かしゃん、とガラスの割れる高い音が響く。震えながら身を引いた女が近くのテーブルにぶつかり、
そこからイスラフル製のガラスの杯が落ちたのだ。美しい彩色が施されたそれはもはや見る影もなく石床の上に散り散りになって広がり、
零れた水と共に室内灯の明かりを様々な色に照り返している。そのさまを一人の黒髪の少年が、
この世に間違って居残りをさせられたかのような虚ろな目で部屋の隅から眺めていた。
「いやです……。あなた、お願い、いや!」
まるで人形のように色を無くした頬に涙の跡が光る。掴まれた肩を引き離し、後退しようと女はもがいた。
しかしその華奢な両肩を掴む壮年の男は、妻たる女の細い肩を離そうとはせず、
がっしりとした長躯を曲げて妻の顔を覗き込んだ。
「戦場には連れては行かぬ。ウェイリードは城へ残す。大丈夫だ」
妻は弾かれたように悲愴に彩られた顔をあげ、夫の逞しい胸に縋りつく。
「それでも、もし、もし騎士団が負ければ……」
「我がアイゼン騎士団はそう簡単に負けはせん」
夫は静かに諭すような口調で、安心させるかのように力強く言い放つ。
それでも妻はもう一度顔を伏せ、夫の胸元でいやいやと首を振った。夫は聞き分けのない妻をなじるわけでもなく、
ただ無骨ながらも優しい手つきであやすように妻の髪を撫で、その心が落ち着くのを辛抱強く待った。
「ウェイリードは、まだ十二歳です」
「帝国のクーデターは必ずや成功する。当初の通りに話が進めば開戦前に全ては終わる。
シーダス卿が皇子の傍にいる限り、万が一戦となってもすぐに終結する。防衛に徹する勇猛なる我が軍が敗れるはずがない」
「けれども、峡谷から城まで半時も掛からない距離です! もし、クーデターが失敗したら?
もし、……もし、開戦の時刻が早まったら……」
「安全な脱出路は確保してある」
「いやです!」
「私もブランシール卿も出るあの城に、領民の為にも仮初めの城主が必要なのだ」
「それならわたくしが」
「ミュリエル!」
はじめて夫は声を荒げた。もともと厳しさを隠さない甘さのない表情に、珍しく激昂が加わる。
それでも妻はひるまず、夫の胸に手を当てて縋るように顔を上げた。
「貴方の妻たるわたくしにも城主となる権利はありますでしょう?!」
「直系の男子がいるのにお前を据え置くことはアイゼン家の誇りが許さん」
「ライノールさま……。いやです……、いや……」
失意に膝から崩れ落ちすすり泣く妻を腕にしっかりと抱き直しながら、
夫ははじめて思い出したかのように部屋の片隅に佇んでいた黒髪の少年へ視線を向けた。
「ウェイリード、自室へ行きなさい。……昼過ぎには出発する」
「はい、父上」
少年――ウェイリードは退室を許可されて内心ほっと安心した。これ以上半狂乱の母の姿を見たくはなかったのだ。
母の嗚咽を遮断するように後ろ手に扉を閉めて廊下に出る。気遣わしげにこちらを見てくる侍女たちの視線を無視するように、
壁に飾られた絵画を眺めるふりをしながら歩く。どれもこれも公爵領の豊かな自然を写実的に描いたものばかりだ。
ふと、夕暮れ時の小麦畑を描いた絵の前で立ち止まる。六号ほどの小さなキャンバスに描かれたそれが、まるで血に染まった大地に見えたのだ。
心臓が落ちつきのないリズムで跳ねる。身体が緊張で震えそうになっているのを、気にしないようにするのは難しかった。
それでも父が自分を連れていくと言った以上、アイゼン家の嫡子として、父が落胆するような態度を取るわけにはいかないと奥歯を噛み締めた。
(戦争が、はじまる)
エルムドア帝国と戦争がはじまるのだ。
皇族の一人を帝国に還さないカーリアに憤慨し、帝国が攻め入ってくる。宣戦布告は数日前。
けれどもエルムドア東部各地の小隊が以前から秘密裏に、より東に進軍を開始して国境近くの駐屯地に集結していたことは噂となって耳に入ってきていた。
