墓と薔薇

8章 誰が為の薔薇 エピローグ

「船酔いとは、随分と辛い思いをしたのだな」
 ラレンシアへの旅路のはじまりとその航海について懸命に語り終えると、国王オーランド七世はそんな感想を零して苦笑した。
 今日の謁見者はいつもより多く、デュシアンで最後だという。肩に掛けられた深紅のガウンが血色を良く見せているからなのだろうか。 だいぶ疲れているはずだろうが、白い寝台に半身だけ起こすオーランド七世の容態は安定しているように思えた。
 寝台の横に座りながら、デュシアンはその事だけには胸を撫で下ろす。父アデルの死を知ったオーランド七世が心配だったのだ。
「確かにアリアバラス海峡の航海は荒く危険が伴うが、その勢いが楽しいものだったな」
「陛下も船にお乗りになったことがあるのですか?」
「ああ。しかし時の大司教に相当絞られたがね。 カーラの教えに忠実な者たちは船を()む」
 ふと、若執事のイリヤを思い出す。イリヤが船に乗るのを反対したのは船の危険性を考えての事で、 『カーラの教えに忠実』だからではないとデュシアンは考えている。しかしもし後者だったとしても、それはそれで良いとも思っていたが。
(ラシェと仲直りしたのかなぁ)
 それだけが気懸りであった。あの二人の常にないかたちでの言い争いに不安を覚えてならないのだ。
「だが、お前とウェイリードが共に旅をしたとなると、アデルの恐ろしい形相が浮かぶな」
「え?」
 従兄と執事の確執から思考を切り離し、国王へと視線を向けた。なぜ父が恐ろしい顔をしなければならないのか、 てんで分からないからだ。
「アデルはウェイリードを事の他気に入ってはいたが、お前の相手となればさぞ噛み付いた事だろう。しかしアデルの事だ、 もしかするともう既に手は打ってあるかもしれんな」
「あ、あの陛下、わたしと公子はべつに……」
 別に何にもない。そう主張したいのに、何故か頬が火照って口籠もってしまう。そんな自分が恥ずかしくて俯いていると、 『よいよい』とオーランド七世は訳知り顔で頷いた。余計に頬が赤らむ。
「それにしてもなんとも豪華な護衛騎士だな。私の護衛がアデルであったのと同じだ」
「父は陛下の護衛だったのですか?」
 話しが逸れることをこれ幸いと思い、デュシアンは顔を上げた。
「アデルにそういう名目がなければ私は外へは出られなかったからな」
 オーランド七世はにこりと笑った。その笑みはやはりセレド王子に似ている。
「アデルは攻撃的な魔法を、力の限り試してみたい気持ちが強かったのだよ。 しかし首都では危険魔法の使用には厳しい制限が敷かれている。外界を見てみたい私と利害が一致したのだ」
「は、はあ……」
 また一つ、父の神話が崩れる音がした。父は魔法の手解きをしてくれたが、『攻撃的な魔法は好きではないし、 デュシアンにも使って欲しくない』という理由で、あまり教えてはくれなかった。
 好きではなかったのではないのですか――そう尋ねたくなるが答えは永遠に得られるはずもなく、 仕方ないなと苦笑一つで片付けるしかなかった。
「それで、アデルがロアに遺したものを教えてもらえるのかな」
 こちらに向けられた瞳が曇る。先ほどまでの生き生きとした表情は失せ、 厭世観すら伝わってくるその様子にデュシアンは驚きを隠せなかった。 親友や古い知人の死に直結する話をする事になるからなのかと思ったが、そうではないと直感が告げる。 以前にも似た表情を見た覚えがあったのだ。 それは『一度で良いからロアへと行きたかった』とオーランド七世が呟いた時だ。
(そういえばあの時、『行きたかった』って過去形だった……)
 『もう行く事はできない』という言葉と同義にすら聞こえる。 あの時感じた懸念は、オーランド七世の≪諦め≫であったのだと思い至った。
 確かに今のオーランド七世の容態ではラレンシアへの旅どころかこの一室から出る事すらままならない。 そんな病状を一番よく分かっているのは、オーランド七世本人なはずだ。 親友と共に国内のあらゆる景色を能動的に見て回っていた少年時代と比べれば、 寝台から殆ど動くことのない日々を送る今の状態はさぞ口惜しいことだろう。
 ここに居ても目に映る景色は大窓から覗く裏庭の四季の移り変わりだけ。冬は冴えない色の空と枯れ木、 裏庭の池に飛来する渡り鳥の影。雨か、滅多に降らない雪が様相を変えてくれるのを待つのみ。 代わり映えのない景色を眺める虚しい気持ちは、鉄格子の掛けられた窓から外を眺めた経験のあるデュシアンにも少しだけ理解できる。
「お前もアデルと同じで、教えてはくれないのかい?」
 遠い昔に思いを馳せる時のみオーランド七世の目には生気が宿り、 こうして視線を合わせて『今』の話をする時は驚く程疲れた虚ろな目になり病人へと戻る事に今更ながら気づく。
 しかし楽しかった過去を見つめる事が病状を乗り切る力となるなら良いのだが、オーランド七世からはそんな気概は感じられない。 病人である事に慣れてしまって、『未来』に何の希望も抱いていないようにデュシアンには思えてしまう。
(陛下は未来を諦めてる……)
 そもそも父がロアの村に遺したものを親友たるオーランド七世に伝えなかったのは、 『ロアへ行けるようになるぐらい元気になって欲しい』という願いからだったはずだった。 けれどもその父の思いが親友には伝わっていないどころか、その願いから親友は目を逸らしているのだ……。
