墓と薔薇

8章 誰が為の薔薇(6)

「アシュリー」
 彼の顔を確認したい、彼の声が聞きたい、ちゃんと生きているのか確かめたい。そんな 強い思いが沸き上がり、きつく抱きしめてくる彼の腕の中でデュシアンは身じろいだ。
 離して欲しいというこちらの意向を理解したのか、アシュリーはほどなくして腕を離して くれた。彼は幼い頃から、言葉がなくてもこちらの心情を汲み取るのが上手だった。それは今も 変わらないらしい。
 身を引いて彼を見上げれば、広がった身長差に驚かされた。首いっぱいに見上げなく ては彼と視線が合わないのだ。面影を残しながらも、白い軍服を纏う立派な青年に成長した 幼馴染みのその双眸は、十年前までは常に隣りにあった慈しみの込められた優しい空色だった。 懐かしさにデュシアンは胸を衝かれる。
「デュシアン」
 アシュリーはにっこりと笑うと、少し身を屈めて顔を覗きこんできた。
 優しかった神官様に似たその表情を見ているだけで涙が込み上げ、デュシアンは瞳を伏した。
 彼の父君はもうおられない。あの時目の前で――ここで、殺されてしまったのだ。神官様だけでは ない、家や隣接する教会に保護され寝かされていた病人たちは生きたまま焼かれたのだ。
 じわりと目の端が潤む。けれども、あの場にいたアシュリーは生きていた。それが嬉しくて、 デュシアンは涙を湛えながら口許を綻ばせて顔をあげると、確認するように彼の袖口に手を 伸ばした。
「アシュリー」
「泣き虫デュシアン」
 指先で軽くおでこを弾かれて、デュシアンはくすくすと笑みを零した。彼は十年経った今も、 こうしてあの頃のままの反応を返してくれるのだ。嬉しさに自然と頬も緩む。
「アシュリーにまた会えて、嬉しい。生きていてくれて、嬉しいの」
「俺もやっとデュシアンに会うことができて嬉しいよ」
 優しく甘やかすような語り口も蕩けるような笑みも健在だった。父君の美貌をしっかりと受け継 いで立派な青年となった今、それはとても魅力的で実用的だった。デュシアンにはそれが 誇らしかった。
「ずっと会いたかった。遠くから眺めるだけじゃなくて、ね」
「え?」
 どこか寂しげな青い瞳が、遠くを見つめるように目の前のデュシアンを通り抜ける。しかし すぐにも彼は微笑むと、上着のポケットをまさぐった。
「まずはこれを受けとってほしい。アデル公との約束なんだ」
「え?」
 急に出てきた父の名に驚き上体を反らしたデュシアンの手を取ると、アシュリーは手紙を 押しつけるように渡した。
「公からデュシアン宛ての手紙を預かっているんだ。話したいのはやまやまだけど、まずはお二人の 手紙を読んでくれるかい?」
「二人……?」
 問わなくても答えは分かっていた。期待に胸が打ち震え、手紙を持つ手が強張った。
 何も言わずに笑みをたたえたままアシュリーは頷いた後、彼ははじめてデュシアンから 完全に視線を外した。
「俺は同行者の方々を――」
 アシュリーは薔薇のアーチ付近に佇む護衛の二人を振りかえると、何かに驚いたように軽く目を 見張り、言葉も止めた。
 なぜだろうか、そんな様子にクラメンス港で出会ったコンラッド准将の事を デュシアンは思い出した。彼もアシュリーと同じような反応を見せたのだ、同じくウェイリード 公子と対面した時に。
――なんでだろう?
 黒髪が珍しいのだろうか。確かに黒髪の者の人口はカーリア国内において極少数だ。 同じくカーリア系民族のクラメンス王国にも黒髪の者など殆どいないのだろう。 だから彼等は公子を見て不思議な反応を見せるのだろうか。しかしそれならばベアトリーチェ公女 を見た時でも驚くはずなのだが……。デュシアンには明確な答えを得るだけの教養は持ち合わせて いなかった。
「お二人を休める場所へ連れていったら、その後迎えにくるよ。俺との話はそれからだ」
 まるで動揺を隠すようにやや強引に微笑んだアシュリーの言葉にデュシアンははっと 我に返った。
「アシュリー」
 軽い喪失感に不安を覚え、つい彼の腕に手を伸ばしてしまう。
 そんなデュシアンの頭をアシュリーは優しく頭を撫でた。
「大丈夫、俺は生きている。今度はちゃんとデュシアンを守ってみせるよ。それだけの力を得たから」
 誇るように腰に下がる帯剣に手を触れて、アシュリーは力強く微笑んだ。
 デュシアンは頼もしくなった幼馴染みに、ただ頷く事しかできなかった。軍服の袖から手を離し、 一歩後ろに下がって彼を見上げた。優しかったアシュリーは、幼い頃夢見ていた安寧を祈る神官と いう職業ではなく、平穏と繁栄を勝ち取る騎士として生きる道を選んだのだ。同じく騎士である ウェイリード公子と並んでも見劣りしない体躯になっている。あの頃から随分と時間が経っている のだと思い知らされて、心を少し乱された。
「ご案内致します」
 アシュリーの背越しに、ウェイリード公子と目が合った気がした。彼はただこの慰霊碑を見ていた だけかもしれないが、窺い見た彼は少しだけ――。
――少しだけ、悲しそうな顔をしていた……?
 そんなはずはないだろう。アシュリーに促されてこの場を去り行く公子たちの背を見つめながら、 デュシアンは小さく溜息を吐いた。

