墓と薔薇

閑話:王子の反乱(2)

 王宮裏庭の林の傍に、毎年冬になると渡り鳥が飛来する池がある。見栄えの為に半月橋がかかってはいるが、本当に小さな池だ。 しかし鳥たちはここは食べ物に困らないのを知っているのだろう。 餌やりはもっぱら王女であるミリーネの仕事だが、 ほとりに座って木の幹に背を預けながら適当な仕草で餌やりをしている人物は彼女ではない。
 浮き草の間から顔を覗かせてパクパクと喘ぐ鯉には食指が向かないのか、 水面に立ち上がって餌をねだる鳥たちはその白い翼を広げて美しい姿をアピールしている。しかし投げられた餌を細い嘴で受け取れなければ、 鯉との取り合いとなる。その見苦しい様子が面白いのか、餌やりをしている奴はわざと鳥が取りづらい方向に投げていた。
 そんなちょっとしたところにも性格の悪さと楽しみへの抜け目なさが滲み出ていて、 心配してわざわざ様子を見にきた自分が愚かに思えてくる。
「クラメンスへ送った書状の返事はいつくるんだ?」
 会ってすぐに挨拶が必要な間柄ではない。もちろんそんな事がカラナス侯爵に知れれば大目玉だろうが、 人払いをされているので気にする必要もない。
 こちらの心配など何処吹く風、餌付けをしている人物――この国唯一の王子セレドは、 パンを千切って鳥の頭を飛び越えるように投げ付けて遊んでいた。品の良い顔に底意地の悪い笑みが浮かんでいる。 外では絶対に見せない顔だ。
「国王に届く前に破かれたらしい」
 鳥を小馬鹿にする独り言と殆ど変わらない調子だったので、はっきりと聞こえなかった。 首を傾ければ、セレドは億劫そうにこちらを仰ぎ見てきた。
「正規の手順を踏まなくても大丈夫かと思ったのだが、向こうの王子に見つかって破かれたそうだ」
「なんだって?!」
 叫んだせいで、ほとりの近くまで来ていた渡り鳥たちが一斉に飛び立ってしまう。 水面に白い羽がはらりと落ち、それを餌と勘違いした鯉たちが群がった。
 鳥たちは落ちつきを取り戻すまでしばらく帰ってこないだろう。灰色の上空を旋回する優美なその姿を眺める事なく、 セレドは呆れたようにこちらを睨んできた。
「一応、クラメンス国王の覚えめでたい奴に頼んだ。カーリア人で唯一クラメンスに入国を許された商人だ。 といっても港付近に降り立つ事しか許されてないが」
「そんな奴がいるのか?」
「リッツバーグに所属する商人だ。一応貴族の出身なのだが、実家と絶縁していて庶民と変わらない。 商人が使者なのが王子の気に障ったらしい。全く気位の高い奴だ」
 セレドは鳥たちに与えていたパンを横へ置くと、立ち上がって自分の服についたパン屑や土埃などを叩いて払った。 身体を馴らすように大きく伸びをすると、カチャリと耳障りな金属の音が聞こえる。人払いをしているから、 もしもの為に帯剣しているのだろう。
「なんでまた、商人なんかに頼んだんだ? ちゃんとした外交官とかに――」
 喋り終わる前にわざとらしい溜息を吐かれ、言葉を止めた。
「昔からクラメンスは、カーリアからの直接の書簡は見もせず破棄か、見ても無視する。 正式な書簡はエルムドア帝国の外交官を通す事になっている。だがその外交官は当然カーリア元老院の息がかかった人間だ。 私の書簡はそちらから回すわけにはいかない。中身を見られて潰されるだけだ」
「まさか――」
 言いかけて、口を閉ざした。ミリーネ降嫁を決めたのは元老院だ。 それを覆すセレドの独断の書簡をそのままクラメンスに渡すのを許すはずが無い。
「だから、その商人が懇意にしている親カーリア派のクラメンス要人に書簡を渡すはずだった」
 渡すところでクラメンスの王子に見つかって破かれた、という事らしい。合点がいった。
「じゃあ、これからどうするんだ? またその商人に頼むのか?」
「いや。彼はもう目を付けられてしまったから無理だ。彼は私の頼みを個人的に引き受けてくれた。 次にまた何かあってリッツバーグ商会にバレれば大事になる。彼にはもう頼めない」
「打つ手無しなのか?」
 そう聞けば、セレドは待ってましたとばかりに、にやりと笑った。
「まだ手はある。二月の終わりから数日の間、親カーリア派のクラメンス要人がエルムドアの首都に滞在するという情報を、 書簡を破かれた代わりに仕入れてきてくれた。その時にエルムドアへ行って直接書簡を渡し、 後日に王の返答をクラメンス国境付近まで取りに行くつもりだ」
「今度はエルムドアに滞在するその要人に使者を送るって事か?」
「いや。非公式で私が会いに行く」
「お前が? ちょっと待てよ、お前だと目立ち過ぎないか? どんな理由でエルムドア帝国に入国する気だ?  入国すればエルムドアの監視下に置かれる。そんな中、どうやってクラメンス人と会う気だよ」
