墓と薔薇

閑話:双子の魔人(1)

「ビービ、ビビちゃん」
「……」
「俺の可愛いビビちゃん」
 歩く。とにかく歩く。その横を半歩遅れて、大好きな従兄たちに似てるようで似てない血縁上では 二番目に年齢の近い()が歩く。うざったいぐらい長い髪を一つにくくり、軍服を着崩す軽薄そうな 外見。艶っぽい目許と気障な言葉で女を巧みに惹き寄せる。六人いる兄の中 では一番容姿が優れている。
 ベアトリーチェはそんな目立つ兄を振り切りたい一心で、ただひたすら回廊を歩き回っていた。 追いかけっこは城内の慣例となっているので、侍女も衛兵たちも微笑ましいと言わん ばかりの顔で見守っている。それが一段と(しゃく)(さわ)る。
 だからこっちに来たくないのだ――ベアトリーチェは足を踏み鳴らしながら突き進んだ。だいたい こっちに来れば、強引に連れて来た従兄たちは自分のことを放って好き勝手なことをし始めるのだ。 強引に連れてくるくせに、放り出す従兄たちへの腹立たしさが募る。しかも、従兄を探そうとすると 決まってこの五番目の兄が邪魔をするのだ。
――もう! ウェイってば、どこ?!
 今回はここ――アイゼン公爵領には一人の従兄しか追従しなかった。大抵は二人とも一緒に帰る くせに、今回は別行動だ。二人いれば、どちらかを見つける可能性も増えるのだが、 一人だとなかなかその影を捕まえるのは難儀なことだった。
 季節という枠組みから抜け出した温室の中庭に差しかかり、父が挨拶時に『中庭に雛芥子 が咲いている』と言っていたのを思い出す。確かに冬とは思えない 明るい色彩の可憐な雛芥子が咲き乱れている。
 ふと、誰かに手を引かれてここを歩いた遠い昔の記憶が脳裏を掠め、足を止めた。右手を細く華奢 な手が、左手を無骨だけれど優しい手が。顔をあげれば二人の笑顔――のはず。しかしその顔を、 よく思い出せない。もの憂さにベアトリーチェはぼうっと雛芥子を見つめた。
「恥ずかしがり屋のビビちゃん、やっと止まってくれたのかい?」
 気障(きざ)な兄の声に、ベアトリーチェは顰めっ面を向けた。
「気持ちわるー」
[さあ、優しいお兄様の胸に飛び込んでおいで」
「うっざー」
 腕を広げ、広く逞しい胸を突き出してくる兄に呆れた顔で一瞥をくれる。
 愛情表現だと言って憚らない身体接触にはほとほと困っていた。公爵領へ 来る度にこう纏わりつかれれば、その軟派な顔を引っ掻いてやりたくもなる。下品だといつも 怒られているが、ベアトリーチェは舌打ちした。
「三ヶ月ぶりだろう? お兄様はとても寂しかったんだぞ? なぁビビ」
「うるさい、死ね」
 『死ね』と言われて恍惚とした表情を浮かべ、何かを吸い込むように胸を押さえる この兄は気持ち悪い奴だとベアトリーチェ は常に思っている。
「父上には挨拶したかい?」
「さっきしてきた」
「感動の抱擁はしたかい?」
「するわけないじゃん、ばっかじゃない?」
 睨み付ければ、まるで愛の告白を受けたかのような、とろけるような甘い微笑みを浮かべる。
 ベアトリーチェは鳥肌の立った腕を擦った。
「兄上たちには会ったかい?」
「会った」
 二番目の兄と三番目の兄ヨアヒムは公爵領にいないので除外する。ここにいる一番目 の兄とその妻子、それから六番目の兄には挨拶をした。五番目の兄は頭が万年春のこの男だ。だから 全員に会っている――ベアトリーチェはふん、と鼻を鳴らして腰に手をあてた。
 するとどこか今までとは雰囲気の違う、慎重さのみられる面持ちで兄は見下ろしてきた。
「……キアにも、ちゃんと挨拶したかい?」
「誰それ」
「おーい。確かにお前のお兄様は全部で六人もいるが、名前が覚えられないほど多くもない だろう?」
 大袈裟な身振り手振りを加えて喋るが、先ほどまでの中身のない道化のような軽さは 抜けている。
「そんな人、あたしの≪兄≫にいない」
「ビービ。それはないだろう?」
 真摯に見つめてくる瞳は、大好きな従兄の兄の方に似ている。従兄は目の色は変わってしまったので 印象は少し違ってしまっているけれど、こういう時だけ似ているのはずるいとベアトリーチェは 悔しく思う。そうでなかったら、目の前の無遠慮な男を力任せに殴り倒すか魔法を浴びせてその口を 塞いでしまえるのだから。
「ビビ。いつまで怒っているつもりだい?」
「あたしは皆があいつを赦しているほうが信じられない」
「ビビ、≪あいつ≫なんて汚い言葉は駄目だよ」
「うっさいな!」
 幼子を諭すような口調にベアトリーチェの苛つきは頂点にまで昇り、手を伸ばして兄の首に 巻かれたクラヴァットを掴むとその気障ったらしい顔を強引に引き寄せた。
「あんな感情の欠落した男と血が繋がってるって思うだけで吐き気がする! あの男は ウェイを殺そうとした! あたしは一生許さない! 許さないんだから!」
 至近距離で捨て台詞のように叫び、ベアトリーチェは優しい香を振りまく雛芥子の花びらを 散らしながら中庭を突っ切って、走り去ってしまった。