今ではその規模は一個師団とまでなっているそうだ。その為にこの一ヶ月ほど、
父ライノール・アイゼン公爵はアイゼン公爵領と首都とを何度も往復していた。
しかし帝国と国境を接しているアイゼン公爵領はまず単独で迎え撃たなければならなかった。
宣戦布告前に公爵領からもたらされる帝国内での東部進軍状況を、頑なに信じなかった日和見の貴族たちが二の足を踏み、
軍備に随分と――わざと遅れを取っていたのだ。
アイゼン家の抱える騎士団は地方としては国内最大規模にして最強を誇る。単独で帝国の一個師団を凌ぐことは確かに可能なのだが、
被害を一地方のみに留めようとするやり口への批判は首脳内部からも絶えなかった。
とにかく首都が頼りとならない以上、自分たちのみで前線を維持しなければならなかった。
増援が期待できない今、公爵領の騎士たちの不安を解消し同時に士気を高める為に、
騎士団の頭たる伯父と共に父である公爵自ら前線に赴いて指揮を取ることとなった。
そして城主のいなくなるクロイツベルク城の仮初めの城主にはアイゼン家の嫡子であるウェイリードが据えられることが決定した。
父と共にすぐにも公爵領へと発つのは、そんな理由からだった。
じっと睨むように夕暮れ時の絵を見つめる。公爵領がこんなふうに血で塗れるかもしれないのだ、
――あの自然豊かで心優しい人々の溢れる穏やかな地が。
(戦争になれば、人がたくさん死ぬ)
皇族を還さない為に起こる戦争だ。その皇族を還せば良いのではないか――父にそう訊ねれば、
一段と気難しい顔で見下ろされたのを思い出す。
『引き渡せばブライト皇子は処刑される』
その時ばかりは己の思慮の浅さに恥じ入った。
ブライトはカーリアへと二年前から留学しているエルムドア皇帝の姉の三子だ。さほど年も変わず、
顔見知りだった。今回のことは先日ブライトの家族と父君の一族がことごとく処刑されたことに関係があるのかもしれないが、
幼子まで処刑する
暴戻さを見せるほど帝国の治世が荒れている実情を思い出した。
病状の優れないオーランド七世陛下も、身柄を預かっているレニス公爵もブライトを還すことには反対の強い姿勢をみせているらしいけれども、
戦となって多くのカーリアの騎士たちが死ぬくらいならとブライト皇子を送還するべきだと主張する貴族も多い。しかし大国として、
処刑されると分かっている罪無き少年をむざむざと引き渡すのも体裁が悪いのだという。
もちろん父は、体面に関わりなくブライトを護る意見に合意していた。そして、『首都の腰抜けども』とぼやく公爵領の急使の暴言に乗ることもなく、
誰も責めず、愚痴も零さず、淡々と自分の成すべき役割を果たしていた。その姿を、ウェイリードは横で静かに見つめていただけだった。
◇ ◇ ◇
見送りはしなくて良いと父が言った。玄関先での、まるですぐそこまで出掛けるかのような、なんてことはない形での別れとなった。
薄曇の空。残り雪の隙間から、母が手ずから植えた青紫や黄色のビオラが顔を覗かせている。風はなかった。
母は青白い顔ながらも、抱き付いてくる姪の身体をしっかりと抱いていた。もう叫ぶのを止めたらしく、
戦慄く唇を引き結び、決意に瞳を曇らせていた。父に何かを言われたのかもしれないし、
騎士の妻として――騎士の母としての責務をまっとうしようとしているのかもしれない。アイゼン家の男子は生まれ出でてよりみな騎士となる。
それは逃れられない運命なのだから。
こうして別れの時に母が泣いていなくて良かったと、ウェイリードの心は少しだけ軽くなっていた。
「うわーん!」
静寂を破って一人泣き続ける二つ下の従妹の頭を撫でる。すると、母のように慕う叔母のお腹に埋めていた顔をやっとこちらへ向けてきた。
顔じゅう赤くなって洟も垂らし、柔らかい黒髪は方々に跳ねていてアイゼン家の姫君にしては随分ひどい有り様だ。
綺麗な布を取りだし、少しだけ屈んでその顔を拭ってやった。