「馬鹿だな、レセン」
 くすくすと小馬鹿にするように笑いながらセレドは続けた。
「正面切って入国するからそんな面倒くさいことを考えなければならないんだよ。 クラメンスの要人が滞在している最中にカーリアの王子たる私が入国できるはずもないだろう?」
「じゃあ?」
 嫌な予感がする。聞かなくても、もう想像できる。
「密入国するに決まっている」
 セレドはこの大陸きっての大国カーリアの王子だ。 そんな大切な王子様にこんな大胆で無謀極まりない思考を持つよう教育したのは一体誰なのか。少なくともカラナス侯爵では有り得ない。
「ウォーラズール以南からなら密入国は難しくない。問題は、クラメンスの要人が滞在する建物に忍び込む方だ」
「……お前、密入国できても、だ。その間この国ではどうするつもりだ?」
 密入国するという事は、つまりは王子として入国はしないという事。そして王子はカーリア国内にいるという事になる。
「どこかの別荘に行くって事にしても、元老院や円卓の騎士たちの護衛はびっしり付くんだぞ?  お前がいなくなって気づかないわけないだろ?」
「病気にでもなるさ。影武者でもたてれば大丈夫だ。伝染病とか言っておけば不用意に皆近づかないだろう?」
「医師が近づく!」
「医師については一人心当たりがある。そいつを丸めこめば他の人間は近寄れなくできる。 医師たちの最高権威だが、実に話の分かる人間だ」
 セレドはどうやら自分で行く気のようだが、それはとても賛成できない話だった。国唯一の王子が伝染病となれば大きな騒ぎとなる。 王家の薄い血縁者たちがここぞとばかりに王位継承権を主張しはじめるかもしれない。 ミリーネはクラメンスに嫁に出される事もなくなるだろうが、貴族たちの醜い婿争いが始まるだろう。 それはセレドにとっては不本意なはずだ。
「陛下が病に倒れる今、お前までも病気になれば国内が荒れる。それこそミリーネが担ぎ出されたり、 王家の遠い血族とかを名乗り出す奴が出てくるに決まってる。病気と偽るのは賛成できない」
「まあ、確かにそうだね」
 こちらの真に迫った物言いに満面の笑みを浮かべながら、セレドは当然だと言わんばかりの顔で頷いた。 そのどこか真剣味の欠けた言動が気になったが、妥協案を考える方が先だった。 エルムドアへ使者を送る件は賛成で、良い案だと思うからだ。
「他の人間に頼めよ。それこそジェノライト・アリスタとかに頼めば――」
 彼に頼めるならば、そもそもこの間彼を部屋から追い出したりはしなかっただろう。 セレドはジェノライト・アリスタを信頼してはいるが、 彼が騎士としての名誉や貴族としての誇りよりも王族の我侭を選んでくれるとは考えていない。何よりもまず王族の意思を尊重して くれると、セレドがそこまで信頼しているのは――。
「ダリル将軍はどうなんだ? やっぱり将軍には全貌を明かして、手伝ってもらった方が良いと思う」
 イルーダの件でダリル将軍をも欺いたままだが、彼の将軍なら分かってくれるはずだ。 セレドを王子として敬いながらも一人の私人としてあることを認め、 行き過ぎた面があれば叱り付けて正しい道へと導く強さを持つ将軍ならば信用できる。
 しかし、セレドは寂しげな笑みを浮かべて首を横へ振った。
「無理だ。あいつ自身が元老院や神殿から目をつけられているし、職務柄、理由もなく姿を消すのは難しい。 円卓騎士団には内部監査役が居て、不穏な動きがないか逐一元老院に報告がいっている。 ミリーネの事を知れば手を貸してくれるだろうが、元老院に勘付かれるだけだ」
 他に誰か――そう考えた矢先、一人の女の顔が脳裏を過ぎった。
「じゃあ、お前の周りをよくウロチョロしてる赤毛の女騎士はどうなんだ? 若いけど腕がたつから王室警邏隊なんだろう?」
 自分とそう年齢が変わり無いはずのサリアという名の女騎士や何人かの若い騎士の顔が思い浮かぶ。 彼等は王族を守る警邏隊の人間で優秀な人材なはずだ。密入国も密会もやってのけるだろう。
 良い考えだと思ったが、セレドは鼻で笑った。
「サリアたち王室警邏隊は元老院の犬だ。特にサリアの上司は私の側近として元老院が用意した元老騎士ヒュー・イングラムだ。 報告されて全てが水の泡となる」
 心底侮蔑した表情でそう吐き捨てた。
「じゃあ――」
 他に誰の顔も思い浮かばなかった。セレドの周りにはおべっか使いの貴族や、元老院と繋がりのある貴族ばかり。 信頼する護衛の騎士たちも駄目。唯一セレドの手綱を握れるダリル将軍も動かせないとなると、他に誰がいる?
