墓と薔薇

8章 誰が為の薔薇(8)

「……うーん」
 瞼に微量な刺激を感じ、その不快さに身じろいだ。ゆっくりと開いた眼に映る世界はあまりに 眩しい。幾筋もの細い光が赤と白の斑模様の床を流れるように行き来している光景は、夢か現か。 その美しい光景をぼんやりと眺めながら、起き抜けの至福のひとときに口許を綻ばせた。
 しかし、頬を撫でる冷たく湿った風によって意識は覚醒しはじめ、いつしかはっと瞳を 見開いた。視界に広がるのは石畳に散る赤い花びら、空に浮かぶのは太陽――朝なのだ。
「うわ!」
 寝ちゃった――デュシアンは一気に身体を起こすと、自分の失態に頭を抱えて呆然となった。昨晩 にここを訪れ、『少し』だけ母の膝元に寝そべる予定だった。それが夜通し、しかも朝までぐっすりと 眠ってしまったのだ。
 上半身を預けていた母の墓標をゆるゆると振り返り、『重かったよね、ごめんなさい』と溜息 混じりに謝った。
 穏やかな風は葉や花を揺り動かし、アーチの隙間から降り注ぐ陽光は常に移動し続けて青白い墓標 を様々な角度から照らす。眩しいその姿に在りし日の母の笑みを重ね、微笑みかける余裕が生まれ た。
「おはよう、お母さん」
 母へ朝の挨拶をするのは十年ぶりだった。それが何よりも嬉しく思えてデュシアンは はにかんだ笑みを浮かべた。
 それから急に肌寒さを感じて身を震わせると、起き上がった事で膝に落ちた上掛けを手繰り 寄せ、はたと気づく。
――これ?
 自分に掛かっていたのはショールだけではなかった。思い返せば目が覚めた時に体をすっぽりと 暖かいもので覆われていた気もする。
 軽く持ち上げてみれば、それは葡萄茶色の外套だった。すぐに帰るつもりであったから薄手の ショールだけ羽織り、外套の類は持ち合わせてこなかった。つまりこれは自分のではないのだ。
――誰かがここへ来たのかな……
 慰霊碑を仰ぎ見る。そこに名を刻まれている者の家族がこの村には多く残っている。朝のお参りに でも来た時に自分を見つけて掛けてくれたのだろうか。そう考えて首を傾げた時、少しだけ強く 吹いた風に剥き出しの肩や首筋を撫でられ、デュシアンは身を竦ませた。
「さむい」
 外套の下になっていたショールを取り出すと身体に巻き付けて、ふと考えを廻らせた。
 いくらラレンシア地方は一年中暖かい場所だといっても、この時期の夜や朝方は冷えるのだ。肌寒い 外でもこうしてぐっすりと朝まで眠っていられたのは、この外套のお陰ではないのだろうか。そう なると、もしかしたらこれは夜の時点ですでに掛けられたものではないか。
 デュシアンはもう一度外套をしげしげと見つめた。広げてみても大きさが分からず、立ち上がると 掲げるように持ち上げた。そうするとよく分かるが、それは高身長の男物だった。 しかしどこか見覚えがある。
「あれ?」
 立ち上がったことで視界が広がり、少し曲線を描いている小道の辺りに何か黒いものが 見えたような気がして外套から顔を上げ、目を凝らした。誰かがそこに座り込んでいるのだ。
――……まさか
 外套へもう一度視線を落とす。まるで今、目の前で翻ったように、外套がはためく さまをまざまざと思い出した。自分からどんどんと離れて行く翻された葡萄茶色の背を不安な思いで 見送ったのは、――船上だ。この外套が誰のものであるのか、デュシアンは知っていた。
 デュシアンはふらふらとまるで何者かに引っ張られるかのように、外套を抱えてアーチの小道へと 静かに近づいた。その姿が確認できる少し離れた位置で足を止めて様子を窺う。
 片方の膝は投げ出し、もう片方の膝を立ててアーチの支柱に背を預けて座る≪黒いもの≫の正体は、 思った通りウェイリード公子だった。彼は剣を肩に立て掛け、左手で鞘に触れならがら、 眠っていた。
――守って、くれていたんだ……
 公子は外套も上着も羽織ってはいない。故に、この外套は彼のものなのだろう。胸の奥がじんわりと 熱くなり、だんだんと締めつけられるかのように苦しくなっていった。切ない、という言葉が 今の自分の感覚を形容するに一番相応しいかもしれない。デュシアンは未知の感情に戸惑いながら、 抱える外套を無意識のうちに胸に引き寄せた。