(ロアが遠過ぎのも、問題だよね)
 陸路を行けば往復約二十日。海路でも往復約六日。寝台から身を起こすのがやっとの身体では首都の港までですら長旅となるだろう。 現に、セレド王子の成人の儀にて神殿の大聖堂に現われたオーランド七世は、身体の両脇を支えられてやっと歩いていたのだから。 それではロアまで行く事に現実味を感じる事ができないのも当然だ。
(わたしに何かできることがあればいいのに)
 母のように医師であったのなら、その病状を改善するような手助けができるのだろうかと思案する。 しかし公爵としての公務すらままならない今、他の専門的な学問に目を向けることはデュシアンには難しい事だった。
(それでも、少しぐらい……)
 神殿の図書室を覗くぐらいの時間はあるだろう。小さな頃に母の書棚から医学書を取り出して、 意味が分からないながらも眺めていた事をぼんやりと思い出した。
「デュシアン」
 そっと顔を覗きこまれ、慌ててオーランド七世に思考の照準を戻した。
 『自分の目で確かめたい』と思う事すらオーランド七世は諦めている。だとすればどうすればいいのか。 話した方が良いのか、話さない方が良いのか。デュシアンは決めあぐねていた。
「父上」
 軽快なノックと共に、国唯一の王子たるセレド=アレクシス王子がその中性的で魅惑の容姿を覗かせた。 肩より少しだけ短い金髪が揺れる。
「御身体に障りますので、本日はその辺りにされませんか」
「ああ、そうだな。セルデンに怒られてしまう」
 助かった――デュシアンはセレド王子の登場に内心安堵した。
「デュシアン、また来ておくれ。お前と話していると心が安らぐ」
 そっと髪を撫でられ、そのくすぐったさに頬を緩めた。父にもこうしてよく撫でられていたことを思い出し、 少しだけしんみりとする。
「はい。また参ります」
 名残惜しそうに髪を撫でる手が離され、デュシアンは立ち上がって一歩下がると頭を垂れた。 紳士然と扉を開けてくれるセレド王子に黙礼をし、部屋を後にする。王子も共に出てくる事を少しだけ意識した。
 重厚な造りの扉が背で閉まり、廊下に控えていたカラナス侯爵の冷え冷えとした視線にデュシアンは顔を上げた。
 宮殿側の貴族で一の権威を振るうのはこのカラナス侯爵だ。セレド王子の教育係でもある。 細身の長身で軽く蓄えられた髭には品があり、物欲を感じさせない派手さの欠けた身なりには好感が持てるが、 如何せん神経質そうな目で計るようにこちらを見つめてくるのが難点だった。
「少しお謹み下さいませんか。陛下はご病床の身なのですよ」
「申し訳ございません」
 指摘通り、以前もそうだが今日も随分と長居をしてしまっている。いくら楽しげに話をしているからといっても、 本来の病状や面会の順番を考えればあまり無理をさせるものではない。 デュシアンは配慮の欠けた自らの行動に責任を感じ、頭を下げた。
「それに、我々がひたすら隠し続けていた努力を公は無にしたのだ。その事に関しても責任を感じて頂きたいものです」
「カラナス侯爵、それは不可効力だろう」
 咎めるような侯爵の物言いに、セレド王子が溜息を吐いて助け舟を出してくれた。
「いいえ、あの場にラヴィン公がお出ででなければ陛下がお気づきになることもなかったでしょう」
 どうやら前公爵たる父アデル・ラヴィンの死をオーランド七世に隠していた事を言っているらしい。父の死に気づかれたのは、 セレド王子の成人の儀にてラヴィン公爵家の上座の位置に座っていた時に目が合ってしまったからだ。 あの一瞬で、オーランド七世は全てを悟ってしまったのだ。
 今思えば、出席を見送れば体調不良により公爵不在として国王の耳に入るだけに過ぎなかったのかもしれない。 何も考えず、出席すればいいとだけ考えていた自分にも落ち度があったとデュシアンは認めざるを得なかった。
「わたしの不徳の致すところです。申し訳ありません」
 しかし本音を言えば、病状悪化を防ぐ為に親友の死すら知らされない状況が良いとはどうにも思えなかった。 寧ろ、それは国王自身の心の健康に悪いようにも思えるのだ。 それでも侯爵や周りにいる者たちが国王の身を本気で心配していると知っているからこそ、 デュシアンは素直に謝罪を述べるだけに留めたが。
「貴方が公爵となられてから、何かと騒動が多い」
 睥睨され、デュシアンは返す言葉もないと沈痛な面持ちで頷いた。
「北の守りの事もそうですが、ウェイリード殿も貴方を庇ったが為に、ビアシーニ枢機卿につけこまれたのです。 ライノール公は何も仰らないかもしれませんが、私としては次期アイゼン公爵となる公子にあまり迷惑をかけないよう願いたいものです」
「はい。心得ております」
 厳しい言葉を受けながら、デュシアンの心はどこか踊っていた。
 この人はウェイリード公子の味方なのだ、と。いわば、自分の≪仲間≫なのだ、と。
「皆が主神カーラの僕ではありません。貴方の力に疑念を抱く人間は私だけではありますまい。それをお忘れめさるな」
「肝に命じます」
 悪い感情を抱いていない事を示したくて、デュシアンは厭みにならない程度に微笑みながらも真剣な眼差しで頷いた。
 カラナス侯爵は勢いのまま口を開いたが、デュシアンをじっと計るように見つめた後、 眉尻を下げて口を閉じた。もうよい、という事なのだろう。
「……それではわたくしはこれで失礼致します」
 デュシアンはセレド王子と侯爵へ深く礼をすると、踵を返した。


