墓と薔薇

7章 現在を支配する過去(6)

 汚れのない真白い壁、ブロンズレッドの絨毯、所どころに置かれた明かりよりも輝いている黄金の 燭、朱色と橙色に彩られた太陽と黄砂漠を模した斜め掛けのタペストリー、複雑な紋様を煩いぐらい 描き込んだ白磁の壷。まるでイスラフルへと迷い込んでしまったかのように感じるが、ここは完全に カーリアの首都。アリアバラス海峡沿いの倉庫群に建てられたハバート商会の事務所だ。
 ハバート商会の組織を固めるのは生粋のイスラフル人だけであるからか、建物の内装は赤や橙、 黄金を基調とした派手でやや目に優しくないものとなっている。エントランスに控える受付嬢 の手元の羽ペンの軸とインク壷までも黄金色だ。
 蒸すほどの室温にデュシアンは少し息苦しくなり、首を覆っていたファーを外す。涼しげな顔 で座す受付嬢はノースリーブのシャツを着ており、まるでこちらが季節感がないように思わされて しまう。
「いらっしゃいませ」
 黒髪がさらりと揺れ、瑞々しいベージュの唇が微笑みの形を作る。そんな褐色の美人受付嬢に 見惚れながら身分を明かして要件を告げると、彼女は一旦奥の部屋へと引っ込んでしまった。
 一人エントランスに残され、しばらく暑さに茹るようにぼうっとしていると、受付嬢が消えた扉から 、カーリアで好まれる詰襟の服を着たイスラフル人の男が出てきた。服装に合わない二巻きされた厚手 の紺ターバンが重いのか、細い首がぐらぐらしている。イスラフル人の特徴はなんといっても健康的 な褐色の肌と筋骨隆々の強靭な肉体だと思っていたが、現われた男は肌は褐色なれど分厚い黒縁眼鏡 をかけた猫背で脆弱な肢体の持ち主だった。こんな見るからに弱弱しい男の人もいるのだと、 デュシアンは何故か感心してしまう。
「お初にお目にかかります、ラヴィン公爵閣下。わたくし首都代表代理 アシル・アクバと申します。どうぞお見知りおき下さい」
 不健康そうな顔色のその男は早口で捲し立てるように自己紹介をすると、 頭を深く垂れた。デュシアンもなんとなく流されて、頭を下げてしまう。
「本日は首都兼レムテスト支部代表のマニ・ハバートがおりますので、是非お会い頂け ませんでしょうか?」
「マニ・ハバートさん? あ、はい。お会いしたいです」
 先月レムテストのアイゼン家別宅にて会ったあの派手な衣裳の美女を思い出す。リディス・ フォスターが肉感的な魅力に溢れた美女なら、マニ・ハバートは健康的な色気のある美女とでも 表せば良いのだろうか。不意に、ウェイリード公子と彼にしな垂れた彼女の様子までも鮮明に思い 起こし、ドキドキするような、けれどもモヤモヤするような感覚が胸に沸き起こった。
――公子には、ああいう派手目な美人が似合うんだなぁ……
 漆黒を纏う威風堂々とした公子の傍には同じくらい洗練された大人の女性がぴったりとはまる。 年上のマニが傍にいてもそれが少しも見劣りしないのは、流石と言うべきなのだろう。
 なんとなく視線を落とし外套に隠れた自分の胸を見て、デュシアンはやるせない気分となった。
「アシル代表代理、今はベアトリーチェ様が――」
 カウンターへと戻った受付嬢が困惑したようにターバン男に耳打ちする。それが デュシアンにも届き、顔を上げて二人のやり取りを眺めた。
 アシル代表代理と呼ばれたターバン男は肩をすくめると受付嬢を振り返った。
「ラヴィン公爵閣下がおみえになったのだから、お引取り願えばいい。マニ代表もベアトリーチェ 様にはほとほとお困りの様子だ」
 デュシアンに対する下手にでた態度とは一片して、きびきびとした口調と鋭利な視線で 受付嬢を黙らせた。
――ベアトリーチェ?
