ラシェが宣言したように、迎えの馬車が用意されてあった。王宮から外へと続く、滅多に開かれない城壁東門より外へと抜け、
デュシアンは気だるい体を軽い振動に預けながら物思いにふけた。
用意してもらった濡れタオルで顔を押さえたりもしたが泣いた痕はなかなか拭えなかった。
目も鼻もまだ少し赤らんでいる。このような酷い顔で宮殿を抜けて帰らずに済み、ラシェの気遣いに心より感謝した。
屋敷に着き玄関をひとたび開けて、デュシアンはそこに待ち伏せていた顔ぶれに驚き、足を止めた。
エントランス入ってその正面にはラシェ、そこから少し離れた階段よりの壁にレセン、その横で花瓶の手入れをしているイリヤが佇み、
厨房のある廊下からグレッグと年若い女中たちが、反対の通路からは老執事と年かさの女中たちが顔を覗かせていたのだ。
彼等の表情は一様に心配そうで、父アデルの過保護が伝染しているかのようだ。何故かデュシアンは吹き出しそうになってしまい、
そんな自分の心の余裕さに呆れてしまった。
(父様があんな調子だったから、皆にもその心配性がうつっちゃってるんだ)
幼子を相手にしているかのように何から何まで環境を用意してくれた父。娘が神殿で嫌な思いをしたと知れば、
「神殿なんて別に行く必要も無い場所だ」と笑って二度と連れて行かず、
社交の場で様々な感情の入り混じった視線に耐え切れず神経をすり減らしていると気づけば、
行かなくても良いよう計らい、かといって屋敷に閉じこもっていても健康に悪いからと、植物園での奉仕活動を勧めてくれた。
首都より北にあるバルバロッサ湿地帯へ連れて行ってもらった時に、その美しい自然を目の当たりにして喜んだ事を覚えていてくれたのだ。
いま思えば、あの湿地帯の深い緑と湖とを故郷の森に重ねて見ていたのだろうが……。
(ロアの、村……)
故郷の名を思い出すだけで恐怖心が胃を掴む。瞳を閉じて過去を振り返りそうになった時、
まるでそれを制止するかのような間合いで声を掛けられた。
「デュシアン――」
「おかえりなさい、デュシアン」
ラシェが代表してこちらの名を呼んだ時、他の声が合わさった。デュシアンは自然と顔を上げ、後者の声の方へと視線を向けた。継母だ。
吹き抜けの二階、手摺りへ手を預けた継母がこちらを見下ろしている。その表情は柔らかく慈愛に満ち溢れており、
デュシアンはこれから彼女に話さなければならない内容も忘れて心から安堵し、微笑み返した。
「こちらへ」
継母は二階の自室へと誘う。デュシアンは導かれるがまま階段を昇り継母の部屋へと入室し、
皆の物言わぬ視線を扉で遮った。背にした扉から誰かが入ってくる気配はない。
陛下の所には半刻ほど居たのだろうか。確認したわけではないが、まだまだ夕暮れ時には早い。
けれども空を覆う雲は切れ目無く、室内はどこか薄暗かった。壁に括り付けられた≪明かり取り≫へ手を翳し、
鮮明になった継母のその姿と一連の動作をデュシアンは静かに眺めた。
継母は本当に美しい人だ。とても十歳以上年齢が離れているようには思えない。しっとりとした肌には香油を滑らせてあり、
傍を通るとほんのりと芳しい香りがする。露出した額は綺麗なハート型で、
豪華な巻き髪はしっかりと手入れをされて常に輝いている。ほっそりとした面差しだが刺々しい印象はなく、
見た目通り朗らかで優しい女性だ。
(父様とセオリア様は、どうして……)
ふと、思い出したように継母がこちらを向いた。室内に入ってからずっとだんまりなのを不審に思われたかもしれない。
デュシアンは話さなければならない内容を慌てて整理したが、どこまで話せば良いのか分からず、