――誰も、いない?
 だからといって、セレドを行かせるわけにはいかない。しかしエルムドアへの使者の件は多分、最後の頼みの綱だ。
 誰か――。
 苛付きに髪をかきあげてた手を、瞬きを止めて息を飲んだ。そうしなければ今思いついた者の名を忘れてしまいそうだからだ。
―― 一人だけ、いるじゃないか
 セレドは事も無げにしゃがみ込み、まだ餌を貰えると思い込んで水面に浮かぶ鯉たちの口に指を突っ込んで遊んでいる。 おおよそ成人している人間のやる事ではないし、何か悩みがある人間の姿には思えない。つまり、 セレドは一人いるのを≪分かっている≫のだ。
―― 一人、いる。身を隠さずともエルムドアに堂々と入国しても問題なく且つ誰にも秘密を洩らさない信用のおける人間が、 ――ここに、こうして立っているじゃないか!
「はははは」
 急に馬鹿馬鹿しくなって、笑いが込み上げてきた。クノッサス峡谷に住む地の魔人が起こす地鳴りのような、 腹の奥底を揺さぶるような笑いが止まらなかった。
「お前の計画は、もうずっと前から始まってたんだな」
 怒りが頂点を越えると笑いに繋がるらしい。けれどもおかしな事に、 心のどこか隅っこに踊るような期待が涌き水のように噴き上がってくるのを、冷静に捉えている自分がいた。
 セレドは立ち上がると、無表情にこちらを振りかえった。
「去年の暮、神殿の中庭。あの時お前はウェイリード公子だけでなく、俺の事も待っていたんだ。 あの時からお前の計画は始まっていたんだ。姉上を隠れ蓑にしたのも、 俺が怒りにまかせて自分の懐に飛び込んでくると見越したからだ。そうすれば自分の計画を俺に話しやすい。 俺が同情して計画の進み具合を気にするようになる」
 近づいてその胸倉を掴んだが、セレドはやはり動じなかった。視線を逸らす事もなくこちらを見つめている。
「気づかずに騙されて、俺が同情だけで動くと思ったのか?」
 セレドは表情を全く崩さなかった。むしろ油断のならない瑠璃色の瞳を怪しく煌めかせ、口の端を不敵に歪めた。
「いや。私の読みが正しければ、お前は私の企みに気づき、けれどもその企みをのむ」
 きっぱりと言い切ったセレドに対し、俺は正気に戻った。セレドから手を離し、しばし呆然とする。
「――なんでそう言い切れるんだ?」
「私にはお前以外頼れる奴がいないと、お前は知っているからだ」
 『何馬鹿なこと言ってんだ?』と言いたげな顔で、セレドは乱れた服を直した。
「私がダリルもジェノもサリアも頼れない事を知った後、お前は考えるはずだ。私の傍に他に誰がいるか、と。 けれども彼等以上に私を思ってリスクの高い行動ができる者を、お前は見つける事ができない」
 顎を上げて胸を張り、自信たっぷりに続けた。
「私の知っているレセン・ラヴィンは、妹を一心に思う親友たる私を放ってはおけない性格だ」
 最後に、にこりと天使のような微笑みを浮かべた。人に何かを強いる時に見せる悪魔の微笑みだ。 けれども今日はそのまま天使に見えた。天の使いが自分へとチャンスを与えたのだと今、 はっきりとそう自覚した。
「お前に一つ教えてやる」
 もったいぶった咳払いを一つくれてやれば、セレドはやや不満そうに片眉を上げた。
「俺は妹を思うお前を確かに放っておけない。でもそれと同時に、そのやり甲斐のありそうな仕事を引き受けたくて仕方ない」
「……え?」
 まさかここまでは想像できていなかったのだろう、幼馴染みは驚愕に目を丸くさせた。 こちらがしぶしぶと引き受けると目論んでいたはずが、そうではなく喜んで引き受けると言っているのだから当然だ。
 いつも驚かされるのはこちらの方なので、セレドにこんな表情をさせた事が嬉しくて有頂天になり、 高笑いしそうになる気持ちを押さえた。
「姉上の後釜には、このくらいやり遂げる実力が必要だろ? それに、首都にいても――家にいても、 誰も俺の事を信用してはくれない。まだ未成年だから、弟だから、子どもだから。 そういって、みんな俺から責任と仕事を取り上げる」
