墓と薔薇

7章 現在を支配する過去(4)

 太陽が最も顔を覗かせるこの時間帯は、普段ならば裏庭にある池の照り返しが室内の巨大な窓から 窺えるのだが、今見えるのは暗色の水面に浮かぶ渡り鳥たちの水浴する姿だけだった。
 地上に降り注いでいた僅かばかりの光を厚い雲が遮り、室内に影が差す。≪明り取り≫の 穏やかな橙色の灯火に照らされた国王オーランド七世の横顔は、自然光の元で見るよりも 血色が悪く見える。ここ十年程病床に伏すその身では、こうして上半身を起こして引見するだけでも かなりの体力を消耗するはずだ。
 気遣わしげに見つめていると、しばらく沈黙を保っていた国王は意を決したように口を開いた。
「そもそも、アデルが聖人などと呼ばれるようになったのは、首都から姿を消したラトアンゼを 捜す為に地方へと足を運ぶようになってからだ」
 細く乾いた声が紡ぎ出す≪真実≫がデュシアンの穏やかならぬ心を更に締め付けた。思い出すのは ダランベール伯爵の『アデルはラトアンゼを捜していた』という言葉。 身体中が戦慄いた。
「父は、母を捜していたのですか?」
 掠れ出た自分の声に驚き、少しだけ平静を取り戻した。捜索理由は小父が 言っていた事と違うかもしれない、早まるな――、デュシアンは息を飲んだ。
「ラトアンゼが姿を消したのは、二十年前の事だ。もちろん、姿を消した直後からアデルは 必死になって捜し回ったのだが」
 まるでデュシアンの疑問を分かっているかのように、オーランド七世は意味深く時期を特定 した。
 二十年前と言えば、自分の年齢に相当する。それが何を意味するのか、分からないデュシアン でもない。鼓動が早くなり、胸が打ち震えた。
「運が良いのか悪いのか、アデルが足を踏み入れた土地の殆どで争い事があったそうだ」
 続けられる国王の言葉に集中しようとデュシアンは逸る思考を止めた。
「十八歳ですでに公爵となっていたアデルの肩書きは地方の者たちには魅力的だったのだろう、揉め事 の調停役や相談役、時にはクーデターの助言などまで任されたらしい。各地の揉め事を見事な手腕で 解決して行くうちに、それらが美談となって広まって聖人などと呼ばれるようになったのだ。 生来アデルはお人好しな質ではないのだが、ラトアンゼの情報を求めていたので恩を売る為に 二つ返事で引き受けていたようだ」
「恩を売る……」
 父に似つかわしくない言葉が耳に残り、ぽつりと呟いた。デュシアンの知る父アデルは困っている 人がいればすぐにも手を差し述べるような人だった。見返りを求める姿など想像もつかない。
 そんな困惑と疑惑に目許を歪ませたデュシアンへ国王は苦笑してみせた。まるで親しい友人に でも笑いかけるような、穏やかで柔和な表情だ。
「お前の父は――私の親友は、人助けが好きで、誰かの役に立ちたくて地方を回っていたわけでは なかった。ただ、消えたお前の母を――ラトアンゼを捜し出したかっただけだ」
「――そんな」
 母を捜し出そうとしてくれていた、という事実は嬉しい。けれども、誰かの役に立つ為に動き回る人 ではなかったと聞かされれば、それは受け入れ難い事実だった。
 視線を落としたデュシアンの手に国王は重ねた自身の手の力を強めた。
「幻滅したか? しかしアデルは一度引き受けたからには最後まで力を抜かず、 自分を頼る彼等を必ず解決に導いた。責任感も忍耐力も強い男だったからね」
 誇らしげに親友の事を語るその楽しげな口ぶりに、デュシアンはふと顔を上げてオーランド七世へと 視線を戻した。しかしその口ぶりにそぐわず、国王の表情はどこか寂しげで、何か漠然とした不安を 与えてくるものだった。もしや――、そう訝しんで瞳を見開いた時、国王はデュシアンの詮索を 打ち切るように続きを語り出した。
「お前にとっては、アデルは負の感情など持ち合わせていない神のような存在だったのだろう。 アデルもそうであるよう努力したのだと思う。娘の前では格好をつけたいという気持ちは私にも わかる。それが度が過ぎたのか、或いは――」