 再会したばかりのアシュリーに置いていかれて寂しさを感じたはずなのに、デュシアンは一人きりに されるとどこか安心したようにほっと息を吐き、誰に憚る事無く母の墓標の前の敷石に ぺたりと座り込んだ。そっと母の墓標に触れ、苦笑する。自分は少し寂しい娘になってしまった、 と。
 気を取り直し、デュシアンは受け取った封筒を目の高さまで持ち上げてみた。慰霊碑に降り落ちる 細かい光の粒が封筒を透かす。
――手紙……
 どくどくと脈打つ心臓は、早く開けろと急かしているのだろうか。手紙と一緒に渡された ペーパーナイフを握る指先は、小刻みに震えている。もしかしたら手で千切って 開けてしまった方が綺麗に開くのではないかとも思ったが、当てたナイフは考えたよりもスムーズに 切れてくれた。
 未だ震える指で封筒から便箋を取り出した。父からの手紙には何が書いてあっても受け入れる 余裕がある。母にこれだけ美しい≪寝所≫を遺し、継母を確かに大切にしていた父を、誰よりも信じて いるからだ。それでも父からの最期の手紙となれば緊張するものがあった。
 そして、より一層の期待と不安を与えてくるのは――母からの手紙だ。アシュリーの 言った「二人」の二人目は実母に違いない。しかし母がいつ綴ったものなのか、どんなことが書かれて あるのか、全く見当がつかないのだ。デュシアンにとって、母からの手紙はあまりに思いがけない ものだった。
 深く息を吐き出し、心を決めて便箋を広げた。少し角張った父の字が、目に飛び込んでくる。

『 愛する娘デュシアンへ
お前がこの手紙を手にしたという事は、自らの過去と私の真実の姿に向き合う心の用意が できたのだろう。それを喜ばしくも誇りに思う。』


 そこまでの書き出しに目に止め、デュシアンは溢れそうになる涙を堪えた。父が綴った自分の名 を指で辿り、唇を噛む。父は自分の名を呼ぶ時、とびきり甘い声色になる。その声が 耳に届く。――父が呼んでいる声が聞こえるのだ。
 自分は父が誇ってくれるだけの人間なのだろうか、それだけの人間になれたのだろうか?
 文面をもう一度辿り、背筋を伸ばした。父は自分を誇りに思っているというのだ、 それに酬いる為にもここで泣いてはいけない。自らを戒め、デュシアンは続きに視線を落とした。

『何も話さずに逝くことを許して欲しい。
私はお前が笑って事実を受け入れるようになれるまで、お前に語りたくはなかった。
私はお前の笑みだけを見ていたかった。我侭な父を許せ。

