墓と薔薇

8章 誰が為の薔薇(4)

 先ほどの暴風で海上の靄は取り払われたかに思えたが、四半時も経たないうちにどこかから 流れてきたかのように辺りは再度靄に覆い尽くされた。地上に届くのは大気中の水蒸気に拡散された 微量の太陽光のみ。どんよりとしたクラメンス首都の港は陰鬱で精彩に欠けた印象を与えてくる。
「さっすが≪霧の都≫。すぐに元に戻る」
 接岸側の左舷から身を乗り出して辺りを見まわし、ベアトリーチェは口笛を吹いた。途端にウェイ リード公子が従妹の行儀の悪さに顔を顰めたが、諌める言葉を発することはなかった。
「霧の都?」
 クラメンスの首都はそんな二つ名を持っていただろうか。デュシアンが聞きなれない言葉を繰り 返すと、隣りに座る公子が視線を寄越した。
「宮殿や道、伏兵などを霧で隠す首都防衛魔法だ。所謂迷宮魔法に属する。クラメンスの首都には 霧を無尽蔵に出し続ける魔力の込められた宝玉が存在するらしい」
「常識だよ、じょーしき。おー、軍人が集まってる集まってる! ラヴィン公もこっち 来てみなよ!」
 ベアトリーチェは振りかえり、扉を開け放った客室に佇むデュシアンを呼ぶ。しかしいくら霧が ぼかしてくれるからといっても、接岸側の甲板に出れば港のクラメンス人から姿かたちを見咎めら れるかもしれない。大事にしない為にも客室で静かにしているのが得策だと考えていた のだが、痺れをきらしたベアトリーチェに腕を取られ、デュシアンは客室から引っ張り出されて しまった。
「だ、大丈夫でしょうか?」
「なるべく身を屈めろ」
 ウェイリード公子の声が背にかかり、二人は腰を落とすと縁から顔だけを 覗かせ、小さな雲が漂うようなどこか物悲しい港の様子を伺った。
 助けを求め臨時で入港する事を意味する薄紫色の狼煙を上げた為に、船着場には紺碧の軍服を 着た者たちが数名待ち構えており、船から放たれた綱を固定している所だった。
 船がしっかり固定されると渡し板が架けられて早速アシル・アクバが代表で降り立ち、 二人は顔だけ覗かせて事態を見守った。
「お久しぶりでございます、コンラッド准将。さっそくではございますが、我が船が 沖合いにて不審船に襲われまして、怪我をした者がおります。お引き受け下さいますか?」
「もちろんだ。――すぐに案内しろ」
 コンラッド准将と呼ばれた責任者らしき軍人は、怪我人と聞いてすぐにも傍の部下に指示を下した。 詳しい話も聞かずに了承したのは、戸板で運ばれてくるハリクの痛ましい様子を見たからだろうか。 何の問題もなく運ばれて行くハリクを見送って、デュシアンはやはりクラメンス へ助けを求めて正解だったと胸を撫で下ろした。隣りのベアトリーチェと目が合い、二人で微笑み あう。
「申し訳ないのですが、よんどころのない事情がありまして、軍による厳重な警備を 希望致します」
 アシル・アクバの申し出が聞こえ、二人はまた港へ視線を戻した。
「詳しい内容はこちらの陛下への書状にしたためました。実はこの船には――」
 耳打ちされた軍人は一瞬身を固めたが、受け取った書状を部下に託すと、アシル・アクバに 連れられてこの船へと乗船してきた。
 デュシアンもベアトリーチェも立ち上がった所で、軍靴の音が止まった。無骨な武人といった印象 の身丈の大きな男が鋭い眼光でこちらを探るようにねめつけてきた。その鉄面皮の表情から考えるに、 あまり歓迎されてはいないのだろう。戦場に立っているかのような研ぎ澄まされた佇まいに 気圧されて、デュシアンの身体には自然と緊張が走った。
 それを敵意と察知したのか、ベアトリーチェは得意げに顔を上げて腰に両手を当てると、デュシアン を守るように一歩前に出ようとした。その肩をぐいと引いて強引に後ろに下げたのは、客室から 出てきたウェイリード公子だ。従妹を隠すように軍人との間に立ち、負けじと張り詰めた緊迫感を 漂わせた。威圧感のある二人に挟まれて、デュシアンは胃を掴まれたかのような気分となる。
 コンラッド准将はウェイリード公子へと一瞥をくれると、その眼はすぐにも デュシアンへと戻された。
「私は港の警備を統括するラルフ・コンラッド准将と申します。ご貴殿が ラヴィン公爵閣下とお見受け致します」
