墓と薔薇

閑話:双子の魔人(3)

 冬の薄暮(はくぼ)は他の季節よりも短いように思える。すぐに闇に覆われる尊いそのひとときに クロイツベルクへと到着し、ウェイリードは常ならぬ閑散とした故郷にしばし茫然とした。
 三歩歩けば騎士にあたると巷説されるほど騎士だらけの都市であるはずが、 城壁外門をくぐってから内門までの真っ直ぐの大通りには人の影がなかった。純白の壁に濃い 藍色の屋根で統一された住居群にも誰かが潜む気配がない。騎士は出払い、その家族は 東の安全な土地へ避難したのだろうか。
 アイゼン公爵領都クロイツベルクは人口三万程度の、都市というより砦に近い都だった。城下街 に暮らす者も職業軍人とその家族が多く、まるで一つの騎士団が一つの都市を占拠しているかのよう だとも揶揄(やゆ)されている。しかしすぐ東の領主膝元には公爵領の豊かさの象徴ともいえる華やかな大都市 が広がり、より国境に近い西の土地には街や村が点在した。帝国の侵攻を国境にて防がねば、 やや無防備なこれらの街への被害は免れない。その為に、領主の鎮座するこの都城から多くの騎士 たちが国境線での攻防に加わるべく、行軍を開始しているようだった。
 領主帰還の報を受けたのか、内門にて直立不動の構えの騎士たちが出迎えてくれた。白い軍服に 濃紺のサッシュを誇らしげに流すのは、クロイツベルクにて一の名誉と栄光を預かる精鋭騎士の証だ。 彼らから『客人がいる』との言伝を受け取った父に連れられて、そのまま客間へと向かうことと なる。騎士たちも父も『客人が誰か』ということについての会話を交わさなかった事がウェイリード には不可解だった。
 途中の街道にて合流した首都の騎士たちは、城内に詳しいダリル・フォスターに連れられて 軍議の行われる部屋へと消えて行く。師は何も言わず、目が合った時に軽く微笑むだけだった。
――城内も、人が少ない……
 帰還すれば大勢の笑顔に迎えられる。それが今は鎧を着込んだ巡回兵たちの厳しいまでに真剣な 表情での敬礼ばかりだった。父は全くそちらを見向きもしないので、代わりとばかりにウェイリード が彼等に目礼しながら、どんどんと先を行く足早な父に遅れないように半ば走るように して後を追った。
 二階の客間の扉は開け放たれ、二人の精鋭騎士が入り口に控えていた。彼等が衛兵の代わりを 務めるにはそれなりの理由があったのだと気づくのは、客間へと入室した直後となる。
「おお、ウェイリードじゃないか」
「……ハース将軍?」
「半年ぶりだな。どうだ、元気か?」
 室内にて待ち構えていたのは、ここにいるはずのない――否、開戦間際の国境を(また)ぐ 事ができない はずの敵国の将、エルムドア帝国の英雄セリム・ハース将軍だった。湖が覗ける大窓を背に振り かえったその顔を物心ついた頃から知っている為に見間違えはしない。
 ハース将軍は国籍は違えど父の親友で、獣のたてがみのような堅い髪と髭に覆われたなかなか強面 の巨漢だけれども、幼い頃は会う度に肩車をしてくれたような子ども好きの優しい人だった。最後に 将軍と会ったのは半年前。四十を過ぎてやっと手にすることのできた我が子を恐る恐る胸に抱き、 これ以上の幸せなどないと言わんばかりに相好を崩している将軍に会いに、父や片割れと共に エルムドアの首都へと行った時だ。
「どうして将軍がカーリアに?」
 現在、国境は当然の如く固く封鎖されている。エルムドアの将軍たるこの人がこちらへやって 来れるはずもないのだ。ウェイリードは呆気にとられ、別段将軍の存在を批難する意図もなく自然と 疑問を口にした。
 ハース将軍はその問いに、なぜか胸が痛くなるような破顔の笑みで応え、いつものように 分厚い掌でウェイリードの頭をぐりぐりと撫でつけてきた。
「我が命にかえてもこの城には手を出させん、安心しろ」
 その力強い言葉はウェイリードへのものではなく、親友である父ライノールへ向けてのもの だった。
 この時に、はじめて敵軍を率いるのはこのハース将軍なのだと理解した。出陣する父と戦うのは 気心の知れた、親友。ウェイリードにとっても血族に近しいぐらいの特別な人だった。
「……早まったのか」
 父は外套を従者に放り、元々気難しい顔をもっと厳しくさせて、薄い唇を引き結んだ。眉間の皺は 常日頃から消えることはないが、口許に刻まれた皺からは徒労を感じさせられる。いつもは 綺麗に後ろへ流された前髪も馬から下りたまま、直した形跡はない。
「皇帝の犬が来て、カーリア側が整う前にさっさと出陣しろと要請してきた」
 ハース将軍もとうとう笑みを消した。
「開戦は明々後日、三日後の早朝に早まった。もはやそれを蹴ることはできん」
「待てぬ、か」