 その名にデュシアンは首を傾げた。
 ベアトリーチェとはアイゼン家の分家ブランシール家の子女の名だ。ウェイリード公子や カイザー公子の従妹にあたる、黒髪の美少女。確かアイゼン家はハバート商会と懇意に していると聞いている。だとすれば、彼等が口にしたベアトリーチェとは彼女の事に違いない。
「あの、先客がいらっしゃるのに宜しいのですか?」
「ええ、全く構いません。どうぞこちらへ」
 商売で貼り付いてしまったのであろう胡散臭い笑顔で促され、デュシアンはだんだんと 申し訳ない気分となってきた。
――ラヴィン家はお金持ちじゃないのに特別扱いされてもなぁ……
 ≪北の公≫の公務のせいで名前だけが先行し、アイゼン公爵家やカラナス侯爵家、レニス公爵家、 ホルクス伯爵家らと共に歴史深い名門貴族の固有名詞として名を連ねてはいるが、他の家と違って ラヴィン家は土地や私財をほとんど持たない貧乏貴族なのだ。商売相手だと思われて丁重に扱われても 困ってしまう。
 後できちんと言わなければ――デュシアンはそう胸に秘めながら、アシルの後を追って階段を 昇った。


「失礼します。マニ代表、ラヴィン公爵閣下がお見えになりました」
「ラヴィン公爵? デュシアン・ラヴィン公爵?」
 ドアを開けると右手のデスクに秘書と思われるイスラフル人の女性が座っていた。しかし今の 声は彼女のものではない。
 アシルに促されて秘書のデスクを素通りし、室内を半分以上隠した衝立の向こう側へ まわると、壁の半分以上を占める巨大な窓辺に佇むハバート商会カーリア代表のマニ・ハバートと 出くわした。今日もイスラフルの伝統的な衣裳を身に纏っている。室内とはいえ冬にお腹を出した 格好をしている人間はカーリア国内探しても彼女ただ一人ぐらいだろう。
「ラヴィン公じゃん」
 マニの隣りに立っていたポニーテールの美少女が軽い挨拶に手を振った。先ほど話にあった ベアトリーチェ公女だ。彼女は貴族の娘らしからぬ丈の短いスカートを履き、細く華奢な素足を 晒している。珍しい令嬢だなと思いながらデュシアンが無作法にも観察してしまうと、向こうも 吊り上り気味のくっきりとした大きな目をキラキラさせて悪意無くこちらを観察していた。
「いらっしゃい、ラヴィン公爵閣下」
 にっこりと微笑んだマニへ視線を移し、デュシアンは「お久しぶりです」と礼をした。
「ごめんなさいね、アシルが強引に連れてきたんでしょう?」
「いいえ、レムテストでは碌にご挨拶できずにお別れしましたので、願ってもない機会でした。 アシルさんにお声をかけて頂けて助かりました」
「なら良いのだけれど」
 安心したように肩を落とし、マニは微笑んだ。
「その節は、お世話になりました」
「いいえ。でもあの時は驚いたわ。朝起きたらアナタ居ないんだもの」
「す、すみませんでした」
 慌ててデュシアンが謝れば、マニはころころと笑った。
「少しは商売のお話でもしようと思ったのに、残念だったわ。おまけにウェイも居なく なっちゃったし。聞いたかしら? ウェイったら、アナタがこっそり出て行くんじゃないかって なんとなく分かってたみたいで、女中たちに見張らせていたんだから」
「え?!」
 驚きに口許を押さえると、マニは肩をすくめて軽く小首を傾げた。
「ギルドでウェイに捕まって、不思議に思わなかった?」
「思いました」
「でしょ」
 言われてみれば、とデュシアンには思い当たる節があった。朝方のあんな時刻に外へ出ようとした のに、女中さんは玄関を開けて送り出してくれたのだ。泳がせるよう指示があったからこそ、 彼女は何も聞かずに外に出してくれたのだろう。
「でも、なんか公子って魔法とかで何でもできちゃいそうで、だから見つかったのかなって思い ました」
 後頭部を擦りながら苦笑いを浮かべた。
 なんとなくだが、なんでもできてしまいそうな印象がウェイリード公子にはある。事実、 ピンチをよく救ってくれているのは彼だ。視察で失敗をして北の守りで倒れた時や北の守りの亀裂を 塞ぐ為に維持魔法をかけて気を失った時などに外へと運んでくれたのは彼であるし、 ブラウアー子爵に襲われた時に助けてくれたのも彼だった。失った書類を見せてくれたのも、 リディスの闇の魔法に当てられた時にこちらの変化に気づいて引っ張ってくれたのも彼だ。