けれども継母の穏やかな瞳に勇気付けられるように成り行きに任せて口を開いた。
「陛下は、父が亡くなった事に気づいておられました」
「そう。でもいつか、そう遠くない日に気づかれてしまわれると分かっていた事なのよ」
別段驚く事もなく継母は納得したように頷き、
何か深い充足感を得たかのようにそのサファイアの瞳を閉じると上品な薄い唇に笑みを刻んだ。胸元に手を添えて祝福の言葉を小さく呟き、
決意の伺える瞳を開くとデュシアンに視線を戻した。
「では、陛下は貴方にお話になったのね?」
「え?」
「アデル様とラトアンゼ様の事よ」
継母の口から実母の名が出るとはデュシアンは微塵も予想はしていなかった。頭の中は真っ白になり、
みるみる血の気が引けていく。ふらりとよろけた拍子に近くのテーブルに腰を打ち、そこに重心を預けて体を支えた。
「――どう、して……」
「陛下も私もアデル様にずっとお願いしていた事なの。貴方にラトアンゼ様との事を全てお話しするべきだ、と」
継母はデュシアンの手を取ると部屋の中心にある白いソファへ誘導し、隣同士に座った。
身体をこちらへと向けて膝を突付き合わせ、その一挙一動見逃さないといった強い視線と姿勢で話を続けた。
「きっと貴方は不思議に思ったでしょうね、私の事を」
どきりと心臓が跳ね、デュシアンは継母をまじまじと見つめた。しかしどんな表情をして良いのか分からず、
眉根をしかめて口許を堅く閉じ、目を逸らしてしまった。
すると継母はくすりと笑って指を伸ばしてデュシアンの眉間に寄った皺を揉み解した。
顔を上げて目を見開らくデュシアンへ優しく微笑みながら、過去を振りかえるように瞳を閉じた。
「陛下がどのようにお話しになったか分からないけれど、多分正しい事をお話しされていると思うわ。
私とアデル様は元々許嫁だったの。
ラトアンゼ様が消えてから四年後にアデル様はお義母様の最期の願いを叶える為に結婚しなければならなくなった。
そしてラヴィン家の跡取りを儲けなければならなかった」
デュシアンは居た堪れなくなり、継母から視線を逸らした。つまり、≪その為≫に生まれたのがレセンだという事なのだから……。
(聞きたくない)
耳を塞ぎそうになる。けれども、当事者から話を聞かなければまた心をかき乱され、それを利用されるかもしれない。
そうならない為にも現実と向かい合う必要がある、自分には知る義務がある。
ぎゅうぎゅうと胸を締め付けてくる感情をそのままに、デュシアンは継母へと視線を戻した。
「アデル様に子が必要なら、それは自分が産みたいと思ったの。心の底から愛してもらえるわけではないけれど、
表面上は大切にして貰えるなら、そんな役を他の人に譲るのが嫌だったの」
継母はそっと瞳を開いた。長い睫毛の影が落ちたその悲しげな目の色に、デュシアンは息を飲んだ。
今にも継母が壊れてしまうのではないか、そんな不安にさせられる表情だった。
「それにね、子どもができたら私を見てくれるかもしれないって思っていた。案の定、
アデル様は私もレセンもとても大切にしてくれたし、愛してくれた。――でもね、アデル様が女性として愛していたのは、
ラトアンゼ様ただ一人だったの」
しっかりと顔を上げた継母の瞳からは蔭りが失せ、かわりに穏やかだが諦めの伺える鈍い光が灯っていた。
「辛かったわ。でも、時間が私を強くしてくれた。ラトアンゼ様の消息を求めて宛ても無く地方を周り、
憔悴しきった様子で首都に帰ってこられるアデル様を、私が支えようって思えるようになっていったの。
そんな事が出来るのは私しかいないって誇りに思えたわ。だって、他の女性だったら自分以外の女性を求める夫を支えるなんて事、
