墓と薔薇

8章 ()が為の薔薇(1)

 「ラシェが最近は優しい」という過去の発言は撤回だ――そう思いながらデュシアンは執務室の 書類の引越し作業を行っていた。
 神殿の格別の配慮から神殿一角の棟の最上階全てをラヴィン公爵家は与えられており、 ともすれば一日篭もりきりになってしまう執務室には日差しがたっぷりと入り込む眺めの良い 部屋をそのまま引き継いでいる。室内装飾も父である先代公爵が使用した時のままで、家具の配置 一つ変えてはいない。それについては補佐役のラシェも特に不便さを訴えることもなかったのだが、 気になった点があるらしく、急に本日すぐにも改善するよう要求してきたのだ。
 執務室の南側と東側にある大窓は、日中溢れんばかりの光を差し込ませる。この部屋が 執務室に選ばれた売りはまさにその日当たりの良さなのだが、高価な紙を使用した書類などが差し込む 光と熱に負けて痛んでしまっていたのだ。父アデル公はあまりそういった事を気に しない人であったらしく、重要な書類に使われている高価な紙が幾枚も茶色く焼けてしまっていた。 ラシェはそれに気づくと、日中執務室に居座って一番光が当たらない場所を調べあげ、そちらへ重要な 書類を引越しするよう指示してきたのだ。それが改善内容、つまりは現在行っている引越し 作業だった。
――自分で勝手に変えてくれればいいのに
 ロアへ旅立つ準備で忙しいというのに、手伝ってもくれないなんて――。恨めしい思いの込もった 視線を、のうのうと座って書類を読む従兄の横顔にくれてやるが、ラシェはこちらに気づかず 至って静かだ。もちろん気づかれて睨み返されでもしたら、それはそれで蛇に 睨まれた蛙のようにこちらはなってしまうのだが。
 デュシアンは諦めて肩を落とすと、次に引越しする書類の束を取り出し確認しはじめて、ふとその 手を止めた。
 先日の国王陛下の話の通り、確かに、――ない。
「ない」
 無意識にも小さく呟いてしまってから、右手のソファを軽く振りかえった。けれどもどうやら ラシェは資料を読むことに没頭しているようで微動だにせず、デュシアンは安堵に大きく息を 吐きだした。
――人身売買、禁止法……の改正された部分を伝達する書類が、ない
 それは、近年に改正された法令や議決に持ち込む草案などの書類が区分された書棚にあるべき もので、いま取り出したこの手の中の束にあるはずのものだった。 もう一度丁寧に捲って確かめてみるが、やはり見つからない。
――陛下の仰られた通り、父様は誰かに資料を預けているんだ……
 娘の目に留まらないように。
 父の徹底した配慮に深い愛情を感じながらも、その完璧さには驚かされてばかりだった。贈られて くる薔薇の花束もそうであるし、ラレンシア地方の話題禁止についてもそうであるし、今回判明 した資料隠しについてもそうだ。まるでこちらの心の動きを見越しているかのように父は先手を 打っている。父から見たら自分はそんなに不甲斐ない娘だったのかとデュシアンはやや気落ちしたが、 そう思われても仕方のない自分だったと、過去を振り返って皮肉げに苦笑した。
――それにしても、資料は誰が持っているんだろう?
 ローランド七世陛下は、父アデルが信頼している者に託されているのではないかと言っていた。
 デュシアンは右手を振りかえり、長い足を持て余すように組んでソファに座って いる態度大きな従兄の横顔を見つめた。彼は父の信頼に足る人間だ。
「ねぇ、ラシェ。ラシェは父様から何か預かってる?」
「何か、とはなんだ?」
 肘掛に肘をついて書類を読むラシェはこちらに全く興味がないといった様子で顔を あげなかった。
「この執務室の、書類とか」
「いや。書類どころか何一つ預かっていないが――」
 眼鏡の奥の赤茶の瞳が何かを思い出したかのように軽く見開き、一瞬途惑うように視線を 泳がせたが、そのまま不自然なかたちで手元の資料に落ちつかせた。こちらを一切見ようとは しない。
「急にどうした?」
「……ううん、なんでもない」