――あの時……
 引っ張られた時にバランスを崩して随分と至近距離で顔を合わせた。すぐにも離れはしたが、 もたれてもびくともしない逞しい胸板の感触を覚えている。ごく傍で見た瞳の色は完全な灰色では なく青みがかっていて――。
 どくん――心臓が大きく跳ねた。急激に顔が暑くなる。思考は付いていけていないのに、感覚だけ 先走ってしまっている。自分がこうなった理由は何なのか、それを考えようとデュシアンは思い至った 時、マニが話を戻した。
「ここに来たって事は、何かハバートに用事があるからかしら?」
「あ、はい。お願いがありまして」
 暑さに顔を扇ぎながら頷いた。
「何かしら? 私は一応レムテストと首都の代表を兼任してるのよ。公爵閣下の お願いでしたら何なりとお聞きしますわ」
 男性が貴婦人を敬うような仕草で胸に片手を当ててお辞儀をし、顔を上げたマニは悪戯っぽく 微笑んだ。艶っぽい仕草や声色ではあるが、マニの芯には媚び諂ったものが感じられない。そんな 気質が好ましくて、デュシアンもつられて微笑んだ。
「実は、船に乗せて頂きたいのです」
「船? 海峡を逆流とか言わないのなら構わないわよ。どこまでかしら?」
 あまりに簡単な了解だった。もっと色々と詮議があるものと構えていたのに 拍子抜けしてしまう。
「ラレンシア地方に行きたいのです。その辺りの船着場までお願いしたいのですが」
「ラレンシアね。ラレンシアのどこへ行くの? あそこは大きな領地だから目的地によって 一番近い船着場が違うわ」
「――ロアの村、です」
 その名を口にしただけで喉がかっと熱くなった気がした。
「ロアの村なら、最近出来たばかりのアーリンバルが一番近いと思われます」
 静かに成り行きを見守っていたアシルが口を挟み、ひょっこりと衝立の向こうから顔を出した秘書の 女性がさっと地図を広げてアーリンバルと記載された船着場を指差した。そこから目算するに、 ロアの村へは半日もいらない距離だろう。
「ここ数日中の中型貨物船航路リストです」
 手際良く資料を渡してくれる有能な秘書に礼を言いながら、マニはしばらくそれを目で追った。
「ロアの村に何しに行くの?」
 マニとアシルが資料に目を通している間、今までつまらなそうに頭の後ろで手を組んで窓の外を 眺めていたベアトリーチェが話しかけてきた。
「所用がありまして――」
「所用?」
「え、――と。陛下の頼まれ事です」
「ビビ。そういう事は聞くものじゃないわ」
 言葉を濁らせるこちらに気づいたのか、マニがぴしゃりとベアトリーチェの好奇心を跳ね 退け、そして資料から目を離した。
「アーリンバルに停泊する船はここしばらくずっとあるわね。好きな時間の船を選んでいいわよ。 ただ、帰りは乗せてあげられないけど、それでも構わない?」
 マニが話す間にアシルが手早く船の時間帯を書き写し、その紙をデュシアンに渡してくれた。
「やっぱり帰りは無理ですか?」
「行きの船は私かアシルが見送りするから問題ないけど、帰りとなる船にアナタの顔を知っている者が 乗っているとは限らないからね。アナタのふりをした盗賊を乗せる可能性を考えて、 帰りは無理。船の安全が最優先だからね。力になれなくてごめんなさいね」
「いいえ。行きだけでも乗せて頂ければ十分です。ありがとうございます」
「アーリンバルに着く時間を考えると夜間航海になるかもしれないから一応聞くけど、護衛は何人 ぐらい連れて行くつもり? 大抵の船は貴方を入れて三人ぐらいまでなら寝床の心配はいらないと 思うわ」
「船の交渉が終わってから護衛を頼むつもりだったんです。三人ぐらいですね、検討してみ ま――」
「あー!」
 全てを言い終わる前にベアトリーチェが叫び声を上げた。度肝を抜かれ、デュシアンは言葉を 止めて彼女を見た。
「あたしが護衛したげるよ」
 ベアトリーチェは人差し指で自分を差した。
「え?」
「は?」
 呆気にとられる面々を気にする事もなく、ベアトリーチェは思いついた名案ににこにこと 満面の笑みを浮かべている。
「あたしが一緒なら帰りの船も乗れるでしょ。船乗りは皆アイゼン家関係者の顔知ってるし、 あたし強いし、あたしも念願の旅ができるし、良い事づくめじゃん!」
「え?」
 一体どういう事なのだろう? 念願の旅、とは?
