墓と薔薇

8章 誰が為の薔薇(7)

 上下左右と小刻みに揺れながら馬車が進む。
 喧しい従妹がいるにも関わらず車内は気味が悪いほどの沈黙が保たれ、流石のウェイリードも 息苦しさを覚えた。船上ではあれ程楽しげにビビと語り合っていたラヴィン公が、全く口を利か なくなってしまった事が原因である。
 思い返せばアーリンバルで船を降りた頃から彼女には変化がみえはじめた。食欲は落ち、明るさは 失われ、少しづつ生気を奪われているかのように静かとなっていった。旅疲れかとあまり気にはして いなかったが、こうして狭い空間にて彼女を目の前にすると、その表情に浮かぶのは疲労というより も悲哀に近かいことに気づかされ、ウェイリードは顎に手を当てて彼女を見つめた。
 他人への配慮に欠ける従妹もどうやら彼女の変化に途惑い、珍しく気を使っているようで、 反応の鈍くなった彼女へ声を掛けるのを止めてしまっている。しかし黙って静かにしている事に耐え られる質ではないので、身を乗り出して外を眺めたり髪をつまんだり色々と気を紛らわせていたが、 とうとうすべてに飽きたらしく眠りについてしまった。ウェイリードは隣りの従妹を軽く見やると、 斜め前に座る彼女へと視線を戻した。
 ややぐったりと背を預けるような姿勢を変えることなく、寂しげな面持ちで ずっと外を眺めている。その心に景色が映っているかは不明だ。
 葉を振り落とした枯れ木ばかりとなった冬の首都よりも、緑豊かで春爛漫のこの地方は生命の活力 に溢れている。感受性の強い彼女が外の美しい自然に心を奪われ感動することはあっても、 寂しさや悲しさを感じるようなことはないように思えた。
――だとすれば、この地方に何かあるのか……?
 彼女がこの地方へと足を運ぶことになったのは陛下の命であり、アデル公にも関わる事だと言って いた。アデル公の事でも思い出して感傷に浸っているのかもしれないが、答えは知る由もない。 彼女の憂いの理由はわからない。
――……関係ない
 放っておけば良い、とウェイリードは自分に言い聞かせるように心の中に吐き捨てた。
 彼女には彼女なりの考えや感情があるのだから、他人には分からない事で心を沈ませることもある だろう。また、よく知りもしない男に「どうしたのだ」と尋ねられても自分の心の内を語りたくも あるまい。それに彼女は自分にとってまったくの他人なのだ。ビビのような身内とは違うし、イルーダ やリアーヌのような友人でもない。彼女は恩師の娘ではあるが、彼女自身は自分にとって知人にも 満たない女性なのだから。だから、自分には関わりのないことなのだ。
 何かに焦るように自分を納得させる言葉を探して続けざまに思考を廻らせるが、ふと自分の常とは 違う穏やかならない様子に驚いた。
――……なんで私はこんなに苛々しているのだ
 ウェイリードは乱暴に前髪をかきあげた。なぜ腹を立てているのか、自分で自分の感情が分から ないのだ。よくよく考えれば、最近そういう事――同じように意味も分からず苛付いたりする 事が多い気がする。そしてそれはいつも≪彼女≫に関しての事柄だ。
 相容れないものがあるのだろうか。心のどこかで拒絶しているのだろうか。ウェイリードは 到底愉快とは思えない気持ちで深く息を吐いた。
 こちらの思いなど知らず、彼女はずっと物憂げに外を見つめ続けている。しかし石橋を渡り始めた 馬車が酷く揺れ、車輪がガラガラと大きな音をさせた途端、彼女の表情が変わった。 最初は馬車の揺れに吃驚したのかと思った。
 しかしそうではないようだった。馬車に乗ってから初めて、緑の瞳が意思を持って何かを一心に 見つめているのだ。今までは外をただ眺めていても、どこを見ているのか分からないほど焦点が 怪しかった。ところが今はしっかりと外を――橋の下の清流を見つめているのだ。
 ぼんやりと薄く開いていた唇は固く引き結ばれ、眩しい日差しを照り返す美しい水面に 恐れを抱き怯えたように身を震わせた。ぐったりと背もたれに預けていた身体を緊張に浮かせ、 自分を守るようにまわされた腕に力が込められた。
 それでも彼女はすぐに落ちつきを取り戻した。外套の上から触れているのはアデル公から譲り 受けたと思われる形見のアミュレットだろう。彼女はそれに触れる癖があるようだった。
 もう一度、今度は現実を見つめるかのようにしっかりと外を眺めはじめた彼女の表情には、 くっきりと一つの感情が浮かんでいた。それは不安だった。
――何を恐れているのだ
 ふと、思い出したように彼女がこちらを振り返った。少しだけ途惑ったような瞳は それでも何らかの意思ある光を宿している。
 ウェイリードはどこかほっとすると、その緑の瞳を見つめ返した。
「ロアは、わたしの故郷なんです」
 彼女の声を久しぶりに聞いた気がする。船上ではあれ程聞こえていた笑い声がもう懐かしく 感じられた。
――ロアが、故郷?