できっこないわ。でも私にはそれが出来る――そう考えたら、すっと胸のつかえが下りたの」
胸元に手を当てて微笑む継母の表情には陰りがなかった。デュシアンの良く知っている継母の顔だ。
揺らぐ事のない芯の強さを秘めた、継母の顔。それは自分を誇りに思う、誰よりも強く美しい表情だった。
「人として互いを愛し尊重する心があれば、家族の形には必ずしも男女の愛情は必要ないの」
「セオリア様……」
体が強張った。それを解すように継母の手が頬へと伸びてきた。
「デュシアン。貴方が思っているよりも、私はずっと幸せだったのよ。
この十五年、辛い思いをしなかったとは言えないけれど、でも、――幸せだった時の方が長かった。
これは私が選んだ道なの。私は一番傍でアデル様を支える役を選んだ。だから貴方が私の事で遠慮したり、
引け目を感じて欲しくないの。そして、気兼ねしないで何でも話して欲しいの」
「母様」
「いい?」
サファイアの双眸に覗きこまれ、その継母の強さに触発されるように、その強さに敬意を払うように、デュシアンはしっかりと頷いた。
継母は満面の笑みを浮かべると、デュシアンをしっかりと抱きしめた。デュシアンも何の躊躇いもなく継母の背に手を回し、
抱きついた。継母の抱擁の強さに負けないぐらい、しっかりと……。
「でもね、私はできればラトアンゼ様との間にどのような事があったのかを、アデル様の口からお話しして欲しかった。貴方の為に」
しばらくしてから耳元で呟かれた継母の声には落胆の色が混じっていた。デュシアンは身を引き、
継母を見つめる。
「アデル様は貴方にお話しはしない、ときっぱりと言い放ったの。引き取られて間も無かった頃は私もその意見に同意していたわ。
急な環境の変化に戸惑っていた貴方に、色々な事実を押し付けても心の整理がつかないだろうって。
貴方が成人した頃にでも話せば良いと思っていたの。
でも貴方が家出をして――見つかった時、それは間違っていたと知ったわ」
セオリアはもう一度、自分の膝の上にデュシアンの手を引き寄せて堅く握り締めた。
「貴方はあの頃、自分にあった出来事を思い出していた訳ではなかったのよね。自分はこの屋敷に居ても良いのかと悩んでいたのよね?
その悩みを私たちはすぐにも気づいてあげることができなかった。貴方が家出をして初めて私は貴方の不安と苦しみがわかったの。
――あの時の事は、今でも忘れないわ。貴方が増水した海峡に落ちてしまっていないか、
激しい雨に打たれて道端で衰弱してしまっていないか、――本当に、怖かった……」
唇をきつく結び悲痛な面持ちで胸元を押さえた継母が五年前の当時と重なり、デュシアンは継母が背にした窓から灰色の空を見上げた。
(酷い雨の日だったな……)
父と名乗る人には妻がいて息子がいた。そこには家族という形ができていた。何故、父の妻の子ではない自分がそこにいるのか。
それが分からなくなって、豪雨の中屋敷を飛び出した。首都に引き取られて二ヶ月と経たない頃だ。
靄がたちこめた誰もいない街は、まるで廃墟群にでも迷い込んでしまったかのような強烈な寂しさを与えてきた。
びっしょりと濡れた服が体にぴたりと貼りつき重く圧し掛かってくる。濃い靄で辺りの状況が掴めず、
あと一歩でアリアバラス海峡の荒波に飛び込む所だった時、それを救ってくれたのは確か若い神殿騎士だった。
こちらの衰弱が激しいことを知って騎士は抱き上げて運んでくれようとしたのに、過去の記憶が禍いして急激な恐怖感に駆られ、
必死に抵抗をしてしまった。気づいた時にはラヴィン家にあてがわれた自分の寝室だった。
