『法で禁じられているから』と師が絶対に許さないので試した ことがないだけで、低位精霊を召喚するのは自分には造作もないはずだった。しかしキアが求めるの は――呼ばなければならないのは、高位精霊なのだ。固有の意思を持つ高位精霊を魔法陣へと呼び、 その力を引き出すには熟練の魔道師でも難儀する。
 けれども今回の召喚は血への恩と記憶が後ろ盾として存在し、呼ばれる側の魔人たちにはそもそも 峡谷の自然を守りたいという純粋な願いがある。キアがいうには、彼等は必ず召喚に応じるという。 ただし、彼等を≪召喚し続けて力を行使させたまま≫の状態でいられるかは全て呼ぶ本人次第。
 記録では、一番長い間召喚を続けたのは聖アナスタシアだ。ベイヘルンの森を焼け野原にした大火を 一人で鎮火させた聖女。彼女は魔力が底をつくと、命を糧に精霊を召喚し続けた。
――僕に必要なのは、力じゃないんだ
 己の命が果てても森と人を守りたいという聖アナスタシアの強い決意。その思いに高位精霊や 聖獣が心を動かされたのだ。
―――彼女のように、精霊に認められるだけの勇気と決意。それが僕には必要なんだ
 はじめキアの計画を聞いた時、自分には無理だと直感した。そもそも、布陣する両軍の間に 入りこむことなど自分のような子どもには不可能だと決めつけた。行う前から全てを諦めてしまって いたのだ。
 誰も死んで欲しくない、望まぬ戦で誰も死なないで欲しい――そう願いながらも、自分は何も しようとはしなかった。何もしないつもりだった。それがそもそも自分の心を偽っているのだと、 やっとウェイリードは気づくことができた。それは、父が信頼してくれたことが大きかったのかも しれない。
 跪き忠誠を誓う精鋭騎士たちの後方に佇むキアへと視線を向る。小さく けれどもしっかりと頷けば、その意味を理解した従兄も薄く微笑みながら頷き返してくれた。

 でき得る限り、冷静に。何気ないふうを装って、キアだけを自室に誘う。後ろに続く精鋭騎士 たちが離れることはないが、部屋までは入らず扉の外で静かに控えるのみ。十七歳と十二歳の未成年 がまさか戦争を停める謀略について語り合っているなど夢にも思っていないだろう。
「いいですか。ウェイリード様」
 それでも警戒しているキアは、扉よりもずっと離れた窓辺までウェイリードを (いざな)った。 目一杯入り込んでくる朝日が、眩し過ぎて少し不快だった。
「双子の魔人は自然そのものです。彼らのちからは人間よりも本能に忠実な動物たちを畏怖させます。 召喚し続けることができれば馬は動けず、伝書鳩は己の帰る方向を見失います。前線より離れた位置 にハース将軍の監視役がいても、彼等が動物を使役して帝都へ伝令をやることは不可能です」
 昨日の話のお(さら)いだった。ウェイ リードは今度こそ彼の言葉に真剣に耳を傾けた。知略に長けたキアは大人を黙らせる。 彼の才は誰をも魅了する。
「しかし熟練の魔道師であっても、高位精霊を召喚し続けることは叶いません。贄の魔力が底を ついて、長くても半刻が限界でしょう。それなのに貴方は半日、休まずに彼らを召喚したままの 状態を保つ必要があります。もし召喚し直すようなことになれば、エルムドア側からの雨のような矢 が貴方を射るでしょう。そうなれば戦争は停められません」
 聖アナスタシアのように何度も召喚魔法を繰り返すことはできない。エルムドア軍の動きその ものを召喚魔法で止めるのだから、そのちからが消えてしまえば戒めのなくなったエルムドア軍は こちらを攻撃しなければならなくなる。矢や魔法で攻撃されれば召喚を解いた自分はひとたまりも ないだろう。それにはぞっとしない。
「貴方の魔力の器がいくら人並外れていても、休む間もなく召喚した状態を保ち続けることは、≪死≫ に近しいことです。魔力は血と同様、失い過ぎれば命に関わります」
 しかし召喚魔法が続かなければ、戒めを解かれたエルムドア軍の攻撃で自分は命を落とし、召喚 魔法を半日続ければ命を削る。この計画自体が確実に自分の生命を蝕むとウェイリードは自覚して いた。
――死ぬのは怖い
 拳を握り、首を振って顔を上げた。己の覚悟を知らしめるようにキアを睨み据える。
「でも、僕は死なないかもしれない。そして、僕がやらなければ、大勢の罪のない人が 確実に死ぬ」