――ありがとうございます
 起こさないでくれた事が嬉しかった。事件も何もなさそうな田舎であるのに、こうして傍で夜通し 守ってくれていた事が純粋に嬉しかった。けれども、嬉しいはずなのに、泣きたくなる ほど苦しいのだ。
 ふわりと吹く風にばらばらと床の花びらが舞い踊り、デュシアンはその肌寒さにはっと 我に返った。
――起こさなくちゃ……
 いつまでもこんな寝づらい格好で、しかも外で寝かせているのは忍びない。そう思って声を掛け ようともう少しだけ近づいた。膝を折って屈みこみ、眠りにつく彼と高さを合わせると、眼を閉じた 無防備な顔が目の前に現われ、まるで魔法に掛けられたかのように意識を奪われてしまった。
――……綺麗
 思ったよりも長い睫毛、すっきりとした顔の輪郭、通った鼻梁、引き結ばれた形のよい唇。 精悍な顔付きに鍛えられた体躯。乙女の憧れる御伽の世界の甘やかな王子様ではなく、禁欲的で 存在感のある騎士。その騎士が目の前に横たわっている姿は、ずっと眺めていたいと思える ほど魅力的なものだった。
――……傷?
 光の差し込み具合が変化すると、右目の下辺りに横筋に入った傷痕が薄っすらと確認できた。 その怪我がもう少し上であったのなら、眼球を傷つけていたかもしれない。デュシアンは無意識に ほっと胸を撫で下ろした。
 あの瞳の色が好きなのだ。カイザー公子の濃い藍色もとても美しいと思うが、ウェイリード公子 のどこか青みがかった灰色の瞳は本当に綺麗だとデュシアンはずっと思っていた。できる事なら、 気が済むまで見つめていたいと思うぐらいに。だからこそ、その瞳が健在であることが喜ばし かった。
「……あ」
 不意に吹いた風が上空を覆う薔薇から花びらを揺り落とし、ひらりひらりと舞い落ちたその一枚が 彼の艶やかな黒髪に絡まった。
――やっぱり赤い薔薇が似合う
 思い出したように周りに色づく赤い薔薇を見つめながら、デュシアンは微笑んだ。この≪魅了の 公子≫はとても生真面目で落ちついた人だ。それなのに情熱的な赤い薔薇がどうしてか 似合う。
――そういえば……
 嫌な思い出のある王子成人の祝賀会において見かけた公子は、ベアトリーチェ公女を同伴してい た。深紅のドレスをまとい、誰に憚ることなく堂々と輝くその姿は凛然として美しく、 さながら赤い薔薇のようだった。
――ん?
 ちくりと胸が痛む。何かもやもやしたものが胸に燻る。理由も分からず何故か急に落ちつかない気分 となり、彼の黒髪から花びらを取り除こうと思い至った。
 石畳に膝を付いたまま上半身だけ寄せるように手を伸ばす。その黒髪に触れたいと思った時の事を、 ぼんやりと思い出しながら。
 しかし一瞬だった。ほんの瞬きをする間、もしかしたら瞬きすらする時間もなかったかもしれ ない。鋼鉄の切っ先がデュシアンの喉元に衝き付けられていた。それも、鋭くどこか緊張に張り詰め た灰色の眼差しと共に。
 デュシアンは微動だにできずに息も止めた。伸ばした手が滑稽に宙に止まっている。驚きに 酷い顔をしているかもしれない。あやうく腰を抜かすところであったが、なんとかそれは免れた。
「……君か。すまない」
 眉根をぐっと寄せるとウェイリード公子は剣を引いた。座ったまま、安堵に深い息を吐く。
「少し警戒を緩め過ぎてしまったようだ」
 彼はばつが悪そうに視線を逸らして前髪に手を差し込んだ。その際に、デュシアンが取ろうと した花びらが落ちていく。
「いいえ。ちょっと驚きましたが、大丈夫です」
 ひらひらと舞い落ちる花びらを見つめながら、デュシアンは首を強く横に振った。 眠る男性の顔を覗き込むだけでなく、その身に近づこうとする不謹慎で無作法な振るまいを したのは自分なのだ。無意識とはいえ、彼に牙を向けられて当然の報いだったのだと自責の念に かられる。
――なんでこんなこと、しちゃったんだろう……
 今更ながら恥じ入って反省し、穴があったら入りたい気分だった。むしろ口煩い従兄にでも 怒鳴ってもらいたかった。