「殿下たちが必ずしも成功するとは限らん。我々は従わざるを得ない。すまないな、ライノール」
 父は沈痛の面持ちで目を閉じ、深く息を吐いた。固唾(かたず)を飲んで二人を見つめていたのだが、 急に開いた父の藍色の眼差しが自分を捉えたことに驚いて、ウェイリードの心拍は跳ね上がった。
「キア」
「はい」
 すぐにも逸らされた目は、部屋の片隅に控えていた華奢な少年へと向けられる。五つ年上の従兄で クロイツベルクをアイゼン家に代わって管理する分家ブランシール家の四男だ。彼がそこにいたこと に、ウェイリードは全く気づいていなかった。
 キアは王立学院にて学んでいた為に首都に居たはずだが、どうやら自分たちよりも先に戻って きていたらしい。
「ウェイリードを頼む」
「承知致しました」
 従兄に目で促されて、父とハース将軍の視線を感じながら退室し、従兄の後を追う。将軍に 聞きたいこともあったが、諦めるしかなかった。
 城内にいる人間の数は明らかに減っている――到着した時に思った事をウェイリードはもう一度 意識した。掃除に洗濯に給仕にと大忙しで歩き回る侍女たちや時間との戦いだと言わんばかりの必死 の形相で書類片手に走る文官たち、しっかりと教育されながらも陽気に声を掛けてくる衛兵たちで 賑わっているはずの廊下は、まるで廃墟のようにひっそりと静まりかえっている。時折聞こえてくる のは、巡回兵の着込む鎧や掲げる武器などが擦れる無機質な金属音。物音一つ立てること も厭われるような、首都神殿の寂寞(せきばく)とした雰囲気に似ていたが、あちらですらここまで息苦しさを感じたことはなかった。
「前線に出る騎士たちはすでに出払っております。戦う術を持たない侍女をはじめとする使用人たち、 文官たちや、未成年の見習い騎士たちなどはもしもの為にと多少強引な手を使ってでもクロイツ ベルクから避難させたのですが、古株の使用人たちが残ってくれました」
 辺りを見回しながら歩くウェイリードに、従兄のキアは城内の様子を語ってくれた。
 未だにこの城で働いている騎士以外の者は、この城と運命を共にすると己自身で決めた者たちなの だという。他の普通の都市とは違い、この城は降伏を前提とはしない。もしも攻め込まれれば 最期まで戦う姿勢を崩さない騎士の都なのだ。
――けれども父上は、僕を逃がすと母上に約束しておられた……
 自分はこの城とは運命を共有しないのだと思うと、どこかちぐはぐな気持ちになった。死にたい わけではない。しかし自分は≪城の主≫となる為にここへ来たはずなのに、危険が迫れば心を決めて 城に残った使用人や騎士たちを置いて自分だけ逃げるのだという。
――それのどこが、騎士なんだろう?
 ≪騎士≫の称号と叙勲を得る権利は成人してからだが、アイゼン家の男子は生まれた時から 騎士としての扱いを受ける。それはこの地を護り抜いた祖ヴィクトール・アイゼンの代から 変わらない伝統だ。迫り来る敵を前にして、戦えぬ者を捨て戦わずして逃げる――それが騎士 の所業なのかと問われれば、即座に『違う』と答えるだろう。
――でも、僕が、戦う?
 十二歳の、ただの子どもだ。自分に何ができるのだろうとウェイリードは自嘲しながら、腰に差した 懐剣にそっと手を触れた。誕生の祝いに授けられた懐剣は、成長して長剣が持てるようになる まで肌身離さず身に着けるのがアイゼン家の習しだった。飾りの剣ではあるが、殺傷能力は――ある。 しかし師や父との稽古時も刃を潰した剣か棒にて行う。誰かを傷つけることのできる本物の≪剣≫ を振り回して戦ったことなど、一度も経験がない。
 ふと、鞘に結び付けられた銀細工の災厄避けのアミュレットが目に留まる。懐剣と共に誕生祝いと して与えられたもので、カイザーと揃いのものだった。
――そういえば、何日もカイザーと分かれているのは、はじめてだ
 姿かたちがそっくりで、認めたくはないが主義主張も殆ど同じ。傍にいれば大抵は、臆する事の ない自由な気質の片割れに自分の思った事を先に言われてしまうので、常に一緒にいることを 少し疎ましく感じてはいたのだが。横を向いても鏡を見るように己と同じ姿の片割れがいない―― それはずっと望んでいたことなのに、何か物足りなく心許ないような不思議な気分にさせられた。
 父は神殿にだけは嫡子ということで自分だけを連れて行くが、それ以外の場所では片割れと自分と を分け隔てなく共に連れ歩く。ところが今回は神殿に行く時のように、自分たちを首都とアイゼン 公爵領に分けた。アイゼン家の≪血≫を残すために。
――嫡子だから僕は公爵領に来た。弟だから、カイザーは首都に残った
 父と伯父が出陣してしまう為にクロイツベルクの城主が必要だった。ここが万が一、戦禍に 巻き込まれた時の為に――城の旗頭として。
――僕が、城主?