 安心したのも束の間、彼女の力ない呟きを繰り返した時、身体の内側に震えるような衝撃が走った。 そのたった一言で、今まで全く関係のなかったあらゆる記憶が繋がりをみせたのだ。
 ララドの奴隷という俗な事柄について詳しかった事、遠くを見据えた無表情でブリザードの欠片 に身を晒していた姿、あれだけの魔力の器、故郷がラレンシアであること、そして≪預かった文書≫ の意味。
――そうだったのか……
 背筋が凍りついた。憂いの理由を気にしていたくせに、知ってしまってから激しい後悔を 覚えた。
 今自分がどのような顔をしているか、ウェイリードには自信がなかった。すぐにも視線を逸らし、 彼女がこれ以上何も話さないことを祈った。その思いは通じたのか、彼女はまた口を閉ざして外を 眺めはじめた。
――ラレンシアの惨劇
 全てを繋げる中心となるあの悲劇を、ウェイリードは苦々しい思いで想起した。
 十年前ラレンシア地方領主から首都へ、領地内における伝染病の報告書が届いた。その報告書には、 領地のある一区画にて≪黒死病≫が発生した為にすぐにも発病者を隔離し、彼等の亡骸を即刻焼却 処分とした旨が記されてあった。死者数はラレンシア東部の五つの村を合わせて百名程だったそ うだ。
 黒死病に特効薬はない。ここ数百年聞く事のなかった病名に首都にも動揺が広がったが、発病者の 隔離が早かった事、病原菌を運ぶ齧歯類の駆除を領地内で速やかに行ったことが幸いし、蔓延は 防がれた。人々は時のラレンシア領主の素早い判断を賞賛したものだった。
 しかしそれから二ヶ月後、その報告書を根源から覆す新たな報告が成され、首都は再度震撼する ことになった。報告主は故アデル・ラヴィン公爵。地方領民たちにとっての救世主と謳われた公は、 伝染病の影が未だ消えないラレンシアの地へと足を伸ばし、歴史の闇に消えるはずだったしがない 村人たちの無念を表舞台にあげたのだ。
 公の調べによると、この地を襲った病は黒死病ではなく熱病の一種だったというのだ。しかし黒 死病と同じくその熱病には特効薬はなく、現われた症状に対する投薬を行ういわゆる≪対症療法≫ しか治療の術はなかったそうだ。だがその投薬治療さえ適切に行われていれば、症状は重いもの の死亡率の高くない病であったらしく、完全に治癒していた人間も多かった。
 熱病が流行りはじめた当初、各村は自分たちの村の財源を削って治療を行っていたのだが、薬学 の分野ではカーリアより遥か先をゆくイスラフル製の薬は高価なものだった。そしてその財源を 費えてしまうほど病の感染力は高く、村々は領主に助けを求めたそうだ。
 しかし領主からの返答はなかった。その間に症状が悪化し、薬もなく肺炎でたった数日で生き絶え てしまう者がではじめたそうだ。碌に調べもせず、死者の報告数が急増した事だけに 着目した領主は病の異常性を感じ取ると黒死病もしくはそれに近い恐ろしい伝染病ではないかと 危惧し、診療施設ごと焼き討つよう命じたのだという。首都へ報告された死亡者の半数は、その焼き 討ちによって命を絶たれた患者や医師だった。
 そして、アデル公の報告はそれだけでは終わらなかった。ラレンシアの領主は病気で親を亡く した孤児たちを保護し、病で親と共に亡くなった事にすると、あろうことかララドの奴隷商人に 売り払って益を得るという非道な行いをしていたのだ。
 ララドには魔法の才能を持つ子どもの奴隷を扱う商人と、魔法の才能がない奴隷を扱う商人がいる。 もちろん才能がある子どもの方が高値で取引されるのだが、魔力の選定にて商人たちと領主の間で 折り合いがつかなかった為に引渡しに手間取り、ほぼ全ての子どもたちが売られる前もしくは国境を 越える前にアデル公に保護された。
――あの頃のアデル公は、まるで別人のようだった……
 公が人身売買禁止法の条文改正と罰則の強化を議会に強く進言するようになったのは、ラレンシア の子どもたちを保護し、首都に帰還してすぐの事だった。その頃の公には声を掛けることすら厭わ れた。多分アデル公があのように怒りや、失意、焦燥、憎悪、殺意ありとあらゆる強い感情を抑える ことなく顕わにしている姿を見たのはあの時ぐらいだろう――ウェイリードは常に穏やかだった彼 しか知らなかった。あれ程の激しさを内に秘めていたとは知りもしなかった。