「殿下、本気なのでございますか?」
 去り行く小柄なラヴィン公を冷然な目で眺めた後、カラナス侯爵の視線がこちらを向いた。
 侯爵と話す時はジェノと話す時ほどではないが、やや敗北感を味合う。以前より身長が伸びたとはいえ、 ≪根っからのお貴族様≫であるはずの侯爵にすらまだ届かないのだ。そろそろ伸び悩んできている。 そんな事を考えながら、セレドは億劫そうに侯爵を見上げた。
「何がだ?」
「ラヴィン公の事でございます」
(忘れていた)
 彼女に求愛をしているふり(・・)を演じなければならなかったのだ。 それをすっかり忘れていた。 しかし、色気の少ないラヴィン公デュシアンも悪いと思ってしまうのは八つ当たりというものだろう。
「ああ、まあね」
 特に気をつけなければならないのはこのカラナス侯爵だ。侯爵の前でもっと印象付けておくべきだったと今更ながら後悔が襲い、 危うく舌打ちしそうになる。品行方正でいるのも疲れるな、とセレドは小さな溜息を吐いた。
「そうですか。……まあ、悪い御仁ではないようですから」
 確かに、彼女は権力や贅沢を望む人柄ではない。純朴で温柔そうな娘だ。 それはレセンの話からおのずと想像できている。だからこそ、彼女に的を絞れたのだ。
「母御のことはありますが、なんといってもラヴィン公爵家の血が流れる令嬢ですからね。 あのどこの馬の骨とも知れない卑しい女騎士とは違って――」
「口が過ぎるぞ、カラナス」
 頭が冴える。体温がすっと下がる。心が凍える。口から飛び出した言葉は驚くほど冷淡な響きを持っていた。 冷静に場を見つめる自分が、計画に気づかれたくなければ言い直すよう警鐘を鳴らす。 しかしすぐにも言葉が喉を通り過ぎず、しばし沈黙のなか侯爵と睨み合う。
「……私と彼女はもう何も関係がなくなったのだ。彼女を悪く言う理由はもうないはずだ」
 今の自分にできるぎりぎりの演技と台詞。余裕がない。
「申し訳ございませんでした」
 こうべを垂れるカラナス侯爵を眺めながら、セレドは取りあえず安堵に小さく吐息を洩らす。
 自分の中には怪物が潜んでいる。それはいつ『自分』を乗っ取るか分かったものではない、 強力な力を持つ。こうしてたまに制御できずに、計画を脅かす。
(思い出せ、己の呪われた運命を!)
 寝台に横たわる父を思い浮かべる。その姿こそ、未来の自分の姿なのだ。妃の亡骸にも会えず、 親友の死をも知らされない隔離されたあの一室で、ただ無常に時が過ぎるのを眺めるだけ。 生きる希望も見出せなくなり、まるで呆けた老人のように過去ばかり語る。
(私にミリーネは守れない。イルーダを、幸せにできはしない……)
 大切な妹にも、傍に居て欲しいと願った女性にも、何もしてやる事ができなくなる刻が自分にも訪れるのだ。
 どうする事もできない憤りを抑えるように強く拳を握り締め、 カラナス侯爵が頭を上げるのを待つこともなくセレドはその場を離れていった。
 だから、知らない。一人残された侯爵が、足早に去るセレドの背を見つめながら、 やや困ったように溜息を吐いたことを……。



