墓と薔薇

閑話:王子の反乱(3)

 王室警邏隊が訓練に使用する元老院所有の建物にて、鍛錬をはじめて十日目。投げ飛ばされること通算千回以上。 床に叩き付けられる度に、学校の護身術の授業ではどれほど生温い方法で教えられていたのかを思い知らされた。
 三階分が吹き抜けとなっている半地下のこの訓練場は野外での戦闘を模している為に床は黄土色の土と砂で埋め尽くされているので、 固い石の床よりは幾分衝撃を吸収してくれるけれど、痣やすり傷、打ち身は絶えなかった。それに加えて常にない体術の稽古による筋肉の疲労も激しい。
「ほら、足!」
 掴んだ腕をどうするかに意識が集中していた為に(おろそ)かになっていた足元を蹴られ、 敢えなく均衡を崩す。俯せて倒れこめば、舞いあがる乾いた砂の粒子を吸い込み、咳き咽た。朝からずっと続く稽古で、 さすがに身体中が悲鳴をあげ、腕を投げ出して完全に床に身体を預ける。
 現在は学校が長期休暇中なので、サリアの時間が許す限り稽古をつけてもらっている。サリアが仕事で抜ける時は彼女の先輩騎士に棒術を習ったり、 彼女の課してきた方法で自主鍛錬を行っていた。身元の明らかな人間ならば基本的に誰でもこの訓練場を使用しても良いらしく、 実に有意義に使わせてもらっている。過保護な母やイリヤの目が光るあの屋敷では、一人引き篭もっての鍛錬などできようはずもない。
 汗まみれの顔や剥き出しの腕に砂がこびり付く。服も相当汚れているだろう。しかし十日も経てば、 小汚い態でいるのにも慣れるものだ。
「やーだぁ。もう終わりー?」
 目だけを動かし、見上げる。こちらを永遠と投げ飛ばし続けたサリア・クーベルは、良い汗をかいた程度の爽やかな表情でこちらを見下ろしていた。 全身を土埃まみれなっているこちらとは違い、汚れ一つない濃紺の軍服で誇らしげに腕を組んで立っている。その姿が憎たらしい。
 今でこそサリアに痛め付けられる己の情けない姿にも慣れたけれども、 強引なかたちでここへ引っ張り込まれた当初、自分は不機嫌の塊だった。なぜならこちらを幾度も投げ飛ばすサリアは小柄で実に華奢な≪女≫だからだ。 自分よりも小さく細い同年代の女に砂を被せられるとは思いもよらなかったし、 己の身のこなしがまさかここまで≪女≫に引けを取るとは思いもよらなかったのだ。
 サリアが騎士という役職に就いている人物だという事を忘れていたわけではない。ただ、国が許した女騎士という存在についてあまりに無知で、 そのうえ『女はか弱い』という偏見に思考が凝り固まっていただけなのだ。
 向かっていっても軽くあしらわれて転がされ、投げ飛ばされ、叩き付けられ、蹴られ、押さえこまれ――その度に恥辱に震え、 暴言を吐くほど頭に血が昇っていた。しかし何十回と向かっていくうちに、サリアの身体の軸すら動かせていない事実に気づき、 ついには認めざるを得なかった――サリア・クーベルは自分よりも遥かに強いのだ、と。
 ララド(なまり)なのか頭の悪そうな喋り方をするが、 外国出身であり更には女であるという二重の障壁を乗り越えて騎士となり、元老騎士に目を掛けられて王室警邏隊の一員となったサリアに、 ≪貴族の軟な坊ちゃん≫が到底敵うはずもないのだ。
「体力ないなぁ」
「――」
 何か応えようにも喉がひゅうひゅう鳴るだけでなかなか言葉にならない。今まで身体を動かす事を怠けていたわけではないが、 こんなに自分を痛めつけるほど鍛えようとしたことはなかった。しかし騎士にとっては大した運動量ではないのだろう、情けなさに歯噛みする。
「……化け物め」
 やっと形になった言葉は、掠れたたった一言だ。
「おほほほほ。なんとでもお言い、≪肥えた豚≫さん」
 わざとらしく気取った笑い声を上げながら、悪戯な子どものような緑の目を細め、 肩に乗る赤い巻き髪を振り払った。
「こえたぶた?」
「熱血ユーリの口癖よー。『肥えた豚は俺が捕まえてやる!』」