「まったく、反抗期か……。可愛いなぁ、俺の妹は」
 残された兄は、後半の言葉をそれこそ涎が垂れるのではないかと思う程締りのない顔で、呟いた。



◇     ◇     ◇



 クノッサス峡谷の谷風は常にアイゼン家に有利に吹く。それは始祖ヴィクトール・アイゼンが この地に住まう一対の高位精霊と契約を交わしたことに因る。
 人の手を入れないこと――無欲な精霊たちの願いはこの地がアイゼン公爵領となって六百年経って も忘れられることはない。精霊たちの祝福を受けた土も風も常に毎年の実りを約束する。帝国を含め た近隣地域が不作に陥った時の為に必要以上の備蓄をし、それでも首都カーリアの穀物の三割を公爵領 の黄金の小麦畑が賄うほどの豊作を誇る。精霊たちの健気な願いを叶えることで得られる多大な恩恵 により自分たちの生活が潤っているのを、領民たちは身をもって知っているのだ。言わばこの峡谷は アイゼン公爵領にとって、なくてはならない霊地だった。
 峡谷の狭い谷間を抜けたすぐ先、なだらかな丘陵にも平野とは違った穏やかで暖かみの ある谷風が吹き抜ける。そこに一人、ウェイリードは自分の足で登りつめ、清められた葡萄酒を地に 振りまいた。黒檀の髪や外套の裾をくすぐる風が、枯れた芝草を撫でながら進む。人の定めた境界線 など風には関係はない。
 国境は目と鼻の先。ウェイリードの立つ丘陵の前面には巨人がスプーンで軽く地表を刳り貫いたか のような緩い下り坂の低地が続き、その先にある上り坂の向こうの丘陵はもうエルムドア帝国領 だった。
 峡谷近隣の豊かな土と風をめぐって帝国とは幾度となく小競り合いがあったと記録されているが、 始祖の時代より続く≪常勝≫の冠は伊達ではなく、アイゼン家の抱える騎士団は広大な領地を誇る帝国 さえも退かせた強さを誇っていた。いつしか帝国は侵略を諦め、現在のような友好的な――つまり は飢饉や災害時には国境如何関わりなく互いへの援助を惜しまない、国を超えた関係を保つように なった。
 ふと背後の風の流れが変わり、それを敏感に感じ取ったウェイリードは軽く 振り向いた。想像通りの相手であった為に軽く吐息をつく。
「やはりこちらでしたか」
 己と同じ黒髪を持つ細身の男が傍へと近づいてくるのを黙認する。
「おかえりなさいませ」
「……ああ、ただいま」
 距離をとって膝をつき、こうべを垂れて敬意を示す男に対し、ウェイリードは苦笑する。 人前ではないのだから堅苦しい挨拶は抜きにして欲しいのだが、彼は譲らなかった。
 男の名はキア・ブランシール。アイゼン公爵領を本家に代わって管理する分家ブランシール家 の四男でベアトリーチェの兄、ウェイリードにとっては五歳上の従兄にあたる。首都の王立学院で 学んだ折、教授たちに≪百年に一度の逸材≫と言わしめた頭脳を誇ったが、彼がそのまま仕官学校 へ進むことはなかった。正確に言えば、王立学院を卒業もしていない。卒業間際の十七で領地へと 引き戻されたのだ。
「公爵領へお戻りになった時、貴方は先ずここに足を運ぶ」
 肩口で切りそろえられた黒髪が風に煽られ乱れる。それを押さえながら立ちあがり、 キアは苦笑した。
「それが礼儀だ」
「……そうですね」
 遥か彼方を見つめるように目を細める。
「きっとあの≪魔人たち≫は貴方がここへ戻ってくる度に喜んでいることでしょう」
 和らいだ風の一端が辺りを取り巻き、その中で長い裾を(なび)かせた風の乙女がキアとこちらへ 笑いかけてくる。大抵は光の粒のような低位の精霊が、正常時のこの眼(・・・)に留まるように 精神体を見せてくるのは珍しいものだとウェイリードは思う。