 レムテストの時も今回も、姉上の護衛には自分がなりたかった。誰よりも傍で姉上を守りたかった。 しかし護衛にラシェの名前はすぐに上がるのに、姉は自分を振りかえりもしない。 一言聞いてくれれば「僕が守る」と言えたのに。聞いてくれなかったのは、弟だからか、年下だからか、 実力が無いと侮られているからか、成人していないからか。そして成人すれば頼ってくれるのか。
 自分は今年で十六になる。エルムドアでは十五になれば正式な騎士として戦場に赴ける。 ラシェは十七歳でエルムドアのクーデターに荷担していた。カーリアでなければ自分だとてもう成人と同じ扱いを受けても構わないのだ。
――成人していなくても、自分にできる事はあるはずだ
 成人すれば急に力がつくわけじゃない。成人前から力試しをしたっていいはずだ。そんな思いが心に占拠している。
「つまりは、自分の力を試す機会が欲しい、と」
 確認するように聞いてくるセレドに、大きく頷いてみせた。
「そうだ。だから、その仕事を慎んでお引き受けする」
 予期せぬ廻り合わせへの期待と意気込みとで、不安なんか吹き飛ばした。
「――ありがとう。本当に、すまない……」
 らしくない律儀で丁寧な礼をされ、やや興奮気味だった心も落ち着きを取り戻した。 気恥ずかしさすら覚えて顔が熱くなる。
「いいよ、別に。でも馬鹿だな。はっきり最初から言えば良かったんだ。手伝って欲しいって」
「それは私の矜持が許さなかった」
 セレドは不興顔を上げて軽く唇を尖らせた。けれどもすぐにも苦笑して、肩をすくめてみせる。
「でも、最初にそう言った方がもっと楽だったのかもしれない。お前がこんなに簡単に引き受けてくれると思っていなかったから」
 だから回りくどく、他に誰もいないとこちらに思わせる方法を選んだのだろう。もう少し信じて欲しかったが、 仕方ないのかもしれない。自分は本当に、まだ何一つやり遂げた事のない≪お坊ちゃん≫なのだから……。
「俺は自分の力を試してみたかったんだ。力を示してやりたかったんだ、――ずっと」
 誰に示してやりたいのかは、よく分からなかった。優秀な従兄のラシェになのか、何かと目に入るジェノライト・アリスタになのか、 あまりに偉大すぎた父上になのか、――それとも姉上になのか……。
「じゃあ、私も一つだけ、教えてあげるよ」
 セレドは爽やかに微笑んだ。
「私は、お前ならやり遂げると信じている。未成年であってもお前は誰よりも信頼がおける、 私の親友だからな」
「おだてても何もでないぞ」
 互いに吹き出して、笑い合った。これだけ笑ったのは、久しぶりかもしれない。
「それじゃあ」
 一頻り笑ってから、セレドは軽く目許を拭った。
「旅の準備は私がぬかり無く整えておくから、お前は護身術を徹底させておいてくれ。申し訳無いけど、 護衛は無しで行ってもらう事になる。――そうだな、例えばジェノの腕を掻い潜って私を殴れるぐらいになれば十分か」
 それはたった一ヶ月ぐらい特訓しただけでは到底無理だ。もちろんセレドも冗談のつもりだろうが。 しかし護身術は確かに必要だ。密入国の必要はないが、書簡を手渡しする為に建物に忍び込む術をどうにかしなければならない。 ラヴィン家の跡取りとしてそれ相応の護身術は習ってはいたが、 ジェノライト・アリスタに簡単に押さえつけられてしまった前科がある。あの屈辱は忘れられない。
 誰かにもっと実践で役に立つ護身術の指導を受けるのが最良の策だとしても、思い浮かぶ人物は――。
――……あいつに頼むのだけは、死んでも嫌だ
 適格な人物が脳裏を掠め、首を振ってその姿を掻き消した。身のこなしは騎士に全くひけを取らない。 もしかしたら騎士以上に俊敏な動きを見せるのかもしれない。そうでなければ危険極まりない遺跡探求者など務まらないのだから。
――絶対に嫌だ。あんな嫌味なヤツに習うのだけは
 教えてくれと頼めば、あの最悪の従兄は鼻で笑うだろう。考えただけで腹が立つ。
 かといって、これといって騎士に知り合いなどはいなかった。宮殿側の騎士団は外部の人間と訓練試合をするのを好むと聞くが、 飛び入り参加でもしてみようかと思いつく。セレドなんかはよく円卓騎士団の訓練場へ行って騎士たちと剣を交えているらしく、 何度かイルーダと試合をしているのを見に行った事もあったが――。