 どこか笑ってしまいそうになる。こうして、初めに抱いた疑問に戻ったのだ。城主になる為にここ へ来たのに、父は母に対して『逃がす』と約束していた。母は己の命を一番大切にしろ、というの だ。自分はこんなところに何をしに来たのだろうかとウェイリードはぼんやりと思う。
 ふと少し前を歩く従兄へと視線を向ける。騎士には向かない貧弱な肢体のキアはぎりぎり未成年で、 その下の二人の弟たちも当然未成年だった。一番下の従兄とは二つしが違わない。先ほどのキアが 言っていた事が確かならば、クロイツベルクに今いる未成年は自分と従兄たちだけとなる。
――キアたちは、どうするんだろう?
 彼等の母君は七年前に亡くなっているので、自分の母のように『誇りよりも命を大切にしろ』と口に できる人物が傍にはいないのかもしれない。
「キアたちは、どうするんだ?」
 漠然とした質問だとは思いながらも、他に言葉を選べずに声をかけた。
 するとキアは足を止め、振りかえった。こちらを一瞥したのち視線をすっと逸らし、何時の間にか 左手に見えていた中庭を感情の見えない目でのんびりと眺めた。場違いなほど色彩豊かな 雛芥子(ひなげし)が群生 している。キアたちの亡くなった母君は、男所帯の城に仕える侍女たちの心が少しでも安らぐようにと 中庭に息抜きのできる憩いの場を作ったのだ。むさ苦しい騎士たちの城には少し不釣合いだけれど、 伯母が亡き後もそこは代わらず手入れがなされ、侍女たちの心を和ませていた。
「私と弟たちは、ウェイリード様と共にこの城に残ります」
 思い出したかのように質問に答え、キアはこちらへと視線を戻した。
 それは、共に≪逃げる≫という意味なのだろうかとウェイリードは計りかねる。
「兄たちは西の台地にて、前線の後方に布陣する軍を率います」
 二十歳をとうに過ぎているキアの兄二人は前線でなくとも後方に控える軍に混ざるという。ビビの 大切な兄たちが戦いに参加するのだ。喉が乾き、吐き気がする。そんな気弱さを悟られたくなくて、 ウェイリードは軽く首を振った。違うことを考えようと、先ほど得られなかった答えを求める ことにした。
「……キア、なんでハース将軍がここにいらっしゃるんだ?」
「開戦時刻の変更と、最期の別れを告げる為にお越しになったのです」
「え……?」
 ウェイリードは驚愕に息を呑み、藍色の目を見開いた。
「この戦いはあまりに帝国にとって不利。首都からの援軍がなくとも、もともと地の利は アイゼン家にあります。一個師団程度では帝国に勝機はありません」
「でも、戦いがはじまったとしても、すぐに終結するんだろう?」
 いつもは笑い声の溢れる廊下に、己の声だけがどこまでも遠くに響く。それがどうしようもなく 悲しく、そして空恐ろしく感じた。
「ええ、確かにそうなる予定でした。……ウェイリード様。続きはこちらの部屋にて 致しましょう」
 そう言ってキアが開けたのは、アイゼン家が代々収集してきた魔法に関する書物などが保管され ている埃臭い書庫だった。
 室内は、古書や資料がそれ以上状態を悪くしないよう、厚手のカーテンによって窓は閉めきられて いた。二重扉となっているので、廊下の僅かな明かりさえも届かない。内扉が閉まれば完全な闇に 包まれ、けれどもすぐにキアが備え付けの≪明かり取り≫に火を灯したので、連鎖するように他の 場所に設置されてある明かり取りにも光が灯った。重厚な棚が幾重にも立ち並ぶ室内の様子が仄暗い 橙色の光の元、浮かび上がる。壁沿いに隙間なく並べられた書棚はぐんと背が高く、大人でも梯子が 必要だろう。
 ウェイリードやカイザーは未だここに入室する事を許されてはいない。貴重な資料が山のように 保存されている為に、悪戯好きで無鉄砲な双子――片割れのおかげで不名誉にも皆にそう思われて いる――が誤って資料を紛失してしまわないよう、誤って危険な魔法を試してしまわないよう、 分別がつく十五歳までは立ち入りを禁止されているのだ。
 施錠音に、ウェイリードは扉を振りかえった。キアは表情を変えることなくそのまま何 食わぬ顔で窓辺に寄り、外の光が漏れていないか確認するようにカーテンを念入りに直しはじめる。 後で気づいたことだが、キアはこの時、書庫内の灯りが外に漏れていないかを気にしていたのだ。 黄昏時は短く、城内ももうすぐ闇に包まれる。僅かな光が漏れればそこに誰かが潜んでいる事を 容易く知らせ、注意を引いてしまう。それを恐れていたのだ。