父も継母も心配げな様子でこちらを覗き込んでいて、謝れば良いのか許しを請えば良いのか疑問をぶつければ良いのか分からなかった。
けれどもこちらが何か言う前に父の腕にしっかりと包まれ、
『ここに居ても良いのだ』と言い聞かせられた。継母も父よりずっと長く強く抱きしめてくれた。
この時、二人が本気で自分を受け入れてくれているのだとしっかりと実感した。
父も継母も自分を家族として認識してくれていると肌で感じ取ったのだ。
「――ありがとう、母さま」
継母がどんな思いでいたのかを考えれば『心配させて申し訳無かった』と謝罪すべき所なのだろうが、
デュシアンは自分を受け入れてくれた継母へとしっかりと向き直り、微笑んだ。
「もうあんな思いは嫌よ、デュシアン」
泣いてしまうのではないか、そう思える程悲しげに表情を歪ませながらも気丈に微笑むと、
継母は目許を軽く指先で辿る仕草を見せた。
「それから私はね、アデル様に強くお願いするようになったの。貴方がここに居ても良い理由を、
ラトアンゼ様との事をすぐにも話してあげるべきだ――と」
セオリアは溜息を吐き、首を軽く振った。
「けれどもアデル様はお話にならなかった。笑顔を取り戻して心を開いてきた貴方が過去と向き合えるぐらいの年齢になっても、
アデル様はお話しする事はなかったの。
病に倒れられてもお気持ちは変わらなかったみたい。何も仰らずに逝かれてしまった。
――それがどうしてなのか、私にはわからない……」
父は何故話さない理由を妻である継母に告げなかったのか。何度も話すよう勧めてきたのに、
どうしてなのか。そこに大きな理由があるような気がしてデュシアンは考え込んだ。
自分が塞ぎ込んでいたのは家出をする前の二ヶ月間、その後は徐々にラヴィン家での暮らしに慣れてきて、
一年が過ぎた頃には≪昔の自分≫を取り戻していたはずだった。それから四年もあったのだ。
節目の成人も迎えたのに、どうして話してくれなかったのか。
「父様が亡くなってしまって、その御心を知る事はできないんですね……」
もっと自分に勇気があったのなら。自分から実母の事を聞く勇気があったのなら。もしかしたら父は全てを語ってくれたのかもしれない。
悔やみ切れない思いにデュシアンは吐息を洩らした。
すると髪を梳くように頭を撫でられ、デュシアンは微苦笑を浮かべた。
「デュシアン。私はね、――アデル様から貴方への遺言を預かっているの」
最後に一撫でした後、継母が口を開いた。
「遺言?」
急に切り出された話にデュシアンは目を見開いた。
「お父様のお話をしても貴方が泣かなくなった頃にお話しするようにと言われたの。全てのお話も聞いたし、
もう良い頃合いだと思うわ」
髪を撫でていた手が下がり、デュシアンの手を掬うように取って両手で包み込んだ。
「心の準備は、いいかしら?」
「――はい」
答えたものの、動揺は押さえ切れない。
けれども継母は躊躇う事もなく、語り出した。
「『ロアの村へ行きなさい。そこに、お前の答えがある』」
短い言葉だった。けれどもそれがデュシアンの心を貫いた。父は、故郷へ行けと命じているのだ。
あの暗い過去がある、故郷へと。
「――答え?」
何の答えなのだろうか。もしかして、実母の話をしなかった答えなのだろうか、それとも
別の……?
「ロアの、村に――」
不思議と恐怖感よりも探求心の方が上回った。国王もロアへ行くよう告げていた。『アデルの遺したものがある』。
その言葉は甘美な吸引力があり、父の遺言とあいまって思考を囚われた。
(わたしの答えは、父様が遺したもの……?)