これから綴ることが私の真実だ。
お前の心が揺れぬことを祈る。

私が女性として真に愛し求めたのはラトアンゼ唯一人だった。
だが、私を支え傍に寄り添ってくれるセオリアを愛しく思う気持ちも、彼女と 共に暮らすうちに強くなっていった。
ラトアンゼを見付けられずに荒れ狂う心を癒し満たしてくれたのは、セオリアとレセンの存在 だった。
私の戻るべき居場所は帰りを待っていてくれる二人の傍だと、いつしかそう思うようになっていた のだ。

私は卑怯な人間だ。
私を聖人と称える者もいれば、手放しで誇りに感じてくれるお前という娘もいる。 けれども私はそんな賞賛に値しない、醜く、脆く、自己中心的で自分勝手な人間なのだ。
できるならば私もお前にとって完璧な父でいたかった。すまない。

それでも、私は私にできる限りの愛をもって、愛する者たちに接する事ができたのだと今は思える。 お前と出会えた事で、悔いはなくなったのだから。
私とラトアンゼは二度と出会えなかったが、お前という存在で繋がっていた。私には、 それだけで十分だった。
生まれてきてくれて、ありがとう。

我侭ついでになるが、どうかこの手紙の内容はお前の心にだけ刻んで欲しい。できれば 燃してもらいたい。
お前にはもう必要のないものだと確信している。
それから、ラトアンゼの手紙を同封した。
彼女は自分にもしもの事があったらお前に渡すよう、ロアの村長殿にそれを託していたようだ。村長 殿から私に託されていたのだが、ずっとお前に渡せなかった。すまない。

私はお前に微笑んでいて欲しかった。お前が笑っていてくれれば私はいつでも幸福な気持ちになれた。 どうかその笑みが絶えぬ幸せな人生を送ってくれ。


アデル・ラヴィン 』


「ずるいよ、父様……」
 デュシアンは瞳を閉じて、口惜しそうにけれども苦笑混じりに吐き捨てた。
 父はこれだけ愛に溢れた手紙を処分しろというのだ。どこまでも自分勝手で自己中心的な人だと 罵ってやりたかったが、きっと母はそんな真実の父を――父が自分の醜く脆いと思っている部分 までも、しっかりと愛したのだろう。デュシアンにはその気持ちがよく理解できた。
 なぜなら、手紙を読み終えた今、父への愛しさで胸がいっぱいになったのだから。
――仰せの通りに致します。でも首都に帰るまではいいですよね?
 首都に帰るまでに幾度も読み返し、父の言葉を一つ一つしっかりと胸の刻むつもりだった。 その思いを忘れないように。
 デュシアンはそっと自分の胸に父からの手紙を押しつけた。そんな事をしても抱きしめてくれる 父の腕があるわけではない。けれども、心は確かに満ち足りた気分となった。

 しばらくしてから、気持ちを固めると手紙の二枚目を捲った。整った女性らしい字だが、 知らない筆跡だった。母の字すら、自分は知らないのだ ――デュシアンは溢れる涙をぎりぎりのところで留めた。

『 デュシアンへ
まず、この手紙が貴方の手に渡らない事を何よりも祈ります。
それでも読んでしまっているという事は、私はもう貴方とお話しができなくなっている からなのでしょうね。貴方を一人にしてしまってごめんなさい。
けれども、母は自分の行いを恥じる事はありません。医師として誇れる最期だったと 確信しています。
そして貴方もそう思ってくれることを望みます。

貴方と過ごした十年はとても幸せに溢れた時間でした。
貴方が笑うだけで私の心には暖かい風が吹き込むようで、胸をいっぱいにしてくれました。
貴方の母になれて良かった。私はとても幸せ者です。
そして私の愛する貴方がいつまでも健やかに幸せである事を、貴方とは別の世界から祈り続けます。

この手紙が貴方の手に渡ったと同時に、首都におわすジョエル・ファロン様という方に貴方の事を 託す手紙を送る事になっています。
ファロン先生は私にとって父に等しい方でした。そして、貴方の誕生を誰よりも喜び、赤ん坊だった 貴方をとても可愛がって下さった方でもあります。
先生ならばきっと貴方が貴方らしく生きれるよう、手助けをしてくれるはずです。
ですから、お言い付けはちゃんと守るように。良いですね、デュシアン。

