墓と薔薇

8章 誰が為の薔薇(3)

 底冷えの寒さと荒い波による激しい揺れが嘘のように消え失せ、風任せの緩やかな航海がはじまった のは、昨日の夕餉の後だった。そしてそれと同時にデュシアンの体調に変化がみられた。 所謂、船酔いである。
 胃の中身を全て出しきっても尚押し寄せる嘔吐感に身を持て余しながら寝室で横になり、 身体の中に訪れる波と静かに戦いながら朝まで浅い眠りを繰り返した。どうやら アリアバラス海峡の荒波よりも、穏やかな揺れの外洋航海の方がデュシアンにとって毒と なったようだ。
 外気が恋しくなり、睡眠不足と脱力感にふらふらになりながらも寝室から出ると、しがみ 付くようにして開けた扉から右舷の縁にそっと手を伸ばて身体を押しつけた。やや冷たい朝の風が頬に 心地良い刺激をくれる。ふうと一息零した後、デュシアンはやっと辺りの不穏な様子に気が ついた。
 朝靄なのだろうか。白みがかった辺りは心配になる程見通しがきかず、十歩以上先の海面はあやふや だ。まるで雲の上でも航海しているかのように思える。
「もう大丈夫なのか?」
 全く気づかなかった。デュシアンは振りかえり、ウェイリード公子が傍の船壁に背を 預けてこちらを眺めている姿を認めて驚いた。
 小さく「はい」と答えて力無く微笑む。まだあまり調子は良くないが、昨日よりはずっとまし だった。
「いま、どの辺りなのでしょうか?」
 大陸沿いに航海が進むために本来ならば遠望できるはずの陸地も四方が白みがかっている為に 見えず、空の様子も太陽の位置も掴めない。予定では、朝方には東カーリア 大陸の東側沿岸中央部、クラメンス領に入っているはずだった。航海は無事に 進んでいるのか不安になったが、公子は穏やかな表情で答えをくれた。
「クラメンス領に入った所だ」
 癖のない黒髪が揺れた。柔らかそうなベアトリーチェ公女の髪質とはまた違うのだろうか、 それを確かめてみたいという不思議な思いに囚われて、デュシアンはぼうっと公子の襟足辺りを 眺めてしまった。
「ラヴィン公みーっけ!」
 しかしそんな明るい大声に、目を覚ましたようにはっとした。危うく手を伸ばして確認 してしまうところだった。
「ねぇねぇ、これ食べてみなよ!」
 ポニーテールを左右に揺らし、船尾からばたばたと走ってきたベアトリーチェは隣りに立つと、 手に持っていた皿を差し出した。優しい橙色をした果実らしきものが乗っている。皮を剥いて 四角く切り分けられてあるそれはとても瑞々しく、見た目はメロンに似ているだろうか。
「これは?」
「イスラフルの果物だよ。甘くて、すっごい美味しいんだから。これなら食べられるん じゃない?」
 どうやら船酔いで、胃を空にしてしまった事を心配してくれたらしい。そんな気遣いに デュシアンはこの上ない喜びを覚え、ベアトリーチェをまじまじと見つめてしまった。
 彼女は早々に一つを摘んで口に放り込むと、途端に蕩けそうな微笑みを浮かべた。
「おーいしーい! ほら、ラヴィン公も! なんにも食べないのも良くないじゃん!」
「はい。頂きます」
 未知の果実へ手を伸ばし、柔らかい果肉を潰さないよう気をつけながら口の中へと運んだ。 やや癖のある味だが、甘くて美味しい。自然とデュシアンの口許も綻んだ。
「美味しいです」
「でしょ? ハバート商会を宜しくってさ」
「はい。今度買ってみます」
 継母や弟に食べさせてあげたい。グレッグにも是非味わってもらって、美味しいデザートを閃いて もらわなければ――そう思いながらベアトリーチェと一緒に残りを摘み続けた。
 食べる合間に変わった味のイスラフル果実について切々と語る彼女の明るさに感化されると、 衰弱し疲弊していた心も身体も少し元気を取り戻した。こうして誰かと何かを食べながら食べ物の 話をしている時間が一番楽しいのかもしれない――デュシアンはケーキ好きの天邪鬼で意地っ張りで 優しいリディスや、とても賢いのに人間関係にはちょっと不器用なティアレルを思い出して 苦笑した。
「あー、美味しかった!」
「ごちそうさまです」
