墓と薔薇

8章 誰が為の薔薇(5)

 がたりごとり。走り続ける箱馬車内は車輪の音だけが響く。
 アーリンバル港町を発ったのは、船を降りて一泊した後の日の朝だった。クラメンスからの出航が 思いの外時間がかかり、本来ならば昼にはアーリンバル港へ着いて馬車に乗り、ロアに近い内陸の街 で宿を取る予定だった。その予定が崩れた為に、仕方なしに朝から辻馬車を二台ほど乗り換えて、 一気にロアへと向けて進む事となった。そろそろ正午を一時ほど過ぎた頃だろうか。
 いつにも増してお喋りで場を沸かそうとしていたベアトリーチェも、デュシアンの反応の鈍さに とうとう諦めたのか、隣りに座る従兄にもたれていつしか眠りに落ちていた。元気な 彼女には申し訳無いと思いつつも、今は彼女の話に耳を傾ける心の余裕はない。 デュシアンはどこに焦点を当てるわけでもなく、ただぼんやりと外を眺めていた。
 窓の外を流れる景色は常春の緑。生命を育む色が一面を覆い尽くしている。ラレンシア地方は 年の中頃にある二ヶ月程の日差しの強い季節を除けばいつも同じ温暖な気候だ。その為に緑が一斉に 枯れることもなく、寒さに彩られる紅葉もみられない。整備された街道を走る馬車から観る平原や その奥の山並みの豊かな自然は、冬真っ只中な枯れ色の首都とはあまりに対照的で眩しく 悲しい。
 ベアトリーチェのように眠ってしまったら楽なのかもしれない。デュシアンは対面して座る彼女へ 一瞬視線を送る。何も考えたくない、何も感じたくない、幸せな夢だけを見ていたい。 けれどもそれでは首都に居た時と変わらないのだ――デュシアンは全てを拒絶したい弱い心を払拭 する為に、景色へと目を戻した。
 そんな自分は傍目から見れば大分様子がおかしいはずだ。船上であれ程ベアトリーチェとの 会話を楽しんでいたのに、アーリンバル港へ降りてから貝のように口を閉ざし気味となったのだから。 活力のなさは自分でも分かる。だからこそ、その事を尋ねてこないウェイリード公子の気遣いに デュシアンはとても感謝していた。こちらがただ具合が悪いわけではないと気づいているだろう。 今も彼は反対側の窓から外へと視線を走らせているだけだ。無論、彼の場合はぼんやりと景色を 眺めているのではなく、辺りに不審な事はないか監視しているのだろうが。
 馬車の振動が少し大きくなり、ガラガラと耳障りな車輪の音が響いた。どうやら石橋を渡っている らしい。その見覚えのある光景に、デュシアンの脳裏に記憶の一端が甦った。ここは、幼い頃に暑い 日差しの元でアシュリーと一緒に泳いでいた場所だ。魚の姿がはっきりと見えるほど美しい清流の その水面に光が反射し、きらきらと輝いている。あの頃は腰まで浸かるような深さであったが、 身丈の伸びた今ならばどこまで浸かるのだろうか。ふとそんな疑問が過ぎる。
 この流れを遡ればもうすぐ――。ぶるりとデュシアンの身体が震えた。 そっと身体を包むように腕を回し、堅く瞳を閉じる。
――大丈夫。傍に父様もお母さんも、いる……
 胸元のアミュレットに触れて落ちつきを取り戻すと、不意に視線を感じて顔を上げた。 物言わぬ公子と目が合う。彼はデュシアンが急に自分の方を向いた事に驚いたのだろう、 幾分気まずげな表情を浮かべたが、先ほどまでのように無関心を装う事はしなかった。
 やや心配そうに細められた瞳をじっと見つめ返し、デュシアンは思案した。
――本当に、何も言わなくてもいいのかな……
 彼らには陛下や父の事でこの村を訪れると告げてあった。彼らはそれ以上の説明を求めなったし、 デュシアン自身も説明しなかった。しかし村に行けば否応にも昔の知り合いに出会ってしまうはずだ。 きっと、ロアの出身であると知れてしまうだろう。それならば、わざわざ隠さずに言える事だけを 自分の口で話しておいた方が良いのではないかと考えた。あれだけ世話になっているのに、そんな事 すら教えないのは、あまりに他人行儀すぎる。
 デュシアンは決意すると、乾いた口を開いた。
「ロアは、わたしの故郷なんです」
 短い告白だった。それでもデュシアンにはとても勇気のいる事だった。故郷、という言葉を口に しただけで、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられるのだ。懐かしいとだけ思えれば、どれだけ楽か。
「……そうか」
 公子は納得したように頷くと、視線を外してくれた。そんな彼の配慮に デュシアンは救われた。泣きそうになる顔を見られずに済んだのだから。
 馬車内に沈黙が戻り、また車輪の回る音だけが響いた。