見てみたい。その思いが急激に膨らみはじめた。
「でも……」
ロアの村があるラレンシア地方は遠い。東カーリアの南東部だ。ざっと計算しても往復で二十日はかかってしまうはず。
年初めの月は協議会が開かれない代わりに来月の月初めの協議会は必ず出席する事を義務付けられている。
確実に戻って来れる確証がない以上、今月に行く事はできない。デュシアンは逸る心を憎らしく思った。
「船なら五日ぐらいで帰って来れるわ」
「船?」
「行きだけ乗れても半月あれば帰ってこれるはずよ」
その手があったのだ。デュシアンは継母の提案に後押しされ、居ても立ってもいられなくなり、
勢い良く立ち上がった。
「過去と、向き合ってらっしゃい」
にっこりと微笑む継母へ、デュシアンも曇りのない表情で大きく頷いた。
「はい、母様」
気持ち小走りに階段を駆け下り、デュシアンは少し落ちつかない様子でエントランスに舞い降りた。
そこには先ほどと代わらない様子で待ち受けている者がいて、慌てて足を止めて息を整えた。
待ちわびていたように、ラシェは組んでいた腕を解いて重心を預けていた壁から背を離した。
神妙な面持ちで、探りを入れるような目でじっとこちらを射殺さんばかりに見つめてくる。
昔はあれ程恐れていたその視線を今は穏やかな気持ちで迎え入れる事ができる。
多分、変わったのはこちらではなく従兄の方だとデュシアンはなんとなく感じ取っていた。
どこかの部屋で待っていれば良かったのに――、のんびりとそんな風に思いながら、
ラシェとレセン、イリヤを順に見回した。
流石に他の者たちは自分たちの仕事があるのだろうか、居なくなっている。
「今、母様にお話ししてきたわ。あのね、陛下はやっぱり気づかれていたの。父様が亡くなっていたこと」
「そうか」
誰へ視線を固定して良いものか迷い、相槌を打ってくれたラシェへと瞳を向けた。それが一番適切に思えて、
デュシアンはそのまま少し興奮したように続けた。
「それでね、ちょっと陛下の頼まれ事があるの」
「頼まれ事?」
それは嘘だった。説明をするのに困ったら迷わず「国王に頼まれた」と公言しろと、
逃げ道を作ってくれたオーランド七世陛下の心配りを使わせて貰ったのだ。
「うん。それでね、ラシェにお願いがあるの」
「なんだ?」
ぶっきらぼうだが表情はどこか優し気だ。そんな従兄にデュシアンは心から微笑んだ。
「地方へ行くから、ラシェが信用している人に護衛をお願いしたいの。国王陛下の頼みだから神殿騎士を借りる事はできるけど、
できればラシェの顔見知りの方がいいなと思って」
「地方へ行くのか? それなら俺が――」
「あのね、できればラシェには首都に居て欲しいの。一応維持魔法を掛け直したけど、
この間リディスさんが使った魔法の影響が少し気になるから」
俺が護衛をする――という頼もしい言葉を、デュシアンは捲し立てるように遮った。
間髪入れずに申し出てくれる従兄の気持ちを嬉しく思うが、実母に関わる事に巻き込みたくない。
(ラシェは、お母さんを、恨んでいる……)
ダランベール伯爵の言葉が胸にしこりとなって残っている。ラシェが継母に好意を持っているのは確実だ。
だとすれば何かわだかまりがあってもおかしくない。それに、できるならその心や感情を刺激し、
乱したくないとデュシアンは願った。狂おしい程の思いを押さえ込んでいる従兄を苦しませたくないのだ。
「遠いのか? 場所はどこだ」
デュシアンの思いを当然気づくはずもなく、ラシェはしぶしぶといった態で続きを催促した。
「えーと、東カーリア大陸の、南東部」
眼鏡の奥の赤茶の瞳が驚きに見開かれ、やや離れた位置にいたイリヤへと視線を走らせた。二人で顔を見合わせている。
ラシェがラレンシア地方と聞いただけで実母ラトアンゼを想像できるほど事情を熟知している可能性を考慮して、
とりあえず目的地を濁して伝えてみたのだが、彼の表情には嫌悪などの負の感情は見られず、驚きしか示されていない。
デュシアンはほっと胸を撫で下ろしながらも、横目で弟も覗き見た。
やはり反応はラシェやイリヤとそう変わらず、問題はなさそうだった。
(三人とも、わたしの故郷がラレンシアだと知らないのかもしれない)
もちろん、そこで何があったのかも……。デュシアンはそっと胸元へ手を伸ばし、
脱ぐのを忘れていた外套の上からアミュレットを握り締めた。
オーランド七世陛下は父アデルが屋敷中の者に「ラレンシア地方に関わる話はしないよう指導していた」と話していたが、
詳しい話はどうやら継母しか知らないようだ。デュシアンは父の気遣いに深く感謝した。
「ラシェ、護衛を捜す件、お願いできる?」
「――ああ」
何でもない事のように続ければ、ラシェは詰まったような困惑した表情で頷いてくれた。
色々聞きたいのだろうが「陛下の頼み事」という言葉の手前、こちらが提示する情報以上の事を聞き出すつもりは無いようだった。
言葉を選んで正解だったとデュシアンは小さく苦笑する。
「しかし、東カーリアの南東部ならば徒歩や馬では今月中に帰ってくるのは難しいぞ?