 食べ終わった後、べたべたになった指先を舐めながらベアトリーチェは満足そうに頷いていた。 デュシアンもポケットからハンカチを取り出して指先を綺麗に拭き取った。
「イスラフルの果実って美味しいんですね」
 以前にマニが一口くれた果実のジャムを思い浮かべながら、なんとはなしにウェイリード 公子を振り返ると、彼は仕方がないなと言いたげな表情で薄い笑みを浮かべてこちらを眺めていた。 彼はいつもこんな優しげな風貌で従妹を見つめているのだろうか。デュシアンは急にベアトリーチェが 羨ましく思え、ずるいとすら感じてしまった。
「少しクセがあるがな」
 自分を振り返られると思っていなかったのか彼は一瞬きょとんとした表情を見せたが、 すぐにもいつものやや怒った感じの無表情になって答えた。
「そう、ですね……」
 寂しい、という言葉が一番ぴったりな感情がデュシアンの心を締めつけた。しかしその感情の理由を 突き詰めようとはしなかった。ただ漠然と思うのは、別にラシェにあんな表情で見守ってもらい たいというわけではない、という事だけだ。
「お皿返してこよっと」
 そう宣言した従妹へ視線を移した公子の表情が急に強張った。刹那、正面になる西の空を見上げ、 凝視する。
「……公子?」
「船室へ――」
 そう呟いたと思うや否や急に彼は両手を広げると、ぼんやりとしていたデュシアンと今まさに 歩き去ろうとしていたベアトリーチェの腕を同時に引っ張った。彼の引っ張った方向が悪かったのか、 二人は彼の胸の中で互いの額をしこたまぶつけてしまう。抗議の声を上げようとしたが、激しい突風 が言葉を奪った。あまりの風に身体が浮き上がりそうになり、ベアトリーチェと身を寄せ合った状態で 回された彼の片腕に力が篭もって飛ばされる心配はなくなった。視界には彼の胸とベアトリーチェの 顔が傍にあるだけで、他は何も見えない。
「くそっ」
 その言葉とほぼ同時に、何か鋭いものが勢いよく降り落ちて突き刺さるような嫌な音が 近くや遠くなど色んな場所から聞こえ、足元にびりびりとした衝撃を感じた。得体の知れない恐怖 に、身体がぶるりと震えてしまう。
 遠くで、声にならない悲鳴と共にもっと大きくて重たいものが船体に落ちる音がして、 船が一層ぐらりと左右に不規則に揺れ、恐怖が増した。
「な、何が起きたの?」
 耳が痛い。それは目の前にいるベアトリーチェの動揺した声が大きかったからではない。先ほどの 突風が耳に障ったのだ。そして、一足先にウェイリードの拘束から強引に逃れた彼女の悲鳴が 響いた。
「何、これ!!」
「怪我はないか?!」
 公子は腕を解くと、その場に硬直しているデュシアンと愕然と辺りを見まわしているベアトリーチェ を交互に手繰り寄せ、隅々まで何度も確認した。その表情は見た事もないぐらい焦りに 歪んでいる。
「ビビ! 彼女を後方の船室へ連れて行け! 早く!」
 身体をベアトリーチェの方へ押しやられ、デュシアンはやっと辺りの様子を目にする事ができた。 その光景に眩暈を覚える。
 右舷の船床や船室の壁の至る所に、無数の矢が突き刺さっていた。遠距離用の太く長い鋼の矢は鏃を 船体に深く食い込ませ、その力強さを見せ付けている。先ほどの音はこれらが飛んで きて船を貫いた音――そう思うと身体が恐怖に固まり、足が竦んで動けなくなった。
「海賊なら、あたしも戦うよ!」
「お前は彼女の護衛だろう、傍で守れ。とにかく彼女を船室へ連れて行け!」
「わ、わかった!」
 勇む心を一喝され、ベアトリーチェはデュシアンの腕を取った。
「いくよ、ラヴィン公」
 彼女に船尾へと引っ張られながら、デュシアンは現実についていけない思考のまま 先ほどいた場所を振りかえった。西を向いていた右舷側は恐ろしい程の数の鋼の矢が突き刺さって いる。けれども、同じ右舷でも自分たちの居た場所だけは、まるでわざと外したかのように矢が 落ちていなかった。
 ウェイリード公子がどうにかしてくれたのだろうかとぼんやり考え、 ふと彼が自分たちの楯になるように立った事を思い出して血の気が引いた。
――公子に怪我はないの?