「なぜ開戦前に――開戦してもすぐに終結すると言われていたか、ご存知ですか?」
 喋りながら、キアは奥へと進んだ。その背を追いながら、ウェイリードは従兄には見えないと 分かっていながらも首を横に振った。父は何も話してはくれなかったが、それが自分には必要のない 事だからだと心得ていた。
「帝国内にてクーデターが起こる予定なのです」
「クーデター……? イスラフルのような?」
 アイゼン家は南イスラフルの商人たちと懇意にしているのだが、最近まためっきりと彼等の姿を 見なくなった。内乱が激化していると聞いている。
「あの国のように繰り返される血の粛清(しゅくせい)とは少し違いますが、皇帝は明後日、正午の鐘の音と共に 逝去される予定なのです」
「……殺される、のか?」
「ええ、実の息子たちによって」
「え……?」
 キアはある一つの棚の前で足を止め、振りかえった。ウェイリードの驚きなど然して気に するものでもないかのように、感情の見えない表情で話を続ける。
「皇帝が逝去されると同時に二人の皇子たちによって首都の中枢機関は全て掌握され、その後すぐに 早馬の伝令が首都から国境へと放たれます。クーデター成功の確実な伝令がハース将軍の元に届く には一日弱。……もともとの開戦は明々後日、三日後の正午でしたから」
「クーデターがうまくいけば、開戦前か、戦争が始まってもすぐに終結するはずだったのか」
 だから父は母をあんなふうに説得していたのだ、と思い至った。『すぐに終結する』と言っていた 意図を理解する。
「その予定でした。しかし皇帝ランドルフ四世は開戦の宣言時刻の変更をカーリア側に 打診することなく、侵攻を半日早めるようハース将軍に命じられたそうです。 こちらの陣が整う前に、富み豊かなアイゼン公爵領から奪えるだけ奪う為に」
「なんでそんな卑怯な皇帝の言う事をハース将軍は聞いているんだ?! 将軍はそんな事をする 人じゃない!」
 騎士として誇り高い将軍がそんな卑怯で横暴な要請を呑むはずがない。身内が辱められた ような不愉快な気分となり、ウェイリードはキアを責めるように声を張り上げた。
 するとキアは密やかな声で「お静かに」と批難し、掌をこちらへ向けて制してくる。
「前線に集った殆どのエルムドアの騎士たちは、家族や恋人を人質として首都の皇帝の元に捕われて いるのです。……もちろんハース将軍の奥様もお子様も」
「え……」
 弾かれたように顔をあげれば、無表情なキアと視線が交差する。
「皇帝の命に少しでも逆らえば、陣にてハース将軍の動向を監視している皇帝の腹心が伝令をやり、 人質たちは皆、殺されます。お聞きになったでしょう? 皇帝に逆らった実の 姉君のご家族のことを――」
「カーリアにいる三男のブライト以外、みんな処刑されたって……」
 皇帝に意見し、それを謀反と見なされた姉君の夫がその場で首を跳ねられた。 その後、皇帝自身の実の姉君も含めた一族郎党が処刑台の露と消えたと聞いていた。広場に晒された 種々の処刑方法にて殺害された痛ましい遺体の中にはたった五歳の姫君もいたと言われ、エルムドア 皇帝の残虐を嗜好する性質は東西カーリア大陸全土に知れ渡った。
「実姉や幼子すら殺せる残忍な皇帝は人質の処刑命令など簡単に下すことでしょう、 それも、一人一人残酷な方法で」
 どこか、気の遠くなるような話だった。不意に、半年前に抱いた乳の匂いのする赤子の温もりを 思い出す。差し出した指先を、小さなな手のひらでぎゅっと握られた。もの珍しく可愛いもので、 ついついカイザーと二人、つつき過ぎて泣かせてしまった。そんな様子を楽しげに眺めていた 奥方さまはこちらを叱るわけでもなく、ほっそりとした腕に己の子を抱き上げて少し低めに 響く子守唄を聞かせた。それに合わせてハース将軍が唄えば、お世辞にも美声とはいえない獣の咆哮の ような声に赤子はぎょっとしてもっと泣いてしまって、おろおろとする将軍の様子に 奥方さままで笑っておられた。穏やかでありふれた、けれどもとても尊い日常が半年前には そこにあったのだ。