――イルーダ、か……
 本当にいいのか、という言葉を飲み込んだ。セレドはもう覚悟を決めているのだ、こちらが突付いて刺激するのはあまりに不憫だ。 イルーダも憐れだが……。
「ジェノに締められた経緯があるから、もしかしたら王室警邏隊は喜んで護身術を指導してくれるかもしれないな」
 今こちらが考えていた事は悟られていないようで安堵した。二人の恋の行方を振り払い、 セレドへ向き直った。
「何故だ?」
「警邏隊はジェノに対抗意識を持っているからな」
「まー、国一の騎士は、ヒューだと思ってますしぃー」
 林の方から脳天気で舌足らずな女の声が聞こえ、背筋が粟立った。
「くそっ!」
 セレドは舌打ちし、優雅な姿勢を崩して足を広げ、臨戦体勢となった。険しい表情で、背にしていた林を振りかえる。
「おかしいと思ってたんですよね。王子ってばイルーダにあれだけ言い寄ってたのにー。 さっきの話でだいたい予想がつきました」
 人払いされていたはずだった。そして人の気配は全くなかった。だから自分もセレドもこれだけ気を緩めて話ができたのだ。
 声主は冬の寂しい雑木林には随分と色合いの適さない赤い巻き髪を揺らしながら、その姿を現した。 彼女の濃紺の詰襟軍服と斜めに掛けられた白い束帯は紛れも無い王室警邏隊の証。 国に認められた三人の女騎士の内の一人、サリア・クーベルだ。
 どこか真剣味に欠けた性格で、口調もおおよそ騎士らしくなく阿呆っぽい。実際、 文書を書かせれば誤字だらけだと同僚の騎士がぼやいていたのを聞いた事がある。 けれども特殊な剣術と体術で男騎士をなぎ倒すその腕を元老院の騎士に認められ、引き抜かれた逸材らしい。 見た目はそこらにいる二十歳前の少女に過ぎない。
 しかし彼女は一体どこに隠れていたのだろうか。林の樹木はどれも細く、 いくら華奢な彼女でもその後ろに隠れれば服の端や豊かな赤毛の一房は、はみ出してしまうだろう。 身軽であるから木の上にでもいたのだろうか。純粋に疑問が浮かんだ。
 その時金属が擦れる音がして、瞬時に横を振りかえった。セレドが腰にさげていた剣を素早く鞘から抜き放ったのだ。 刀身がぬらりと鈍く危険な光を放つ。
「おい、セレド!」
「こいつは元老院の犬だ」
 剣呑な様子でサリアを睨みつけ、セレドは剣を構えた。
「ひどい言い方。あたしは王室警邏隊なんですけどぉ」
 剣を向けられているという緊張感もなく、サリア・クーベルは胸を張って自分の腕章を指差した。大した度胸だと思う、 これでもセレドの剣の腕はダリル将軍のお墨付きだ。
「お前の上司は元老騎士だろう! 残念だ、サリア。お前はミリーネの良い話し相手として目をかけていたのだが」
「あたしを始末する気なんですかぁ?」
 未だサリアには自分の腰に下がる剣に手を伸ばす気配はない。それどころかどこか小馬鹿にしたように笑って、 こちらへ自分から近づいてきた。
「ヒューに報告されれば私の計画はすべて潰される」
「あたし、これでも女騎士っていうせっまーい門を通って採用された騎士なんですけどー」
 本気でヤる気ですかぁ? とおどけて笑いながら、セレドが構えた剣の切っ先で足を止めた。
「貴様の師はイルーダと同じだろう? 動きは読めている」
「せ、セレド! おい、やめろよ!」
 柄を握り直したセレドの腕を慌てて掴むが、その手を乱暴に振り払われた。
「あたしの師は確かにイルーダと同じですけど、カーリアに来てからヒューにも師事してました。 イルーダと同じと思ったら痛い目みますよー」
「こっちには魔道師もいる」
 顎で指され、ぎょっとした。
「お、おい、俺は――」
「殺すわけじゃない。妹のためとはいえ、人殺しはできない。ただ、声帯と両腕の筋を切るだけだ」
 十分ひどい仕打ちだ。ぞっとして首を振った。
「話せず、物が書けなくなればそれで良い。安心しろ、死ぬまで贅沢な暮らしができるだけの保障金は出してやる」
「セレド、やめろ! 相手は女だぞ?!」
「女じゃない、こいつは騎士だ」
「あたしも殿下の意見にさんせー。女だって気ぃ使われたら騎士はできないよ、レセン公子。 ヒューなんかいっつもあたしの事、容赦なく床や壁に叩き付けるんだから」