 葡萄茶色の外套が翻る。彼はこちらに背を向け、どんどんと船首へと向かって歩いていた。
「公子は――」
「ウェイなら強いんだから、大丈夫だよ!」
 ベアトリーチェは従兄の強さを確信しているらしく、明るく断言した。
「それにしても、なんでこんな所に海賊がいるんだろ。アリアラム内海にだっていないのに」
 彼女がぶつぶつと呟く中に答えを見つけて、デュシアンは息を呑んだ。
「……海賊」
 先ほど何が起きたのか、デュシアンはやっと掴む事ができた。この船は海賊の襲撃にあった のだ――と。


 ベアトリーチェは食堂として使われている船尾に近い広い部屋にデュシアンを押し込むと、デュシ アンの周りを軽く一周し、ほっと息を吐いた。デュシアンもベアトリーチェを観察し、彼女に怪我が ない事に胸を撫で下ろした。
 程なくして扉が乱暴に開けられて一人の男が船乗りたちに両脇を抱えられて担ぎ込まれてきた。男の 右太腿には木片が貫通し、そこから血が溢れるように流れており、意識もないようだ。
「ハリク?!」
 ベアトリーチェが悲鳴を上げた。
 船乗りたちは無言で辺りの固定式のテーブルを引き抜いて退かし床に毛布を 広げると、そこに男を寝かし付けた。男を担いできた船乗りはカーテンを引き剥がすと縦に破り、 ぐったりと倒れている男の太腿の付け根に近いところを縛り上げた。男の白いズボンは今や 真っ赤に染まり、下に敷いた毛布もどんどんと流れ出る血を吸い込んで色を変えている。 出血が酷い。
「――出血の量が多すぎる……」
 男の傍に跪いて止血を終えた壮年の船乗りは自身も血で身を染めながら絶望した ように青い顔で呟くと、自分の膝へこぶしを戻し、意識のない同僚から顔を背けて悔しそうに目を ぎゅっと瞑った。
「これを抜いた方がいいんじゃないか?」
 向かいの船乗りが男の太腿に突き刺さっている木片に触れた時、ぼうっと様子を見ている だけだったデュシアンは咄嗟に震える喉を搾って叫んだ。
「駄目です! 血管や神経を傷つける可能性があります、――そのままで」
 ひびが入って二股に割れたガタガタの木片が突き刺さっているのだ。知識なく力任せに抜き取れば 余計に出血してしまうかもしれない、筋や神経を傷つけてしまうかもしれない。
「ハリクは大丈夫なの?」
「見張り台から落ちたんです。下に置いてあった廃棄用の木材が足に――」
 ベアトリーチェの問いに止血を施した船乗りは答えた後、歯を食いしばった。
 彼女は震える手をデュシアンの腕に絡ませ、蒼白な顔で男を見下ろ していた。労わるようにその手に触れ、デュシアンは床に倒れるイスラフル人の男へと視線を戻 した。
 男に意識はない。櫓から落ちた衝撃で気を失っているのだろうか、それとも木片が貫通した 太腿からの大量出血で意識を失っているのだろうか、この室内にいる誰にも判断はできない だろう。
 絶望的な沈黙がしばらく続いた後、デュシアンは扉の前に立ち尽くす年若い船乗りを 振り返った。
「一番近い港はどこですか?」
「一番近いのは、……アテの港だ。一時あれば着く」
「一時!」
 いくら止血をしたからといっても、流れ出た血液は戻ってはこない。相当な量の血が流れ出たのだ、 すぐにも輸血をする必要があるのは明らかだ。
「ただ、アテに十分な医療設備があるかは……。大都市のアリアラムなら期待できるんだが」
「もっと近い場所はないのですか?!」
 若い船乗りは困ったような表情でターバンに手をあて、床の木目に視線を外した。代わりに止血を した血だらけの船乗りが顔を上げた。瞳に生気がない。
「そりゃあ……、クラメンスの港なら、すぐそこです。港は首都と繋がっているので大掛かりな 設備もありますし、四半時あれば着くでしょう」
「じゃあ、クラメンスに入港を――」
「無理ですよ、カーリア人を乗せた船はクラメンスに入港を許されないんです」
 首を振り、力無く続けた。もうすでに諦めたかのように。
「イスラフルの方なら港に下りる事ができるんじゃないのですか?!」
「カーリア人が乗っていれば港自体に近づいてはいけない決まりになっているんですよ、ラヴィン 公」
「そんな……」
 腕に触れるベアトリーチェの手にぎゅっと力が篭もった。
「とにかく、この船はクラメンスに入港はできないのです」