 しかし今現在、皇帝の剣が最愛の奥方様と御子の喉元に付きつけられたまま。それなのに、ハース 将軍はいつもと変わらぬ笑みをこちらにくれた。『元気か』とこちらを気遣ってくれた。
 喉がかっと熱くなる。将軍が一体どんな思いでいるのか、それを考えるだけでウェイリードの 胸は締めつけられるように苦しくなった。
「将軍は、ここに来て大丈夫なのか?」
 皇帝の腹心が傍にいて監視しているというのに、危険をおかしてまで己自身で開戦時刻の 変更を伝えにきたのだ。それがどうにも心配だった――これから自分の父や伯父が戦う 相手でもあるのに。
「長時間滞在することはできないでしょう、ライノール様にお会いになったらすぐにも 戻ると仰られてました。……けれども時刻に変更があることをわざわざご自身で 教えにいらしたということは、将軍は――」
 キアは続きを口にしなかった。ただ眉尾を下げ、どこか諦めた風体で小さく溜息を 吐いた。ウェイリードにはそれだけで十分だった。絶望に身体が凍りついた。
「将軍は、死ぬ気なのか?」
「……ハース将軍は誇り高く、情の厚い方です。戦争が終結したとしても、大儀すら見失った 略奪の為の戦いを指揮したご自身を許すことはできないはずです。それに、生き残った部下の騎士 たちとその家族の為にも、責任を一人でかぶるおつもりなのでしょう」
「御子はまだ赤ん坊だぞ! 奥方様は身体が強くない人なのに、それなのに……!」
「それでも」
 非情なほどあっさりと、キアは断言した。
 壁側に置かれている棚に、よろめくようにして背をぶつけた。そこに背を預けなければ、 膝を曲げてしまいそうなほどの衝撃を受けていた。
「嘘だ……」
 家族より騎士としての名誉を取るはずがない。あんなに奥方様や御子を大切にされているハース 将軍に限って、そんなはずはない。ウェイリードはそう思いたかった、いや、そう思えたら どれだけ楽だろうかと思った。
 けれども自分の知っているセリム・ハース将軍という人はどこまでも≪騎士≫として――≪将≫と して相応しい気質を備え、エルムドアの騎士たちの尊敬を一心に集める人だった。きっと 国境に集ったエルムドア軍の士気は高いだろう。例えそれが意に染まない戦争だったとしても。
「皇帝暗殺が成功し、皇子たちによる首都掌握が滞りなく行われることを前提にすれば、戦争は 早朝から正午までの半日ほどになります。しかしそれだけの時間があれば、多くの 騎士たちが命を落とす事になるでしょう。ウェイリードさま、死ぬのはハース将軍だけではあり ません。アイゼン家の騎士や、罪のない憐れなエルムドアの騎士たちもまた、故郷へ帰ることも なく、愛する家族の為に亡くなるのです」
 望まぬ戦いの為に、多くの騎士たちが命を落とす。その悲惨な現実に、ウェイリードは 憤りを通り越して、無常さを呪った。
「……もう、どうすることもできないのか? クーデターを早めるとか」
「警戒心の強い皇帝の警護が手薄になるのが明後日の正午なのです。皇帝暗殺の成功なしに、 エルムドアに変化は起きませんし、戦争も終結できないのです」
 絶望に、ウェイリードは項垂れた。
 しばしの間、キアもウェイリードも黙りこんだ。それはとても長い時間であったかもしれないし、 とても短い時間だったのかもしれない。ウェイリードは時間の感覚が掴めなくなっていた。
「ただ、この早まった開戦を停められる人物をひとり、私は知っております」
 沈黙ののち訪れた希望に、ウェイリードはすぐにも顔を上げた。従兄はやはり無表情だった。
「皇子たちではなくて?」
「ええ、彼等は結局のところ、開戦までは間に合いません。しかしその人物ならば戦をはじめる ことなく停められます」
「それは誰なんだ?!」
 ウェイリードは飛びつくように従兄の胸倉を掴んだ。苦しいのか、軽くこちらの手を 押さえる。
「まさかブライトを引き渡すってことじゃないだろう?! 父上は知っているのか?! そんな 人物がいるなら――」
「ウェイリード様。≪双子の魔人≫を覚えていらっしゃいますか?」
 キアは視線を逸らし、急に話をがらりと変えた。
 ウェイリードは落胆して不満を呑み込むとキアから手を離し、やや不機嫌にも頷いた。