「はい、わたしがデュシアン・ラヴィンです。後ろの二人は護衛の者で、お分かりの通りカーリアの 者です」
 デュシアンは後ろの二人が名乗らないよう、早口で紹介した。矢面に立つのは自分一人で 十分、クラメンス国王へ渡った書状にも彼等の身分を隠すようアシル・アクバを説得しておいた のだ。もしもこの事がカーリアで問題になった時の為に、アイゼン家を巻き込まない為の デュシアンなりの配慮だった。
「書状はアシル・アクバ殿からお預かりし、すぐにも陛下の元へと届けさせました。我等が陛下は 例え敵国民であっても助けを乞う者を拒むようなことはなさいません。歓迎は致しかねますが、 陛下の御答書があるまではこの港に滞在して頂きます。その間は我が軍が貴船を取り囲む旨、 ご了承頂きたく存じます」
「もちろんです。ご配慮いたみいります。怪我をされたハリクさんのことも、宜しくお願い 致します」
 深く頭を下げて礼をすれば、後ろのベアトリーチェに『頭、深くさげすぎ』と小さく 批難されて突っつかれた。
「何かお入り用のものがあれば、アシル・アクバを通してお伝え下さい。それでは御前失礼 仕ります」
 勘違いでなければ、コンラッド准将は礼の後にもう一度ウェイリード公子を見たはずだ。しかし 何か言葉をかけるわけでもなく、軍靴を鳴らしてさっさと船から下りてしまった。
 准将の視線の意図が気になって、デュシアンはそっと公子を伺いみると彼は 気づいたらしく、目が合う。
「あの方、公子の事を気にされていたみたいですが……」
「……私が睨み過ぎただけだ」
 視線をふいと逸らされた。
「コンラッド准将は対カーリアに関しては中立の立場におられますが、信頼のおける方です。 これで一先ず安心でございますね」
 アシル・アクバは三人に船尾の食堂へ入るよう促し、小間遣いに茶の用意をするよう指示した。


 ベアトリーチェの『アイゼン公爵領がどれだけ田舎でつまらないか』という話に相槌を打ち ながら公爵領の自然に憧れを覚え、『ラシェがどれだけ嫌な奴か』という話には少しだけ反論を しながらも笑いころげ、合間につまんだ朝食代わりの少しぱさついたスコーンでデュシアンは 腹を満たした。先ほどの海賊の襲撃で船酔いもどこかへ吹っ飛んでしまったらしく、食べ物も飲み物も 健康的に喉を通り過ぎてくれた。
 カーリアとは国交を断絶している国にいるという緊張感もない会話を楽しみ出して四半時(三十分) ほど経った頃だろうか、小間遣いの少年が慌てた様子で勢い良く室内に飛び込んできた。開いた 扉から、外の声が響いてくる。
「何事か」
 煩く喋り続けるベアトリーチェと笑い続けるデュシアンから離れたテーブルで地図を広げ、 ウェイリード公子と話し込んでいたアシル・アクバが眼鏡を押さえながら立ちあがった。
「外で揉め事が起きているようです、コンラッド准将様が抑えておられるようですが……」
 一瞬間が空いてから、公子とアシル・アクバは意味深げに視線を交わせた。
「……来たか」
「陛下の元に手紙が届くにしては早過ぎますので、≪そのままの足で≫でしょうね。ヨアヒム殿の 予想通りということですか。全くどうしようもないお方でございますね」
「……沈めてやれば良かったか」
「ですから、その物言いはウェイリード様らしくないと申し上げております」
 たしなめられて、面白くない、といった表情になっている。
――あんな顔もするんだ……
 少し拗ねたかのように見える不機嫌な公子の表情になんとなく惹かれ、デュシアンは観察した。 不機嫌にも色々な種類があるらしい。
「しかしわたくしで収められると良いのですが。まあ、≪反撃≫を食らったのですから、当然ご機嫌は 損ねておられますでしょう」
「いざとなれば私が出る」
「癇癪持ちですから、ウェイリード様はお出ましにならない方が宜しいですよ。それに、貴方様の お名前は陛下への書状には記しておりませんので」
 二人だけが通じ合う会話の後、アシル・アクバはゆったりとした足取りで船室から出て行った。
 ベアトリーチェに引っ張られてデュシアンもその後を追うが、『下には降りるな』との公子の 抑制の声がかかって左舷から港の様子を覗くだけにとどまった。