――当たり前だ、自分の娘だけが見つからなかったのだから……
 やっとあの激昂の理由が判明したのだ。
 公文書では子どもは全てアデル公によって保護されたことになっているが、実はある女児一人だけ は高い魔力を感知された為に領主に拉致されて早々売られてしまい、消息が掴めなかったそうだ。その 女児の後々の事を考慮し、売られたことを公表せず内密にララド政府へ捜索願が出されたらしい。 けれどもララドは人権に関してモラルが低い。魔力を持たない者や奴隷を家畜以下として扱うような 国だ。結局その女児は見つからず、十年経った今では誰もが忘れ去った存在となった。そうなるよう 仕向けたのは、きっとアデル公自身だろう。公が≪彼女≫を引き取る際、誰も彼女とその女児とを 重ねる者などいなかったのだから。
 やるせない思いにウェイリードは歯噛みした。アデル公がどれほど娘を愛し慈しんでいたのか、 よく分かっていた。自分が愛し庇護すべきと思う存在がそのような目にあっていたとあれば、 どれほど……。
――……くそっ
 時のラレンシア領主への激しい憤りを覚え、憎悪が湧き上がった。極刑に処されたと 聞いてはいるが、きっとアデル公からしてみれば何度殺しても飽きたることはないだろう、 全くの赤の他人の自分だとてそう思うのだから――そんな酷く攻撃的な自分の思考に、 ウェイリードはたまらず自制をかけた。
――私が彼女の過去に気づいたと、知られない方が良いのだろうな
 彼女はきっと望まないだろう。心許さぬ相手に自分の過去を必要以上に知られることを、そして 同情されることを。
 それでも溢れてくる領主への怒りと彼女の不遇を憐れむ気持ちは、抑えられるものでは なかった。
――彼女が恩師のご息女だから……
 だから他の人物よりも気を使ってしまうのは仕方の無い事なのだと、自分に言い聞かせた。
 『本当にそれが理由なのか?』という無意識の疑問を払拭するように深いを息を吐くと、 外を流れるメロヴァーナ山脈の裾野へと視線を向けた。十年前に惨劇が繰り広げられたとはとても 思えないほど、のどかで自然の美しい地方だと、ウェイリードはぼんやりと思った。



 故郷の村を突き進む彼女の表情は見えない。足取りが軽いのはせめてもの救いだと思いながら、 その小さい背をウェイリードは追った。たまに辺りを確認するように見回している ようだが、その心の内は計り知れない。ただ、一番最初に出会った村人に挨拶をした彼女には 驚かされた。
 生垣の切れた場所から内部へと続く薔薇のアーチを前にした時、なぜか不思議とアデル公の導きを 感じた。彼女がそのアーチに足を止めたので、この場所がアデル公と何らかの関係がある場所なのだと 漠然と思う。
 そしてそれは的中した。奥にはあの惨劇で命を落とした人々のものであろう慰霊碑が建てられて あったのだ。きっと彼女の母君もそこに名を刻んでいるのだろうと思った矢先、その傍らの墓石へと 跪いた彼女の背を見た瞬間、自分の予想が外れたことにウェイリードは少しだけ驚いた。
――彼女の母君は≪ロアの女医師≫であったのか……
 ロアの女医師は全ての薬を苦しむ患者に与え、感染した自らの治療にあたる事なく、領主が 連れてきてくれるであろう応援の医師と薬とを待ち続けて亡くなったと聞いている。
 彼女の適切な処置で、熱病だった多くの者たちが助かったそうだ。薬もなくなり病人を投げ出した 村もある中、この村の医師であった彼女は最期まで諦めずに領主を待ち続けたそうだ。人を信じ ぬく愚直なほど真っ直ぐな心根は、確かに娘に受け継がれていると密かに思う。
 母の墓前にて泣いているのだろうとウェイリードは勝手に思い込んでいた。アデル公は彼女を 泣き虫だと言っていた。涙に沈む彼女にかける良い言葉が何も思い浮かばない口下手な自分を、 心の中で罵った。言葉の巧みな片割れを心底羨んだ。