 後半は物真似だったらしいが、ユーリとは誰であるのかすぐに思い当たらない。相当に貴族が嫌いな人種なのだろう。 ≪肥える≫とか≪豚≫といった言葉は腰の重い貴族を示す隠語だ。
「ところで、いつまで休んでる気ぃ?」
 俯した背にどしりとした重みを受け、一瞬背骨が軋む。 化け物女が人の背を椅子であるかのように、容赦の欠片もなく座ったのだ。
「……おもい……」
「失礼ねぇ。あたしの体重はりんご三個分よう」
 そんなわけがあるか――そう言ってやろうにも、肺が潰れて声にならない。息苦しいという意思表示に、持てる力を振り絞って床を叩く。
「このまま腕立て伏せー。はい」
 その床の叩き方が『未だ元気がある』ととられたのだろうか、無慈悲な命令が下される。  しかしりんご三箱分は有にあろう物体が背中に乗ったまま、腕立て伏せの体勢になれるはずもない。
 いつまでも伏せたまま動こうとしないこちらの臀部をサリアが景気付けとばかりに叩いてくる。 屈辱に打ち震えるが、やはり身体は動かない。
(こんな姿、死んでも見られたくない!)
 異母姉や母もそうだが、誰よりもあのむかつく従兄にだけは見られたくない。悦楽に歪む嘲笑を浮かべて見下してくるあの眼鏡男を想像すれば、 失せていた気力も底力も復活した。 なんとか身体を浮かせ、膝と突っ張った両腕で背中にサリアを乗せたまま半身起こすことには成功する。 額や首に浮かんだ玉の汗が鼻先や顎から幾筋も滑り落ち、土に染みこんでいく。
「サリア! 何をしているの!」
 急に悲鳴に近い声が遠く上から響く。響き方からして、吹き抜けの二階辺りから叫んでいるのだろうか。 手摺りのない石造りの内階段を駆け下りる忙しない靴音が聞こえる。サリアに乗られた情けない姿を一体誰が見咎めたのだろうか、 願わくばこちらを知らぬ者であって欲しい。
「イルーダじゃん。みてみてー、ただいま毛並みの良い馬で乗馬の練習中でーす」
 サリアが脳天気そうな声で挨拶しているのが聞こえ、相手が誰だか判明した。 願うことの虚しさを知る。それこそ顔ごと土に埋もれてしまいたいぐらいだ。
「レセン公子になんて事をしているの! すぐに退きなさい!」
「えー。良き椅子を見つけたのにぃ」
 ぶつぶつと不平を述べながら、自称りんご三個分の(おもり)が背中から退いた。
 いつまでも馬のような格好をしているのはみっともないし理由もないので、とりあえず立ち上がるが、 酸欠なのか頭がくらくらするので座り込みたかった。そんな自分のひ弱さに情けなくてため息が零れる。多分、酷く疲れた顔をしているはずだ。
「公子、お怪我はございませんか」
 怪我も何も、先ほどからずっとサリアに投げ飛ばされっぱなしで、身体中は打ち身と痣、擦り傷だらけだ。 しかしこれは自分も望んだ事の結果なのだ。エルムドア帝国に滞在するクラメンス小国の要人に会う為には、 エルムドア、クラメンス両国の軍人を出し抜く身のこなしが必要なのだから。
「大丈夫だ」
 肩を竦め、服にこびり付いた砂を緩慢な動きで叩いて落とした。最後に顔の砂も手の甲で拭い、 深憂(しんゆう)の表情で佇むイルーダへと視線を向けた。彼女は少し痩せたようにも見える。
 イルーダはカーリアに住む大半の人種とは異なり、黒髪と黒い瞳を持つエルムドア系民族で、魔法都市国家ララド出身の円卓騎士だ。 漆黒の軍服に身を包むその肢体はサリア同様、騎士というにはあまりに華奢で貧弱。しかしサリアの姉弟子でもあることから、 見た目や性別に騙されてはいけないのだろう。生真面目で滅多に笑わない事から、 鉄仮面やら鉄面皮などと女性にしては随分と不名誉な渾名を付けられてはいるが、とても綺麗な人だ。
(本当ならば、セレドの妃になるはずだった女性……)
 じっと見つめ過ぎた為に居心地を悪くさせてしまったのだろうか、イルーダはこちらから目を逸らし、妹弟子を見やった。
「サリア。このこと、ヒュー上官はご存知なの?」
 若干呆れたような口調のイルーダに対し、サリアは大袈裟に手を広げてとぼけた表情で首を傾げた。