 ぶつぶつと上司への文句を連ねているが耳に入ってこない。
 確かに彼女は騎士だが、それ以前に女性だ。自分にはそれを覆す事はできない。首を横へ振った。 それにそんな拷問のような事はできない。
「もー、貴公子なんだからぁ」
 癇に障る言い方だったが、言い返す心の余裕はなかった。心音がばくばくと耳に響く。どうなるのか予想がつかないのだ。
「余裕ぶっていられるのも今の内だ」
 セレドの手が柄を強く握ったその瞬間すらも、サリアは何の構えも取らなかった。
 静止していた構えから初動に移るその早さは目を見張るものがあった。セレドは構えからそのまま剣を突き出し喉を狙った。 しかしサリアは瞬時に後ろへ飛びのき、皮一枚のぎりぎりのところで剣を避けた。彼女はそれでも腰の剣を抜かなかった。
 セレドはすぐさま大股に一歩踏み出して手首を返すように剣を振り上げた。寸でのところで避けたサリアの髪が一房宙を舞う。
「あーあ、今日は髪を結ぶの忘れちゃったから」
 名残り惜しそうに風に散る髪を見つめるサリアへ、容赦無く次の一太刀が加えられた。 振り下ろされた剣は大きく右に弧を描きながらサリアの腹部へと太刀筋を作る。絶妙なタイミングで後ろへと避けた彼女だが、 自分が今どこで戦っているのかを念頭に入れてなかったようだった。 その背が木の幹によって阻まれたのだ。
 サリアが剣から視線を逸らして左右を確認したその一瞬の隙をセレドが見逃すはずもない。返し手で下から剣を振り上げ、 サリアが逃げる間もなくその首に剣を突き付けた。
「セレド! やめろよ!」
 やっと足が動いた。二人の間に割って入る事なんてできず、ただ呆然と彼等を見ている事しかできなかった。 ふらふらと情けない足取りで二人へ近づき、セレドの腕を掴んで剣を退かせようとした。
 サリアが騎士となって王宮に勤めるようになってから、ミリーネがよく笑うようになった。 カラナス侯爵は平民出のサリアがミリーネと友達のように話すのを快く思っていなかったが、ミリーネは彼女を慕い、 セレドもそれを好ましく思っていた。どうしてそんな相手を途惑いなく斬れるものか、そんなはずはないのに。
「お前も抵抗しろよ! 騎士だろう?!」
 セレドにこんな酷い事をさせないで欲しかった。止められるのは、彼女だけだ。
 しかしサリアは俺に一瞥もくれず、ただ真剣な眼差しでセレドだけを見つめていた。その喉に薄っすらと血が滲むが、 彼女は動じる事なく恐ろしいまでに燃える翠玉の瞳でセレドを睨んでいた。
「イルーダ、すごい傷ついてます。どうしてこんな酷い事をしたのか教えて下さい。 あたしはそれが知りたくてここに居たんです」
 喉元に剣が押し付けられているのを全く気にする事なくサリアは喋った。喋る度に剣が食い込むような気がして、血の気が引ける。
「……イルーダには悪い事をしたと思っている」
 セレドは無表情だった。ただ、血の滲むサリアの喉元をじっと見つめていた。
「じゃあ、ちゃんと話して下さい」
「そんな義理はない」
「殿下はあたしとイルーダの間にあった経緯を知ってるじゃないですか。あたしは、殿下だから喋ったんです」
 セレドの身体が少しだけ揺れ、憐れみの感情が目許に浮かんだ。
「あたしには知る権利がある。あたしはイルーダの為なら、――貴方だって殺せる。それを知ってるくせに」
 今まさに首を切り落とされかねないような状況にいるくせに、サリアにはセレドを殺す事がいつでもできるといった気迫があり、 急にこの女が恐ろしい魔物のように思えてきた。そう気づけば、 額に玉のような汗が浮かぶ。追いつめられているのは彼女ではなく、セレドなのだ。
 しかし、セレドは全く警戒することなく語りだした。その表情に影が差す。
「ミリーネがクラメンスに降嫁する話はお前も知っているだろう? それを阻止する為に、私がクラメンスの王女を娶る計画を立てた。 だから、――イルーダを娶れなくなった」
「それって、姫様の身を案じてですか?」
「それもあるが、ミリーネはブライトを好いている」