「精霊は、等しく物事を見ている」
 彼等が祝福するのは自分だけではない。等しくキアも祝福している。それを目の当たりにし、 ウェイリードは僅かに微苦笑を浮かべた。やはり自分は間違っていないのだ、と確信めいた 自信を持つ。
「弟たちが怒っておりました。自分たちよりも≪魔人たち≫への挨拶が先か、と」
 キアは意図的に話を逸らしたが、ウェイリードはとくに気にはしなかった。
「公爵領にお戻りになって父に挨拶するとすぐに馬を駆って出かけられる貴方の姿を、弟たちは 見咎めたようです」
「では今度からはもっとうまく隠れて抜け出すとしよう」
 皮肉げに口許を歪ませれば、従兄は珍しいものでも見たように瞠目する。
「貴方からそんな冗談が聞けるとは思いませんでした」
「……そうか」
 とことん自分はつまらない人間だと思われているらしい。ウェイリードは内心苦笑した。
「貴方のお帰りをみな心待ちにしているのです、どうぞ労いの言葉を掛けてやって下さい」
「……ああ」
 キアが差し伸べてきた手に空の酒瓶を渡す。
「レムテストのことでは世話になる」
「私でお力になれるのでしたら何なりと」
「……恩にきる」
 神妙な面持ちで頷けば、それが嬉しいことであるかのようにキアは薄く微笑んだ。
 それを正面から捉え、ウェイリードは彼によく似た従妹を思い出す。キアがやや中性的な顔のつくり だからなのだろうか、彼等の兄弟の中で一番酷似していると思う。
「ビビには会ったのか?」
 嫌がる首根っこを捕まえて公爵領へと連れ帰った従妹の名を口にすれば、キアはなんてこと ないように首を横へ振った。
「いえ」
 微笑みは消えなかった。
「……いつまでも強情な奴だ」
「仕様のないことです。私は恨まれて当然なのですから」
「貴兄は何も間違ってはいない」
 間違っていなかった。何度そう庇いたてしても、誰も耳を貸そうとはしなかった。 ウェイリードは憎々しい思いで吐き捨てるように呟いた、――まるでこの従兄の分の 怒りも貰い受けたかのように、彼にしてはやや感情的に。
 十年前、正確には十一年前のあの出来事(・・・・・)への (とが)により、キアの一生涯は公爵領に縛り付けられる こととなった。本家であるアイゼン家に対してのみその叡智(えいち)をふるう事を、齢十七にして課せられ たのだ。それは罪への罰、命ある限りの(かせ)であった。
 しかしウェイリードは≪被害者≫であるにも関わらず、彼に罪があるとは微塵も考えてはいなかっ た。寧ろその逆、キアをアイゼン公爵領と帝国を救った≪英雄≫だとすら思っていた。彼の機転が なければ、クノッサス峡谷にはアイゼン家の騎士たちだけでなく、大儀のない戦に踏み切らざるを 得なかった憐れなエルムドア帝国騎士たちの遺体が幾重にも積み重なったはずなのだから。
 けれどもブランシール家の決定は無情なものだった。どんな理由があるにせよ絶対服従すべき本家の 人間、それも次期公爵となる嫡子を危険に晒したキアは、掟からすれば厳罰ものだったのだろう。 罪を背負わす為に身体的な罰が下されなかったのは、ぎりぎり未成年であったことと、不慮の事故に よって足への障碍を負ったすぐ上の兄ヨアヒムへの配慮だった。キアは身体的な罰を免れた代わりに、 その身を生涯アイゼン公爵領に縛り付けられることとなった。十一年が経とうとする今でも父君たる ブランシール卿から罪人のごとく行動を監視され、末妹ベアトリーチェからその存在が目に入らな いかのような扱いを受けていた。