「なーんでヒューじょーかんが出てくるのぅ?」
「この方はラヴィン公爵家の――」
「家は関係ない」
 思ったよりも不機嫌な声になってしまい、二人の視線を集めた。その気まずさに、つい顔を背ける。
 いつも≪ラヴィン家≫の一族だからというだけで何もかもが優遇され、危険から一番遠くに追いやられる。 それを(うと)ましく思う気持ちを我侭だとよく言われるが、 勝手に場外へ押し出されてしまうのはいつだって不本意だった。けれどもその不満をイルーダにぶつけるのは間違っていたと反省はする。
「レセン公子ってば、ジェノライト様に伸されたのがそーとー悔しかったんだってぇ。秘密の特訓をして、ジェノライト様を踏んづける予定なのよーん」
「そ、それは……」
 サリアの言い分を信じたらしく、こちらを気にしながらイルーダは言葉を濁した。複雑な気分だったが、 他にもっともな理由はないから黙っているしかない。
「雪辱戦のために鍛えているのよー」
 元気が有り余っているらしく、サリアはくるくると踊りながらこちらの至近距離を回る。 顔をくすぐる赤い巻き髪の端がうっとおしかったので、引っ掛けてやろうと足を出すが、 流れるような足の運びで踊りの一環のようにその足を思い切り蹴り飛ばされた。
「ジェノライト上官に戦いを挑むのですか……。ユーリみたいなことを仰られる……」
 蹴られた足を擦るこちらを、可哀想にと同情の目で見つめてくる。分かっている。サリアにすら敵わないのだ、 あの最強の騎士と誉高いジェノライト・アリスタになど≪良家の坊ちゃん≫では十年経っても勝てないだろう。 しかしそこまで見縊(みくび)られるのも少々癪だった。
「だから、あたしはヒュー・イングラム配下の王室警邏隊として、その誇りと威信をかけてレセン公子を鍛えるんでーす」
 急に首に腕が回り、片腕と首を一緒くたにされて両腕で締めつけられる。馬鹿力で苦しい。
「サリア、だからといってレセン公子にあまり無体なことを――」
「公子はあたしの弟子になるんだから、あたしの上司のヒューの門下になるのよぅ。国一の騎士たるヒューの門下生として、 恥ずかしくない剣士になってもらわないと困るの」
 一向に剣術を習ってはいないが、サリアはこちらを剣士にすると言って憚らない。理解に苦しむ。
「……公子は、それで宜しいのですか?」
「よく分からないが、強くなりたいんだ。できれば放っておいて欲しいんだけど」
 やっと解放された首の無事を確かめながら回し、答える。
「畏まりました」
 あまり納得はしていないのだろう。やや困ったような表情でイルーダは頭を下げた。 その彼女が本来ならばこちらが頭を下げるべき地位に就くはずだったと思うと、やはり胸が痛む。

『それにイルーダには、いつか病に倒れるかもしれない私なんかよりも、もっと健康で相応しい 相手がいる』

 セレドの矜持からして、言葉にして誰かに聞かせたくなかったであろうあの告白が、 脳裏を過ぎる。セレドにはイルーダが必要だと思う。けれども、これから自分がやろうとしている事が成功すれば、 セレドの傍からイルーダを生涯引き離すことに繋がるのだ。
(この人は、セレドのことはいいんだろうか……)
 サリアとの会話を続けるイルーダを窺い見、小さくかぶりを振る。穏やかな表情に浮かぶ数々の想い。 ふと見せる遠い目、伏せ気味の瞼、自然と引き結ばれる口許、無意識であろう小さな溜息。彼女の端々から、物悲しさが伝わってくる。 会話をしているサリアは気づいているのだろうか。
(イルーダが本当にセレドと共に生きたいと思っているなら、俺は……)
 病に冒されるかもしれない不安を必死に隠すセレドの傍に居て欲しい。自分にはどれほどセレドを支えられるか分からない、 イルーダの半分も力になってやれないかもしれないのだから。
 けれども代わりにミリーネを不幸にだってさせたくない。クラメンス小国に嫁ぐことになれば、誰もミリーネを守ることができなくなる。
(どうすれば、いいんだ?)