「戻ろう。村長殿が心配する」
 立ち上がって促す彼に、デュシアンも項垂れながら立ち上がった。
 そしてしっかりと抱きしめていたものを思い出す。自分の温もりが残っているそれを返却するのは 些か気恥ずかしくもあったが、これはウェイリード公子の私物なのだ。
「あの、ありがとうございました」
 彼は差し出された外套を受け取りはしたが、そのまま広げるとデュシアンの身体に巻き付けた。
 一瞬だったが腕の中に囲われ、頬が熱くなる。幾度となく危険を察知し引き寄せられたことは あったが、こうして平静に身を寄せられたのは初めてだったのだ。
「……長いな」
 茹でられたかのように真っ赤になるデュシアンに気づく事なく、地面すれすれの外套の裾を見て ウェイリード公子は冷静に呟いた。
「身体を冷やすものではない」
 彼はそう言い捨てると、さっさと歩き出してしまった。
 デュシアンはその紳士的な厚意に甘えると、そっと外套の襟を寄せて彼の横を並んで歩いた。
「あの、申し訳ありませんでした。わたしがここで眠ってしまったせいで、公子までこんな 眠りづらい場所に」
「……気にする必要はない。起こさなかったのは私の意思だ」
 こちらを見る事なく正面を向いたまま、どこか不機嫌そうにウェイリード公子は応えた。
 それでもデュシアンは微笑んで続けた。
「ありがとうございました。お気づきかと思いますが、母の墓なのです。はじめて訪れました」
「そうか」
「起こさないで下さって、ありがとうございました」
「……ああ」
 彼は前方を向いたまま、僅かに目を細めた。
 歩いている間、公子は終始無言だったが、デュシアンは全く気にならなかった。周りの景色を眺め て足取りが遅くなったり、牧羊犬と戯れて足が止まっても、公子はちゃんとこちらに合わせてゆっく りと歩いたり立ち止まったりしてくれるからだ。きっと礼を言えば『護衛だから当然だ』と言われ そうであるから口にはしないが、それは彼の優しさだとデュシアンは理解していた。
「……逗留期間を延ばさなくて良いのか?」
「え?」
 沈黙を破ったのは彼の方だった。左右に牧場の広がる、なだらかな坂道の向こうにはもうマイラの 屋敷が見えている。
「久しぶりに故郷へと帰ってきたのだろう」
「そうですが、もともとここには一日留まるだけの予定でしたので」
「……予定通りならば昼前には出発しなければならない」
「はい」
「私がいるのだから船の心配はいらない。数日ぐらいならば都合もつく」
 相変わらず彼はこちらを見ようとはせず、足を進めるだけだった。デュシアンはそれを幸いに 思う。表情に出やすい自分の中の葛藤をウェイリード公子に悟られずに済むからだ。
「お気遣い、ありがとうございます。でも予定を覆して長居してしまうと、首都に帰る決心が 鈍ってしまいそうなので」
 決心が鈍ることを本当は恐れているのです――その言葉を飲み込んで、デュシアンは わざと明るい口調で語った。足元へ視線を落としながら、考え込む。
 首都には自分の帰りを待っている家族がいる。父の墓がある。報告を待っているオーランド陛下が いる。
 けれども、ここには母の墓があり、兄に等しい大好きなアシュリーが居る。幼い頃に過ごした 景色が残っている。たまらなく魅力的な場所なのだ。いくら帰るべき場所が首都であっても、居心地 の良いここから抜け出すには≪予定≫という言葉で意思の弱い自分を縛らなければならなかった。
――でも、もうララドの時とは違うから
 二度と戻れないと絶望していたララドの時とは違い、これからは何度でもここへ来ることができる ――そう考えて、自分の葛藤にけりを付けると、デュシアンは力強い口調で続けた。
「二度と戻ってこれないわけではありません。これからは何度でも、ここへ戻って来れます。 だから、いいんです」
 戻って来れるという自分の言葉に自然と笑みが浮かび、隣りのウェイリード公子を見上げた。する と、眉を寄せてこちらの様子を窺うように見下ろしていた公子としっかりと目が合った。先ほどまで こちらを見もしなかった彼と目が合うとは思わなかったので、デュシアンは驚き、瞬かせる。