 祖ヴィクトール・アイゼンならば、そんな事態を指を咥えて傍観したりなどしない。 ウェイリード・アイゼンも、それを見過ごすわけにはいかない。
「僕はやる。やらなければ、ずっと後悔して生きていくことになる」
 従兄にその決意のほどを理解されなければ、精霊に認められるはずもない。ウェイリードはキアを 懸命に見つめた。
 しばらくそのまま見つめ合い、ふとキアが視線を逸らした。瞳が僅かに揺れた気がする。それを 隠すように、キアは横を向いた。
「ご英断を、臣下として喜ばしく思います」
「キア?」
 キアは全く喜んでいないように思えた。この時はまだ、ウェイリードにはキアの複雑な心の内を 理解できていなかった。
 従弟の命と縁遠い多くの者の命を天秤にかけた結果従弟の命を軽んじた己を責める自分と、冷徹に 最善の策を推し進める自分。同時に内在する相反した二つの自分の顔に、キアは気が狂いそうな 思いだったのだと気づくのは、もう少ししてからだ。



 その日一日全てを使って、書庫から持ち出してあの引き出しにしまっていた本の解読に時間を 割いた。≪双子の魔人≫を呼び出す魔法陣のかたちと、彼らが応じる魔力の波長をしっかりと記憶 する。魔力は温存するために、あまり練習をするわけにもいかない。
 睡眠を促す薬湯を飲んで夜にしっかりと寝ると、次の日の午前中は魔法のお浚いを、 午睡後の夕刻からは地図を見ながら辿るべき道を徹底的に叩き込まれた。クノッサス峡谷では網目の ような警備にてエルムドア帝国からの密入国を防ぎ、またその反対も警戒している。その警備の穴と なる抜け道を知っているのはアイゼン家とブランシール家に名を連ねる者のみ。けれども≪悪戯好きの 困った双子≫の片割れであるウェイリードにはその道は知らされていなかった。
 しかしまず何よりも、このクロイツベルク城から無事に脱出しなければならない。自室、扉の向 こうには二人の精鋭騎士が控えており、手洗いだと言ってもどちらか一方は必ず護衛の為に付いて くる。元より、正面から堂々と出掛けられるはずもないのだ。そうなると、脱出口は必然的に自室の 窓となる。
 夜が更けるのをまんじりと待つ。幸いなことに、月は霞みの向こう。闇を切り裂くような強烈な 光を地に注ぐわけでもなく、その実に頼りない光源は隠密に行動するには恰好の按配だった。
「そろそろでしょうか」
 じりじりと身を削る蝋燭の炎が揺れる。キアがベランダの窓を開いたのだ。
 シーツを引き裂いて結んだものをベランダに括り付けて落とし、ウェイリードはそれを伝って裏庭 に降りる。実はこの脱出方法には幼い頃から慣れ親しんでいたので、お手のものだった。けれども 問題なのは、シーツの残骸がぶら下がったままそこに残る為に部屋から逃げ出したことがすぐに 判明してしまう事。ベランダを仰ぎ見れば、キアによってシーツの残骸はすぐにも回収された。 後はあの従兄が、上手い具合に精鋭騎士たちを言いくるめて、室内に立ち入らないようにする だろう。
 ここからは完全に一人。ウェイリードは心細さを払拭するように、小さく息を整えた。 ぐずぐずしていれば、いくら手薄な時間だとはいえ警備兵に見つかってしまう。
 見通しの良い冬芝の庭の一角を占拠するヴィクトールの慰霊碑を目指す。皮肉な事に、皆を捨てて 城から逃げる時に使用するはずだった脱出路を、皆を助ける為に使用する事となったのだ。
 慰霊文が彫り込まれた端の石碑に触れて魔力を流せば、すぐにも石碑は音もなく左に動き、大人一人 分が通れるほどの穴を露出させた。深さの分からない暗闇へと躊躇せずに飛び降り、長い浮遊感の のち、綿花が大量に詰め込まれている巨大な布袋の上に尻から埋もれるように着地する。着地と共に 埃が盛大に舞い散り、咽せながらも布袋から降りると、水に濡れた犬の如く頭を震わせて被った埃を 振り払った。
 頭上の石碑が音なく元の位置に戻り、月の光さえ届かぬ暗闇に包まれる。すぐにも穏やかな 灯りが道しるべのように等間隔に灯り、ウェイリードは歩き出した。 灯りを辿れば城の西にある湖のほとりの水車小屋に出る。
 道なりに進み、行き止まりにぶら下がる綱梯子をもくもくと昇る。頭上の天板を外し、昇りきれば そこは小さな東屋だった。先ほどまで天板であった床板を元に戻し、小さく安堵の息を吐く。とり あえずは夜の城から抜け出すことに成功したのだ。