 妹思いのセレドに同情して簡単に引き受けてしまった事への後悔なのか、打開策を閃くことのできない己の不甲斐なさへの苛立ちなのか。 胸に渦巻く思いの不快さに頭を抱えたくなった。
「それでは、失礼致します」
 自分の仕事を思い出したのか、『書類を運ぶ途中だった』と述べてサリアとの会話を打ち切ったイルーダは、 最後にこちらへと深い礼を残し、踵を返した。
 長い黒髪の揺れる背を眺めながら、サリアに訊ねる。己と同じような立場のくせに、この女の考えていることはさっぱり分からないのだ。
「お前はいいのか?」
「なーにがぁ?」
 自分にはなんにも悩み事なんてありません、といった風体の気の抜けた返答がかえってくるので、焦れったく腹の立つことこの上ない。 この女は終始こんな感じなのだ。
「お前、イルーダの親友なんだろう? イルーダがセレドに嫁ぐことができなくなって、お前はそれで良いと思ってるのか?」
 内階段を昇っていく彼女の姿を目で追う。綺麗に背筋の伸びたその姿は騎士然としていながらもどこか天性の気品を持ち合わせており、 女性らしさが滲む。艶のある長い黒髪と涅色(くりいろ)の瞳は、 大半のカーリア人にとっては神秘的で憧れの対象だ。あれでもう少し笑顔があれば、彼女は一般国民に≪王子の妃≫として受け入れられ、 愛される存在になれるだろう。ララド出身の庶民だが、生まれ持った稀有な美しさは、強みになる。
「前も言ったと思うンだけどぉ、あたしはイルーダにとって、セレド王子に嫁ぐことだけが幸せだとは思ってないンだよね」
 隣りのサリアを振りかえった。悪びれたふうもなく、指先に髪を巻き付けて玩んでいる。
「どういう意味だよ」
「庶民が貴族の世界に馴染むのにどれだけ辛い思いするか、公子にはわからない?」
「え?」
 サリアは少し怒ったように唇を尖らせていた。
「どんなに好きでも、アイゼン家の養女になっても、きっと貴族たちは許さないよ。そうしたら辛い思いするのはイルーダじゃん。 あたしはイルーダには幸せになって欲しいの。あたしが思い描くイルーダの幸せは、苛められる≪王妃≫じゃない」
「それは……。それでも、イルーダは一度は妃になる事を承諾したんだろ?」
「そーだよ。だからその意見を尊重して、あたしもできる限り助けるつもりだった。まあ、あたしにできることなんて微々たるもんだけどね」
 『あたしは庶民どころじゃないからね』と呟くように続けた。伏せられた睫毛の向こうで瞳から光が消えたように見えたが、一瞬の杞憂に終わる。 すぐにもいつも通りの、悩みの無いような顔をあげたからだ。
「そーいうわけで、あたしはあの二人のこと諦めてないよ」
「は?」
「では、続きといきますか」
 にやりと笑って唇の端をぺろりと舐め、腕を振りまわすサリアを慌てて止めた。
「ちょ、ちょっと待てよ! 脈絡が無さ過ぎてお前の言ってることが分からない! お前はイルーダとセレドの仲を祝福してないんだろ?!」
「そだよ」
 当たり前じゃん、と丸い目が語る。
「それなのに、二人のことを諦めてないってどういう事だよ!」
「あたしの言ってること聞いてたぁ?」
 顔を歪めながらサリアは呆れたように深い溜息を吐いた。
「王子の妃になるのだけがイルーダの幸せじゃない、ってのはあたしの勝手な言い分デショ。イルーダが王子のことが好きだ、 っていうのはイルーダの大切な気持ちなの。あたしは、あたしの意見よりイルーダの意見を尊重したいわけ。分かる?」
「わ、分かるぞ」
 馬鹿にされているのは百も承知だが、どうにもサリアの考えている事が呑み込めないのだ。
「だからこそ、あたしはイルーダが王子のお妃さまになるのを諦めてないのよん」
「そんなの無理だろ!」
 どう考えてももうイルーダが妃になる道は閉ざされている。そして何よりも――。
