墓と薔薇

8章 誰が為の薔薇(9)

 青海原の上を忙しなく飛び駆う海鳥たちは餌に釣られ、朝日に煌く波間をのんびりと進む船の後方に付いていた。 無遠慮に小さい嘴を寄せてくるその姿に初めこそ驚かされたが、 首都の植物園にいた大蜥蜴のように餌と一緒にこちらの腕まで食い千切らんばかりの獰猛さはみられないので、 デュシアンはすぐにも餌やりに慣れた。
 先ほどまで隣りにいたベアトリーチェ公女は今は高い櫓の上だった。共に櫓の上で餌を与えようと誘われはしたのだが、 あんなに高い場所へ続く垂直の梯子を昇りきる自信がない為に、デュシアンはその申し出を丁重に断っている。 それでも彼女はときたら、危険だからと止めるウェイリード公子の制止に耳を貸さず、嬉々とした様子で昇りきってしまった。
 ここより遥かに空に近い櫓へと軽く視線を向けてベアトリーチェ公女の影をしばらく見つめてから、 『やっぱり自分には無理だ』と首を振り、デュシアンはそのまま船尾で餌を与え続けた。
 最後の一切れを与え終わると手を叩きパン屑を海に向けてばら撒くと、おもむろに懐の父の手紙を取りだした。 アーリンバル港を出航してからこの半日、寝る間を惜しむように何度も読み返した為にもうすっかりと文章を記憶している。 そして、自分が目を向けようとしなかった父の一側面に触れ、 父に対する認識が少しだけずれていたことに改めて気づかされた。
――周りの人はどうであれ、父様自身は幸せだったのかも……
 父はやはり少しずるい人だったのかもしれない――デュシアンは諦めに似た苦笑を浮かべた。
 確かに父は、周囲の思惑によって運命を捻じ曲げられた過去があったかもしれない。けれども 自らの事しか考えずに結果、恋人を追い詰め、妻とした女性の愛情と優しさにつけこんで過去 の恋人を探し回っていた。それなのに、いつしか心安らぐ幸せな場所をも手に入れていたのだ。 ずるいと言わずして、どう表現したら良いのだろうか。
――でも、父様が幸せだったのなら、いい、のかな
 継母から教わった、愛しい者への寛容さなのだろうか。それとも亡くなってしまったが故の 赦罪なのか。それは分からなかったが。
「父様、……それでもずっと、大好きですから」
 宙の一点を見つめ、そっと呟いた。
 父は自分が思っていたような聖人君子ではないのかもしれないが、それでも父への愛情は変わり なかった。闇に囚われていた自分を迎えに来てくれた時のその姿も、腕の温もりも、愛情のこめられ た瞳も声も全て、生涯忘れることはないだろう。今もどれだけ父が恋しいか、デュシアンは己の心の 弱さをよく知っていた。父の手に触れたもの、目に留まったものは全て残しておきたいという欲求は 強い。
 しかし、この手紙は残しておけば禍根を残す類のものだった。少なくとも状況を把握していない者が 読めば誤解を生む恐れがあるほど言葉数少ない。これは残しておくべきものではないのだ。 寂しいことだが、父の望み通りに手紙を燃やしてしまうのが一番だと思われる。
――父様の思いは、ちゃんと受け取りましたから
 デュシアンは手紙を胸に寄せ、微笑みを浮かべた。
 大きく深呼吸をすると手紙を胸から離し、名残り惜しむように見つめながらゆっくりと瞼を閉じた。 やがて訪れた闇の中で、デュシアンは魔法を使用することに意識を傾けた。
――火の魔法……
 ララドでのこともあって魔法は元々得意なものではないが、特に≪火の魔法≫は好きにはなれな かった。母を死に至らしめたのは病だが、別れの挨拶をする間もなく自分と母とを隔てたのは、 領主館魔道兵の創り出した火の魔法で、いわば≪火≫は自分と母とを引き裂いた象徴であった。 しかしながら忘れてはならないのは、その炎の勢いを理不尽なまでに強めて空を真っ赤に染め、 火への恐れを印象付けたのは、――己の魔力が関与するところだったのだ。泣き喚いたことで無意識に 父譲りの魔力を放出し、知らず知らずに火の精霊と波長を合わせて威力をあげてしまったの だから。
――今ならあの時の事を思い出せる