 だからこそ、ウェイリードはキアを事ある度に尊重した。己が進んで 敬意を示し、意見を尊重することがこの従兄の身の保障に繋がると理解しているからだ。
「私は後悔しておりません」
 行動を抑制され、父や長兄から危険因子として監視され、末妹から存在を無視される。 それでもキアは後悔していないと、ウェイリードに何度もはっきりと言い聞かせてくるのだ。
「もう一度同じ事があったとしても、私は同じ判断を下すでしょう」
 透き通る意思の強い声で、そっと胸に手をあてキアはそう宣言する。
「……伯父上はもう許さないだろう、それでもか?」
「それでも、貴方の命一つで多くの命が助かるのなら、私は同じ判断を下します。 例えその事でもう一度罪を問われ、命を奪われても」
 キアにはブランシール家がアイゼン家に誓う服従に近い忠誠の意思がない。ヴィクトールに 赦された罪人を祖とするブランシール家の男子はみなアイゼン家に対し隷従するのが掟だったが、 キアはその範疇から逸脱していた。こうしたブランシール家の掟は古めかしい悪しき因習だと考えて いる為に、キアのように従わない者が居てくれることがウェイリードには喜ばしかったが。
 しかし周囲はそれを認めない。アイゼン家に隷属しないブランシール家の人間を、一族は決して 認めないのだ。
「その言葉を決して口外してはならない。その心中を誰かに悟られてはいけない。 貴兄はこの公爵領にはなくてはならない人だ、失うわけにはいかない」
 キアは穏和な笑みを浮かべて瞳を閉じた。
「……私はブランシールの騎士としての忠誠を貴方には誓いません。私が忠誠を誓うのはこの領地に 対してです。……けれどもキア・ブランシールという一人の人間として、アイゼン公爵領の領民たち の為に生きる貴方を支えることは、約束致します」
 何よりもまず領民のためをもって治世にあたること。それを約束してくれる者が傍に 居てくれるほどウェイリードにとって心強いことはなかった。
「貴兄が誰よりも公爵領の領民たちを思い、この地を愛していることを、私も父も知っている」
 それは彼の父も兄弟たちもみな知っているのだろう。そして豊かなこの地を、みなそれぞれ愛し 守ろうと努めている。ただ、その方法が食い違うだけなのだ。
「私には、貴方が理解して下さっているだけで、十分です」
 ですから何もお気になさらずに――キアは穏やかに微笑んだ。
 それでも、ウェイリードはあの十一年前に戻りたいと願った。己だけの手柄だと褒め称えられるのが 心苦しくなり、『キアの助言があったからあのようなことを思いついたのだ』と素直に答えてしまった 幼く浅はかな己の口を塞ぎたいと、ウェイリードは心から思った。

 背後からの穏やかな谷風は止むことなく蕭然(しょうぜん)とした丘陵を撫で付けながら、低地へと吹き込む。 ここで矢を射ればたちまち風に乗って飛距離を伸ばし、勢いを殺すことのない(やじり)が対岸の丘陵近くの 地に突き刺さる。帝国との小競り合いに勝利を続けたのも、このアイゼン家を後押しする谷風に 恵まれていたからでもある。
 しかし十一年前のあの日――あの時だけ、その風が止んだ。そして事もあろうに、風はあの低地の 中心部から発生し、ヴィクトールとの契約が成り立って六百年、一度もアイゼン家に牙を剥いたこと のない≪峡谷の風≫も≪峡谷の大地≫も契約を反故とした。
 それが、全てのはじまりだったのだ。


(2007.5.13)

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