 あまり鮮明ではない視界の向こうに軍人ばかりの人だかりがある。その中心のぽっかりと空いた 空間に先ほどのコンラッド准将と、彼に相対している者の姿が薄ぼんやりと確認できた。白い装束の 細身なシルエットからして軍人ではなさそうだ。
「この船にはカーリア人が乗船している! 何故入港を許した!?」
 年若い少年の声が響き渡る。どうやらコンラッド准将の前にいるのは十代の少年らしい。服装や、 上からものを言う話し方からして貴族の子息だろうか。とても興奮した様子で叫び、自分よりもずっと 体格のよい准将に掴みかからん勢いだ。少年の後ろに控える付き人らしき者たちは頼りなく右往左往 して、遠巻きに見ている軍人たちに無言の助けを求めているようにも見える。
 乗船しているイスラフルの船乗りたちも騒ぎを聞き付けて、右舷の修復の手を止めて左舷から港を 見下ろし始め、それに紛れるように二人はもう少し会話の内容が聞き取れる場所まで移った。
「殿下、どうぞお鎮まりください」
 コンラッド准将の静かな諭しが聞こえ、その言葉にデュシアンは耳を疑った。
「殿下?」
「殿下って言ったね。あの興奮した子どもがクラメンスの王子?」
 ベアトリーチェは小馬鹿にしたように呟いた。
「これはこれはライナー殿下。ご機嫌麗しゅうございます」
 にこにこといつもの胡散臭い姿勢を崩さないアシル・アクバが港へ降り立てば、軍人たちが道を 空けて≪ライナー殿下≫をアシル・アクバの元まで通した。肩をそびやかせ大股で近づく王子は 殴りかかるのではないか、一瞬そんな不安をデュシアンは感じたが、アシル・アクバの鼻先で 立ち止まったライナー王子の手は胸倉を掴むだけに留まった。
「麗しいはずがあるか! アシル・アクバ、貴様が乗船していてこれは一体どういう事だ!」
 多分そうとう憤怒に彩られているのであろうその表情はこちらからは見えない。しかし そんな王子を前にしてもアシル・アクバは落ちついたものだった。
「船の右舷をご覧頂ければきっとご理解頂けますでしょう。我が船は不審船に――」
「俺はそんな事を聞きに来たのではない! この船はカーリア人が乗船している!  カーリア人が乗船していれば、いかなる理由があろうとも入港は許されぬ! アシル・アクバ、 貴様はそんな事も忘れたのか?!」
 続く怒号の嵐は、わざわざ会話を聞く為に近づかなくても良い程、そこら中に響き渡った。
 怒鳴り声はあまり好きではない、怒鳴り声と共にもたらされるのは鞭の罰だった。そっと手の甲を 撫でながら、デュシアンは軽く首を振って現実を意識した。
「恐れながら殿下、乗組員の一人が怪我を負ったのです」
「それがどうしたというのだ! これだから貴様らイスラフル人は魔法も扱えぬ 蛮族だというのだ!」
 耳汚い罵りの言葉が飛び出し、甲板の船乗りたちの舌打ちが聞こえた。 むかつく、とベアトリーチェも頬を膨らませている。
「こう簡単に法を反故にされるとはな。さすがは血で血を洗う穢れた民族だ!」
 胸倉を掴む手を乱暴に解き、ライナー王子は吐き捨てるように罵声を浴びせた。突き放された細身の アシル・アクバはゆらゆらとバランスを崩しかける。
「酷い……」
 デュシアンは顔を顰め、唇を噛んだ。
「横っ面ぶったたいてやる」
「言わせておけ。アシルは気にしない」
 何時の間にか背後に居たウェイリード公子は本当に飛び出して王子を叩きかねない従妹の腕を 掴みながら、アシル・アクバを指差した。乱した服やターバンを直す事もなく、彼は表情一つ変えずに 穏やかに佇み、にこにこと腰を低く謝罪を重ねるだけだ。
「でも、すっごいむかつくし!」
「子どもの戯れ言だ」
 ベアトリーチェはすっかり興奮し、代わりに従兄を睨み付けていた。
 『子どもの戯れ言』という言葉に少しだけ頭を冷やされ、デュシアンはそっと周りのイスラフルの 船乗りたちを見まわした。空の樽を蹴って怒りを顕わにする者や聞くに耐えないと持ち場へ戻った者も いるが、その多くはアシル・アクバと同じく大して気にした風でもなく、けれども静かに 港を見下ろしていた。その様子は、王子の言葉に同調する事なく事態を見守っているクラメンス軍人 たちにも通じるものがある。
「金の為に自国の誇りを売る貴様ら商人には、やはりまともな人間などおらんのだな。話にならん。 乗船しているカーリア人をここに寄越せ!」