「アイゼン家の祖ヴィクトールが契約を交わした高位精霊たちだ、クノッサス峡谷に住んで いる……」
 なんでそんな話が出てくるのか、もともと掴み所のない従兄なだけに、一向に意図が 分からない。
「長年いがみ合っては迷惑な地震と突風を公爵領にみまっていた彼等を六百年前に ヴィクトール・アイゼンが仲裁しました。その時の恩を彼等は忘れてはいないはずです」
「キアがなんの話をしたいのか分からない」
 今なぜそのような話をするのか、開戦を停めること以上に大切な話なのか。 ウェイリードは苛立ちを隠さずに呟いた。
「彼等はヴィクトールに恩義を感じている。そのヴィクトールの血を、貴方は誰よりも濃く 継いでいる」
 剣呑な瞳が、こちらを挑むように見つめてきた。ウェイリードは息を呑む―― なんという要求を課してくるのか、この従兄は。
「……キア。十五歳以下に召喚魔法は許されていない。僕は経験がない。それに高位精霊は 契約を結ばなければ召喚には応じない」
「貴方は本当に賢い。従兄として、――仕える者として、嬉しい限りです」
「父上なら――」
「残念ながら」
 予期していたのか、すぐにも遮るように首を振られた。
「ライノール様も彼等と契約を結んではおりませんし、そもそも前線にて指揮を取られる為に 実行不可能なのです」
 キアは横の棚へと一瞥をくれた。一冊の書へと手を伸ばし、その古ぼけた表紙の埃を緩慢な手つきで 払う。
「カーリア人もエルムドア人も誰一人殺さずに戦争を停めることは、貴方にしか できない。これは、十二歳の子どもである貴方にしかできないことなのです」
 そして、その薄汚れた書をウェイリードへと差し出しながら続けた。
「ウェイリード様。貴方は、アイゼン家の騎士たちやその家族の為、エルムドアの騎士たちや その家族の為、……命をかけることができますか?」



◇       ◇       ◇



「こんな所にいたのかい、探したよ」
 声を掛けられて初めて、茜色の日差しが高窓から入り込んいることに気づく。祭壇から見て 左手の長椅子の列を覆う影はこちらまで伸び掛けていた。
 一体どれだけの時間をここに座って過ごしたのだろうか――カイザーは顔を上げ、傍に立つ青年 を見上げた。派手な深紅の礼服をまとった金髪童顔の魔法の師が軽く首を傾げて立っている。
「母君が心配しておられるよ」
 優しく諭すようなその声色は厳格で骨太な父のそれとは全く違うけれど、聞くと無条件で 安心してしまう響きを二人とも持っていた。そういうところは≪父親≫なのだなと思わさせ られる。
「先生……」
 カイザーは立ち上がる気にはなれなかった。ただ手の中のものを、悔恨の念だけで握り締めた。
「ウェイリードとは違って君はあまり信心深くないと思っていたのだけれど、そうでもなかったの かな」
 片眉をあげて軽くおどけるように師は苦笑すると、隣列の長椅子の肘掛に軽く腰掛けた。 少しだけ視線も低くなる。
 師の苦笑も当然だとカイザーは思った。まさか自分でもこんな所――神殿の外れにある ウェイリードが≪大好き≫な一番小さい聖堂に逃げ込むことになるとは思っていなかったのだから。 しかもここを管理している司祭様は、何も話さなくても人払いをして一人にしてくれた。
 信心深い片割れと違って主神カーラに真面目に祈ったことなど生まれて一度もなかった。嫡子で はない自分にはカーラやフェイム=カースの因縁なんて関係なかったし、呼んでも現われない神に なんて興味も湧かなかった。聖典の名の由来となった≪歌と踊りの女神アニカ≫はすごい美女だったと いうので、アニカにだけは絶対に召喚してやると密かに思っていたが、今はアニカだってどうでも 良かった。
 カイザーは俯き、唇を噛む。
「ベアトリーチェが心細そうに君の名を呼んでいたよ。傍にいてあげなくて良いのかい?」
 ウェイリードが戦場に近い地へと行ってしまうのを酷く嫌がって恐れ、泣き喚いていたビビのこと は可哀想だし胸が痛むが、今はビビのこともどうでも良かった。なぜなら首都にいる 自分たちは何の危険もないのだから。心配なのは――。
「先生、おれ……」
 目頭が急激に熱くなって、声が途切れた。男は泣くものじゃないと、必死に自分に言い聞かす。
「なんだい?」