「時間さえ間違えなければ、結構簡単に抜け出せるんだな」
 もちろんそれは裏庭の警備の巡回経路を知り尽くしているからこそできた試みだが、片割れが 知れば喜ぶだろうなと苦笑する。
 僅かに扉を開けて外に人の気配がないことを確認すると、小屋の傍のあばら屋へと走る。 ここには牛と馬が飼われており、キアが日中にそこの一頭とウェイリードの愛馬を入れ替えてくれて いたのだ。
 ひたすら頭の良い雌馬は、常にない薄汚れた壊れかけの馬具を嫌がらずに身にまとって 自分を待っていた。その直向(ひたむき) な従順さを労うようにその首を撫でた。
 跨がれば、夜の帳を恐れず平野を駆る。目指す峡谷はここからまっすぐ西の方角だが、北に逸れて 迂回しながら向かうことになる。風の抵抗を避けるように身を屈め、何度も腹を蹴って急がせた。
 はためく黒い外套の下は純白の正装、神殿騎士の衣裳だった。年若い伝令役を装っているのだ。 フードを目深にかぶり、顔の下半分を布で覆ってできる限り顔の露出を避ける。冬の寒さのおかげで そんな(なり)もおかしくはない。贋物の 身分証明書と伝令書は持っているが、西の台地に布陣する従兄の軍の警備兵に誤って出会わないよう ひたすら祈った。
 何事もなく半刻ほど。愛馬の足を緩め、柔らかな風に頬を撫ぜられれば峡谷に差しかかったことを 知る。整地された林道を進まずそのまま北に逸れてしばらく進み、蔓草や (いばら)が互いを絡めとって雁字搦( がんじがら)めとなった、獣すら厭う藪までやってきた。
 愛馬から下りると、蒼い炎の魔法を創りだし掲げる。すると藪は生き物のようにさっと左右に割れ て道を開けた。魔法を消すと、愛馬の手綱を引いてその道を突き進んだ。
 通り過ぎる真後ろから蔓草や棘が元のように互いを絡めあうように道を塞ぐ不吉な音がする。引き 返すことも足を止めることも、愛馬の尻尾を心配して振り返ることすら許されない。この道は、 ヴィクトールが≪双子の魔人≫たちに創らせた防衛魔法であり、アイゼン家の血にのみ反応する抜け 道だった。
 藪の道を抜けると、彼女に似合わない薄汚れた鞍と(あぶみ )をそこらの茂みに投げ捨て、頭絡や馬銜(はみ )も外して手綱ごと捨てた。朽ち果てたそれらは今捨てたものであるのに、 数ヶ月も前からそこにあるかのような有りさまで、その辺りに生えた柔らかい蔓や枯れ葉を適当に 乗せればそれで十分だった。
 こうすることで、峡谷を抜ける間に運悪く警備兵に見つかりそうになったとしても、己は物陰に身を 潜めれば、愛馬は野生の馬だと認知されるはず。わざとらしく足元は随分と汚れていた。
 岩を利用して鞍のない馬の背に直に乗り、捨てた手綱の替わりに (たてがみ)を掴んだ。乗馬は剣の稽古と共に叩き込まれていた ので、直に乗るのもなんとか持ちこたえられる。馬銜や手綱がなくとも、腹を蹴って鬣で首を操作 すれば、賢い愛馬はこちらの意思に従って動いてくれた。
 すぐに見えてきた渓流そばを、流れに反するように遡り、浅く流れの緩やかになった場所まで くれば対岸に渡った。警備の目を逃れる為に灯りは仕えない。砂利や高低差のある足元の 覚束(おぼつか)ない 道を愛馬はよく堪えてくれていると思い、労うようにその首筋を叩いた。
 昔からこの地にて片割れと共に遊んでいた為に、地図がなくとも自分の位置も地形も掴めている。 警備が厳しい林道を進めば丘陵に出るが、整地されていないこの獣道を進めば戦場となる場所の やや北の低地へと出ることも知っていた。いつもならその辺りにも警備兵がいるのだが、戦いが はじまる前なのでその警備も解かれている。全てキアの調べ済みのことだった。
「一緒に待とう」
 峡谷から低地へと続く獣道に潜み、愛馬の頬に触れると近くの木の根元にそっと腰を落とした。 このままここで夜が明けるのを待つ。両軍、特にエルムドア帝国軍が丘陵に姿を現すまでは絶対に 見つかってはならない。斥候の目に止まらぬよう、茂みに身を潜めた。