せめて行きだけでも船を使わねば――」
「お待ち下さい、お嬢様を船にお乗せになるのですか?」
イリヤがラシェの話が終わる前に異議を申し立てた。珍しく厳しい表情だ。瞳に批難の色がありありと浮かんでいる。
ラシェは腕を組むとイリヤへ視線を向け、訝しげに眉根をしかめた。
「海賊が出るのはアリアラム近郊の外洋だ、別に危険は――」
「そうではありません」
きっぱりと、少し苛ついたようにイリヤは否定した。
「船は海の精霊の怒りを買う乗り物です。魔法を使う民族として――」
「待て」
不快を顕わに顔を歪め、今度はラシェがイリヤの話を遮った。まるで、聞きたくも無いと言いた気な様子でイリヤを睨みつけている。
あんな顔を向けられたのが自分ならば恐ろしさに竦み上がってしまうとデュシアンは心の中で悲鳴を上げた。
「お前、いつからそんなに精霊を信仰するようになった?」
「魔道師として、精霊信仰は元々持ち合わせておりますが」
しれっとイリヤは答えた。長年の付き合いの成果か年齢が近いせいなのか、イリヤはラシェへ
畏怖の念は持ってはいない。ラシェはそれを快く思っているようで特に咎めたりはせず、イリヤが強く主張する時は大抵ラシェに非があって、
彼自身もそれを認めるような喧嘩にもならない場面ばかりだった。
だからこのようなぴりぴりとした言い合いを目の当たりにしたのは始めてで、
そのいつもと違う雰囲気にデュシアンは落ちつき無く二人へ視線を交互に送りながら、そのやり取りを見送った。
「そうじゃない。ここまで融通の利かない奴だったかと言っているんだ」
「融通の問題ではございません」
「お前は主人に危険な陸地を勧めるのか?」
「危険が最小限になるよう、護衛をしっかりと用意されれば良いのです」
「危険が最小限であるように船に乗るのだろうが」
「海の精霊は船を好みません」
「その考え方が気に食わん」
腕を振り上げてラシェは馬鹿にしたように嘲笑ったが、その目は酷く真剣だった。
「誰が聞いたんだ、精霊に。精霊の話す言葉を聞けるのは≪精霊の冠≫を≪耳≫に宿した人間のみ。
だが大抵の人間はそんな事をすれば精霊の声が纏わりついて気が狂れる。
多くの言語学者が古代語の発音解明に役立てる為に≪耳≫に宿したが無駄に終わった。誰一人として精霊の言い分など聞けた試しがない。
なのに何故海の精霊が『船を好まない』と分かる?」
「アリアバラス海峡では多くの船が沈みました。だからこそ、逆流が禁止されているのではありませんか」
「アリアバラス海峡は狭く暗礁に乗り上げやすい場所がある。一説に寄れば、
衝突事故が多かった為に逆流を禁止したのではないかとある」
「ラシェ様、その説は良いものではございません」
イリヤの鼻筋に一層皺が寄った。デュシアンはイリヤがそのような嫌悪感を表しているのを初めて見て、
食い入るように見つめてしまった。
「ああ、そうだな。この説はラウラ・ルチア派の烙印を押されてカーリアを追われた神官の説だったか。
だが、ララドではこの説が有力視されている」
ラウラ・ルチア派という言葉にデュシアンはラシェへ視線を向けた。あまり耳障りの良い言葉ではない。
「ララドは無宗教都市です。あの国は魔法研究が盛んであるのにも関わらず、精霊信仰が薄い」
「確証の無い話を研究者たちは信じないだけだ。アリアバラス海峡の精霊と会話が出来る人間がいた、
という記録はどこにもない」
「――貴方様はララドへ留学されてから変わられました」
「変わったのはお前だ」