 怒りが収まらないらしい王子の矛先がこちらを向いた。
「殿下、それはなりません。乗船されているのは――」
「黙れコンラッド!」
 諌めようとしたコンラッド准将を一喝し、ライナー王子は船を見上げてきた。
「おい、聞こえているのだろう、カーリア人! 降りて来い!!」
 呼ばれて降りるのは良いが、あんなに興奮している状態の人、それも王子という身分の人間を相手 にできるだろうか。デュシアンは不安を感じながらも、横の二人を振りかえった。
「わたしが行きます。お二人はここに」
「あたしたち護衛だもん、一緒に降りるよ」
「軍人ばかりの場所へ君を一人では降ろせない」
 当然といった面持ちで二人は応えた。
 あの王子がこちらを攻撃する命を周りの軍人たちに下したら、この二人は応戦するのだろうか。 ウェイリード公子が帯剣の位置を修正したのを盗み見て、デュシアンは気持ちを引き締めた。
 港に降りたっても、そこが現代のカーリア人にとっては未開の地であるという感慨の念はない。 あるのはクラメンス王子への不信感とこの場を収められるかどうかの不安のみ。不敬にならない 程度に王子を伺い見て、デュシアンはどこか少しだけ安堵した。
 弟レセンとあまり年は変わらないだろうか。閉じられた唇は不満に歪み、黒い目は怒りに吊り 上がっている。自分では威厳を持たせているつもりの横柄な態度も、幼さの抜けきらない 容姿ではどこか滑稽に映った。
――うちの王子の方が、神々しいかな
 優雅な振る舞いと滲み出る王者の風格はセレド王子に軍配が挙がる。とんでもない事をされたが、 敬うならばセレド王子の方が断然良い、とデュシアンは微かに苦笑した。
「お初にお目にかかります。わたくしはデュシアン・ラヴィン、カーリアでは公爵の位をいただいて おります」
「ラ、ラヴィン公爵だと?! なぜ貴族が――」
 ライナー王子はうろたえて半歩身を引くと、顔色を変えて息を呑んだ。
 誰が乗っているとなぜ知らないのか、知らないで騒いでいたのか。デュシアンは疑問を覚えた。 クラメンス国王への書状にはこちらの身分はしっかりと明かしてあり、港の警備責任者のコンラッド 准将にも伝えてある。それなのになぜ知らないのか。
 どこかで歪曲された噂話でも耳にしたのかもしれない――結論に近い仮説が浮かぶ。それならば 王子の興奮を抑える余地があるかもしれない。まずは誤解を解く事からはじめ、国王の恩情に縋って いる事を話せばきっと自身の勘違いに気づいてくれるはずだ、とデュシアンは安心した。
 気を取り直し、若干余裕ができたので笑みを浮かべて友好的な態度を示した。
「入港をお願いしたのはわたくしです。怪我をした者の傷は深く、クラメンス国の医療技術と陛下 の恩情に縋るしか救いはありませんでした。けれどもアシル殿はクラメンスの法を尊重 され、断腸の思いでご自分の部下の命を諦め様となさいました。法を侵してでも入港してクラメンス 国に救いを求めるべきだと説得したのはカーリア人たるわたくしです。非はわたくしにあります」
 一つ一つの言葉を慎重に選びながら、デュシアンは誠意を伝えようと王子から視線を逸らさず 話した。けれども残念ながら王子はどこか上の空で、こちらの話を聞いているのかいないのか すら危ぶまれる状態だった。
「そうかこの船には、公爵が乗っていたのか……。だからあれ程強力な――」
 小さく呟いた後、はっとしたように王子は顔を上げた。その表情は蒼白だ。
「まさか、怪我をしたのは公爵家の者か?!」
「え? いいえ、イスラフルの方です」
 この方はこちらの話を全く聞いていなかったのだろうか。デュシアンは落胆を隠せなかった。
「そうか、ならば良い」
 王子がほっとした様子を見せたので、デュシアンはその意図が分からず眉を寄せて 軽く首を傾げた。
「下賎な奴等がどうなろうと構わないが、カーリア人となると話が別だからな」
 うろたえた様子から一片して、元の横柄な語り口に戻っていた。どうやら、これがこの王子の ≪普段の姿≫らしい。歪んだ口許に嘲笑を零している。
 王子を怒らせれば周りの軍人に殺傷命令が下されるかもしれない。そうなれば護衛として追従して くれている後ろの二人とアシル・アクバを巻き込んでしまう。それだけは避けよう、何を言われても 我慢しようとデュシアンは思っていた。思っていたのだが。