 ラシェは知っている。直感的にデュシアンはそう判断した。書類を預かっているわけではなく とも、誰が書類を持っているかを知っているのだ、――薔薇の送り主を知っているように。
 それでもやはり彼が口にしないという事は、話すつもりがないからなのだろう。デュシアンは 追求する気になれず、溜息を零すと身を翻した。その拍子に、近くのサイドテーブルに積んであった 書類の束に服の裾がぶつかり、床に落としてしまう。
「あ……」
「何をやってるんだ、粗忽者め」
 冷たい従兄の一瞥を背に雪崩を起こす書類を堰き止めながら、デュシアンはふと最近同じ経験を したことを思い出した。執務机の地肌を覆い尽くす資料の数々が次々と流れ落ちていき、身体を 使ってそれを阻止したのは、――それは何時だったか、反対側から雪崩を阻止してくれた大きい手は 誰の手だったか?
――ああ、そうだ! ウェイリード公子が止めてくれたんだった
「あれ?」
 すんなりと思い出した、この室内に溶け込む彼の姿に疑問を抱く。
――なんで公子がこの部屋にいたんだっけ?
 下唇に指先を当てながら、意味もなく上を向いて記憶を辿った。
 雪崩を起こした資料を見て、公子は少しだけ笑っていた気がする。その表情を思い出しただけで 何故かぽっと顔が熱くなり、『そうじゃなくて!』と首を振ってもう少し遡った。捲くられた袖口 から見える腕がとても逞しかった気がする。『だから、そうじゃなくて!』――公子の姿かたちでは なくて、思い出すべき事は状況だ、状況。何故彼がこの執務室に居たのか、だ。
 デュシアンは自分に言い聞かせるように、過去に集中した。そして、はたと気づく。
「あぁ!」
 記憶の尻尾を捕まえて、デュシアンは大声を張り上げた。口を大きく空けたまま しばらくそのまま制止してしまい、ラシェが気味悪る気にあきれ果てた表情で見ているのもお構い なしだ。
――そうだ、書類を公子に確認してもらってたんだった……
 盗まれた書類が他にないのか公子は調べてくれたのだ。だから彼はこの室内に居た。それは 他ならぬ彼自身から申し出てくれたことだった。そして何よりもこの記憶で重要なのは、 必要な書類は他に何一つ無くなっていないと彼が断言した事だ。
 それなのに足りない書類があるのはどうしてか。答えは一つ。
――ウェイリード公子が、その書類を持っているからだ……
 公子が書類を確認すると告げる前に何と言っていたか遡って思い出す。彼は『ラシェから 書類を盗まれたと聞いた』と言っていた。
――ラシェは公子が父様から書類を預かったのを知っていたから、だから頼んだんだ……
 それで辻褄が合う。他の者が確認をすれば、書類が足りないのがばれてしまう。
―――そっか、そういう事だったんだ……
 はっきりとしない、もやもやとした視界が一気に開けたような爽やかさが感じられた。 ウェイリード公子が必要以上に親切な理由が、やっと理解できたのだ。
――公子は父様から頼まれているんだ、書類と一緒にわたしのことも……
 彼は父を恩師と呼び、世話になったと言っていた。そして協議会の出席者で北の守りを共に守護する べき家の人間という近しい存在であり、その性質はとても真面目で聡く面倒味も良い。
――だから、いろいろ助けてくれるんだ……
 デュシアンはしゃがみ込むと、落ちた書類を拾った。
 視界は開けたのにどこか心が晴れない。知りたい事実が判明したのに、どうしてかあまり嬉しく ない。この気持ちはなんなのだろうか?
 そっと手を胸元を飾るアミュレットに伸ばす。
――父様。なんで、ウェイリード公子なの?
 ラシェでも良かったはずなのに、どうして彼なのか。父は何故、彼を選んだのか。 父の胸倉を揺さぶって問いただしたかった。
――彼がわたしによくしてくれるのは、父様に頼まれているから……
 それ以外の理由なんてない。律儀な彼には理由はそれだけで十分なはずだ。そう思うと、 言葉に表せない燻りが溜まった。
 デュシアンははじめて父への小さな憤りを覚えた。本当に、はじめての事だった。


(2006.9.11)

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