 主戦場は、ここから南西の二瘤の丘陵とその合間の低地だ。峡谷の正規の道である林道沿いを 西に抜けた場所がアイゼン家の守りの要である東の丘陵であり、エルムドア軍が布陣するのは低地を 挟んだ西の丘陵。ウェイリードが踊り出るのは両軍に挟まれたその間の低地。 駱駝(らくだ)の瘤と瘤の 間のようになった窪地だ。期を逃がせば召喚する前に矢で射られかねない場所でもある。
 耳が痛くなるような静寂が支配する中、時折雨期の嵐のように強まった風が吹き抜ける。 峡谷が戦禍に巻き込まれることを知っているのだろう。≪彼ら≫は確実に目を覚ましている。
――峡谷を血に汚したくないなら、僕にちからを貸してくれ
 ヴィクトール以後、エルムドア帝国が侵略の為に攻め入ってきた時、かならずアイゼン家に有利な 風が生まれる。それは、クノッサス峡谷の自然を尊重するアイゼン家への彼らからの敬意であるが、 力を貸してくれるのは≪風≫だけだった。戦局を変えるため、つまりは人を殺す為の召喚には 決して応じない。アイゼン家の人間を守るためでも、彼らは≪戦い≫のためには召喚に 応じないのだ。
――大丈夫。絶対に≪双子の魔人≫は召喚に応じる
 峡谷を愛する彼らの願い。その願いと自分の思いが重なっている限り、彼らは必ず召喚に 応じる。あとは自分次第なのだ。何度も己を鼓舞するように言い聞かせ、そっと懐剣に触れる。
――人がこの地で大勢死ぬのを見過ごすのと、全ての人を助ける為に力を貸すのと、 どちらが良いか選べ
 彼等に言葉が通じるかも、聞こえているかも分からない。それでも、何度も語り掛けた。



 夜明けが近い薄紫色の空を見るのはこれが二回目だった。朝日が生まれる前とは、これだけ 美しい光景であるのかと感動を覚える。不思議と心は落ち着いていた。
 虫の知らせというものなのだろうか。その時が来たことをウェイリードは肌で感じ取った。
 上げた顔に戸惑いはない。立ち上がって(おもむろ) に外套と白衣の軍服の上着を脱ぎ捨てた。下に着こんでいたのはただの普段着。 戦場に相応しくない、剣術の稽古をする時に着る服。薄着となり、朝靄にぶるりと身が 震えたが、かえって頭が冴えた。束帯に結び付け直す為に懐剣を手に取り、そしてふと気づく。
――これ……
 そっと懐剣を持ち上げ、その鞘に括り付けられたアミュレットを凝視した。繊細な銀細工に ()め こまれた藍色の宝石。ほんの少しだけれど、銀細工の意匠が違う。
――カイザーのアミュレットだ
 出発前の片割れの可笑しな様子がこれで納得がいく。あの片割れが自分の悪戯に頭を抱えて 悩んでいるかもしれないと思うと、日頃の鬱憤が晴れて溜飲が下がった。
――僕の魔力が尽きたら、カイザーの魔力を貰おう
 くすりと笑う。
 傍に片割れの存在を感じた。それは双子だからなのか、それともアミュレットのおかげなのか。 どちらでも良かった。ただ、とても心強かった。
 懐剣を束帯に結びつけ、そこらに落ちていた長く太い枝を手に取る。愛馬の頬に触れてそっと 呟いた。
「行こう」
 近くの岩を使ってもう一度愛馬の背中に跨る。そして今度は音などお構い無しに、走り出た。
 なだらかな坂道を真っ直ぐ西へ駆け下りる。低地まで差しかかれば方向を変えて南へ――両軍が 布陣する合間の低地へと一直線に愛馬を走らせた。右手にはエルムドア軍が、左手にはアイゼン 騎士団が裸眼でも確認できる。
 すでに両軍から見つかっているはずだ。それでも『すぐには攻撃してこない』というのが キアの見解だった。甲冑も身につけない無防備な姿で馬を駆り、主だった武器は腰の飾り剣のみ。 手に持つのはなぜか枝。
 こちらがただ低地を南に疾走している間は様子を見る。アイゼン家は絶対に動けない。また 敵軍が望遠鏡を持っていれば、姿を確認して子どもだと認知する。そうなればいかに皇帝の 犬であっても、ただ走り抜ける子どもに向けて総攻撃の号令を掛けるような、騎士たちの士気を さげる行為はしない。それどころか嘲って傍観しているに違いない。エルムドア軍はこちらの本当の 意図が分かるまでは決して手だしはしてこない。
 ただし、気づかれた瞬間に射抜かれる。その前に、召喚魔法を完成させなければならない。
 もうすでに命をかけた戦いは、ウェイリードの中では始まっているのだ。


(2007.7.4)

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