「殿下。いくら姫様がブライト様を好きだといっても、ブライト様は? 姫様は十五歳でブライト様は二十五歳なんですよ?  失礼ですが、ブライト様から見たら姫様は子どもなんじゃないですか?」
 ちゃんと普通に喋れるんじゃないか――。そう思いながら、二人のやり取りを見守った。 けれども、いつでもセレドを守れるように近くにいるはずの樹木の精霊に魔力を与えた。 首に刃を付き付けられているのはサリアではない、セレドなのだから……。
「別にブライトじゃなくても良いのだ。ミリーネが好きになって、その上で信頼に足る人物であれば――」
 セレドはそこまで喋ると息が詰まったように苦しげな表情を浮かべ、サリアから視線を逸らした。
「ずっと、考えないできていた。けれども、アデル公が亡くなった時に思い知らされたのだ。 ――父も祖父も、三十になる手前で病に倒れた事を」
 セレドの腕を掴む手に、微弱だが震えを感じた。それは父の死について自分が震えたからなのか、 それともセレドが震えたからなのか、判断できなかった。
「百年前の焼き討ちにあった村の呪いで、王族の男は若くして病に倒れるだなんて噂が囁かれているが、 ファロン高司祭に言わせれば、血に刻まれた病気を受け継いでいるに過ぎないそうだ。 それが私の身体も蝕むかもしれない。そうなれば、父のように親友の死すら知らされないような状況に隔離される。 ミリーネに何かあっても私の耳には入らず、助ける事もできなくなる。――だから、 私はミリーネを信頼のおける奴に嫁がせたいのだ。私が――病に倒れてミリーネに何もしてやれなくなっても、 私の代わりにしっかりとミリーネを支えてくれる者に――」
 血を吐くようなその独白に、胸が締め付けられる思いだった。
 一度だって祖父君や父君に襲いかかった病気について、いつか自分の身も蝕まれるのではないかという恐怖をセレドは語った事がなかった。 それは語らなかったのではなく、語れば――考えればそれが現実となりそうで怖かったからなのだと、 今更ながら気づかされた。セレドも恐れていたのだと、はじめて知った。
「それにイルーダには、いつか病に倒れるかもしれない私なんかよりも、もっと健康で相応しい相手がいる」
「……セレド」
 頬にかかる柔らかな髪が表情を隠した。自分の本心を語らない奴だ、語った後の顔を見られたくないのだろう。
――親友だなんて、名ばかりだな……
 自分には本心を語ってくれなかった。そして、こんなふうに苦しんでいる事に気づいてやることもできなかった。 考えればその恐怖など分かりそうな事なのに……。
 悔しさに、手にちからがこもった。セレドの腕を掴む指にもちからが入り、セレドが驚いたのが腕越しに伝わった。
――気づいてやれなくて、ごめん……
 それを口に出す勇気はなかった。セレドを侮辱するような気がして、できなかった。 だから、代わりに心の中で謝るから。本当に、ごめん……。
「んー、わかりました」
 そんな脳天気な声と共に、わざとらしい大きな溜息が聞こえた。場の空気にそぐわないサリアの態度に、腹がたって睨みつけた。
「護身術はあたしが教えてあげますよ。ついでに帝国への護衛もあたしがしてあげます。うん、そうしよう。あたし強いし」
 拳を振り上げて急に一人盛り上がる。剣は喉元にあるままだ。どんどん血が流れて軍服の首元を汚しているのだが、 関係なくはしゃいでいる。
「何を言っている! お前を信用できる訳ないだろう?!」
 セレドの厳しい批難が飛ぶと、サリアは不満げに片頬を膨らませた。
「それって、アタシがララド生まれの魔力無しだからですか? それともヒューの部下だから?」
 顔をセレドへ寄せようとする為に、どんどん首に剣が食い込んで行く。その気持ち悪い光景に眩暈がした。
「私が生まれや魔力で人を判断する人間だと思われているなら心外だ」
「なら、信用して下さい、としか言えないです。あたしにとっての優先順位はヒューへの報告よりもイルーダの幸せですから」
「私のしている事は、イルーダの幸せとは掛け離れているが?」
「すごーい自信家。別にあたしはイルーダの幸せが殿下との結婚だとは思ってないですし。でも、 イルーダを傷つけたんだから、その分ちゃんと納得のいく結果を出してもらいたいんです」