 公子もその灰色の瞳にはっきりと動揺を見せ、しばらく見つめ合った後、視線を逸らした。彼も 目が合うとは思っていなかったのかもしれない。
「……そうか」
「はい。お心遣いありがとうございます」
 なぜウェイリード公子が動揺したのか、デュシアンにはよく分からなかった。目を合わせたくないと 思われるような何かがあった覚えはなく、夜通しの護衛に腹を立てているはずもないと思われた。 起こすことができたはずなのにそのままこちらを寝かせ、夜通し護衛をする事にしたのは『自分の意 思である』と彼は認めていた。自らの意思と言ったからにはそこから不利益が生まれようとも、それ を誰かのせいにするような人ではない。今までで知り得たウェイリード・アイゼンという青年はそう いう人間だった。表情に変化は少ないが、その短い言葉や行動の端々から彼がとても優しくて思慮 深く、驚くほど自分自身に厳しい人物であるとデュシアンは受けとめていた。
――きっと、公子なりの考えがあるんだ
 何か考えがあってのこと、きっとすぐにいつもの公子に戻ってくれるだろう――デュシアンは ウェイリード公子を信じることにして、深く考えるのを止めた。




「あの、マイラさん。一つお聞きしたいことがあるんです」
「なんだい?」
 まるで母親のように甲斐甲斐しくデュシアンの身の回りの世話を焼きながら、マイラは 少しだけ悲しげな顔を上げた。あと一日でいいから留まって欲しい――そのマイラの願いを 断ったからだ。
「母は前村長のじじさまに手紙を託されたはずなんです。首都の方へのものですが、 何かご存知ありませんか?」
「首都への手紙、かい?」
 マイラは顎に手をあてて少し考え込んだ後、思い至ったのか顔を上げた。
「ああ、そういえば、≪これ≫を送ればもしかしたら首都のお偉い方があんたを助けにきてくれるか もしれないとか言って、義父さんは手紙を送っていたね。そうしたら本当にあの地方領民の救世主 と謳われていたアデル公が現われて、天の助けだと思ったよ。あれはラトアンゼ先生の手紙だった のかい」
「父、ですか」
「それから、医師だっていうご老人を一緒に連れてたね。すごく険悪な様子なのに行動を共に していて不思議に思っていたからよく覚えているよ」
「医師……老人」
「あの頃、この村には医師がいなかったから助かったよ」
 それが≪ファロン高司祭≫という人なのだろう。その方は母の師であり、身篭った母をしばらく 匿い、自分の誕生を誰よりも喜んでくれた人だという。
 母の手紙と今の話を織り交ぜて考えてみれば、ファロン高司祭は弟子であるラトアンゼから娘を 託す手紙を受け取ると、仲違いしていた相手――とはいっても一方的に恨まれていただけだろうが―― 父アデルに知らせ、共にこの地にやって来たのだろう。
 国王陛下は父アデルから『あの時期のラレンシアには偶然居合わせた』と聞いていたそうだが、 父はファロン高司祭を相当恨んでいる話であったから、その相手に助けられた事を隠したかったの かもしれない。そう考えると――。
――父様って、ちょっと分からない
 父を誰よりも愛している気持ちに変わりはないが、その言動に疑問を持ってしまう。しかし デュシアンは苦笑すると、自分を誤魔化した。
「……ファロン高司祭さま」
 ぽつりとその名を呟く。
 母の意思を尊重し、母を父の≪魔の手≫から守った人。
――お会いしてみたいな……
 父は良い顔をしないだろうが、昔の母を知る数少ない人物の一人で、母が自分を託すつもりだった 方なのだ。会ってみたいという思いは強かった。
 名前さえ分かっているのだから、首都へ帰ればお会いできるかもしれない。デュシアン は口許を綻ばせた。
「デュシアン、用意はできたのかい?」
 開いた扉からひょこりと大好きな幼馴染みが顔を覗かせた。すると義母であるマイラが烈火の ごとく怒りはじめた。
「アシュリー! ノックぐらいしなさい。あんたの作法一つで領主様の――」
「はいはい、すみませんマイラさん。失礼致しました」
「全くこの子は」