 デュシアンは困惑し、マニへと視線を向けて助けを求めた。しかし彼女は額に手を当てて 苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちしている。
「しまった……。追い出しておくんだった」
「そーしようよ、ラヴィン公!」
 急にベアトリーチェに片腕をぐいと掴まれて、肩が外れそうなほど激しく左右に振り回された。 頭もぐらんぐらんと動き、目が回る。
「待ちなさい! ビビ、まずはアナタのあの過保護な保護者たちの了解を得てからよ」
 マニが、慌てたように厳しく一喝した。彼女はやや気が動転しているようだ。
「あたし成人してるし!」
 ベアトリーチェは不機嫌そうに薄い唇を尖らせながら反論した。
「アナタがそう思っていても、あいつらはそうは思ってないの。あの馬鹿兄たちに聞いて きなさい」
「えー……。わかったわよ。行くよ、ラヴィン公」
 しばらく考え込んでから溜息を吐き、しぶしぶとデュシアンへ暗い表情を向けた。
「え? 行くって、どこへ?」
「決まってんでしょ、アイゼン家よ」
 言うが早いが、ベアトリーチェはデュシアンの腕を取ると強引に歩き出した。
「あ、あ、あの、ベアトリーチェ公女?! え、え、えーと、マニさん、アシルさん、 失礼します。護衛が決まったら、また来ます」
 引っ張られる力に抵抗しながら最低限の挨拶をすると、ベアトリーチェの強硬な姿勢に負けて ずるずると連行された。
「またいらっしゃい、いつでも大歓迎よ」
 マニ・ハバートのそんな声が、閉まる寸前のドアの向こうから聞こえたような気がした。



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「駄目だ」
 当たり前だよね――二人の厳しく微塵の妥協も許さない声がぴたりと揃って一蹴した時、デュシアン はそう思った。
 強制的に連れてこられたアイゼン家の客間にて、ベアトリーチェ公女が一言『ラヴィン公の 護衛で船に乗りたい』と発すると、呼び付けられた二人――つまりはマニの言う≪保護者≫の ウェイリード公子とカイザー公子は、一気に険しい表情となった。
「えー、なんで?」
 頬っぺたを膨らませて地団駄を踏んでいる彼女は本当に子どものようだ。脱ぐ時間も惜しかった のか、ピンクの外套が彼女が足を踏み鳴らす度にひらひらと揺れている。
 わたしには分かるのに、何故従妹の彼女には分からないのだろう――デュシアンは呆気にとられ、 横に座るベアトリーチェを見つめた。
 彼女は貴族の娘、アイゼン公爵家分家の令嬢だ。誰かの護衛があって外に出掛ける事はあっても、 誰かの護衛をする為に外へ出かけるなど言語道断な事だろう。
「ここん所マニのとこに入り浸ってると思ったら、お前やっぱり船に乗る気だったんだな」
 椅子に深く腰をかけたカイザー公子は、前屈みになって髪をがしがしと掻き乱した。
「マニには注意を呼びかけていたのだが……」
 右のウェイリード公子は額に手を当てて大きく溜息を吐いている。
 二人の性質をよく現したその怒りの様子にデュシアンは少し興味を引かれつつも、 慌てて頭を下げた。
「すみません、わたしが軽率に――」
「なんでラヴィン公が謝るのよ」
 不満そうな声と共に、ぐいとベアトリーチェに外套を掴まれた。デュシアンは引っ張られた方向に 軽くバランスを崩し、椅子から滑り落ちそうになる。驚いて身体を立て直しもう一度顔をあげると、 ウェイリード公子の厳しい視線がこちらを批難するように向けられているのに気づかずには いられなかった。冷水を頭から浴びたかのような感覚になる。
「そもそも君はビビに護衛を頼みたいのか?」
「まさか!」
 普段のウェイリード公子の険峻さに輪をかけた態度と威圧的な視線はとても恐ろしく、デュシアン は両手と首とを思いきり横に振った。勢いよく振り過ぎて首の筋が痛み、泣きそうになる。