 サリアは歯を見せて笑った。セレドは不服そうな表情でしばらく考え込んでいたが、溜息を吐くとすんなりと剣を引いた。
「わかった。信用する。お前は馬鹿だが、真っ正直で嘘がつけないと知っている」
「馬鹿は余計ですぅ」
「それに、ヒューに報告する気ならこうしてこちらに姿を見せたりしないだろう。あのままでいれば私に気づかれずにいられたのだから」
「でしょー?」
「とりあえずヒューに不審がられないよう、レセンにサリアを紹介したのは私という事にしておくといい。 理由はさっき話したように、『ジェノに一矢報いたいから』でいいと思う」
「それなら皆協力してくれると思う。国一の騎士はジェノライト・アリスタじゃなくて、ヒュー・イングラムだって皆信じてますもん」
 組んだ両手を頬に寄せて甘ったるい声でそう言うサリアはまるで夢見る乙女のようだ。 警邏隊の凛然とした軍服が贋物ではないかと疑いたくなる。
「国一の騎士はダリル・フォスターだ」
 セレドがぼそっと呟いたのが聞こえて苦笑した。そこは捻くれずに堂々と言えば、ダリル将軍だって報われるだろうに。 しかしそうでないからこそ、セレドらしいとも言えるのだが。
「では、サリア・クーベルの名にかけまして、レセン・ラヴィン公爵弟を一人前の剣士にしてみせましょう! 殿下、お楽しみにー!」
「待て、俺は別に剣士には――」
 サリアの、女とは思えないもの凄い力にずるずると引っ張られながら、セレドを振りかえった。 奴は天使のような笑みでこちらに手を振っている。先ほどの状況が嘘のようで、どこかほっとした。
「ほらぁ、ちゃんと歩いて下さいってばぁ」
 いつまでも引っ張られているのも格好悪い。サリアの腕を振り解くと自分の足で彼女の隣りを歩いた。 けれども、なんとなく気になってもう一度セレドを振りかえった。
 奴はこちらに背を向けて池の方を見ていた。その背がひどく弱弱しく寂しげに見え、ぐっと息を飲んだ。
――あんなふうに考えていたなんて、知らなかった……
 病に倒れるかもしれない自分よりも、もっと健康な相手がいる。イルーダを諦めることができたのは、 そんな悲しい理由を思いついたからなのかもしれない。
 エルムドアへ行ってクラメンス人に書簡を渡して良い返事が貰えても、セレドが幸せになれるわけではないのだと意識して、 やっとこの計画の理不尽さに気づかされた。
――本当に、本当に、これでいいんだろうか……?
 国の為に自己を捨ててこそ、王族の証。そう断言するのはカラナス侯爵だ。その考えにずっと影ながら反発してきた。 だから、ミリーネが己を捨てなくても良いよう計らうセレドを手伝ってやりたいと思った。深くは考えなかった。 セレドはただミリーネの為にイルーダを諦めたとしか考えていなかった
――セレドはミリーネとイルーダの為に、己を捨てたんだ……
 それが出来たのは、セレドが強いからだけではない。自らの運命を見越して心を殺したに過ぎないのだ。
 その悲しい決断に、息が詰まった。何もできない自分に憤りを覚える。
 セレドはイルーダが好きだった。彼女が円卓騎士となった三年前からその姿を目で追うようになって、 言葉や刃を交えるようになり、冗談まじりに口説くようになった。最初こそ突っぱねていたイルーダも、 次第にセレドのペースに心を乱されていくさまが伺えた。イルーダも、セレドが好きだったと思う。
――何が、自分の力を試す、だ……
 馬鹿みたいに意気込んださっきの自分を絞め殺してやりたかった。きつく唇を閉じて、慟哭しそうになる自分を抑えた。 隣りにサリアがいて良かったと思う。ちらちらと視界に入り込む赤毛が現実を忘れずにいさせてくれる。
―― 一番泣きたいのは、セレドなはずだ。しっかりしろ、レセン!  何か良い策はないか考えるんだ……!
 両の拳を強く握り締め、喉の奥に込み上げてくる熱に耐えて前を向いた。自分の為にも、 セレドのプライドの為にも……。


(2006.7.24)

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