「殿下、どうかお言葉をお改め下さいませんか」
「なんだと?」
 ライナー王子は片目を細め、不機嫌そうな低い声で聞き返してきた。
「無礼を承知で申し上げます。どうぞお言葉をお改め下さいませ。イスラフルの方を軽んじる発言は クラメンス国の品位を貶めると存じます」
「なんだと? 貴様は俺に意見するのか? 法を侵したカーリア人のくせに、痴れ者めが!」
「殿下!」
 腰の剣の柄へと伸びたその手を掴んだのはコンラッド准将だった。周りの軍人たちはざわめき、 けれどもその場から動こうとはしなかった。
 デュシアンは呆然と立ち尽くしていると、ウェイリード公子に腕を掴まれて彼の方へと 引き寄せられた。
「離せコンラッド!」
「なりません、殿下!」
「公爵だろうと関係ない! 不法入国し、あまつさえこの俺を侮辱した無礼者だ!  法を侵した此奴らが悪い、カーリアに文句は言わせん!」
「貴方様が抜刀すれば、彼等にも反撃の権利を与えます。ただでは済みません」
「俺が遅れを取るとでも思っているのか!」
「殿下、公爵の護衛はアイゼ――」
「ライナー殿下!」
 女性の厳しい一喝が響くと、辺りが鎮まりかえった。押さえ付けてくるコンラッド准将の腕から すり抜けようと必死にもがいていた王子の動きもぴたりと止まる。准将はほっと息を吐くと王子から 手を引き、小さく不敬を詫びて離れた。
 軍人の群れが二つに割れた。その先にいたのは茶褐色の長い髪を靡かせた、二十代半ばほどの 女性の軍人だった。鋭い踵の音を響かせて歩み寄って来る彼女は赤い唇をきつく結び、気の強さを印象 づける黒い瞳で咎めるようにライナー王子を射抜いていた。
 周りの軍人たちが口々に『将軍』と呼び、どこか安心した様子で彼女の姿を見送っている。
「あねう――、レプシウス将軍……」
 王子は柄から手を離し、不貞腐れたように視線を彼女から逸らした。まるで怒られている犬の ようだとデュシアンは不謹慎にも思ってしまった。
「殿下、話は伺いました。未だ陛下のご裁断の下りぬ船に貴方様が近づかれるべき ではございませぬ」
 レプシウス将軍と呼ばれた女性は強い口調で王子を諭すと、周りの付き人たちを瞥見した。
「お前たちがいながら何をしているのだ」
「も、申し訳ありません、将軍」
 平身低頭と謝る者たちを黙殺すると、女将軍はデュシアンへと向き直った。
 紅の引かれた口許はとても魅力的だったが、笑みの形を作ることはない。しかし 王子や付き人たちへ向けた表情よりは幾分穏やかさを秘めていた。
「ラヴィン公爵閣下とお見受けします。申し訳ございませんが、ここはクラメンス領という事で お引きくださいませんでしょうか? 貴方さまもご自分のお立場を考えれば、ことを荒立てる のは本望ではありますまい」
「はい。先ほどのご無礼、どうぞお許し下さい」
 将軍へ頷いた後、すっかり大人しくなったライナー王子へデュシアンは頭を下げた。 ちらりと伺ったその表情は、どう見ても納得していない顔だ。懲りていないのだろうか。
「では我々は船へ引き上げましょう」
   アシル・アクバが促すままにベアトリーチェに背を触れられてデュシアンは踵を返した。
「不審船騒ぎはこれで三度目になるそうだが」
 船へと引き上げて行く三人を後目に、ウェイリード公子がレプシウス将軍と向き合っていた。 デュシアンは驚いて足を止め、成り行きを見守った。
「……いかにも」
 先ほどの威勢の良い彼女にしてみればやや歯切れ悪く頷いた。黒い瞳が若干、困惑に 揺れている。
「もし今一度襲われる機会があれば、次は本気で船を潰させて頂く。貴国の海を汚すこと、 許されよ」
 そう宣言し終わると返事も待たずにウェイリード公子は身を翻し、厳しい視線でデュシアンに 中へ入るよう促した。
「……貴公の手を煩わせる事なきよう、我が軍が必ずや不届きな輩を取り締まる事を約束する」
 レプシウス将軍の自戒の言葉を聞き、公子は幾分表情を和らげたようだった。



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――また、やっちゃった……