「だいたいそれならなんでセレドの策に乗ったんだ? なんで俺を鍛えてるんだよ!  俺はクラメンスの王女をセレドの嫁に寄越すよう交渉する為にエルムドアに行くんだぞ?!」
 不本意だけれど、本意。複雑な胸中をぶつけるように怒鳴る。
 しかしサリアはとても静かに佇んでいた。こいつは暴風雨の中でも笑って仁王立ちしているのかもしれない。
「おかしーなぁ、意見が食い違うはずないと思ったのに」
「は?」
「あたしは、またとない機会を得るためにアナタをエルムドアに連れて行くつもりなンだけど」
 とぼけた表情で首を傾げるのはこの女の癖なのか。
「またとない機会?」
「カーリア人は会う事ができないクラメンス小国の要人との≪極秘会談≫できる機会」
「え」
 一瞬、息を呑む。
「セレド王子の親書を渡しに行くだけで終わらせるつもり?」
 口端をあげて、悪童のようにずる賢く無邪気に笑う。その翠玉の瞳は自信に溢れて煌いている。
 サリアが余裕に事を構えている理由がやっと判明する。それはこちらの心から葛藤を拭い去るだけの力を持つ話だった。 ふつふつと沸き上がる嬉しさに、何故か泣きたくなる。
「カーリアの要人とクラメンスの要人がエルムドアの外交官を通さないで会談するのって、百年ぶりなんじゃない?」
「カーリアの、要人って――」
「もちろんアナタのことでしょ、レセン公子」
 胸元を指でさされ、色白の顔が寄ってくる。
「成人してないけど、ラヴィン家の次期公爵。セレド王子の名代なわけだし、相手も無碍にはできないはずだし。 しかも親カーリア派のクラメンス要人がエルムドア帝国に滞在するのを教えてくれたって事は、 不法侵入になってもこちらの話を聞いてくれるだけの器を持った人物が滞在するって事でしょ?」
 どこまでこの女を見縊(みくび)っていたのだろうか。サリアは王室警邏隊を名乗るに相応しい、 才知ある立派な騎士なのだ。今更ながら、そう確信する。
「それで、公子の意見は?」
 にっこりと笑うサリアに、声が詰まった。もはや己の気持ちを偽る必要はない事を知る。 堰を切ったように思いが溢れ出る。
「セレドがもし病に倒れたら、俺じゃあ力になれないかもしれない。だから本当はイルーダのこと諦めたくない」
「うん」
「俺はイルーダにセレドの傍にいて欲しいと思ってる。病に倒れても、倒れなくても」
「うん」
「でも、ミリーネのことも心配なんだ」
「うん」
「他に国交回復の糸口になる方法がないか、クラメンス側に提示してもらえれば」
「それはレセン公子に頑張ってもらわないとね。王子の名代は公子なんだから。あたしはただの一介の騎士だから口だしできないし」
「……分かった。頑張る」
 深く頷けば、満面の笑みを浮かべたサリアがこちらに腕を伸ばしてきた。反射的に身を引くが、 やはりサリアの動きには敵わない。
「公子ってば素直で、かーわーいーいー」
「やめろっ、首が折れる、折れる!」
 首に回された腕が締る。しかし喜びが大き過ぎて痛みなんて感じなかった。こうやってサリアがおどけてくれたおかげで、 安堵と嬉しさに顔も涙腺も弛みそうになっているのを見られずに済んで良かったのかもしれない。
(俺、がんばってみるぞ)
 セレドに泣きながら感謝される未来を掴むために、今できることをしよう。 セレドもミリーネも、イルーダもみんな幸せになってもらう為に。




+++



 霧に覆われた街並みは、薄暗く見通しが悪い。街を知り尽くした者は目に頼らずとも己の中に蓄積された感覚と記憶の地図だけで走れるが、 不慣れな者は慎重に歩いてもほんの少しの段差で(つまづ)き、迷う。
 強い風の魔法が通りぬけてもすぐに新しい霧が街を襲う。城内に安置された古の時代より伝わる宝石から、 無尽蔵の霧が放出し続けているからだ。防衛用魔法とは聞いてはいるが、一体どこの誰から首都を守る為のものなのか。 守られる民が霧により晴れない空を見上げるだけではないのだろうか。
