墓と薔薇

8章 誰が為の薔薇(2)

 荷を運ぶだけで精一杯な小型船とは違い、乗り込む船は中型船、それも首都まで上ってくる船の中 でも一番大きいのではないかと思われる船だ。それでもイスラフル大陸から入り江の街アリアラムへ 来訪する貿易船と比べれば半分の大きさだというから驚くべきものだ。
 二本の太いマストにはそれぞれ帆が張られ、それらがアリアバラス海峡を抜けた後の推進の原動力 となる風を受けるという。イスラフルからやってくる大型貿易船の航海にはもっと違った動力を 用いるのだが、カーリア領海域では精霊が強い影響力を持つ為にその機嫌を損ねないよう、 例えイスラフル人しか乗船していなくても風を頼るのみの航海をしているらしい。
 後方部にある高い櫓に身軽な船乗りが素早く昇って行く姿をデュシアンは目で追いながら、船に ついての簡単な説明をハバート商会首都代表代理のアシル・アクバから受けた。どうやら たまたま同じ船に乗船するらしい。
 ちょうど出航間近になり船乗りたちが慌ただしく駆け回りはじめた頃、アシル・アクバの解説も 終了し、彼は最後の確認作業があるとかでデュシアンを置いてどこかへ消えてしまった。 すると手持ち無沙汰になり、西へと傾いた太陽を背に帆を張る船乗りたちの様子をぼんやりと眺めて いると、その視界の隅に少し離れた甲板から彼等の様子を同じように眺めている青年の姿が映り 込み、焦点を当てた。
 癖のない黒髪が海風に揺れている。使い込んだ感のある葡萄茶色の外套に身を包み、その下は 黒を避けた配色のシンプルな平服を着ているようで、そんな身なりのせいか貴族には見えない。それ でも立居姿は隙がないながらもどこか洗練されたものがあり、高貴な人間に仕えるよう教育された 騎士か護衛兵の類に思える。見知らぬ者が一目見て、彼を大貴族の嫡子だと見破る事はない だろう。
 そんなふうに無遠慮に堂々と観察をしていたせいか、甲板の縁に背を預けていた彼が不意にこちら を振り かえった。視線が交わり、デュシアンの心臓がどきりと強く跳ねる。そのままどくどくと脈が早打ち、 顔がみるみる熱を持ち出して上気していった。その間もずっと、灰色の強い眼差しはしっかりとこちら を見据えたままで、まるで『身動きをするな』と命じているかのようだった。
 見ていた事を咎められているかのような気がしてデュシアンは自分の無作法に気恥ずかしさを覚え たが、そのまま視線を外すのも何故か憚られた。早く視線を外してしまいたいのに外せない、そんな 不思議な葛藤に陥いった。
――ああ、そうだ。まだ挨拶もしていなかったっけ
 取り繕ったように言い訳めいた理由で心を落ちつかせると、足元に気を配りながら彼に歩み 寄った。接岸されてはいるが船は大層揺れている。
「こんにちは、ウェイリード公子。あの、護衛の件、本当にありがとうございます」
 彼――ウェイリード公子の前へと辿りつくと、潮風に冷やされても尚熱を持つ頬を持て余しながら 軽く頭を下げた。
「……君は礼が過ぎる」
 呆れたように仕方なさげに公子は溜息を吐いた。
「でも」
「私は君よりも身分が下なのだろう? 君に従うのは当然なはずだ」
「え?」
 彼は至極真面目な顔でこちらを見下ろしている。
――身分が、下? わたしに、従う?