 母を失ってララドに居た四年間は、母を失った辺りの記憶がごっそりと抜け落ちていた。 それだけでなく、思考や記憶といったもの自体が麻痺して、薄い膜に覆われたかのように 現実との距離感があり、ただ≪生きている≫という無為な状態で暮らしていた。父に保護されてから は過去を思い出さないようにしていた。膜は破け周囲の色彩は鮮明になっていったのだが、新しい 家族に受け入れる為に、また目の前の幸せを壊さない為に、≪母の死≫という大きな事件を不 自然なかたちで意識から追いやってしまっていたのだ。
 けれどもロアへと戻ってきてからは、あれだけ逃げ回っていた≪母の死≫をすんなりと受け入れ ることができた。今はしっかりとあの時の事を思い出す事ができる。それは父が遺してくれた≪薔薇 の寝所≫のおかげでもあるだろうし、自分を支え受け入れてくれる継母や弟のおかげでもあるの だろうとデュシアンは思っていた。あの二人がいてくれる限り、強くあれるのだから。
――もう二度と、自分を見失っちゃだめだ
 一歩間違えば、飛び火して村に大惨事を招いていたかもしれなかった。魔力が暴走する事の恐ろし さを胸にしっかりと刻み込み、これからはそうならない為にも自分ができる最善の努力をしな ければならないと心に誓う。それは、人並以上の魔力を持つ者の義務なのだろう。
 まずできることは、魔法が苦手という意識を変え、魔法を扱えるという自信を持たなければなら ない。これは、良い機会なのかもしれない――デュシアンは深く息を吸った。
――お願い、ちからを貸して下さい……
 火の精霊は海の精霊と仲が悪い。海上を浮遊する稀有で酔狂な火の精霊は、どんなに魔力を積まれて も一定以上の火を創り出す力は貸してはくれないだろう。それは初心者にとっては幸いな ことだった。
 無心になって波長を合わせた魔力を辛抱強く流し続けていると、身体の奥が熱く燃え滾るような 躍動感を覚え、眼を開いた。
 手紙が、端から燃えはじめている。宙に震える小さな火に圧されるように紙はどんどんと炭となり、 大雑把な塊ごとに千切れて浮かび上がると、風に煽られ散り散りとなっていった。そのあまりの 呆気なさに、デュシアンは茫然と眺めることしかできなかった。
 あれだけ苦手としていた火が今、手の中にある。火を目にすると囚われる、心の奥底の闇が意識を 侵食するかのような得体の知れない恐ろしい感覚は、ない。自然と口角が上がり、気づいた 時には微笑んでいた。――もう火は怖くないのだ。
 全てを燃やし尽くし仕事を終えて消失した火を見届けると、デュシアンは爽やかな海風によって 海の彼方へと運ばれて行く無数の欠片を見送る為に、顔を上げた。澄み渡る空の元、その心は同じ ぐらい晴れやかだった。
「あ!」
 しっとりとした気分も束の間、風に流れる灰を餌と勘違いした海鳥たちが寄って来ていた。
「だめだめ! おなか壊しちゃうよ!」
 慌てて手を振って叫ぶが、海鳥たちも愚かではない。近づき食べられないものだと分かると、黒い 羽の角度を変えて遠くへ飛んで行ってしまった。
 デュシアンはほっと胸を撫で下ろしながらも、なにか可笑しくなってきて一人笑い出した。
――感傷は似合わない、よね
 自分にそう語りかけると、応えるように頷いて気合を入れた。
「よし」
 気を取り直して、厨房にでも行ってイスラフルの変わった食材でも見せてもらおう――そう考えな がら甲板を振りかえると、灰色の瞳とぶつかって足が止まった。二段低い甲板にウェイリード公子が 佇んでいたのだ。
 緩やかな風に黒檀の髪は流され、いつもは隠れている額を露わにさせるその姿は、祝賀 会にて正装していた彼を思い起こさせる。なぜか急に恥ずかしくなり、微妙に視線を逸らした。
――やっぱり、起きていると、あんまり見れない……
 それを残念に思う。あの綺麗な色の目をずっと見つめるのは精神的に難しいのだ。
 しかしはたと気づく。今、自分は何をしていただろうか、と。人間の言葉など分かりもしないで あろう動物に語りかけていたではないか。その後、気味悪く一人で笑っていたではないか!