 しかし振り返った彼女は驚くほど穏やかな笑みを浮かべていた。すっきりした、という言葉が一番 合うだろうか。箱馬車で儚げに外を見つめ続けた弱々しい彼女はもうどこにもいなかった。 こちらへの気遣いをみせる彼女には、自分だけの世界で悲しみに暮れる様子は残っていない。
 アデル公はこんな芯の強さを見せる彼女を知っているのだろうか。なぜ生き急がれて今のこの彼女 の姿を見なかったのか、ウェイリードは腹がたって仕方がなかった。もし自分の寿命を分け与える ことができたのなら喜んで分けただろうに、と非現実的なことすら考えてしまう。
「これで、陛下との約束を守れます。そして、父の遺言を遂行する事ができました。お二人には 本当に感謝致します」
 遺言。その言葉にウェイリードは眉を寄せた。
――アデル公は彼女を信じていたのだな
 たった一人でここを訪れても彼女ならば大丈夫だ、と。
――ここに薔薇があるからか……
 アデル公は彼女が殊更薔薇を愛していることを教えてくれた。娘の機嫌を良くする為には薔薇を 差し出せば良いのだ、と。
 きっとこの薔薇園は彼女の母君の為だけでなく、いつかここへ戻ってくる娘の為に用意されたもの なのだろう。永遠に娘を慰めるために。
「そ、そんな事、いいよ」
 隣りのビビが狼狽えたように応え、自分の過失にウェイリードは内心慌てた。
 ビビが彼女の過去に正しく行きついているかは分からないが、ここが彼女にとってどういう場所で あるのかは感じ取ったのかもしれない。普段、人に対する気遣いに欠けた行動を取っている為に、 こういった時にどう対応すれば良いのか分からないのだろう。余計な事まで喋りそうなビビ を早々に口封じすべきと思い、声をかけようとした時だった。
「デュシアン?」
 ビビを遮り彼女の名を呼んだのは、自分ではなかった。否、自分には彼女の≪名≫を呼ぶ権利は ないのだと、漠然と思う。それがちりちりと自分の胸を燻る。
 名を呼ばれた彼女の視線がこちらを通り越すと、その緑の瞳は大きく見開らかれた。来るはずのな い、けれども待ちわびていた相手と出会ったかのように、その表情はゆるゆると歓喜に彩られて いった。それは蕾が開く瞬間に似ているかもしれない。何の躊躇いもなく「綺麗だ」と感じてし まった自分を不思議に思った。
 背後の小道に誰かが現われたのは分かっていた。敵意も悪意も感じられないことから放置しては いたが、何者かが自分を追い越して一陣の風と共に彼女へと近づくのを、ウェイリードはただ静かに 見送ることしかできなかった。
 護衛兵ならば、得体の知れない男が契約主へと近づくのを止めるべきだったのだろう。彼女は いつどこでどんな騒動に巻き込まれてもおかしくない、公爵という位に就いているのだから。
 しかし男を全く拒む様子もなく、それどころか待ちわびたようにその身を黙って包み込まれる彼女を 目の当たりにし、身体も思考も視線すら、まるで麻痺してしまったかのように動かなくなって しまったのだ。それは護衛として――騎士として失格だと思いながらも、なぜかまだ身体は動か なかった。
「アシュリー、ただいま」
 彼女の白い手が、おずおずと男の背にまわされてぴたりと吸いつくように触れる。なぜか その手ばかりを見つめてしまった。見たくない、と理由も分からず思う。船上で青ざめた彼女 に拒絶された時の事をなぜ今思い出すのか、ウェイリードは苛付きを抑えられなかった。
 身体を離すと二人はしばらく見つめ合い、少し泣きそうになった彼女の額に男の手が触れると、 彼女はどこか嬉しそうにはにかんだ笑みを浮かべた。
 男の金色の髪と淡い色の瞳、そしてその穏やかで甘い笑みは、どこかアデル公を彷彿とさせる。 この男には敵わないのではないか――ぼんやりとそう思った。何に関して敵わないのか、 ウェイリードはそれを考えるのを拒否した。
 彼女へと手紙を渡したあと、男はこちらを向き直った。初めて顔を合わせるはずだが、 向こうはそうではないようだ。神殿騎士ならば首都のどこかですれ違う機会もあったのだろう。 黒髪とこの異質な灰色の眼のせいで、自分が他人の記憶には残りやすい事は認識していた。 クラメンスの准将もこの特徴と従兄のヨアヒムに似た容姿で気づいたに違いない。 しかし今はそんな事はどうでも良いように感じた。