 穏やかで優しい声に、顔を上げる。何でも赦すと物語る師の暖かみのある翡翠色の双眸を じっと見つめ、今までで一番大きな懺悔をすることにした。後悔するような悪戯はもうしない―― 昔誤ってビビに小さくとも怪我をさせてしまって以来、そう決めていたはずなのに。ぐっと 息を呑む。
「俺、アミュレットを、自分の渡しちゃったんだ」
「アミュレット?」
「ウェイに、……ウェイに渡したアミュレット、あれ、あいつのじゃないんだ。 あいつのはこれ……」
 カイザーは先ほどからずっと握り締めていた掌の中のものを開いて見せた。怪訝そうに 眉を寄せる師の表情に、カイザーはばつが悪くなってアミュレットへと視線を落とした。
「俺、ウェイが羨ましくて、ちょっと意地悪してやろうって、自分のを……同じ宝石と似た 形だし」
「うん」
「投げて渡した時、すぐに気づいて怒ると思ったんだ。でもウェイは気づかなかった。似てるって いっても細工が少し違うから、いつものあいつなら絶対に気づくのに、渡した時、ありがとうって 笑ったんだ。おれ、おれ……」
「カイザー」
 師が少し慌てたように腰を上げたのが見えたが、言葉は止まらなかった。視界も揺らいだ。
「父上がウェイを連れてくまで、俺も戦争に混ざりたいって思ってた。ウェイだけ ずるいって! ……でも、違ったんだ」
 カイザーは息苦しさに言葉を切った。
「父上と、ダリル先生と、ウェイがいなくなって、やっと気づいた。たくさんの人が死ぬかもしれ ない、そんな場所に、ウェイはわざわざ連れていかれたんだ。弟の俺がいるから、ウェイは連れて いかれたんだ!」
 師が息を呑むのが分かる。それでも独白は止まらなかった。
「どうしよう先生、もし、もしウェイが死んじゃったら、俺、俺、どうしたら」
 己の口から出てきた『死』という言葉に身体中が震えた。手の中のアミュレットが歪んでいる。 片割れのアミュレットの輪郭が歪んで見える。それが まるで片割れの運命のようで、否定したくて両手で頭を押さえた。アミュレットが膝の上に 落ちる。
「俺たちのアミュレットには、作り手のダグラス将軍の護りの力が込められてるって、父上が 言ってた。でも、でもウェイが持って行ったのは俺の為に作られたものだ、ウェイを護って くれないかもしれない!!」
「カイザー、落ちつきなさい」
 何時の間にか傍で片膝をついて跪いていた師に、肩を掴まれる。強引に視線を合わせられれば、 師まで歪んで見えた。
「カイザー」
 もう一度、穏やかにも力強く名を呼ばれ、やっとカイザーは気づいた。アミュレットや師が歪んで 見えたのは、自分が泣いているからだ――と。
 頭を押さえていた手でごしごしと涙を拭った。動揺に取り乱した恥ずかしさを隠すように 俯いた。顔は真っ赤なはずだが、西日のおかげで影の掛からない室内は赤みがかっているからきっと 師には分からないだろうとカイザーは自分を励ました。
 洗い浚い喋ってしまったおかげで、やっと少しだけ冷静になれた。いくらダグラス将軍が アミュレット作りの名手でも、アミュレットにはそれほど強い魔力が込められているわけではない。 健やかに育ちますように――そんな些細な誕生の祝いと成長の祈りが込められているだけ。
 本当は、気づいていたのだ。アミュレットはただのきっかけに過ぎないのだ、と。恐れているのは、 アミュレットが違うことに気づかないほど冷静さを欠いた、片割れの身。
「カイザーはウェイリードの無事をここで祈っていたんだね」
 肩から離れた手が膝の上に乗るアミュレットを拾い上げ、こちらの手にまたそれを握らせて くれた。
「ウェイみたいに普段のお祈りをしていないから、きっとカーラ様は俺の願いなんか 聞いてくれるわけない……」
 顔を顰めて憎まれ口を叩けば、師は微笑んだ。
「そうかな?」
「そうだよ」
 主神カーラは無差別に慈悲を与える神じゃない。そう言ったのは、まぎれもなく目の前の師 その人だ。
「でも、他の誰かが聞いてくれるかもしれない」
「他の誰か?」
「君たちの繋がりに――君の思いに、誰かが応えてくれるかもしれない」
「誰かって? 他の神さま?」
 アニカは美女だというから好きだ。人間から神になった唯一の神ララドも好きだ。でも、普段から 彼らに祈りを捧げているわけじゃない。