 デュシアンは無人の船首の端っこで縁に両腕と頬を預け、甲板に背を向けて船に押し寄せる波を 眺めながら溜息を吐いた。
 この間、ダリル将軍に説教をされたばかりなのに同じ事を繰り返してしまい、反省しているのだ。 相手の心を動かす事もできないのに、ご高説を垂れて不必要な争いを招く。今日は誰かを傷つけは しなかったが、あの女将軍が来てくれなかったら今頃はどうなっていたか分からない。 あんなに軍人がたくさんいた所で二人に抜刀させていたらどうなっていたか、デュシアンの 身が竦んだ。
――ああ、もう、わたしってどうしてこうなんだろう……
 助けられっこないのに、誰も救う力がないのに、それなのに口を挟む。自分はなぜこんな性分 なのか。デュシアンは頭を抱えた。
「閣下」
 呼ばれて振り返れば、アシル・アクバがいつもとは少し違った笑顔を浮かべて立っていた。 どうして違うように見えるのかと考えれば、あの似合わない黒縁眼鏡を外しているからだと 気づいた。
「先ほどはわたくしたちを慮ったお言葉を、ありがとうございました」
「いいえ、お礼を言われる事などわたしはしてません。あの女性の将軍が来て下さらなかったら、 どうなっていた事かと考えたら……」
 自分の情けなさに首をもたげたかったが、けれどもしっかりと彼を見つめた。
「もちろん自分の発言を撤回する気はありませんが、先ほどは軽率でした。 皆さんを危険な目に合わせるところだったのですから」
「ライナー殿下には思い上がりを強く諌めてくれる家臣も友人もいらっしゃらないので、 ああいう指摘には慣れておられないのですよ」
「でも、あの将軍は王子には手厳しかった気がしますが……」
「レプシウス将軍では父王と同じ、王子を上から抑えつける力にしかなりません」
 確かに将軍の言葉に納得しているような様子ではなかった。忠告を受ける態度ではなかったように デュシアンには思えた。
「ですから、今回の件は王子には良い灸となった事でございましょう。どうぞ、あまり気を揉まれま せんよう」
 アシル・アクバは気を使ってくれているのだろう。それを嬉しく感じるが、王子のそんな状況を 知っていて発言したのと、知らないで発言したのとでは訳が違う。自分を戒める ようにデュシアンは次こそは気をつけようと心に決めた。
「閣下。わたくしは閣下のお気持ちを嬉しく存じました。このご恩は、いつの日か」
「そ、そんな、恩だなんて……」
 手と首を大きく振って、大袈裟なアシル・アクバを止めた。けれども彼は穏やかに微笑むと、 胸元に手を当てて黒曜石に似た美しい瞳を閉じた。
「わたくしたちは祖国にて多くの血が流れた過去を、落ちつきを取り戻した現政権への礎として 受け入れております。祖国がやっと手にした平和を一日でも長く保たせる為に、わたくしは商人と して、イスラフルの民として、誇りを持って生きて行きたいのです。ハリクも共に働く わたくしの大切な同胞たちも、皆同じ思いなのでございます」
 すっと瞼が開き、澄んだ瞳が向けられた。
「貴方は我が同胞ハリクを見捨てなかった。そして、わたくしの代わりにわたくしの 言いたい事を言って下さった。気分が良うございます。いつか必ず、このご恩は返させて 頂きます」
「……お気持ちは、ありがたく頂戴いたします」
 アシル・アクバの気持ちを考慮すれば、このまま彼の好きにさせておくのが良いのかもしれない。 デュシアンが頷くと、彼は深い礼を残してその場を辞した。
 右舷の修復の音を聞きながら、デュシアンはもう一度海へと向き直った。
――もっといろんな事を知ろうとしなくちゃ……
 自分の言葉が誰かを怒らせ、誰かを喜ばせる。人の心にはそれぞれの誇りや過去歴史といった難しい 思いが張り巡らされている。誰かを傷つけない為にも、それを学び理解する必要がある。
 クラメンスの王子がカーリア人をどうしてあんなにも嫌うのか、イスラフルの人々がなぜあそこ まで蔑まれなくてはならないのか。
――誰かを傷つける為ではなくて、誰かを理解する為に……
 そっと胸元のアミュレットに手を伸ばし、瞳を閉じた。


(2006.10.20)

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