 きっぱりと言い切られて、デュシアンは助けを求めるように室内の人間を見回した。誰も彼もが 視線を逸らし、痛いほどの沈黙が続く。
「アシルさんは――?」
 ふと、デュシアンはアシル・アクバがこの場にいない事に気づいた。彼は首都カーリアにおける ハバート商会代表代理の役職でイスラフル人船乗りたちを纏める人物だ。彼の意見はどうなのだろう か――その希望に賭けようとした時、船が一層大きく揺れてベアトリーチェと支え合った。 先ほどの矢が突き刺さった光景を思い起こし、ぞくりと背筋が粟立つ。
「まさか、砲弾か?!」
「違うよ。――ウェイの魔法だと思う」
 慌てる船乗りたちに対し、ベアトリーチェは少し困惑気味に応えた。
「あ、ラヴィン公!」
 この際、ウェイリード公子でも良い。イスラフルの船乗りたちに命じる事のできる人物を 求めてデュシアンは外へ飛び出した。



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「……悪戯が過ぎるな」
 船首の甲板で一人、先ほどよりは視界の良くなった西の方角を睨みながらウェイリードはぽつりと 呟いた。≪次≫があればすぐにも対抗できる準備はできている。先ほど矢に直面した右舷は狭く、 背後に船壁があった為に大掛かりな魔法を使用できずに被害を出したが、今度は違う。四方を気に せず魔法で応酬できる広さがある。航海がはじまってから魔力を与え続けて餌付けておいた風の精霊 が傍にいるおかげで、矢の勢いを抑える風を創りだすのも相手方の船に沈まない程度の打撃を与える 風を創り出すのも、造作ない事だった。
 すっと目を凝らし、遠くを見据える。未だ何かしらの変化は見えてはいない。奴等は 帰ったのか、それとも動かずにこちらの様子を伺っているのか、余談を許さない状況ではある。 しかし警戒ができる分、≪この目≫は役に立った。時には人の視力を越える時もある、それはあくまで たまに役に立つ程度だが。過信しないよう、ウェイリードは自分を戒めた。
「ウェイリード様、お怪我は?」
 ずり落ちそうになるターバンを押さえながらアシル・アクバが左舷からやってきた。ちらりと横目で 振りかえり、ウェイリードはすぐにも静寂を保つ西の空へ視線を戻した。
「ない。……怪我人がいるのか?」
「ハリクです。矢は腕を掠めた程度なのですが、はずみで櫓より落ち、運悪く下に あった木屑が足に刺さりまして……。意識もなく、出血が酷いのです」
「そうか――。すまない、力をもう少し均等に分けることができれば……」
「そのような事を仰りますな。本来ならば貴方がたは何十本もの矢で串刺しになるところ だったのですから……」
 アシル・アクバは右舷側を振りかえり、突き刺さる無数の矢を一瞥して首を竦めた。
「ラヴィン公もベアトリーチェ様もご無事で本当に良かった」
 ほっとした呟きに、ウェイリードは今になって身体の芯が震え出した。もし自分があの場に いなければ、もし二人の傍にいなかったら――そう考えると、恐怖と怒りに咆え猛けそうに なる。
 外套の襟首をやや乱暴に引っ張ると、その思いを抑えるように大きく息を吐いた。
「とりあえず、これがヨアヒムの言う『悪戯』だとするなら一度痛い目をみさせる べきだろう」
「おや。わたくしの目の前にいるのはカイザー公子でしょうか」
 聞き捨てならない台詞にウェイリードは軽く睨みをきかせた。
「過激なことを仰られるのはウェイリード様らしくない、と申したかったのです」
 アシル・アクバはしれっとした顔で眼鏡の縁を掴んで、くいと上げた。
 確かに自分らしくないのかもしれない。しかし、『自分らしい』という事が一体どういうもので あるのか、ふとそんな疑問がウェイリードの心に浮かんだ。
――いつも自分の感情や考えを表に出さずに常識的でいる事が、≪私らしさ≫なの だろうな……
 そうであろうと決めたのは他ならない自分だった。双子という枠から逃れる為に、また『自分は 嫡子であるのだ』という自負を持ちたいが為に、幼いながらに考えついた浅知恵――その結果が 今の自分だった。望んだ差異は手に入れたけれど、運命から逃げなかった弟の自由な気質への羨望が 残った。それが自分を刺激してくる。
――馬鹿馬鹿しい、私は私だ
 満足したはずだった。アイゼン家の長子として、これが正しい姿だと思う認識は間違って いない。
――何を今更迷う必要がある?