 確か、以前にそのような事を言った気がする。デュシアンは甦った記憶に口許を引き攣らせた。 そうだ、言った。北の守りに亀裂が入った時に一人で入ろうとするこちらを引き止める彼を 振り切る為に、『わたしの方が身分が上なのだから、わたしの言う事を聞け』のようなニュアンスの 言葉を言った記憶がある。。
「あ、あ、あ、あれは!」
 かぶりを振って必死に訂正しよう試みたが、言葉が続かなかった。冷や汗がたらたらと背筋を流れ、 自分の恥ずかしい発言に赤くなったり、彼を侮辱した事に青くなったりしていると、 ウェイリード公子は穏やかな表情で、どこか満足げに息を吐いた。
「冗談だ」
「……」
 もしかしたら、公子は少し笑っているのかもしれない。無表情かやや不快そうな表情ばかりを 見せる彼だが、今は少しだけ口許を緩ませていた。
 彼は冗談を言ったり人をからかうようなタイプの人ではないと思っていたので、デュシアンは まじまじとウェイリード公子の顔を見つめてしまった。
 まさかカイザー公子と入れ替わってはいないだろうかと在らぬ疑いを持ってしまうが、デュシアン はその疑いを一瞬にして掻き消した。彼等の容姿はとても似ているが、それぞれの纏う空気は全く 違う。例え入れ替わって演技をしても見破れる自信があった。それ以前に、ウェイリード公子 は絶対にカイザー公子の真似だけはしないと賭けられる。
 デュシアンは急に可笑しくなって吹き出しそうになり、堪えて肩を震わせた。もしかしたら、 船という日常から脱する乗り物に乗る事で、公子はどこか開放的な気分となっているのかも しれない。そう考えると余計可笑しくなってしまった。
「ララド領近くまで北上すると、ブリザードの余波にあたる。 しっかりと着込んであるか?」
 今さっきの自分の発言は全く無かったかのように公子は真面目な面持ちで笑っているこちらを 不思議そうに見つめながら、まるで父親のような気の回しようを見せた。彼が長子である事を思い 起こし、流石はカイザー公子とベアトリーチェ公女のお兄さんだと穏やかな笑みを誘われる。
「はい。マニさんから聞いてましたので。ララドはとても寒いですものね」
「……そうだな」
 やや訝しげにデュシアンを見つめた後、公子は同意した。
「でも、東に行けば暖かくなりますよね」
「東カーリアは南部に行けばいくほど温暖な気候になるからな」
「ラレンシア地方も、一年中暖かい場所です」
「……確かに」
 少しは会話が続き、打ち解けてくれたような彼の様子に触発されるように、昨日の執務室で気づいた事を思い出し、 楽しい気分が急に萎んでいった。
 さっきの珍しい軽口も、あんな気遣いも、全部自分がアデルの娘だから有り得たことなのだ―― そう思うと、悲しくすらあった。それでも気を取り直してデュシアンは顔を上げた。 『返して貰わなければならない』からだ。
「あの、わたし、公子にお聞きしたい事があるんです」
「私に?」
「あの――」
「出航するぞ!!」
 大声と共に耳鳴りを併発するような大音響の汽笛が鳴り響き、デュシアンは身を竦めた。ぐらりと 今までで一番大きく上下に船が傾く。
「うわっ」
「しっかりと掴まれ」
 急激な揺れに対処できず、転びそうになるその身体がふわりと浮いた。気づいた時には 公子の腕の中、頬に触れる感触は堅い胸板で、背を支えているものは力強い腕だった。
――うわぁぁぁぁああ……!
 公子はデュシアンを支えていないもう片方の腕で縁を掴み、 平然とバランスを保っている。軽々とこちらを抱える力強い腕の感触と目の前の広い胸に、 どうしようもなく顔が熱くなる。今までにないぐらい心臓がどきどきしている。あまりに元気が 良過ぎて口から心臓が出てきてしまうのではないか、デュシアンは心配になった。
「酷い揺れだな」
 極近くから聞こえた低い声に疼くようなくすぐったさを覚え、デュシアンは自然と身じろいだ。正体 不明の感覚から抜ける為に、ぎこちない仕草で縁へ手を伸ばす。
「す、すみません、大丈夫です」
 両手で縁を掴み、身体を押し付けるようにして縁にへばりついた。公子の腕から抜け出ると、 とんでもなく大きな溜息が洩れてしまう。
「やっと出発?!」