◇     ◇     ◇




「やっぱり陛下にはお話ししない方が良いのでしょうか、父様」
 人は死ぬと、その精神は神々のおわす世界へ向けて旅に出る。冷たい土の下で孤独に眠り、 訪れる人々を待っているわけではない。それでも墓石に向けて語りかけてしまうのは、 自分の為なのだと人々は言う。
 (うしな)った悲しみと向き合い、 乗り越え、そして己の心に決着をつける。ロアへ行き、 その段階をやっと自分は辿れるようになったのだとデュシアンは微苦笑を浮かべた。
「……陛下との旅は、楽しかったですか?」
 尋ねずとも答えは分かりきった事。墓標にそっと手を触れてから立ち上がった。
 小高い丘となっているこの場から見下ろす街並みは、大陸でも有数の大都市。隙間を埋めるように建てられた住居群、 石畳で舗装された道、生成り色の天幕が張られた青空市場、屋台が並ぶ大聖堂前広場、清浄な堀に囲まれた宮殿、 隣接する白亜の神殿、そして溢れんばかりの人々の喧騒(けんそう)
 目を閉じ、供えた薔薇の香りを吸いこむ。乾いた土や枯れた芝生の匂い、 風の奏でる木末(こぬれ)の音。目を閉じていても分かる明るい陽光。 郊外へと足を向ければ、落ちついた自然を十分に感じられる。ロアと同じ匂いがちゃんとするのだ。
 遠い故郷を思うこそすれ、帰りたいという気持ちは沸き上がってはこない。こうして首都に戻って来た今は、 ここが自分の居場所なのだとまざまざと思い知らされる。実母には申し訳なく思うも、それが素直な感情だった。
(かあ)様。わたし、母様に話してない事があるんです」
 デュシアンは心を決めると目を開き、隣りの継母へと向き直った。一つだけ隠している事がある。 それがずっと心に引っ掛かっていたのだ。
「なあに?」
 継母はいつものように優しい笑みを浮かべて小首を傾げ、 (いとけな)い少女のような表情でこちらを覗きこんでくる。 黒いファーに縁取られたケープが良く似合っている。
「わたしが首から下げていた小さな匂い袋、覚えていらっしゃいますか?」
 考える間もなく、継母は小さく頷いた。
「貴女がずっと大切にしていたものだったわよね。……最期にお父様に差し上げた」
 その表情が少しだけ強張ったのをデュシアンは見逃さなかった。
 今までは自分の事で精一杯で、継母が必死に隠している辛さに気づけていなかった。 継母はこうして端々にそれを覗かせていたのに……。己の不甲斐なさを責めながら、これからはもっと注意して観察し、 その機微を感じ取って支えたいと強く思う。
「あれは、わたしの母の――産みの母の、灰だったんです」
 継母は息を呑み肩を寄せ、小刻みに震える指先を口許に当てた。ふらりと身体も揺れる。
 言葉が足りなかったとデュシアンは慌てて首を横へ振った。
「いえ、母の灰のつもりだったんです。本当は、ずっと住んでいた家の、焼け跡にあった灰に過ぎませんでした」
 咽び泣いた後、灰と炭になった家にふらふらと歩み寄り、そこかしこのものに触れた。気づいた時には体中灰と煤だらけになっていた。 無意識に手に握っていた灰を、首から下げていた匂い袋へ入れたのは、兵士たちに領主館へと連行される馬車の中での事だった。
「……デュシアン」
 継母はデュシアンの手を取り、両手で包みこんでくれた。
 いつも継母の優しさや慈悲深さには泣いてしまいそうになる。しかしデュシアンは心を強く持ち、顔を上げた。
「わたしの中ではずっと、あの灰の入った匂い袋が≪母≫だったんです。そんな≪母≫に等しいものを父様に渡してしまいました。 ごめんなさい、母様」
「どうして謝るの?!」
 継母は驚いたように手に取るデュシアンの手を握り締めた。
「わたし、あの時、母様――セオリア様の事を蔑ろにしました。父様に、お母さんを渡したかったんです」
「それはわたくしを蔑ろにしたわけではないわ! 間違えないで、デュシアン。貴方のお父様とお母様は愛し合っておられたわ。 そのお二人の気持ちこそ、娘の貴女が蔑ろにしては駄目よ」
 強く言い聞かせるように継母は身体を傾け、デュシアンへと詰め寄った。