 それなのに思考をかき乱すのは、弟と≪彼女≫の打ち解けた様子。従妹と楽しげに喋る≪彼女≫の 豊かな表情。
「それで、どうなさるおつもりですか?」
 アシルの声に現実に引き戻され、自分を罵りながらウェイリードは空を見上げる瞳を細めた。
「……要人を乗せている船だ。それにこちらは一人倒れた。無抵抗でいる必要はない。 ――離れていろ」
「はい」
 もう何も言わずにアシル・アクバは左舷側へと隠れた。それを見届けると、近くに漂っていた 黄金色の陽炎に姿を模した風の精霊に視線を合わせた。瞬時にこちらが望むだけの力とうねりを 持った暴風が海の水面を蹴散らし、真っ直ぐに吹き荒れて突き進んだ。風で触発された 波に船体が大きく揺れる。
 前方の波間から海の精霊が顔を出し、抗議したそうにこちらを睨み付けてくる。知った事じゃない ――ウェイリードは彼女等から視線を逸らした。
「クラメンスに入港しろ」
 細い身を風に吹き飛ばされそうになりながら近づいてくるアシル・アクバに入港を命じた。 魔力で創りだされた風が風を呼び辺りの靄を掻き消すと、青く澄み渡る空が広がって 港が遠望できた。カーリアを頑なに敵対視する小国クラメンス王都の港だ。
「ハリクを下ろす」
「しかし、奴等が公子やヨアヒム殿の想像される相手ならば、易々と入港できましょうか?」
「クラメンス中枢はこの≪悪戯≫に気づいていないはずがない。怪我人が出たとなれば 必ず引き受けて手厚く看護するだろう、ハリクは大丈夫だ。外交的なことは私が――」
「アシルさん!」
 叫ばれた声に驚き振り返った。先ほどの余韻で強風が逆巻く中、吹き飛ばされてしまい そうな軽いラヴィン公が右舷の壁に手をついている姿が確認できる。
「まだ危険だ、中に――」
 窘めようとした言葉を遮るように彼女は叫んだ。
「クラメンスに入港して下さい!」
「え?」
「ハリクさんの怪我が酷いのです! 下ろしてあげてください!」
 強い風に負けじと叫ぶ彼女は随分と必死な様子だった。後を追って出てきたベアトリーチェがその 背に触れ、二人は互いを支え合うようにこちらへと歩み寄って来た。
「閣下。この船がクラメンス王国の港に入港すれば、外交問題になる可能性もあります。 カーリア人では唯一人、ヨアヒム・ブランシールしかクラメンス国王に入港を許されていないの ですから」
 アシル・アクバは珍妙な顔でとぼけると、彼女の願いを気難しげにあしらった。
「ハリクさんの怪我は輸血を必要とするはずです。出血量が多すぎるのです。 カーリアの港は遠く、設備も不充分だと聞きました。でもクラメンスの首都ならすぐそこです」
「間に合わなくとも決まり事です。ハリクは運がなかったのです」
 アシル・アクバが冷たく突っぱねると、彼女の表情が強張った。しかしすぐにも気を取り直し、 挑むように睨み返してきた。
「設備のある場所で適切な治療を受ければハリクさんは助かるんです! 諦めないで下さい!」
「閣下」
「ハリクさんの命は救えるんです! わたしは、諦めたくありません」
 一瞬、彼女が泣いてしまうのではないかと思えた。けれども彼女は 崩れそうになる表情を強い意思で保たせ、アシル・アクバと睨み合っていた。
「お願いです、入港を命じて下さい。責任はわたしが、デュシアン・ラヴィンが取ります」
 自分の胸に手をあてる彼女の凛とした表情は、しなやかな強さを人に感じさせるものだった。それは 今までの彼女に感じたことのないもので、ウェイリードは驚きを隠せなかった。
「……分かりました。みなに命じましょう」
 アシルは大仰に溜息を吐くと、折れたように苦笑して頷いた。
 人が悪い。元々アシルはクラメンスへの入港に異論はないはずなのだ。ただ、彼女の人柄を 伺っているだけ……。ウェイリードはアシルへ一瞥をくれ、抗議を示した。
「クラメンス国王陛下は物分りの良い方です。怪我をした人間を下ろす為ならばカーリア人が 乗船していても入港を許可してくれる事でしょう。そうですよね、公子」
 にやっと口許を上げたアシル・アクバの胸倉を掴みそうになる手をなんとか抑えた。
「よかった!!」
 ベアトリーチェがぎゅっとラヴィン公に抱きついた。思いの他強い力だった らしく、ラヴィン公は呻き声をあげながらも嬉しそうに笑っている。まるで子犬がじゃれ合うような 光景にウェイリードは知らず知らずのうちに口許を緩ませ、物思いにふけた。

 そして、船首はクラメンス王都の港へ向けられた。


(2006.9.30)

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