「ベアトリーチェ公女に護衛を頼むなんて失礼なことは思ってもみない事です。護衛はラシェが捜して くれるので――」
「でも、あたしが一緒なら帰りも船に乗れるんだよ?!」
 痛む首を擦るその手を掴まれてぶんぶん振られ、デュシアンはまたも椅子からずり落ちそうに なった。
「ラヴィン公だけだったら帰りは歩きだよ? ラヴィン公ってば可愛いから、盗賊とかに出会ったら 姦されて売られて、ララドの気色悪いオヤジに買われて毎日酷い目にあうよ?」
「ビビ!」
「お前、また変な本読んだな?」
 ウェイリード公子は酷く恐ろしい形相で咆えるように咎め、カイザー公子は引き攣った顔で額に 手を当てた。
 『やはり部屋のチェックをしなければならないか』とカイザー公子が小さく呟いたのを 耳聡くデュシアンは捕らえ、ラシェならば絶対にそんな事を考えないと思った。 これは相当な≪馬鹿兄≫だ。マニが≪保護者≫と揶揄したのもよく理解できる。
――……それにしても、ララドの気色悪いオヤジ、か
 過去に二度ほどララドの奴隷市場で売られ済みだった。一度目は魔道師としての資質を買われ、 二度目はメイドとして買われた。性的な目的には満たない年齢だったのもあるが、しかし二度目に 買われた屋敷の主が『もう少し育ったら……』と言ってこちらを見ていたような記憶もちらほら あった。ねちっこいその視線を思い出し、ぶるりと身震いが起きてデュシアンは肩を抱いた。
「ほら見ろ、ラヴィン公もお前の発言で震えちまったじゃねぇか!」
 カイザー公子が少し苛立った口調で咎めたので、デュシアンは首を振って否定した。
「あ、いいえ。大丈夫です。それにララドの奴隷は性的な目的だけではありませんし――」
「は?!」
 またも双子の声が重なった。二人は呆気にとられた表情でこちらをまじまじと見つめてきている。 何がいけなかったのか。デュシアンは頭の中をひっくり返して自分の迂闊な発言を探したが、 彼等が何故反応したのかいまいち理解できなかった。
「えーと、あの、その、ラシェが信頼している方を護衛に頼むので、 盗賊に遅れをとるような方にはならないかと思いますから、大丈夫です」
 冷や汗が背筋を流れた。シドロモドロになって弁明するが、二人はまだその似た顔でじろじろと 見つめてきている。しかしすぐにもベアトリーチェの声に集中を裂かれたようだった。
「ちょっと、聞き捨てならない! あたしは盗賊に遅れをとるって言いたいの?!  だいたい何よ、あの冷血男の信頼している奴とかって! すっごい信頼おけないじゃん!」
「え? あの、冷血って、ラシェの事ですか?」
 言いえて妙なので、つい口許が笑ってしまう。確かに冷血漢だとは思う。けれども、優しいところも たくさんあると、デュシアンは知っている。
「あたしの力なら盗賊三十人ぐらい一瞬で消し炭にできるんだから!」
「胸張って人殺しの宣言をするな!」
 カイザー公子の怒声が室内の硝子に響く。ウェイリード公子は怒りにかえって蒼白になって いる。そんな二人の様子に自分が怒られているわけではないのに、デュシアンは身を縮こませた。
 しかし怒られている当人はどうもそれを意にかえさないようで、膨れっ面をさげているだけだ。
「だって首都に居てもつまんないんだもん!」
 だん、とベアトリーチェはテーブルを強く叩いた。
「じゃあ公爵領に帰ればいいだろ!」
 応酬するように、カイザー公子もテーブルを叩いた。
「あんなトコ、もっとつまんないし。あたしは船に乗りたいの!  だいたいあっちには今月の終わりにウェイと一緒に帰るもん」
「あー、早く今月末にならねぇかな」
 両耳を塞ぎながらカイザー公子は面倒くさそうに呟くと、ベアトリーチェは噛みつくかのように 咆えたてた。
「どーいう意味よ! 何よ、帰る前にエルに公爵領にはカイザーが手をつけた女が山ほどいるって 言いつけてやる!」
「嘘をつくな!」