 デュシアンはさすがにばつが悪くなり、照れ笑いを浮かべた。
「……良かったのか?」
 公子の曖昧な言葉に、デュシアンはへらへらと笑うのをやめて口を閉じた。
 どうやら、随分前からこちらの事を見ていたらしい。公子は手紙の事を言っているのだと察しが ついた。
――本当に、よく見ていてくれる人
 知り合ってからこの数ヶ月、公子は気づいた時には一番傍にいて、いつも助けてくれた。 そうするよう父アデルがはっきりと頼んだのかもしれないし、≪色々≫と頼むことで娘へ目が向く よう間接的に仕向けたのかもしれない。父の思惑は分からない。けれども、どちらにしろ父は自分の 事をこの公子に託そうと画策していたとデュシアンには確信があった。なぜなら父アデルは、公子に 執務室の書類を預けるだけでなくもう一つの重要な仕事を任せていたのだから。
――……少しでも安心、させてあげないと
 いつまでも書類を預けたままにしておくわけにはいかない。それに、いつまでも『貰い続けて』 いるわけにもいかない。いつまでも見守ってもらうわけにはいかないのだ。 自分と関わったせいで公子をどれだけの不名誉な事態に陥れてしまった事か。責任感の強い彼は、 頼りないこちらをなじる事なく、むしろ自身の力不足を呪い悔やんでいるかのようだった。 それは違うのに、とデュシアンは思う。
 迷惑をかけているという自責の念が心を突き動かす。これ以上迷惑はかけられない、と。 顔を上げ、じっとウェイリード公子へと視線を止めた。恥ずかしがってはいられない。
「父の願いだったんです。……それに、手紙はなくなっても、父の思いはここに」
 重ねた両手をそっと自分の胸に当て、誇らしげに微笑んだ。笑える自分が本当に誇らしかった。 父の手紙を貰い受けた時は決して燃すことなどできまいと、めそめそしていた自分がいた。それが今 はどうだろうか。
 父の思いは手紙と共に消えたわけではない。ちゃんと胸の奥に残っているのだ。デュシアンは 少しだけ自分は成長したのだと口許を綻ばせた。
 ばたばたと帆に吹き溜まる潮風が互いの髪と外套をすくって流れて行く中、逆光なのかウェイリード 公子は眩しそうに目を細めた。しばらくすると、彼は徐々に薄い笑みともとれる表情を浮かべた。
「そうか」
 簡素で短い言葉の中に、公子なりの優しさが篭められているように思えた。口唇は笑みの形に弧を 描き、細められた瞳は暖かさを秘めている。その様子に、デュシアンの頭の芯は ぼんやりとし、何も考えられずに惚けたように魅入ってしまった。
 不審に思わせるだけの時間、ぼうっとしていたのだろうか。公子が怪訝そうに眉をひそめた 為にデュシアンは我に返った。彼のああいう表情――といっても、どういう表情かはまだ自分でも範囲 が定まっていないのだが――に弱いと今更ながら自覚し、魅入っていた恥ずかしさに頬を 紅潮させた。
 しかし、今はそんな浮ついた感情に身を任せている場合ではない、話さなければならない事が あるのだから。冷静さを取り戻し、一気に気持ちを引き締めた。
「薔薇を――」
 急に喉が締め付けられるかのような感覚に囚われ、デュシアンは喉に軽く指を添えた。 八重咲きのイスラフル種の薔薇の香りがしたような気がする。
 公子の強さに甘え縋りたい気持ちが残っているのだろうか。それを浅ましいと恥じる思いが、己の 愚かな望みを呑み込んで強い決意を促した。
「薔薇を、ありがとうございました」
 軽く眉を寄せる彼に微笑みかけると、デュシアンは自らの葛藤を隠すように深く頭を下げた。
 父の名で届く薔薇の送り主がウェイリード公子だという確証はない。しかし執務室の書類を公 子が持っていると判明した時点で、それが一番自然だとすんなりと受け入れていた。
 公子は常に注意深くこちらを観察し、必要以上に手助けをしてくれていた。いつも彼の目はこちら に向いていたのだ。その観察力と父の思い、そして薔薇が送られてきた時期を思い返せば、送り主 は彼以外有り得ない。