最後に、貴方と巡り会えたこの奇蹟をカーラ様に感謝致します。
いつまでも貴方が幸せでありますように。
ラトアンゼ・エイムズ 』



「おかあさん……」
 手紙から顔をあげて墓標を振り返ると、泣く一歩手前のくしゃくしゃの顔で、それでもデュシアン は無理やりに微笑んだ。悲しみに勝る母への愛しさを表現する為に。自分を大切に思い、 愛してくれた母への感謝の気持ちを込めて。
「ありがとう、お母さん。わたしも幸せだったよ。わたしを産んでくれて、ありがとう」
 実母と実父そして自分と、血の繋がりのある三人でまみえる事はなかった。けれども、今こうして 自分が生きる事こそが実母や実父の生きた証、そして二人が繋がっていた証なのだと、 デュシアンはしっかりと確信した。
――自分を貫いて生きてきたお二人に恥ずかしくないよう、わたしもがんばるから
 今度はちゃんと無理なく微笑み、母の墓へと向き直った。そして、母の安らかなる 眠りに黙祷を捧げた。


 アーチの下で静かに佇んでいたアシュリーは、黙祷を終えたデュシアンが振りかえると微笑んで くれた。その笑みは昔と変わらないが、アーチを彩る深紅の薔薇がよく似合う素敵な男性に成長 していた為に、目を見張るものがあった。それが妹分としてはとても誇らしい。
「読み終わったかい?」
「うん。ありがとう」
「いいや、礼を言われるような事はしてないよ」
「でも、どうしてこの手紙をアシュリーが持っていたの?」
 デュシアンは立ち上がるとアシュリーに近づき、彼が差し出してきた手にペーパーナイフを返し ながら首を傾げた。
「その手紙は半年ぐらい前に俺のところに届いたんだ。もしデュシアンがここに来る事があったら、その時に 手渡して欲しいと。アデル公からやっと、会っても良いとの了承が出たんだ」
 アシュリーは嬉しそうに瞳を細めた。
「父様と、知り合いなの?」
「俺は見ての通り、神殿騎士をしている。四年前までは研修の為に首都に居たんだ。地方所属の 神殿騎士は、一度は首都に行かなければならないから」
「首都にいたの?!」
 どうして会いにきてくれなかったのか。その気持ちが顔にそのまま出ていたのだろう、アシュリーは 小さく謝罪を述べてから弁明した。
「デュシアンを奪われてから四年経ったある日、首都にいた俺に村から知らせがあったんだ。アデル公が デュシアンを見付けて首都に引き取った、と。当然、俺はすぐにも会いに行ったよ。でも 会わせては貰えなかった。しかもアデル公にはしっかりと釘をさされた。今後は許しを与えるまで 影から見るだけだ、絶対にデュシアンの視界に入るな、と」
「どうして?」
「アデル公はデュシアンが心配だったんだよ。俺と会えばきみは過去を思い出す。その記憶の重圧に 耐えられないのではないかと心配されていたんだ。とてもきみを大切に思っていたんだろう。 だから、俺も諦めた」
「そうだったんだ……。ごめんなさい、ありがとう」
 せっかく会いに来てくれたアシュリーを追い払った父の代わりの謝罪と、父の気持ちを 慮ってくれたお礼とに、そっと頭を下げた。
「でも、実は約束を違えて一度会っているんだ。デュシアンはきっと覚えていないだろうけど」
「え? いつ?」
 飛びつくようにアシュリーの袖口に触れ、デュシアンは瞳を見開いて彼を見上げた。
 アシュリーは少し困ったように苦笑する。
「きみが家出をした時だ。アリアバラス海峡に落ちそうになっていたデュシアンを見つけたのは、俺と 上司だよ」
「そうだったんだ……。ありがとう、アシュリー」
 騎士に保護されたのはなんとなく覚えている。けれども彼等の顔は全く覚えていない。 保護してくれた騎士たちが、家を焼いて自分をこの村から引き離した兵士たちと重なって、パニックを 起こしたからだ。多分、そうとう暴れて手がつけられなかったはずだ。デュシアンは恥ずかしさに 頬を染めた。
「ずぶ濡れで震えながら虚ろな目でふらふらと歩くデュシアンを発見して、俺はきみをアデル公の元から 奪ってやろうかと思ったよ」
「アシュリー」
「けれども、そうしなくて良かったと今は思っているよ」
 アシュリーは仕方なさげに微笑んだ。
「幸せだったんだろう?」
「違うよ」
 デュシアンが即座に笑顔で否定すると、アシュリーは思いもかけなかったのか、 目を丸くさせた。
「『幸せだった』じゃないよ。今もちゃんと、幸せだよ」
 自分には継母と異母弟がいる。それから怖いけれどとても頼りになる従兄がいる。見守ってくれる 屋敷の者たちがいる。父は自分に家族と居場所をきちんと遺してくれた。母を亡くした後、 すべてを失った時と同じ思いをしないように。
 デュシアンが微笑めば、アシュリーも意図を理解したのかほっとしたように笑って くれた。
「会えない代わりに、アデル公から報告を受けていたんだ。公は愛娘の話をするのが楽しくて 仕方ないご様子だったよ。とても愛されているんだな、と思った」
 思いだし笑いをするアシュリーに、デュシアンは一瞬にして赤く頬を染めた。父が自分を猫可愛が りしていたのは分かっている。一体どんな親馬鹿ぶりだったのか、なんとなく想像がついたのだ。
「それで、四年前にラレンシアの領主館に戻らなければならなくなった時、 公からここの維持の一端を任されたんだ」
 アシュリーは辺りをぐるりと見回した。
「維持?」
「どんなことがあってもここに薔薇が永遠に咲き続けるよう、薔薇に負担にならない程度に ≪冬眠≫と≪開花≫を自由に繰り返させる魔法が施されてある。その状態を維持する為の魔法を習った んだ。俺には魔法を扱う感覚がなかったらしくて、時間がかかったけれど」
 デュシアンはこの薔薇園をじっくりと見まわすと、アシュリーの腕に触れた。
「……ここの維持魔法、わたしが引き継いでも良い?」
「アデル公はね、多分その為に俺に維持魔法を教えたのだと思う。デュシアンに引き継がせる為に。 北の守りの維持よりはずっと楽だろうさ」
「ありがとう」
 満たされた気分で、デュシアンは咲き乱れる薔薇たちに微笑んだ。