「いいかい、カイザー。私たちの目には見えないけれど、不確かな神よりは確実に≪そこ≫に 存在するものがある」
「空気とか?」
「そうだね。他には?」
「他? 他……」
 どうも頭が働かない。片割れの方が敏く、即座に師の求める答えを述べられるのだと少し羨む。 そういった部分は自分たちは全く似ていないと思う。
「ダリルは君たちの剣の師だけれど、私は君たちの≪何≫の師かな?」
「魔法……あ」
 カイザーは思い至って穏やかな翡翠色の目を見返した。
「精霊?」
 師はふんわりと微笑んで頷いた。
「精霊は普通、人間の目には映らない。でも、≪そこ≫にいるのは知っているね?」
「精霊が、俺の祈りに応えてくれるの?」
 そんな単純な奴等じゃない、と口を尖らせて反発する。
「低位の精霊には固有の意思も感情もないのは話したよね」
「はい。じゃあ、高位の精霊? でも高位の精霊は、契約を結んだ人間しか助けないんで しょう?」
「正解。ただし、高位精霊には固有の意思も感情も記憶もある。だから契約が結べるのだけれど」
「今から契約を結ぶの? だって、俺はまだ……」
 高位精霊と契約を結ぶにはまず彼等を魔法陣に召喚しなければならない。その召喚の 手順自体が、十二歳の子どもには許されていない。ましてや精霊との契約自体が成人しても 忌避されている事柄だ。
 こちらの焦りを払拭するように師は穏やかな表情で覗き込んできた。
「いいかい、高位精霊には固有の記憶がある。何百年、何千年と永遠に近い年月を生きる 彼等はその記憶を忘れない。昔、自分たちに何があって、どんな人間と関わったか。 そして契約した人間の血と魔力の匂いを、忘れないんだ」
 それが六百年前の出来事でも――師はその言葉を続けなかったが、カイザーの心には はっきりと届いた。
 己の血の原点となった祖の話は何百回も聞いていて聞き飽きていた。片割れのように敏くなくて もすぐに繋がる。
「先生。俺、分かった」
「賢い子だ」
 師はそう言うと、自分の幼い息子にするように頭を撫でてきた。それがどうも気恥ずかしくて むず痒い。しかし目の前で泣いてしまった手前、今更だとも諦め受け入れた。
「でもカイザー、約束して。……君は祈るだけだ」
「祈るだけ?」
 それだけなのかと不満げに言ったので、師は少し怖い顔をした。常に微笑んでいる師が、 こういう顔をする時は少し緊張する。
「正式な契約があったとしても、離れた地から離れた地へなど決して召喚はできない。だから魔力 は絶対に流してはいけないよ」
「はい」
 しぶしぶと頷いた。魔力を割かず、一体何が通じるのかと思う。しかし師はそんなこちらの思考まで 理解しているのか、心の奥底まで見透かすような真剣な眼差しで、約束を違えないとの確信を 得るまでじっと見つめてきた。
 カイザーは、師の言葉に従うとの思いを込めて再度頷くしかなかった。大抵のことは笑って許して くれる人ではあるが、本当に守って欲しい事柄に関しては決して譲らない。特に魔法を教えるに あたってはとても厳しいのだから。
 こちらの反応に納得がいったのだろう、師はいつもの優しい父親のような表情に戻った。
「君たちと≪彼ら≫には共通点がある。だからこそ、彼らはきっと君の思いを理解してくれる。彼ら には己の半身を思う気持ちが嫌というほど、分かるのだから」
 ≪双子≫であること。それを今この瞬間よりも嬉しく思った時はないだろう。兄である片割れも、少し は双子である事を喜ばしく思うべきだ。カイザーの心は少し軽くなった。

「でもカイザー。戦場には君の父君と伯父君がいる。そちらに祈るのも忘れずにね」
「あの二人が死ぬわけないじゃん、アデル先生! 殺したって死ぬような人たちじゃないし」
 竜の肝を食べたかのように丈夫な二人を殺せるのはきっと≪神≫という冠を持つ者たちだけだ。 何十本の槍が向けられても剣一振りでなぎ倒すような豪儀な人たちが、同じ人間という種族に 殺されるわけがない。
 可笑しくて大笑いすれば、師が少し困ったようにけれどもどこか安心したように溜息を吐いた。


(2007.6.11)

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