「やだやだやだ! ウェイ兄さま、行っちゃヤだ!」
「ビビ」
腕を伸ばしてくるその身体をしっかりと抱きしめる。痛いぐらい抱き付いてくる体温の高い従妹に困り果てながらも、
その温もりに安心感を覚える。帰ってきたら、まずこの従妹を抱きしめようとウェイリードは決めた。
「ウェイリード」
母に呼ばれ、ビビを抱きながらそちらを向く。喉が擦り切れたかのような、細い声だった。
朝は乱れていた髪も
櫛を通したらしく、いつものうねりのない直線を描いていた。
「約束してちょうだい。周りの者の言葉に従うと。何があっても、自分の命を一番大切にする、と」
ウェイリードは母の言葉に苦笑しそうになった。騎士が己の命を一番大切にするはずがない、と反抗する思いが心に湧く。
それでも母が安心するならと、小さく頷いた。
結局、十二歳の子どもの自分には何もできないのだ。戦場で父の背を護ることも、騎士たちを勇気付ける存在になることもできない。
城内で護られ、震えることしかできないただの無力な子どもなのだから。
「ウェイ、忘れ物」
飛んできたものを、慌てて片手で掴む。――銀細工の
護符だ。
「気づかなかった」
ビビから手を離し、懐剣を確認する。
そこに、己の目と同じ
藍色の宝石が填め込まれたアミュレットが結びついていない事に気づく。
どこかに落としていたらしい。
「ありがとう、カイザー」
顔をあげ、片割れを振りかえる。すると片割れはひどく複雑そうな、傷ついたかのような表情で立ち尽していた。
さっきまでは、あれ程煩く『入れ替われ』『ウェイばっかりずるい』と駄々を捏ねて不貞腐れていたくせに、どうしたのだろうか。
声を掛けようとしたところで、父の手がカイザーの頭を撫でた。
「ミュリエルとビビを頼むぞ」
カイザーは現実に戻ったように、ぴんと背筋を張り、「はい、父上」と応えた。
「では、行くぞ。ウェイリード、ダリル」
「はっ」
「はい」
外套を翻す父の後を、共に帰還する漆黒の軍服を纏った青年――剣の師が続く。一騎当千の父と師がいる限り、
アイゼン家が敗北することはないだろうとウェイリードは確信している。
その二人と肩を並べて立つ日が来るのを夢見ながら鍛錬に勤しんでいるのは、自分だけの秘密だった。
強く抱きつく従妹を丁寧に引き剥がしてそっと頭を一撫でする。やっぱり泣いてしまった母と物言いたげな困惑顔の片割れへと目を向けてから、
心服の念を抱く二人の背を追った。
街外れで待っていた公爵領からの迎えの騎士たちと父が二言三言、言葉を交わしている。師のように、
首都の騎士たちの数十名が服務規程違反を恐れず己の意思で公爵領に向かったという喜ばしい報告だった。
その傍らでぼうっと突っ立っていたウェイリードは、街の外壁の日陰に僅かに残った薄汚れた雪の上に、打ち捨てられた犬の死骸を見つけた。
心ない人間の仕業か、それとも街近くまで出没した魔物の仕業か。
憐れな
骸に対し反射的に主神への祈りを呟いた。
「カーラ様のご慈悲があらんことを」
ふと、その犬が己の姿に見えて――否、片割れに見えて、一瞬全身に緊張が走った。懐剣に触れ、深く息を吐いて気持ちを落ち付かせる。
今のはただの錯覚だった。けれどもクノッサス峡谷では、死骸は犬ではなく人となるのだとウェイリードは再認識した。
こうして地に伏すのは、人間なのだ。それは顔見知りかもしれないし、
全く知らない帝国の騎士かもしれない。父かもしれないし、伯父や従兄たちかもしれないし、この師かもしれない。
さっきまで生きていた人間が無残な姿となるのだ。
(カーラ様……)
そっと、主神に助けを求めるように祈る。父や伯父や従兄たち、師やカーリア人の騎士たちがこのような姿にならないよう、
ウェイリードには祈ることしかできなかった。
(2007.5.19)
Copyright(c) 2009 hina higuchi All rights reserved.