 村長のマイラは十年前に父君を亡くしたアシュリーを引きとって養子としたそうで、彼女は 捲し立てるように再会できた喜びを綴った後、デュシアンを思いきり抱きしめた。
 デュシアンの覚えているマイラは恰幅の良い村長夫人で、いつも抱きしめられ る度にその大きな胸に埋まって苦しい思いをしていたものだったが、今はその心配もない程 随分と細身の女性になってしまっていた。五年前に舅と夫を事故で同時に亡くして からは痩せる一方だったのだと豪快に笑って語る彼女のその強さに、デュシアンは昔と 変わらぬ好感を抱き、自分もそうありたいと密かに願った。
 痩せた今でもお喋りで面倒見の良い質なのはどうやら全く変わっていないらしく、先に休んでいた ウェイリード公子やベアトリーチェ公女相手に――もちろん彼等の身分を知らずに、甲斐甲斐しく 世話を焼いて話しかけていた。その様子から、二人が偽名を名乗ったらしい事も見て取れる。
 『あんたも騎士なのかい?』とウェイリード公子の腕や肩、果ては胸板まで触った時には 内心冷や冷やしたが、公子は全く動じる事もなく礼儀正しく『そうです』と答えていた。『あんた、 いい男だねぇ』としみじみ言われた時には、『ありがとうございます』と少し困った表情になった ので、傍から見ていて可笑しくなり、デュシアンはつい笑ってしまった。首都では有名人のウェイ リード公子に、今更そんなふうに面と向かって言う人もいないだろうに。
 そんなマイラがデュシアンに尋ねてくる事といったら、『いつまでここに居れるのか』という事だけ だった。できる限り長い間ここに居て欲しい、と付け足される。幸いなことに、『今までどうして いたのか』という質問は一切なされなかった。彼女が気を使ってくれているからなのか、父が口止め したのかは分からないが、それには助かった。さすがにウェイリード公子やベアトリーチェ公女の 居る前で答えたい話ではない。そうでなくても在らぬ誤解を受けかねない四年間だったのだから。
「明日には首都に戻ります」
 そう告げれば、マイラだけでなくアシュリーをも落胆させた。
 それでも公爵となったデュシアンの立場に理解を示し、マイラは『今度はゆっくりできる時に おいでね』と優しく抱きしめてくれたのだった。
 そんなゆったりとした時間も、怒涛のノックによって阻まれる事となる。村人がマイラ邸に押し 寄せてきたのだ。誰が噂をしたのか、誰が気づいたのか、『デュシアンが帰ってきたのか!』と 皆が口々に自分の言い分を戸外で叫んでいるのだ。農作業中そのまま駆けつけてきたのか、 ぎらりと光る鉄の農具を引っ提げた者たちが叫んでいる様子は暴動のようにも思えて少し怖い。
 マイラとアシュリーが彼等を宥めた後、デュシアンは彼等と順番に面会する事を了承した。
「なんか、女王陛下に謁見に来た人たちみたい」
 ベアトリーチェは窓の外を覗いてそんな呟やきを残すと、気を使ってくれた公子と共に散歩に 出掛けて行った。ベアトリーチェが覗いていた窓へと近づくと、 村人たちの列が屋敷を突き抜けて隣りの牧場の向こう側まで続いているのが窺えて、 苦笑が洩れた。
 それから夕食までの一時、休みなしに面会し続けた。疲れはしたが、自分を心配してくれていた彼等 との再会は嬉しいものだったし、また空白の四年間をなぜ誰も聞かないのかも判明して疑問は解けた。 どうやら父アデルが嘘を吹聴して歩いたらしいのだ――エルムドアの孤児院に保護されていた、と。 今となっては父が笑顔で嘘をつく様子が簡単に想像できる。デュシアンはそんな自分を乾いた笑みで 励ました。大丈夫、わたしの父様は嘘をつくのが上手なんじゃない、ただ機転が利くだけなのだ、と。