 港で荷降ろしをしていた蛮族の船乗りが呟いていた言葉をふと思い出す。
『なんてシケた街だ』
 寂れているわけではない。人がいないわけでもない。けれども常に街を覆うその霧が色を隠し、陰鬱な影を映すだけなのだ。
(顔が、見えない)
 窓から見下ろす街並は薄ぼんやりとした陰影でのみ確認できる。そこに暮らす民の顔が見えない。 笑っているのか、悲しんでいるのか、怒っているのか、憐れんでいるのか、――国の未来を諦めているのか。何も見えない。なぜこの街はこんなにも暗いのか。
 ふと聞こえた扉を叩く音で現実に戻される。
「ライナー殿下」
 やはり来たかと思う。怒りの感情を抑えた声で名を呼ばれるのはもう飽きた。憐れみと諦め、 困惑の入り混じった表情で見つめられるのも、もうたくさんだった。
 振りかえらず、ただただ灰色の街並みを見下ろす。そこに暮らす人間は薄っすらとしか見えない。 きっと向うからはこちらの姿だけでなく城自体が確認できないことだろう。この霧の街では少し離れれば互いの顔すらはっきりと認識できない。
「ライナー殿下、コンラッド准将への厳命をお取り下げください」
 ラルフ・コンラッド准将を国境の街に配置換え――事実上の左遷―― するよう命じたのは三日前だ。本来ならばこんなに早急に、簡単に受理される事柄ではないが、コンラッドは許しなく王室それも王太子の身体に触れ、 その行動を押さえ付けた。罰せられるに充分な行動だった。
「殿下。准将の判断は何も間違ってはおりません。あの場にはアイゼン家の嫡男ウェイリード・アイゼン公子がおりました。 公子の恐ろしいまでの力は身を持って体験されたはずです。 ≪貴方の船≫は大破した。准将が貴方に剣を抜かせなかった判断は間違ってはおりません」
「黙れ」
「あの公子は魔法の才に長けてます。貴方だけを残して周りの軍人たちのみ地に叩き付ける術を持っている。 だからこそ貴方に剣を抜かせるわけにはいかなかった、公子に反撃の機会を与えるわけにはいかなかったのです」
 そうだ、正しい。
 貴女の言うことは正しい。いつも貴女は正しいのだ。
(そんなこと、昔から知っている)
 物心ついた時からずっと知っているのだから――貴女の事を。
「殿下」
「黙れ! この俺に意見するな!」
「准将は貴方に必要な人物です。お考え直し下さい」
「黙れ!」
 寡黙なコンラッドは滅多にこちらの言動に文句を言うことはない。けれども行き過ぎがあれば体当たりで止めてくるような男だ。 下級貴族の出だが常に堂々としており、敬意を示すに値しない相手と判断すれば己より位が上でも姿勢を変えず媚びない。 だからこそ部下には慕われるものの、上の覚えがめでたくない。今回の左遷も、その煽りを受けているはずだ。
「命令を撤回できるのは貴方様だけなのです」
「だったらあの薄汚れた蛮族を売ればいいだろう」
 国王も大臣たちも皆、あの船に乗っていたラヴィン公爵の護衛がアイゼン家の嫡子だったとは知らない。 商人アシル・アクバが国王へ寄せた書簡にはラヴィン公爵と他護衛のカーリア人二名とだけしか記されていなかったからだ。
 あの場に居た人間であの護衛の男がウェイリード・アイゼンだと気づいていたのはコンラッドとこの人だけ。 護衛とはいえカーリアの要人がラヴィン公爵の他に乗船していたことを黙っていたアシル・アクバへの咎を恐れ、 二人は口を閉ざしているのだ。 その事を話せば―― ウェイリード公子が相手であった為に()む無く王子の行動を押さえ付けたと証言すれば、 コンラッドの異動は回避できるだろう。
 血に塗れ、精霊に嫌悪されて魔法も扱えないイスラフルの蛮族など庇うに値しない。しかし二人はそう判断しないのだ。 コンラッドはアシル・アクバを庇い、このひと≪ロミルダ・レプシウス将軍≫は俺に折れろと要求する。
「どうぞお考えなおし下さい」
「俺に逆らう輩は山奥で隠居でもしていればいい」