 最初こそ定期的で事務的に送られてきた薔薇であったが、こちらが公爵としての公務に就くように なってからは的確な時期に送られてくるようになった。まるでこちらの心の機微を把握して いるかのように。
――そんな事ができるのは、この人しかいない……
 デュシアンは頭を上げると、複雑な表情でこちらを見つめている公子へ微笑みかけた。 どうしてか、胸がちくりと痛む。
 しかし終わりにしなければ、いつまでも公子の手を煩わせることとなる。何のみかえりもなく、 機会を窺い他人の名であれだけの薔薇の束を送り続ける――その行為がどれだけ公子の負担と なったことだろうか。 幾ら礼を述べても、彼の助力には変えられるものではない。だからこそ、その恩に酬いる為にこれ からは自分が公子の味方になろうとデュシアンは密かなる決意を固めていた。
「薔薇はロアに遺されてました。父は、母とわたしに薔薇を遺していってくれたので、もう 送って下さらなくても大丈夫です」
 公子はいつもより気難しげな表情だった。彼が何を思い何を考えているのか、その胸倉を揺らして 問い糾したい気分だった。そんな我侭な気持ちを一笑して振り払い、続きを口にした。
「薔薇は心の支えでした。わたしが公爵として頑張ろうと思えたのも、公子が絶えず見守って下さった おかげです。今まで本当に、ありがとうございました」
「アデル公が……?」
 まるで独り言のような呟きではあったが、デュシアンは意味を汲み取り、首を横へ振った。
「いいえ。ロアへ来る前に、父が執務室の書類を公子に預けている事を知ったので、その時に 気づきました」
「……そうか」
 公子の視線が下がった。口唇がきつく結ばれる。
「未熟さを隠そうと振る舞ったばかりに、公子にはいろいろとご迷惑をおかけしてしまいました。 これからは、自分の至らない部分を見つめ直して、努力していきます」
 自分の悪い部分は大抵分かっているつもりだった。それを直す努力をすると約束することが、 公子の心に響けば良いと思う。
「……公への恩を僅かばかり君に返したに過ぎない」
 視線を上げた公子の瞳はどこか思い悩んでいるかのように揺らいでいた。
 不安なのだろうか。まだまだ未熟な相手を放り出しても良いのか悩んでいるのかもしれない。責任 感が強いから、解放される喜びを安易に感じることができないのかもしれない。その心は分 からない。
「僅かだなんて……。十分、公子には良くして頂きました」
「アデル公が私にしてくれたことを思えば、どうという事ではない」
「でもそれでは公子は……」
 これからも恩師たるアデルへの恩を返す為にこちらへの助力を惜しまないつもりなのだろうか。 デュシアンは困惑した。
「わたしは公子をこれ以上煩わせたくないんです」
「だが、君には助力する者が必要だ」
 自分がそうなる、と言いたいのだろう。デュシアンは唇を噛んで思考を廻らせた。 今までから想像するに、ウェイリード公子は自分の身を省みずにこちらを助けようとする。 それはデュシアンにとって今後一切招きたくない事態なのだ。
――ど、どうすれば良いんだろう? どうすれば、納得してくれるのかな
 良い案が浮かばず、心の中で助けを求めた相手は『少しは自分で考えろ!』とこちらの頬を 容赦なく引っ張る人物だった。鳶色髪の従兄――彼の名を出せば高くつくかもしれないが、 デュシアンは天の助けとばかりに飛びついた。
「ラシェがいます」
「ラシェ?」
「ラシェが、傍で助けてくれます」
 ぴくり、と公子の眉が動いた。細められた目は先ほどまで見られた動揺の色を払拭し、 剣呑ともとれる鈍い光を宿していた。やや緩慢で高圧的な仕草で顎をあげるように軽く首を傾け、 こちらの言葉を待っている。
「今までは、わたしの行動を監視して助言をくれる人が傍にはいませんでした。だからこそ、公子の手を 煩わせてしまったと思うんです。でもこれからはラシェが傍にいて補佐してくれることになってま す。公子が積極的に助けて下さらなくても、大丈夫、です」