 夕食後のお茶を楽しみながらしばらく談笑した後、マイラが気を利かせて『疲れているだろうから』 と寝室に案内するようアシュリーに言いつけた。マイラに案内される公子や公女に就寝の挨拶をし、 デュシアンはアシュリーの後を追った。
「もう少し引き伸ばせないか?」
 階段を昇り、二階の客間の木ドアを開けてから、アシュリーはぽつりと呟いた。
 彼の言わんとする事柄にすぐに気づき、デュシアンは申し訳なさそうに首を振った。
「ごめんなさい。ここに来るのが急だったの」
「もし護衛の彼等の都合なら、帰りは俺が護衛をするから、もう少しゆっくりしていけない かい?」
「でも、陸路だと――」
「首都まで十日ぐらいだったかな。来月頭の議会までには間に合うだろう?」
「アシュリーはお仕事はいいの?」
 彼ははじめて返答に詰まったように視線を逸らして考え込んだ。
 マイラが自分の事のように自慢して語り聞かせたアシュリーの話では、この幼馴染みは領主館での 仕事が相当忙しいのではないかと思えたのだ。再会した村人たちも、アシュリーが新しい領主の信頼 も厚く、重要な職務についていると話してくれた。
「休暇届を出すから大丈夫だよ」
「往復で二十日だよ? そんな長い間のお休みを、急に取れるの?」
 彼はまたも返事に困窮した様子だった。
「アシュリー。わたしも貴方ともう少し長く一緒にいたいし、この村にも留まりたいよ」
「なら、――ロアに帰ってくればいい」
 アシュリーの大きい両の手が、デュシアンの肩を強く掴んだ。
 驚く程真剣な瞳だった。デュシアンは呆気にとられ、それから途惑うように幼馴染みを見上げた。 肩を掴まれる力が強い。労わり、慈しむような優しい触れ方をする彼らしくない、まるで 思いの丈を力に込めたかのような強さだった。
「俺は――、デュシアンが望むなら、ロアで共に暮らしたい」
「アシュリー……」
「もし、首都で暮らすのが嫌になったら、いつでもここに帰ってきていいんだからな」
「アシュリー、わたし」
 デュシアンは混乱したように、うろうろと視線を動かした。目の前の青年が幼馴染みと 認識しても良いのか分からなくなってしまったのだ。この青年は、誰なのだ――そんな疑問が 涌いた。
 アシュリーは我にかえったように軽く目を見開いてから、ごめんと小さく謝まり、デュシアンの 肩から手を離した。しばらく視線を外して大きく首を振ってからもう一度振り返った彼の表情は、 いつもの――デュシアンがよく知っている幼馴染みのそれに戻っていた。
「デュシアン、もしもの話だよ。もしも首都で貴族として暮らすのが嫌になったら、の話だ。 強制しているんじゃない。――ただ、俺はいつまでも待っているから。それだけを覚えておいて 欲しいんだ。じゃあ、おやすみ」
 去り行くアシュリーの逞しい背を見つめながら、そっと自分の胸元を押さえた。