 なぜ蛮族を庇う輩に慈悲を与えねばならないのか。
「殿下!」
「話は終わった。それだけなら出ていけ」
 命令を撤回する意思はないと伝わったのだろう、諦めたのか背後の彼女は静かになる。
「出てい――」
「怪我をしたイスラフルの船乗りですが」
 こちらの命令に彼女の声がかぶさった。瞬時に腹の中に氷を投げ込んだかのような感覚に息を呑む。
「命に別状はございません。しかし足の筋を若干傷つけていた為に半年以上の機能回復訓練が必要になります」
「俺には関係ない」
 蛮族が一人どうなろうと知ったものではない。あのイスラフルの蛮族どもはここ何十年も同胞でいがみ合い、 殺し合ってきていた。そんな国の人間が怪我をしたところで誰が気にするものか。 あの女公爵も言っていたではないか、『アシル・アクバは部下を見捨てようとした』と。 金に目が眩んで簡単に命を見限るような考え方をする国の人間なんて、構うものか。
(構うものか。俺は知らない。俺は関係無い。俺は……)
 冷たくなる指先に、ぎゅっと強く拳を握る。
「あと少し傷がずれていれば、彼は片足の機能を失うだけでなく、船乗りとしての職をも失うところでした」
「それがどうした」
 尚一層、拳を強く握り締める。
「≪どこかの誰か≫が騎士を諦めて商人になったように、いくらでも他に生きようがあるだろうが」
「ライナー!」
 非難めかしい悲鳴のような声に、耳を塞ぎたくなる。
「これ以上わたくしを幻滅させないで、ライナー!」
「断りなく俺の名を呼び捨てにするな!」
 はじめて振り返る。
 蒼白な顔、悲愴の表情でこちらを見つめる彼女を睨みつけた。
「あんたはその権利を自分で捨てたんだ!」
 そうだ。貴女はその権利と共に、俺を捨てたんだ。
「臣下になったのだ、この俺に不敬な態度は許さん! それともあんたも山奥に行きたいのか?  首都から離れれば、大好きなあのカーリア人と会うこともできなくなるだろう」
 彼女は口を噤み、悲しそうにこちらを見つめるだけだった。まるで憐れむかのような瞳が、苛立ちを誘う。
「あんたたちが密通していると陛下の耳に入れば、カーリアとの友好の旗印として喜んであんたを嫁に出すか、 それともあんたもあの男もろとも打ち首にするか」
 それでも憐憫の表情は変わらない。焦燥感に、唇を噛む。
(どうして懇願しない。許してくれ、見逃してくれと、なぜ泣きつかない)
 国民の支持を一心に集める国の女神、ロミルダ・レプシウス将軍。クラメンスの男たちを素気無く袖にして身持ちが堅いと噂されながら、 その実、このひとは敵国の元貴族である商人と通じているのだ。
 国民を裏切り、欺いている。それを俺は知っている。なのにこのひとは何も言わない、弁明しようともしない。
「あんたたち二人の命運は俺が握っているんだ。命が惜しくば俺に指図するな。俺を怒らせるな」
 ≪ここ≫は息苦しい。城内ははまともに息が吸える場所がなくなってしまった。
 昔は違った。≪貴女の傍≫だけは、違ったのに。
「あんたが出ていかないのなら、俺が出ていく」
 彼女の横をすり抜け、扉を開く。
 背の向うから小さな声が聞こえたが、それは懺悔ではなかった。
「……わたくしとヨアヒムは貴方が思うような関係ではありません。わたくしたちの間には、何もないのです」
 こちらに語り掛けているのではなく、自分にそうだと言い聞かせるかのような小さな声だった。

 貴方が俺を捨てて臣下になったのは、あの男のためなのでしょう?
 なんで『そうだ』と認めてくれないのですか、姉上。

「貴女は嘘吐きだ」
 こちらを振りかえったような気がする。長い髪が翻った気がする。けれども扉は閉じられた。 確認する術はなかった。


(2007.4.30)

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