 馬車が止まったのは村の入り口より少し離れた所だった。降り立つ頬に触れた風が こちらを柔らかく包み込むように優しく暖かい。伸びてきた髪がふわりとすくわれる。
 砂埃などで服が汚れるのを防ぐ為だけに薄手の外套を羽織ってはいるが、 本来ならばそれも必要ないぐらいの温度だ。汗ばむのはこの陽気のせいか、 それとも緊張のせいか。デュシアンは皮肉げに小さく笑った。
 ふと、今気づいたかのように、眼前に広がる風景に思考を奪われた。穏やかな丘陵となったその場から遠望できる家並みが記憶と ほとんど変わりない。駆けぬける風の暖かさも匂いも同じだ。柵の向こう、牧草の隙間に白ヤギの 華奢な姿が見え隠れしている。遠くでは、牧童が忠実な牧羊犬を引き連れて羊の群れを 導いている。
 忽然と涙が込み上げてきた。ああ、ここはロアだ、十年前と変わりない、ロアなのだ。デュシアン は感慨に胸を押さえた。
――もっと早く来るべきだったんだ……
 深い緑の匂いに心がざわめく。『おかえり』と出迎えられているのか、『遅い』と批難されて いるのか分からない。けれども、デュシアンは小さく、ごく小さく「ただいま」と呟いた。
「のどかー」
 後ろからのんびりとした声が聞こえ、デュシアンは篭もっていた自分の世界から抜け出た。
 『田舎は嫌いだ』とベアトリーチェが言っていた事を思い出す。 少しの間だけ我慢してもらおうと振り返り、彼女に微笑みかけた。
「すみません、少しだけお付き合いください」
 ちゃんと笑えていないのかもしれない。ベアトリーチェが驚いた顔でこちらを見つめてきた のだ。デュシアンは前に向き直り、そっと頬に手を触れた。
 ベアトリーチェが何か問いかけてくる事はなかった。察してくれたのか、それとも従兄たる彼が 制したのかは、彼等は背後だった為に分からないが。

 牧草地を横目に歩き続け、はじめて面と向かって出くわした村人にデュシアンは息を呑んだ。 顔に覚えがある。ああ、あの入り口付近の牧場主だった気がする――。奥さんの方がずっとふくよか で、このひょろひょろの旦那さんの背中をよく叩いていては跳ね飛ばしていた。顔に増えた皺は 十年の年月を感じさせる。
「こんにちは」
 知らず知らずの内に挨拶の言葉が口から出ていた。あの頃も、出会いがしらはちゃんと挨拶を 交わしていた。あれから十年経って大人へと成長してしまっているのだから彼がこちらに気づかないの は当然で、怪訝そうに首を傾げてこちらを見送っている。別に返事が欲しいわけ ではなかったので、デュシアンは足を止めずにそのまま歩き続けた。
 だから知らない。こんな田舎にそぐわない上等な装いで現われた三人の若者を訝しげに眺めていた その男が、三人が過ぎ去った頃に何かを思い出して悲鳴に近い歓喜の声を上げたのを、 デュシアンは知らない。