 ふと、まるで今存在を思い出されたかのように彼女と視線が交わった。彼女は広い荒野に取り残 された野兎のように心許ない表情だ。この男に置いていかれることをそんなに恐れているの だろうか。
――関係ない
 彼女の心を揺らしているのはこの男だ、自分には関係ない。苛つく感情をそのままに、 ウェイリードはアシュリーという名の男の後を追った。



「あたしだって馬鹿じゃないんだから『故郷だ』って聞いて、あの慰霊碑の前に連れて こられれば、だいたいの予想はつくよ」
 どうやら馬車内では狸寝入りをして彼女の言葉を聞いていたらしい。ビビは ぶつぶつと呟きながら散歩に付いてきた。幸いなことに、ビビは全ての真実に辿りついてはいない ようだった。母御をあの惨劇で亡くし、アデル公にすぐにも保護された子どもたちの中の一人としか 彼女を認識していないようなのだ。ウェイリードはそのことに安堵した。
 彼女との面会を求める者たちの列が村長の家を通り越してずっと向こうまで続いている。 その横を通りながら彼等の会話に耳を傾けたが、彼女の帰還を喜ぶ話ばかりだった。ただ、捲し立て るように喋り続ける従妹が少々煩い為に、彼等の話は半分以上聞き取れなかったが。
「アデル先生って、どうやってラヴィン公のお母さんと出会ったんだろうね」
「……無粋な詮索はするな」
「だって気になるじゃん! アデル先生ってセオリア夫人一筋な感じに見えたのになぁ」
 アデル公は夫人と結婚する以前に彼女の母君と出会って子を成したのだろう。口さがない者たちも いるが、その身分差からどんなに望んでも結婚できなかったに違いないとウェイリードは信じてい た。片田舎の医師と名門公爵家当主ではその婚姻を認められるのも難しいだろう。
「人にはそれぞれ事情がある。これ以上愚かしい話を続けるなら、公爵領に縛りつけるぞ」
「うー、王子様め。わかったよー、もう言わないー。言わないから止めてね」
 慌てたように腕を組んできて自分で可愛らしいと思い込んでいる顔で願いを口にされても、何も 変わるものではないとウェイリードは冷静にそう思う。が、この従妹が傍にいなくなれば、少しは 静かで穏やかな日常になるものの、どこか寂しさを感じるのは確かだった。余程の事がない限りは 公爵領に送還することもないだろう。
――しかし、それはそれで問題か
 ビビにとって帰るべき場所は生まれ育った公爵領ではない。擬似家族を続けるアイゼン家本家の 首都邸宅がビビの帰るべき場所なのだ。実の父や兄たちのいる公爵領はビビにとって 故郷ではあっても、戻るべき場所ではないのだ。未だに一人で公爵領へと向かう事を拒む。
――故郷、か
 彼女はここを「故郷だ」と言った。だとすれば、彼女はいずれここに戻ってくるつもりなのだろ うか。だから十九になっても婚約の話一つ纏めようとはしないのだろうか。ウェイリードはふと、 辺りを見まわした。
 歩き続けているうちに民家に囲まれた場所へ出ていた。どの民家も花と緑に囲まれている。優しい クリームベージュの壁肌には蔦が絡み、ベランダに括られたプランターからは花々が零れるように 咲き乱れている。どこか御伽噺のような村の様子が、彼女らしいと思わさせられた。
 確かにこの村で彼女の基礎は培われたのだ。どこもかしこも穏やかでのんびりとし、柔らかい色彩 に包まれており、まるでここは彼女そのもののようだった。
――彼女には、首都よりもこういった場所の方が似合っている
 謀略や欺瞞の渦巻く神殿に関わって変わってしまうより、今のままの――。
「ラヴィン公にとってあのアシュリーって人さぁ、あたしにとってのウェイみたいなかんじなの かな」
 ビビが自分の方へ注意を引こうと強く腕を引っ張った為に、ウェイリードは自分の思考から抜け出 し、その事をなぜか感謝した。そして今の言葉を噛み砕いて考えた。
――私にとっての、ビビと同じ?