 明るい声と共に船室の扉を蹴るようにして飛び出てきたベアトリーチェが、目敏く二人を見付けて 駆け寄ってきた。
「ビビ、危ないぞ」
「だいじょーぶ! このビビ様が転ぶような無様な真似はしないわよ!」
 段差を飛び越え、揺れを楽しむかのような軽快な足取りでこちらまで来るとデュシアンに軽い敬礼 のような仕草で愛想良く挨拶をしてから横に並び、海峡を覗き込ん だ。彼女に習いデュシアンも下を覗くと、今にも甲板にまで飛び上がってきそうな波の飛沫が顔に かかってベアトリーチェにけらけらと笑われる。しかしその感触に何故か感動を覚えた。
 またも大きな揺れが襲った。今までとは違い、縦横両方が同時に揺れる。デュシアンは縁をしっかり と掴んで今度こそ一人で凌いだ。顔を上げれば、港がどんどん向こうへ遠ざかって行くのが見える。 否、船がアリアバラス海峡の北へ向かう潮の流れにどんどんと押し流されているのだ。
「すごい……!」
 同じように揺れる馬車とは全く違う感覚だった。早さもずっと船の方が早く、揺れもこちらの方が 大きい。あっというまに港や街並みが見えなくなって谷間へと入り込み、どんどんと流れて行く岩盤 の景色を感嘆の思いで見送った。追い風となる風は突き刺さるように冷たいが、どこか心地好い。
「今日はなかなか荒れてるね。カーリア人が三人も乗ってるからかな」
「……機嫌が悪そうには見えない」
 誰の機嫌かと聞かなくてもデュシアンには想像がついた。精霊が見える目を持ち合わせている 彼には海の精霊が見えているはずなのだから。
「海に落ちないようにね、ラヴィン公。これだけ荒れてたら海に落ちたら最後、浮かび上がって これないよっ」
 ベアトリーチェは藍色の瞳を煌かせ、意地悪そうな表情を作っている。
「わたし、泳げますよ」
 少しだけ悔しくて言い返してみると、ベアトリーチェは淑女らしからぬ大声で笑い出した。
「うそー! だってラヴィン公ってすっごい運動音痴っぽいじゃん!」
「う……」
 間違ってはいない。よく躓くし、反射神経は鈍い。けれども泳げるのは事実だ。デュシアンは 少し胸を張って、ポニーテールを揺らしながら笑い続けるベアトリーチェへと向き直った。
「これでも昔は川や湖で泳いでました」
「えぇー? それって首都に――」
「ビビ」
 穏やかだが強い抑止力のある低い声が名を呼ぶだけでベアトリーチェの好奇心は遮ら れた。ベアトリーチェは従兄を振りかえり、えへへと頬を掻きながら可愛らしく笑った。
 はじめは二人のそのやり取りの意味が掴めなかったが、遮られたビビの言葉の続きを考えて自分の 発言を振りかえり、そうしてやっと首都に引き取られる前の話を自分が口にしていた事に 気がついた。こうして無意識にでも過去の話を誰かにするのははじめてで、 そっと胸元に手を当てるとデュシアンは吐息を洩らした。
――そうだ、わたしは首都に引き取られるずっと前に、村の近くの川や湖でアシュリーと一緒に 泳いで……
 穏やかな記憶を目覚めさせながら回想していくと、自然と浮かび上がったその名に息を呑んだ。 船底を打ち付ける荒波の音も聞こえなくなり、まるで時が刻まれていないかのように 景色も止まって映る。
――アシュリー……
 どうして忘れていたのだろうか。責めたてるように身体が小刻みに震え出した。
 お隣りに住む神官さまの子どもで、少し年上の幼馴染み。仕事で構ってくれない母の代わりにいつも 一緒に居てくれた兄のような人。優しくて面倒味が良くて格好良くて同年代の人気者だった。青空の ような色の目を細めて微笑む彼が大好きだった。
――アシュリー!
 彼は、生きているのだろうか? ≪あの時≫、連れていかれる自分を奪い返す為に、彼は巨人の ように身丈の大きな兵士に刃向かって投げ飛ばされた。近くの大岩にぶつかって――そのあと彼は どうなったのだろうか? 少しも動かない彼しか記憶にない。身体がぶるりと一際大きく震え、 デュシアンは自分を抱きしめるように両肩に腕を回した。
――なんでこんな大切なことを、忘れていたの?
 彼の父君の神官様だってそうだ。家や教会に火をつけようとする兵士たちを制止した為に、 兵士たちに――!