 ロアは決して大きな街のような活気があるわけではない。民家は並んで建てられてはいるが、村人 たちは 昼は農作業や家畜の世話で家を空ける者が多く、目新しいものを売る店のような人を呼び寄せる場所も 若者たちが集う広場もない為に、閑散とした印象を与えてくる。それでも女性や老人たちがちょっと した井戸端に立ち止まって楽しげに語り合っている姿や、辺りを元気に駆け抜ける子どもたちの姿が ところどころで目に止まり、この村の精神的な豊かさを感じさせた。
――変わりない……
 十年経っているはずなのに、昔に戻ったかのような錯覚が起こる。このまま真っ直ぐ進めば 母の待つ家に着き、母が笑顔で出迎えてくれるのではないか。そんな思いにデュシアンは走り出したい 衝動に駆られた。幼い頃、遊びから帰路につくと家の煙突が見えたら駆け出して、待ち受ける母に その勢いのまま飛びつくのが習慣だった。
 そんな儚い思い出に、デュシアンはそっと苦笑した。
――もうお母さんはいない。あの家も、ないんだ……
 悲しいのに涙が零れることはなかった。目を逸らさずにありのままを受け入れようと 心に決めていた。≪あの時≫に燃えてしまった家があったその場所が、今どうなっているのかを。 だから、泣いて視界を滲ませてはいけないと自分を奮いだたせた。
 民家の並びより少し離れた場所に、青々とした高い生垣が見えてきた。こんな片田舎に しては随分と立派に整備されており、綺麗な直線を描いて広い土地をぐるりと囲っている。そこが 目標としている場所、否、幼い頃に住んでいた場所のはずなのだ。
 果樹園か何かにされてしまったのだろうか? デュシアンはやや残念に感じた。
 伝いに歩き、生垣が途切れた所から囲まれた内部へと足を踏み入れた。途端に目に飛び込んできたの は、幅の広い薔薇のアーチが幾重にもかけられた小道だった。深い緑の葉にくすむ事なく、くっきり と輪郭を主張し咲き誇る薔薇は鮮やかな赤。真っ直ぐと伸びる白い石の小道は花びらで覆われ、まる で豪華な絨毯が敷かれてある特別な廊下のようだ。
 あまりに美しい光景だった為に、デュシアンは放心したようにしばらく立ち止まって眺めていたが、 その背を優しい風にそっと押されて道形に進みだした。
 アーチがかけられた道は、白い正長石で造られた円柱の慰霊碑へと続いていた。天にかけられた薔薇 と葉の隙間から降り注ぐ光の柱が白い石碑に反射し、そのまぶしさに目が眩む。何の為の慰霊碑で あるのか、デュシアンにはその碑に刻まれた文を読まずとも分かっていた。
 そしてその右横には、ここで亡くなった人々の御魂を鎮める慰霊碑とは違う、たった一人の為の墓標 が佇んでいた。慰霊碑よりもずっと背の低いそれに刻まれた文字を読む為に屈み込むと、デュシアンは 慈しむように文字を指でなぞった。
「聖母、ラトアンゼ・エイムズ……」
 深い息を吐き、青みがかった御影石に刻まれたその名にもう一度、指で触れた。
 母の墓だ――そう意識すると同時に目の奥が熱くなった。けれども、名の下に同じく刻まれた 文字に気づいて読み解くと、デュシアンは瞬きを忘れたように目を見開いた。
「『貴方に永遠の薔薇を捧げる』」
 花びらがふわりふわりと舞いながら、墓標に触れる手に落ちてくる。デュシアンは億劫そうに顔を 上げ、四方を見事な薔薇で囲まれたこの場所をゆっくりと見まわした。ここはまるで薔薇でできた 家だ。
「これが……」
 誰に尋ねずとも分かる、確信できる。
――父様の、≪遺したもの≫
 母の墓。母への永遠の愛の証の薔薇。薔薇を愛した母へ、父からの最後の贈り物。 これが父がこの世に遺したものなのだ。
 デュシアンは脱力したようにそこへぺたりと座り込んだ。胸が温かい。これ以上ない幸福感、 満足感が心に沸き上がる。
 ここは確かに十年前、自分から全てを奪った炎の前で泣き崩れた場所なのだ。そこに舞い戻り、 こんなにも満たされた思いで胸が膨れるとは夢にも思わなかった。きっと決意を破って泣いてしまう のだと思っていた、辛く苦しい思いをするのだと覚悟していた。それなのに。
 今ここは、あの炎と同じ色をした紅いの薔薇が美しく咲き乱れている。 家のあったこの場所の思い出は、もはや自分と母とを引き裂いた悲しみの炎ではなく、母と自分とを 結び付ける墓と薔薇とに移り変わる。父は、愛した女性にだけでなく娘たる自分にも、こんなに 素晴らしい贈り物を遺してくれたのだ。
――ここでお母さんはずっと父様から薔薇を貰い続けるんだ
 なんと素敵なことだろうか。デュシアンは母たる墓標に微笑みかけ、そっと胸元に手を当てた。 以前まで自分の胸に収められていたあの匂い袋は、今は父と共にある。あの中には灰が――、母も 病人たちも神官様も家も庭も教会も焼いた炎の残した灰が、入っていた。あの匂い袋は惨劇の証で あり、デュシアンにとっては母そのものだった。