「アデル様はラトアンゼ様の存在した痕跡を何一つ手に入れる事ができなかったのよ。酷く嘆かれていたわ。 だから貴方から受け取られて、とてもお喜びになったはずよ。むしろわたくしは嬉しいのよ、デュシアン」
 本当に嬉しそうに継母は笑っている。
 張り詰めていたものが溶けていくような感覚に、デュシアンは肩から力を抜いた。 優しい継母がその事で怒ることはないと分かっていた。けれども許しを得て、やっと救われたような気分となる。
「本当は、生きている時に渡したかったんです。いつか父様に話すつもりでした。でも、できませんでした」
「わたくしとレセンに遠慮してしまったのね」
「それも、ありました」
 素直な気持ちを述べても継母が受け入れてくれるのをデュシアンは知っていた。けれども真実はそれだけではない。
「でも、そうではなくて、……母の事を話すのが、辛かったんです」
「デュシアン」
 手を握る力が強まった。自分を気遣ってくれる継母の思いがデュシアンには嬉しくて、 どこか申し訳無くて、そんな複雑な胸中で継母の手をしっかりと握り返した。
「わたしは母の死を拒絶していました。だから母の事を思い出すと訳がわからなくなって、そんな自分も怖かったんです。 それに、……幸せだったんです。首都に引き取られて新しい家族ができて、幸せだったんです」
 あなたが受け入れてくれた事が、あなたと家族になれた事が、それがどれだけ幸せだったのか。何を置いてもそれを伝えたくて、 そこで一度言葉を切り、デュシアンは継母をしっかりと見つめた。
 サファイアのような瞳は涙を湛え、瞬かせていた。それを見て、デュシアンはやっと微笑むことができた。
「もう一度手に入れた幸せを、一瞬でも壊したくなかった。父様がわたしを幸せだけに包みたかったように、 わたしも幸せだけに包まれていたかったんです。過去や真実から逃げることを、父様は許してくれた。時間を、くれたんです」
 その時間は決して無駄ではなかった。弱い自分には必要だったのだから。 けれども父の配慮に甘えてその弱さを克服しなかったのも事実だ。正面から父にぶつかっていく勇気がなかったのだから。
(今はどう?)
 そっと自分に語りかける。今もあの頃のように、ただ弱虫で泣き虫なだけの自分だろうか。
(変わりたい)
 誰かに気遣ってもらう為の弱さより、誰かを気遣える強さが欲しい。 父や母が誇れるような娘でありたい――そんな自分を後押しする勇気が、まだたくさん心のなかに残っていた。 ロアへ行く為になけなしの勇気を振り絞ったのに、どうやら勇気は使っても無くならないものらしい。それはとても心強いことだった。
「良かった」
 継母はそっと目許を拭い、笑みを浮かべた。
「ロアに貴女の答えはあったのね」
「答え……」
 継母から聞いた父の遺言にあった言葉を思い出す。ロアに答えがある、と。
「貴女はちゃんと前に向いて進めるようになった」
「前に?」
「アデル様は貴女を縛っていた疑問に答えをくれたのね」
「……わたしを縛っていた疑問」
 それは実母と父との事。ララドの暮らしやそれ以前の暮らしをどうして父は聞いてこなかったのかという事。 それから、自分のことを父は本当はどう思っているのか、という事。
 怖くて何一つ尋ねることができなかった心の奥底に封印していた疑問を、父は全部掘り起こしてロアに答えを用意しておいてくれた。 手紙もそうだが、母の墓の周りに彩られたあの薔薇が、全ての答えでもあった。
「帰ってきた貴方はすっきりした顔をしているもの」
 ふわりと舞うのは寒冷の風ながら、まるで春が訪れたかのような暖かさに包まれた気がする。 陽だまりのような継母の笑みにつられるように、デュシアンも微笑みを浮かべた。

「……ただいま、母さま」
「おかえりなさい、新しいデュシアン」
 デュシアンは初めて父の墓前にて、継母と笑いあった。


8章  終

(2007.3.13)

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