 慌てたようにカイザー公子は立ち上がって身を乗り出した。表情は真剣そのもので怖い ぐらいだ。けれどもベアトリーチェは舌を出してくすくすと意地悪く笑っているだけだ。
「嘘じゃないじゃん」
「山ほどじゃない!」
「じゃあ小山ほど」
「お前――。昔の話だろうが……」
 顔を引き攣らせて口許を歪めるカイザー公子は怒っているというよりも、焦っているように 思えた。
「修道院育ちのエルが、昔の事だからって簡単に片付けてくれると良いねー」
「――ウェイ、なんとかしろ……」
 よわりきって椅子に力無く座ったカイザー公子は、部外者を装う相方に助けを求めたが、 彼は心底呆れたように溜息を吐いただけだった。
「お前の昔の事はそのうちばれる話だ。お前が彼女と結婚する気ならな」
「くそっ」
「うわー。修羅場、たのしみー!」
「ビビ。お前は口を慎め。客人の前だ」
 まるで父親のような厳格さでウェイリード公子は咎めた。
「ラヴィン公って客人って感じじゃないよね、なんか」
「ビビ」
 ベアトリーチェは唇に指先を当てながらそう呟けば、ウェイリード公子の厳しい叱責が飛んだ。
「それで護衛の件だが――」
 反れてしまった話を戻そうとウェイリード公子が切り出した時、それを恐れていたかのように ベアトリーチェは慌てて口を挟んだ。
「ウェイー、駄目? 国王陛下の頼まれ事なんだって。それにも心惹かれるの」
「陛下の?」
 頭を抱えて苦悩していたカイザー公子が勢い良く顔を上げてデュシアンへと視線を向けてきた。 どうやら好奇心をくすぐったようだ。
「ええと、その、そんな感じです。父と陛下の間にあった会話に関わる事ですが、そんな 大事ではなくて、寧ろわたしと父に関わる事なので――」
「アデル公に……?」
 今度はウェイリード公子の興味を引いたようだった。
「極秘任務なんでしょう?!」
 わくわくした様子を隠そうとはせず、ベアトリーチェはにこにこと微笑んでいる。どうやら 完全に彼等三人ともの関心を引いてしまったようだ。
「そんな大それたものでは――」
「どこへ行くのか聞いてもいいか?」
「東カーリアの南東部です」
 はぐらかせば良かったのについ行き先を滑らせてしまったのは、個人的な事柄に興味本意では 首を突っ込まないであろうウェイリード公子が率先して尋ねてきたからだ。
「ラレンシア地方のロアの村でしょ?」
 ベアトリーチェは不思議そうにそう付け加えた。
「ラレンシア?」
 本日三度目、二人の声が重なった。流石に気になったらしく、ウェイリード公子は片割れを ちらりと睨みつける。
「え、あ、――はい。ベアトリーチェ公女、それからお二人も、場所はできれば内密にお願いします。 ――家の者にも話しておりませんので」
 ウェイリード公子はラシェと懇意にしている。そこから漏れたら元も子もない。デュシアンは 自分の迂闊さを呪った。
 しばらく気まずい沈黙が流れた後、口を開いたのは思いもかけずウェイリード公子だった。
「……君の護衛はまだ決まっていないのだったな」
「はい」
 頷くと、ベアトリーチェが文句を言いたそうに身を乗り出しかけたが、ウェイリード公子は それを手で制した。
「ならば私がビビと共に君の護衛を引き受けよう」
「ウェイ?!」
 甲高い歓喜の声と、怒りの混じった批難の声が同時に名を叫んだ。
 名を呼ばれた本人は涼しい顔で、険しい表情を浮かべる片割れへと視線を向けた。
「このままビビの不満が蓄積していけば去年のように一人で船に隠れ乗る可能性がある。それだけは 避けたい、というのが私たちの見解だろう? ならば今回の護衛を引き受けてビビの欲求を満たし、 行き過ぎを傍で抑制すればいいだけのこと」
「――それも、そうだが……」
 カイザー公子の反論が頼みの綱であったのに、彼は相方に諭されて考え込んでしまった。このまま では彼も懐柔されてしまう。デュシアンはなんとか思い留まってもらおうと試みた。
「あの、その、そもそも公子と公女に護衛してもらうなんて、そんな大それた事をお受け できません」