 美しい所作で最敬礼に頭を下げた麗しい養子を見て、マイラ豪快に笑った。楽しげなやり取りを 続ける彼等は、義理ではあるが本当の親子のようで微笑ましかった。気を利かせたマイラが退室 していく背を見届けながら、デュシアンは少しだけ気持ちを引き締めた。
 昨日アシュリーは、『望むならロアで共に暮らそう』と言ってくれた。穏やかで、他人を 尊重し、決して物事を強制しない彼が見せたあの時の真剣な様子は、それが本心なのだと 教えてくれた。その後、やはり彼らしくこちらの意見を尊重するように言い直しはしたが、彼が 兄妹として一緒に住む事を望んでいるのは確かだった。
 けれどデュシアンにはアシュリーを選ぶことはできなかった。アシュリーもロアも大好きだが、 首都で帰りを待っていてくれる継母と義母弟を捨てて彼を選ぶことはどうしてもできないのだ。その 気持ちをはっきりと伝えなければいけないと、デュシアンは思っていた。 それが兄に等しい彼への自分なりの誠意の示し方だった。
「アシュリー、ごめんなさい」
「なんだい、急に」
 驚く様子も見せず、アシュリーは微笑んだ。まるでこの瞬間を待っていたかのように。
「わたし、アシュリーのこともロアの事も忘れて暮らしてたの。この五年、ずっと……」
 自分がどれだけ薄情であったのか。デュシアンはそれを隠し偽るつもりはなかった。全ての 気持ちを白日の元に晒す事が、アシュリーへの信頼と友愛の証だと信じているからだ。
「アデル公がそうなるよう仕向けたんだよ。デュシアンのせいじゃない。デュシアンは過去を 忘れて休むことが必要だと、アデル公は判断なされたんだ」
 アシュリーは諭すように優しい手つきでデュシアンの髪を撫でた。穏やかで愛情溢れるその行為に 勇気を貰い、デュシアンは続けた。
「それに、ここには戻れない。また来ることはできても、ロアでは暮らせない」
「うん」
 肯定でも否定でもなく、続きを促すようにアシュリーは優しい眼差しで頷いた。
「わたしの帰るべき場所は、もうロアじゃなくて首都なの」
「……知ってるよ」
 アシュリーはどこか諦めているかのように、寂しげに微笑んだ。
「言ったろう? アデル公と親交があった、って。デュシアンが首都でどんなふうに生活していたのか、 どれだけ幸せであるのか、知っているよ。……引き離そうなんて、もう思っていない」
「アシュリー」
「デュシアンが新しい家族を大切にするように、俺にもマイラさんがいる。だから俺はずっとラレンシアに いる。ここで、デュシアンがやってくるのを待ってるよ」
 アシュリーはそっとデュシアンの手を取ると、軽く膝を曲げて恭しくその甲に口付けた。 青い瞳が、切なげに鈍く光る。
 幼い頃、頬や額に親愛のキスを受けることはあったが、こうして淑女のような扱いの 口付けを受けるのは初めてだった。幼馴染みは本当に騎士になってしまったのだとデュシアンは茫然と 思う。
「そろそろ辻馬車の来る時間だろう。俺はここで見送るよ。そうしないと、どこまでも付いて 行ってしまいそうだからね」
「アシュリー」
 手を離されると、急激に胸が苦しくなった。二度と会えなくなるわけではないのに、その別離に 耐え難い寂しさが込み上げてくる。
「アシュリー、ごめんね」
 月夜の元、墓前で母にも許しを請うたように、アシュリーに縋りつくようにその腕に 触れた。
「待ってるよ」
 そっと優しく微笑まれた。ふと、泣きそうになる。
「また帰っておいで。マイラさんと待っているから」
「うん」
 十年の空白があっても変わらないその愛情を示すように、しっかりと抱きついた。引き締まった 厚い胸板も逞しい腕も、神官になることを目指していたあの頃とは違う。けれどもその優しい温もり は変わりなくて、デュシアンは安心したように身を預けた。
 だが、腕に幼馴染みを抱くアシュリーがどのような顔をしているかなど――その本当の心の内など、 胸に顔を埋めるデュシアンには知る由もなかった。


(2007.1.23)

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