 話し続けていくほどウェイリード公子の表情は曇っていき、不機嫌そうな面持ちとなるのが手に 取るように分かる。これだけ表情に表しているのだ、はっきり『不愉快だ』と示したいのだろう。 重苦しい雰囲気となっていくのをデュシアンは肌で感じ、声をどんどんと小さくさせて語尾は ごにょごにょと口の中で濁した。
 気分は追い詰められた鼠だ。額に冷や汗が浮かび、肩が逃げる。なぜ公子がこうまで不機嫌に なったのか、デュシアンには理解できなかった。
「ラシェがいるから、私の手助けは無用、と」
 刺々しい口調で、半眼の双眸で睨むように見つめられた。デュシアンはたまらなく泣きたく なる。
「そ、そういうわけではなくて、お気持ちは嬉しいのです。ですがきっと父も、 貴方にばかり娘が迷惑をかけることを良しとはしていないと思うのです」
「君の父君は、君さえ無事なら世界が滅んでも厭わない人だったはずだ」
「……」
 間違っているような、いないような。だからこそ、律儀で真面目で責任感の強い公子に父は頼んだ のだろうが。デュシアンは返す言葉が見つからず、父への恨み言を心の中で呟いた。
「私の存在が君に迷惑をかけるというのならば考え直すが」
 腕を組んで溜息混じりに呟かれれば、反射的に異論を唱えた。
「そんなはずありません!」
「ならば」
 射貫くような鋭い眼光で視線を絡め取られた。動けば殺される かもしれないと野生の勘が警鐘を鳴らす。
「公が誰よりも大切にした君を守る。その私なりの公への恩の返し方を、変えるつもりはない」
 厳しさを滲ませた双眸に、不機嫌そうに寄った眉間の皺。公子はすこぶる機嫌が悪い。それなのに、 この宣言後はどこかすっきりして居直ったようにも思える。
 デュシアンはといえば、その強い意思に気圧されてしまい言葉を失ってしまい、ぽかんと口を空けた 間抜けな表情で公子を見返すことしかできなかった。
「ラヴィーンこーう!」
 櫓から下りてきたのか、猫のような素早さでベアトリーチェ公女が一直線にこちらまで 駆けてきた。ポニーテールが揺れるその背に、従兄たる公子が『船上で走るな』と鋭い一喝を投げ かける。
 しかし、怒られる事に慣れているのかベアトリーチェ公女はそのままの勢いでデュシアンの前まで 来ると、強引な仕草で腕を取った。固まっていたデュシアンは、簡単にずるずると引っ張られて 行く。
「厨房を襲うから、援護して!」
「え」
 意味の分からない言葉にはっと我に返ると、デュシアンはベアトリーチェ公女へ視線を向けた。 吊り上がり気味の藍色の瞳を悪戯に煌かせている彼女はにやりと笑う。
「果物強奪に出撃!」
「えええええ……?!」
「イチゴ、マンゴー、パイナップルー。オレンジ、キウイ、パッパイヤー」
 楽しげに自作の歌を謳うベアトリーチェ公女は二人の重たい空気などなんのその、騎士の訓練を受 けていたというだけあって、細腕ながらなかなかの腕力でデュシアンの腕を引っ張って行く。
 デュシアンは体勢を立て直して引っ張られながらも公子を振りかえるが、彼にはそっぽを 向かれてしまった。その様子を見ただけで、なんとなくベアトリーチェ公女に救われたような 気もするが。
――なんか、怒らせちゃった……?
 しかし、よくよく思い返せば公子らしくない言動だった気もしてきた。あんなふうに自分の 意見を押し付けるような人だっただろうか、感情的に怒りを露わにする人だっただろうか。 考えるも、自分の知っている彼はあまりに断片的すぎた。まだ出会って数ヶ月なのだからそれも しょうがないのだろうが、気持ちが沈む。
――そうだよね、わたしは公子のこと、ぜんぜん知らないんだよね……
 無償に腹立たしくなって、勝ち取った果物をたっぷりと頬張った。公女にはリスのようだ、 と笑われてしまったが。

 その後、首都へ帰るまでの一日半、この話題について話を切り出すことはついぞできなかった。 それどころか、ウェイリード公子とまともな会話すらもできなかった始末だ。
 帰ってからラシェにでも相談しようと、デュシアンは仕方なく諦めるしかなかった。


(2007.2.27)

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