 彼等はただの貴族の子息子女ではない。国一とも過言ではない大貴族の嫡子とその従妹なのだ。 そんな二人に護衛をしてもらうなど、考えられない。
「……君は随分と身分にこだわるのだな」
 気に障ったのか、やや呆れた表情でウェイリード公子は溜息を吐いた。
「――」
 きっと、誰かに隷属した事のない生まれもっての大貴族の令息には分からないのだ――そんな卑屈な 思いが胸を過ぎり、デュシアンは自分の心の醜さに恥じ入った。
――公子は、何もおかしな事を言ってない……。貴族とか、庶民とか、関係ないはずなのに……
 そう思っているのに、どうしてか貴族や権力への畏怖を拭いきれていなかった。どこかで貴族を 僻んでいるのだ。それは、首都に引き取られて貴族世界に馴染めなかった自分の弱さが引き金でも あるとデュシアンは薄々気づいていた。
――それなのに彼のせいにするのは間違ってる……
 俯いて唇を軽く噛み、自分を責めたてた。
「アイゼン家は元々騎士の家系なんだよ」
 穏やかに語りだしたのはカイザー公子だった。
 デュシアンは自己嫌悪から逃れるように彼を見つめた。
「第二の守護者の役目があるから魔道師の家系だと思われているけど、ご先祖さんの代からずっと 領地を守る為に当主自ら旗頭となって先陣を切る家系なんだ。その家訓に則って、アイゼン家と 分家のブランシール家の出身者は幼い頃から武術を叩き込まれて騎士となるよう育てられる」
「あたしも武術は必修だったのよ。サリア・クーベルなんかに負けないんだから!」
 とても強そうには思えない細い腕に力こぶを作り出すようにベアトリーチェは 腕を折り曲げてみせた。
 デュシアンはサリア・クーベルを知らないが、少し気持ちが楽になり苦笑を浮かべた。
「俺もウェイも研究者をしているが、領地に帰れば完全な神殿騎士だ。だからアイゼン家の人間は 貴族ではなく武人と表した方が正しい。つまり俺たちが街の外へ出る時は、誰かに護衛してもらう 立場ではなく、誰かを護衛する立場だという事だ」
「そう、なのですか……」
「公爵の爵位はカーリアと併合する為に便宜上付けられたもので、実際俺たちはアイゼン公爵領では ――」
 カイザー公子は隣りへ顔を向け、不機嫌そうな片割れを顎で差した。
「王子様だな」
「え?」
 話の流れから『一介の騎士に過ぎない』とかそんな言葉を期待していたデュシアンは、 唖然としてカイザー公子とウェイリード公子を交互に見たが、カイザー公子の表情が悪戯っぽ い輝きを増していくのを目の当たりにして、その意図を理解すると吹き出してしまった。
 風格は十分あるが、どう見てもウェイリード公子は優雅に茶を飲む印象の≪王子様≫と いう感じではない。彼の克己心のある厳粛なさまは、≪騎士≫という肩書きの方がずっと似合って いる。
「では、護衛は我々で良いのだな?」
 見計らったかのように、ウェイリード公子は一呼吸置いてそう尋ねてきた。先ほどのような刺々しさ は感じられない穏やかな口調だ。きっとカイザー公子のおかげなのだと、デュシアンは彼に 感謝した。
「はい。お願い致します」
 できるなら行きも帰りも船に乗りたい。もはや彼等の申し出に異議はなく、笑顔のまま 頭を下げた。
「……ただ、船の事で一つ気になる事がある」
 やや戸惑うように気難しい顔でウェイリード公子は顎に手を置いた。
「なんでしょうか?」
「詳細は分かってはいないのだが、最近クラメンス領海域で中型貨物船が襲われる事件が 二度あったそうだ」
「昨日のヨアヒムの話か?」
 カイザー公子が口を挟めば、ウェイリード公子はちらりと弟を見やって頷き、すぐにも デュシアンへと視線を戻した。
「どちらもリッツバーグ船籍の話であるからハバートのマニの耳にはまだ入っていないはずだ。 君は何も聞いていないだろう?」
「はい。あの、クラメンス領近海域で海賊が出たのですか?」