 なかなか寝付けなかった。デュシアンはごろごろと寝台の上を転がり、木枠の埋めこまれた窓から こちらを覗いてくる月とにらめっこをした。
 そわそわとする理由はよく分かっていた。あの場所に行きたい衝動が抑え切れないのだ。明日の 朝一に行けば良いではないかと言い聞かせてはいるが、心は落ち着かなかった。
 ここは暖かいし、この村は平穏そのものだ。少し無用心かとも思ったが、 すぐ帰るつもりで立ち上がると物音を立てないように部屋から――屋敷から抜け出した。
 首都のように魔力の込められた街灯がそこかしこにあるわけでもなく、夜の村の主な光源は 宵闇にぽっかりと浮かぶ月の明かりだった。あまりに輝きが強い為に星も霞む。
 足元はどうもはっきりしないが、雑多でもあるまいし転んだところで問題もないだろう。デュシアン はそう判断すると、空を見ながらふらふらとした夢遊病者のような足取りで道なりに進んだ。 夜中だけあって、誰に出会う事もない。朝の早い酪農業が盛んな村だけに、みな夜が早いのだ。 左手に生垣を伝いながら、薔薇のアーチを潜った。
 赤い薔薇を青く変色させ、葉の隙間から淡い光の粒を小道に落とすのはやはり 圧倒的な輝きをみせる月だ。昼の豪華な美しさとは全く赴きの異なる、儚く幻想的で妖精でも ひそんでいそうな美しいこの薔薇園の様子にデュシアンは吐息を零し、小道を進んだ。
 淡黄色に輝く慰霊碑はその輪郭をぼんやりとさせて神々しかった。その横にひっそりと佇む 青白い墓標も、上空を覆う葉や薔薇の隙間からの青みがかった淡黄色の光を受け、敷石に落ちた 花びらを青く色づけている。
 デュシアンは昼間と同じように墓標の傍へ座りこみ、まるで母の膝に甘えるかのように 墓標に上半身を凭れかけた。
 こうやって母の膝に頭を乗せ、髪を梳いてもらうのが好きだった。そっと右手を持ち上げ、自分の 髪を自分で梳いてみる。ぱらぱらとすぐに指から離れてしまうのは、短く切ってしまったからだ。
――お母さんも、わたしの髪が好きだって言ってたよね
 髪を撫でてくれるのが心地好いのもあったが、ただ母のぬくもりが欲しいだけだったのかも しれない。十歳になっても自分は随分な甘えん坊であったし、母も相当に甘い親だった。 母が誰よりも大好きだったのだ。それなのに。
――ごめんね、お母さん
 ここが自分の故郷なのに、実母と暮らしてきた村なのに、実母の墓のある場所なのに。 自分の帰るべき場所は、心の拠り所は、継母と異母弟の待つ首都のあの屋敷だった。だから『ここで 暮らせばいい』というアシュリーの言葉には安易に頷けなかったのだ。
 こんな親不孝ものを許してください――デュシアンは墓石に添わせた手に頬を乗せて目を 閉じ、幾度も母へ謝り続けた。
 けれどもデュシアンは知っていた。母ならばきっと自分の気持ちを分かってくれる、と。


 少しだけ……、そう思って屋敷を抜け出したのに、何時の間にかデュシアンはその場で眠りについて しまった。頬に降り落ちた薔薇の花びらにも気づかずに。


(2006.12.4)

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