 真っ赤になった視界に急激な眩暈を覚え、デュシアンは力なく膝を折った。一瞬でも気を緩めれば 嘔吐してしまいそうだった。もうこれ以上思い出してはいけない、思い出したくないと身体中が拒絶 している。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?! 船酔い?!」
 ベアトリーチェが同じように膝を付いて心配そうにオロオロと覗き込んでくるが、甲高い大声が やや耳障りだった。それでも『自分が今どこにいるのか』という感覚を現実に繋ぎ止めてくれる役 には立ち、デュシアンは心の中で感謝した。
「やだ、真っ青じゃん!」
「だ、大丈夫、です」
 じっとりと厭な汗が額に滲む。
「船室へ行った方が良い。歩けるか?」
 そっと背中に触れた大きな手に、心境とは裏腹にどきりと心臓が大きく跳ねた。着重ねた服の上から でもその体温が伝わってくる。また違った汗がどっと涌き、額から目許にまで流れた。
「あ、歩けます、大丈夫です」
 うっとおしい汗を袖口で軽く拭うと勢いよく立ち上がり、背に振れる彼の体温を切り離すように 身を引いて距離を置いた。背が船壁に当たる。
 もしかしたら酷く失礼な振り払い方をしたのかもしれない――宙に残された手を引っ込めた公子の 気まずげな様子を見て、デュシアンは後悔した。
 けれどもとても今すぐに何か弁解する言葉が思い浮かばなくて、そして自分が何故そんな強硬な 態度を見せたのかすら、そもそも分からなくて、気分の悪さに感けてその場から逃げ出したく なった。
「す、すみません、ちょっと船室で休みます」
 彼は悪くない。こちらを気遣ってくれただけなのに。恩師であるアデルの娘である自分を気遣って くれただけなのに。そう、アデルの娘だから――。ちくりと胸に針を刺されたような小さな痛みを 感じた。
――わたし、どうしちゃったんだろう……
 故郷の大切な人々の安否と、身体を突き動かす得体の知れない感情への途惑いとが思考に入り乱れ、 デュシアンは重い身体を引きずるようにして船室へと逃げ込んだ。

 船室の戸を後ろ手に閉め、眠るだけにしか適さない狭い部屋の殆どを占領する 固い木製のベッドに崩れるように突っ伏した。アリアバラス海峡 出口のララド領近くを通り過ぎる時はとても寒いという事でたくさんの毛布が与えられており、 それらに埋もれるようにして寝転ろぶ。荒波に揺れる室内に、ベッドがぎしぎしと軋む不穏な音だけ が響いた。
――アシュリー、生きているよね?
 思い浮かぶのは十三歳の彼。十年近く前の姿だから、今はもっと成長して男らしくなっているに 違いない。小さな頃からとても綺麗な顔立ちだったから、きっととても素敵な男性になっているはず だ。彼のお父様だってとても素敵だったのだから……。デュシアンはまたぶるっと大きく震えた。
――わたし、薄情な人間だ。どうしてアシュリーや神官さまや村の人たちの 事を思い出さないで暮らしていたんだろう? 最低だ……
 ≪父が遺した物≫という言葉に父の遺言が合わさり、居ても立ってもいられず追い立てられるよう にして首都を飛び出してしまった。しかし、本当ならもっと早くに思い出して 自発的に動かなければいけなかったのではないのだろうか。
――でも、思い出せなかった……。思い出そうとも、しなかった。思い出したく、なかった んだもの……
 故郷の事を思い出せば、母の死を思い出す。あの時に何があったのかを思い出す。それは自分の 胸にはあまりに重過ぎる事実で、耐えられるようなものではなかった。だから無意識の奥底に その記憶を封印して、そこから浮上しないように厳重に押さえ付けていた。 そして父もそれを知っていたからこそ、自分や母の事を一切尋ねる事はなかったのだから。
 けれども今は違う。デュシアンは息を呑んだ。
――過去と向き合う為に、ロアに行くんだ……
 首都に居るだけではきっと過去と向き合えない。気持ちの整理はつくかもしれないが、 自分の目で確かめなくてはならない事実もある。
 気を引き締めるようにそっと頬を抓るとほうっと息を吐き、やっと 先ほどの自分の態度を思い出して毛布に顔を擦り付けた。
「公子に、悪い事しちゃったな……」
 振り払うようにして気遣う手を避けてしまった。あの時の彼の表情を、どう表せば良いの だろうか。
 寂しそう。悲しそう。――そんな言葉を思い浮かべるが、適切ではない気がする。
――傷つけちゃった……よね?
 謝らなくちゃ。そう思いながらも温い毛布に包まれて、うとうとと仮眠をとってしまい、 次に目を覚ました時には凍えるような寒さの中だった。


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 あまりの寒さに驚き目が覚めて、何重にもかけた毛布ごと起き上がると小さな丸窓から外を 伺った。辺りが薄い銀幕に彩られているのが見え、しばしばした目を見開らかせた。一瞬 背筋が凍る。
「……」
 毛布から抜け出ると、デュシアンは吸い寄せられるようにふらふらと甲板へと出た。外気は 思った通りとても寒く、息が白く濁っている。
――そっか、船に乗ってたんだった……
 あの屋敷で目覚めたと錯覚してしまった。デュシアンは額に浮かぶ汗をそっと拭い、大きく 息を吐き出して手の甲を擦った。あの悪夢の日々はもう終わっているのに、起きかけで 記憶が混同したのだろう。
――夜、なのかな?