「いいえ、貴方様の方です」
「俺は変わらん」
「ちょ、ちょっと、二人とも!」
これ以上放っておくわけにもいかず、デュシアンは二人の間に割って入った。
二人とも声を荒げたりはしてはいない。ただ、相手の思想への強い怒りが内に秘められているせいでどちらも冷たく尖った口調だった。
「喧嘩はやめて」
交互に二人を伺い見、応援を願って弟をも見るが、レセンは全く見当違いな方向を見て知らん振りを決め込んでいる。
デュシアンに間に入られて気持ちが殺がれたのか、ラシェは急にそっぽを向くとイライラした様子で前髪を掻き乱した。
そして、整理しきれない感情をぶつけるようにデュシアンへ厳しい視線を向け、吼えるように言い付けた。
「護衛はお前が乗る船を見つけてから捜してやる。今の時期は暇な騎士や魔道師が多い。
急でも護衛は見つかる。いいか、俺は船でなければ認めんからな。盗賊に襲われる危険がある陸地にお前を進ませるつもりはない」
ラシェはきっぱりとそう言い切るとイリヤを一瞬睨み付け、有無を言わさず踵を返して大股でエントランスを横切り、
ぞんざいな扱いでドアを開けて出て行ってしまった。
怒りをぶつけられて損した気分のデュシアンは、隣りに立つイリヤを心配げに見上げた。
いつもならラシェの代わりに従妹として謝る所なのだが、今日はそんな気になれない。先ほどの会話は、
どちらが悪いと簡単に口にしても良いものではない。デュシアンとしてはどちらが正しいのかも、
間違っているのかも、よく分からないからだ。
「お嬢様、私個人としてはお嬢様に船には乗って欲しくありません」
イリヤは難しい表情で珍しく視線を逸らしてそう述べた。
「でも、アリアバラス海峡を逆流するわけではないのよ?」
デュシアンとしては例え急いでいなくてもラシェの案に賛成だった。もちろんあくまで船で進む≪案≫の方だ。
船の方が危険が少ない。もし運良く行きも帰りも船に乗れれば、大陸を進む半分以下の日数で帰ってこれる。
「首都から北へ抜けて大陸沿いに進むだけだから、精霊の怒りはないと思うけど……」
首都から抜ける船は常にその航路をとって、アリアバラス海峡入り口の街アリアラムまで戻っている。
最近では海賊との戦い以外で船が沈んだという噂は聞かない。
「それは分かっていますが、海賊もいるのですよ?」
「でも、海賊がでるのはアリアラム近郊の外洋でしょう? 狙われるのはイスラフルとカーリアを行き来する貿易船だし、
わたしが乗せてもらうのはアリアラムに帰る小さな貨物船で、荷は殆ど積んでないから海賊だって狙わないわ」
「しかし、もし転覆でもしたらと思うと賛成しかねます」
「泳げるから大丈夫よ」
そんな事を心配していたのか。デュシアンは急に気分が軽くなり、くすくすと笑ってしまった。
イリヤはただ心配性なだけなのだ。それを知ればラシェの怒りも解ける事だろう。
いつも通りの仲の良い二人に戻ってくれる事を何より願った。
「それよりも、ラシェがあんな風になっちゃうと言う事を聞かなくちゃ、
絶対に首都を出させてくれないわ。頑固だもの。日が暮れちゃう前に船の交渉をしてくるね」
デュシアンはずっとだんまりだった弟へ「行ってくるね」と微笑みかけ、逸る気持ちを押さえきれず玄関から飛び出した。
イリヤがどのような表情でその背を見送ったかなど、知る由も無かった……。
(2006.6.20)
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