――ここで、すでに捧げられてあったのですね……
 父からの薔薇は、すでに母の元に捧げられていた。父の名で届く薔薇を、母の灰を抱き眠る 父の墓標へ届けなくても、父は母に薔薇を捧げていたのだ。
――もう届ける必要は、ないのですね
 もう、母に薔薇はいらない。だから、父から薔薇を貰う理由はなくなったのだ――そう意識すると、 デュシアンの心にすうっと冷たい風が吹き抜けた。それは安堵からなのか、寂しさからなのか、 なんなのか、思い当たる感情が分からなかった。
 デュシアンは母にはじめての祈りを捧げた後、そっと立ち上がると慰霊碑へと向き直った。ここに 名が綴られている人々の内、本来ならばどのくらいの人々が助かったのだろうか。
 どうしてあの領主は兵士を寄越したのか。今となれば聞かずとも想像はできる。彼の領主は領民の 為に公金を使えない人だったのだ。しかも助けを求める病人に手を差し伸べるどころか、その恐ろしい 流行り病が領内で蔓延するのを防ぐ為に、まだ生きていた病人たちを――看病していた人間ごと、 焼き殺したのだ。そして、その暴挙を止めようとした神官様をも殺めた。
――真実を、調べなくちゃ……
 オーランド陛下は父アデルがあの事件を引き起こした領主を処罰し、全て解決したと言っていた。 しかし自分には全貌を知る義務があった。当事者として、そして権力を持つ者として、その悲劇を 繰り返させない為に。デュシアンは心の中で決意を固めた。
 彼等にも祈りを捧げた後、深い吐息をつくと後ろを振り返った。随分長い間、二人を放っておいて しまった気がする。申し訳無いと思うと同時に、静寂を保ってくれてとても感謝していた。
 ウェイリード公子もベアトリーチェ公女もただ静かに数歩離れた場所で佇んでいた。公子はこちらを 探るような気遣わしげな表情だった。横のベアトリーチェも少しそわそわした様子で、けれども 黙ってこちらを見つめてきた。
「何も説明せずにお連れしてしまって申し訳ありませんでした」
 デュシアンは、なんとなく公子やベアトリーチェがここの事を知っているのではないかと感じ 取った。けれども自分の口からここにまつわる事、自分の過去を語るつもりはなかった。父と母と 継母の名誉の為に。
「これで、陛下との約束を守れます。そして、父の遺言を遂行する事ができました。 お二人には本当に感謝致します」
 父の遺言にあった≪答え≫はよく分からないが、けれどもロアへ来る事はできた。 デュシアンにとってはそれで十分だった。ここに帰って来れるだけで、十分心は満たされた。
「そ、そんな事、いいよ」
 明らかにうろたえた様子のベアトリーチェはちらちらと従兄に助けを求めるように視線を送って いた。ウェイリード公子が何か喋ろうと口を開きかけた瞬間、
「デュシアン?」
という聞き覚えのない声で名を呼ばれて注意がそちらへと向いた。
「とうとう来たんだな」
 二人の後ろの小道に、身丈の大きな青年が一人立ち尽くしていた。 視線が交わると、彼は嬉しそうに笑みを浮かべる。
 主神カーラの象徴である槍と楯のモチーフが施された腕章に白い軍服を纏っている様子からして、 彼はこの地方の神殿騎士であるようだ。天から降る日差しが彼のきらきらと輝く濃い金髪を照らす。 こちらに向けられた顔には不思議と安堵を覚える満面の笑みが浮かんでおり、それが昔世話に なった人と重なって、デュシアンははっと息を呑むと口許に手を当てた。
「……神官さま……、アシュリー?」
 最初に思いついた人はもう亡くなっている。だとすれば、こんなに似て年若い 人物は一人しか思いつかない。神官様の唯一の息子である、幼馴染みのアシュリーだ。
 けれどもデュシアンの知っている幼馴染みは十三歳の少年だった。目の前に現われたのは あの頃の幼さなど全く残っていない眉目秀麗な青年だ。
「デュシアン、おかえり」
 青年はウェイリード公子とベアトリーチェの横をすり抜けると、立ち尽くすデュシアンを なんの躊躇いもなくその胸にかき抱いた。
 しっかりと包み込んでくるその腕の強さに、デュシアンは身を堅くさせた。こんなふうに 抱き包まれたのは、大人の男性では父以外にはじめてなのだ。
「おかえり、デュシアン」
 待ち焦がれていたように囁かれたその声に、理由もなくデュシアンは確信した。驚きに奮えていた 身を伸ばし、青年アシュリーの背へ自らも腕を回す。
「アシュリー、ただいま」
 幼馴染みは、生きていたのだ――。

(2006.11.2)

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