 自分があのアシュリーという男と同じ目でビビを見ているという事か――ウェイリードは 眉を顰めた。
 互いを完全に『兄』『妹』として見ている自分たちと彼女たちとは少し差異があるように感じた のだ。特にあの男の彼女を見つめるあの目と彼女への態度――あれが『妹』への態度であるかと 問われれば、行き過ぎた愛情だとも言えなくもないが、やはり疑わしいものだった。 だいたい自分たちは血の繋がりはあるが、彼女たちにはそれが全くない。赤の他人なのだ。
「でも久しぶりみたいだったし、あの二人、会えて良かったよね」
 こちらの腕を掴むビビの指に力が込められ、そっと見下ろした。何時になく、しおらしく笑って いるビビを目の当たりにし、留学を終えてララドから戻ってきた時にこの従妹がどれだけ泣いて 心細さを訴えてきたか、その時の事を思い出した。多分、ビビもその時の自分と二人とを重ねて いるのだろう。
「そうだな」
 自分たち双子への依存の強さを少し問題に思いながらも、従妹を落ちつかせる為に肯定の言葉で もって頷いた。しかしどこか苦い思いが心に広がっていくのをウェイリードは感じたのだった。



 開け放っている窓から暖かい風が入り込み、カーテンを揺らす。窓辺に注ぎこまれる 月明かりの美しさに誘われるように寝台から起き上がるとウェイリードはそちらへ近寄った。
――眩しいな
 こうしてゆっくりと月などを眺めるのも久しぶりな気がする。そんな趣向を持ち合わせていない 自分を、やはりつまらない人間だなと思い、微苦笑を浮かべて窓枠に腰掛けた。
――そういえば、いい加減に返事をしなければならないな
 兄弟子から共同研究を持ちかけられていた。もちろん兄弟子はララドに、こちらはカーリアに 居ての遠距離での共同研究となる。その返答をずっと渋っていた。
 精神魔法の研究はこれ以上続けたくないとは思っていたところだった。もともとあの研究は≪彼女 ≫の研究を引き継いで成功し、公にしたに過ぎない。自分の功績だと言われても今は嬉しくもなんと もなかった。それに、現在進めている異精霊同士の融合条件に関する研究も評価されてはいるが、 あまり気乗りしない研究であった。できるならばもう少し生活に根付いた魔法の研究が良い――柄 にもないと自分でも思う事を告げた時、片割れが腹を抱えて笑ったのを今でも忘れない。
 屈託のない片割れを思いだして色々と腹立たしくなってきたので、いい加減眠ろうと 窓を閉める為に手を掛けた時、眼下の暗がりで何か動く物体を見つけてその手を止めた。
――何を考えているのだっ!