 クラメンス小国は東カーリア大陸の最東端にある。海賊が横行するアリアラム外洋からは 遠く、海賊が東カーリア沿岸にまで現われたという噂はない。それに、イスラフルと カーリアを行き来する貿易船ではなく、荷の少ない貨物船を襲うなど聞いた事がない。 アリアラムで積み込まれた貨物はアリアバラス海峡を北上してレムテストや首都カーリアでその 殆どを下ろされてしまい、海峡を抜けて東の沿岸沿いを進んでアリアバラス海峡入り江の街アリアラム へと帰るその船には貿易船ほど襲って得る物は積まれてはいない。それでも金品を積んでる事には 代わり無いが貿易船とは積み荷の価値に差が有り過ぎる。
「接近して積み荷を奪おうという意思はみられず、遠方から矢などで威嚇してくる程度のもの だったそうだ。二度とも霧深い時であったから、相手の船の規模や隻数を確認できずに終わった らしい。奴等を海賊と表してよいのかはまだ検討中だ」
「お前、やっぱり疑ってんのか?」
 カイザー公子が低く呟くと、ウェイリード公子は軽く頷いた。
「ヨアヒムも同意見だ。――とにかく、行きの船はクラメンス領の海域を通る。心配ならば帰りのみ 船に乗るという手もある」
「……」
 船を使わないで陸路を進めばロアの村まで最大で十日程度はかかってしまうだろう。入ったら いつ抜け出せるか判断できない迷宮の森ベイヘルン永遠平原を通らねばならないのだから。
「取り囲まれない限りは何艘いても問題ない。私は一応海戦を経験している」
 しばし考え込んでいると、ぽつりとウェイリード公子は呟いた。
「――あまり誇れる話ではないのだがな」
 そう言って肩を竦めた彼は微苦笑を浮かべていた。ほんの少しだけ上がった皮肉げな口許に、 デュシアンは急にどきどきとして魅入ってしまう。
「イスラフルへと帰る貿易船を待ち伏せている海賊がいるって密告があって、おとりの船をハバートが 出したんだ」
 詳しく話そうとはしない片割れに代わり、カイザー公子がにやっと笑って続きを語り出した。 しかしデュシアンはどうしてもウェイリード公子から目が離せないでいた。
「その船に二人で乗り込んで海賊船を沈める手伝いをした。海戦は矢や鉛の砲弾よりも大振りな 魔法の方が効果的だ。海の精霊に嫌われると邪魔されるけどな」
「海賊と、戦ったのですか?」
 そう尋ねると、ウェイリード公子は苦い表情になって肩を竦めた。
「だから、俺たちは騎士の家系なんだってば」
 顎を上げた得意げな表情でカイザー公子は胸を張った。
「あとで叔母様にすっごい怒られてたくせに」
「うるさい」
 カイザー公子がむっとしたようにベアトリーチェを睨んだ。
「あーあ、あたしも連れて行ってくれたら良かったのに!」
「馬鹿を言うな!」
 再度二人の声が重なり、ウェイリード公子は片眉を上げて顔を顰め、 にやにやと意地の悪い表情で視線を送ってくる片割れから顔を逸らした。
「ほんっと、ウェイってば往生際が悪いんだから。双子なんだから諦めればいいのに」
 横から呆れたような呟きが聞こえて、デュシアンは堪えきれずに笑ってしまった。
 声を上げてしまったせいで、無言の会話を繰り広げていた二人がこちらへ視線を戻してきたので、 デュシアンは慌てて咳払いを一つして真面目な顔を取り繕うと、
「陸路を進んでも盗賊の危険は付きまといますよね。――船で行きましょう」
何事もなかったかのように、そう提案した。
 ウェイリード公子は頷き、ベアトリーチェは船に乗れる嬉しさからかデュシアンに抱きついて きた。
「宜しくお願い致します」
 ベアトリーチェの見た目以上に力強い抱擁に身体中が軋むような音を聞きながら、デュシアンは ウェイリード公子へ頭を下げた。
 彼に守ってもらえるなら何も怖いものはない。父アデルに感じた万能感とは別の思いが、 デュシアンをそう思わせていた。


(2006.7.6)

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