 首都を出発したのは午後の二つ目の鐘が鳴った後であったから、 夕暮れは迎えているのかもしれない。しかし太陽も月も覆い尽くす灰色の空では時刻の確認は できそうになかった。
 海峡は切り立った銀色の崖に挟まれ、降り落ちてくるブリザードの欠片は永久凍土ララド に吹雪いているものだろう。そうなると、アリアバラス海峡の出口も近い。
「綺麗」
 ララドのあの屋敷で下働きをしていた頃によく目にしていた為に、ブリザードは初めて見るもの ではなかった。けれども買われた身であったから外には出しては貰えず、いつも窓から眺めていた だけ。それでもあてがわれた部屋の窓を開けて鉄柵から強引に手を伸ばし、その冷たさを実感した 事ぐらいならある。その時の感触を思い出し、そっと手を空へ伸ばした。あの時よりも、 ずっと空が近い。
「つめたいな……」
 銀色に染まった宙にキラキラと輝く雪の結晶を顔に受けながら、デュシアンは寒さも忘れて 美しい欠片たちに魅入った。
「風邪をひくぞ」
 不意にかかる声に動揺した。振りかえらずとも誰の声かは分かる。デュシアンは天を仰ぐ手を 下ろし、少し離れた場所で佇む彼――ウェイリード公子へ向き直った。
「こんな寒い中、外に出て何をしている」
 呆れ果てた表情で、兄とも父ともとれるような少し威厳のある物言いをする彼の様子にデュシアン は自然と笑みを零した。
「公子こそ。こんなに寒いのにどうして外に?」
「……」
 彼は答えなかった。デュシアンも答えてもらおうとは思っていなかったので、 気にせず辺りを見まわした。
「不思議ですね。ララド領が永久凍土なら、同じ緯度のこの辺りの水も凍りそうなのに」
 海峡の海水は首都近辺と同じ、脈打つように波飛沫を上げて北に流れている。氷の欠片も浮いては いない。
「海峡を流れる潮の温度が高いからだ。それに永久凍土はベイヘルンの森と同じで 仮初めの姿でもある」
「仮初め?」
「禁呪の犠牲となった樹氷の精霊たちの呪いだ。禁呪の代償として、永遠に作物が実らぬ 大地にされた。本来ならばただの高地に過ぎない」
「そうだったのですか……」
 禁呪には代償があると教えてくれたのは≪北の守り≫で出会った冷たい美貌の男だった。 肉体の暖かみが感じられないその完璧なまでの風貌が頭を過ぎり、軽く身震いが起きる。
「やはり寒いのか? 室内に戻った方がいい」
 少しだけこちらに近づいて気遣わしげにそっと差し出された手が、デュシアンに触れる事なく 下がった。一瞬浮かべた気まずげな表情を認めて、デュシアンは自分から一歩近づいて 彼を見上げた。
「あの、さっきは失礼しました。気遣って下さったのに……」
「……いや。私が女性に対して無遠慮だっただけだ。君が謝る必要はない」
 公子は自分を責めるように渋い表情で首を振った。
「それより、具合はもう良いのか?」
「はい。もうすっかり」
「そうか。しかしあまり無理はするな。慣れない旅は身体だけでなく心も疲弊させる」
 穏やかな表情で軽く微笑まれ、デュシアンはぼうっと公子を見つめてしまった。あまりに長い 間無言で見つめてしまったからだろうか、彼はやや伺うように片眉を上げた。そんな仕草に はっと我に返り、デュシアンは朱に染まったであろう顔を隠すように頭を下げた。
「……お気遣い、ありがとうございます」
 ああ、そうだ。彼に心配してもらって、嬉しいんだ。微笑んでもらえて、嬉しいんだ。そして、 凄く幸せな気分にさせてくれる。それなのに、どうしてこんなにも胸がどきどきして 苦しいのだろうか。けれどもその苦しさすら愛おしい。
――でも、公子がこんなに優しいのはわたしが……
 デュシアンはそっと首を振った。それでも良い、と。
 アデルの娘だからという理由でも良い。心を暖めてくれる公子の 気遣いを失いたくなかった。彼が今の自分の支えのようにすら思えた。
――父様が遺してくれた心配りにもう少しだけ甘えてもいいかな……
 せめてロアの村に着くまで、もう少しだけ甘えさせて下さい……。お願いする言葉を 口にする代わりに、デュシアンはそっと吐息を洩らした。


(2006.9.11)

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