 その場から怒鳴ってやりたい衝動を抑えるように窓枠に置いた拳を握り締めて、彼女を―― ラヴィン公を見下ろした。
 いくらここが平和そのものの田舎で故郷だとはいえ、あのような格好でこんな時間に外をふらつく のは全くもって好ましくない。ウェイリードは外套と剣を掴むと、すぐにも屋敷を飛び出して 後を追った。
 彼女の行き先は予想がついている。その気持ちは十分に分かるからだ。しかしあまりに無謀すぎ る。なぜこうも彼女は常識の範疇から逸脱する行動を取るのか。なぜもう少し自分の身を慮った 行動をとれないのか。腕を掴んで引っ張り戻し、愚か者と罵ってやりたかったがその思いを ウェイリードはなんとか抑える事に成功した。
 空を見上げながら歩く彼女の足元は危険極まりない。暗いのだからしっかりと足元を確かめながら 歩けば良いものを、どうして空を見ながら歩くのか。何度も躓きそうになる彼女を叱責したい気分に なるが、それも抑えた。文句を言うのは後でもできるからだ。
 思惑通り、彼女は薔薇園へと入って行った。ここは出入り口がこの一箇所しかない。ここを封鎖 すれば彼女に害を与えるものが物音立てずに侵入する事は不可能だろう。それでも彼女が来る より先に潜んでいる輩もいるかもしれないと、奥が見渡せるぎりぎりの場所まで進み、 彼女が一人きりであるのを確認してから入り口付近まで戻った。
 しかしどれだけ待っても彼女が出てくる気配はなかった。まさか眠ってしまったわけではある まいな――ウェイリードは嫌な予感を引きずりながら、そっと奥を窺った。
 その予感は的中した。彼女は母君の墓石に縋りつくように身体を横たえ、瞼を閉じていたのだ。 規則正しく穏やかに上下する肩を見るかぎり、完全に寝入ってしまっているようだ。
――いくら暖かいとはいえ、あのような格好では風邪をひく
 ショールは腰辺りまで下がり、袖のない寝衣から青白い肩が剥き出しになっていた。起こす為に 近づき、そして少し離れた位置ではたと足を止めた。
 まるで口付けをねだるかのように薄く開かれたふっくらとした唇に魅入られた。細い肩はすべらか で、露わとなった首筋と艶めかしい鎖骨が誘うように浮き上がって見えた。 白い寝衣との境が分からない程白くなだらかな胸元へと視線が滑り落ちた瞬間、ウェイリードは 自分の無意識の視線に対して強烈な罪悪感に苛まれた。それと同時に激しい心音に鼓膜が震えた。
――愚かな
 彼女はアデル公のご息女だ。
 なんと自分は汚らわしい生き物なのか。ウェイリードは彼女から視線を外し、信じられない思いに 口許を手で覆った。
 一番抱いてはいけない相手にそんな思いを――欲望を抱くとは……。
 ウェイリードは息を呑むと、持っていた薄手の外套を彼女が起きないよう気を配りながらその身体 にかけた。起こそうかとも思ったが、こんな乱れた心中では彼女と会話ができそう にもなかった。そして、彼女の瞳に理性が負けてしまうのが怖かったのだ。
 ただこれだけは、と彼女の頬に降り落ちた花びらを一枚取り除く為に伸ばした指先が 柔らかな頬に軽く触れた瞬間、激しい後悔を覚えた。
「う……ん」
 小さく震える唇を凝視してしまう自分がただの男である事を、まざまざと思い知らされた。 すぐにも彼女から離れなくてはいけないと危機的に感じる。
 彼女の身体がかろうじて見えるぐらいまで離れたアーチの下まで行くと、ウェイリードはその 場に腰を下ろして剣を横へ置いた。そしてもう一度、彼女の方へ視線を向けた。
 薔薇に囲まれた寝所で眠る妖精のように神聖で不可侵――ウェイリードにとって、彼女は 出会った当初からそんな存在だった。
 初めて彼女を見たのは神殿の中庭だった。その後どこかの夜会で会ったが、話をしたのは あの植物園でが初めてだった。それまで見かけていた彼女とは違い、あの時の彼女は――。
『ウェイリードには会わせてあげないよ。持っていかれたら困るからね』
 ふいにそんな恩師の言葉を思い出し、現実へとしっかりと引き戻される。
――彼女は、アデル公のご息女なのだ
 愚かな自分を戒めるように、呪文のようにその言葉を繰り返す――そんな自分が酷く滑稽 に思えた。
 失笑しながらアーチの支柱に背を預け、深い息を吐き出す。ウェイリードは瞳を閉じると、 全てに疲れたように、考えるという行為をやめた。




(2006.12.22)

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