 国王は眩しいものを見つめるように、蒼い瞳を煌かせてデュシアンを見つめた。
「お前の中にラトアンゼを見ていたのかもしれない。アデルはラトアンゼの前では自分を良く 見せようと躍起になっていた。誰だって自分が愛した女性の前では自分を良く見せたいと 思うものだ。アデルはラトアンゼより三歳年下だったのだから、余計に」
「父は、母を――」
 愛していたのですか、という言葉を続ける事が出来なかった。動揺に震える唇をぎゅっと 閉じる。
「やはり、アデルはお前にラトアンゼの話をしなかったのだな」
 自分に確認するような国王の呟きに、デュシアンは静かに頷いた。しかし心の中は冷静さを欠いて いた。奥から沸き上がる混沌とした感情を抑えるのに必死で、口を開けばそれらが堰を切ったかの ように纏まり無く溢れ出てきてしまいそうなのだ。
 父アデルは母の話を一切しなかったのと同時に、デュシアンに対して母の事を聞く事もなかった。 また、二人がどのように暮らしていたかも、デュシアンがどうしてララドのあの屋敷に居る事に なったのかも聞く事はなかった。だからこそ勝手に『父は母に興味がないのだ』と思い込んでいたし、 本当は心のどこかで自分にすらも興味がないのではないかと疑っている部分があった。そんな卑屈 な気持ちがあったせいで、『今までどんなふうに暮らしてきたのか、何故あんな場所に居たのかと、 どうして聞かないのか』と父に問う事ができなかったのだ。
 出会ってからの父は誰よりも大切に自分の事を扱ってくれた。最初こそ戸惑いもしたが、 次第にしっかりとその愛情を感じるようになった。その愛情が、首都に引き取られてからの自分の 全てだった。だからその愛情を疑いたくなかった。 変な質問をして、父から否定される言葉を一言たりとも聞きたくなかった。母を愛していないと 聞きたくなかった、自分は生まれてくるはずではなかったと聞きたくなかった。 父は自分を愛している、父はそれ以外の感情など自分には一瞬たりとも持った事は ない――そう信じたかったのだ。
――父様を神聖視してたのは、自分の心を守る為だったんだ……
 過ぎた信頼と盲目的な神聖視は、疑惑と恐れからくるものだった。 自分たちの事を何も聞かない父を信じる為には、『父は≪そういう特別な人間≫なのだ』と思い込む しかなかったのだ。調度良い事に世間でも父は聖人と呼ばれていた、思い込むのは容易い事 だった。
 溢れ出る思考と感情の波を必死に抑えながら、デュシアンは国王の言葉を待った。自分の頬を伝う ものには気づかなかった。
「アデルはラトアンゼを愛していたのだ。誰よりも――、そう、誰よりも」
 セオリアよりも。暗にそう続くと分かるように国王は強い口調で繰り返し、デュシアンは 顔を上げた。押し固められたように身体中を強張らせた。
「はじめから、順を追って話そう。そうすれば、何故アデルがお前に母の話をしなかったのか、 そして何故お前に何も問わなかったのかが分かるはずだ」
 国王はデュシアンの手の甲から手を離すと、枕元に置いてあったハンカチでデュシアンの頬を 優しい仕草で撫でた。
 そうされて、はじめてデュシアンは自分が涙を零していた事に気がついた。 慌てて目の端に溜まる涙を指先で弾くと、その手を国王にもう一度取られて膝の上に収められた。
「父の主治医だったファロン高司祭からラトアンゼを紹介されたのは、私が十四、彼女が十七の 時――、今から二十五年前だ。今でも出会った時の事は鮮明に覚えている。彼女の瞳は 智識を得る事に貪欲で誰よりも光り輝き、真っ直ぐ顔を上げて歩くその姿はとても綺麗だった」
 当時を思い出したのか、国王の視線が遥か彼方を見つめるように虚空で止まった。視線の先 には新緑を生い茂らせた森の絵が飾られてあるが、それを見ているわけではない。
「ベイヘルン永遠平原にほど近い村の生まれだった彼女は、早くに両親を亡くして孤児となった そうだ。光の精霊に愛される質であるのを見込まれて神殿に引き取られ、巫女として働く傍ら、 十六歳の時からファロン高司祭の元で医学を学ぶようになった」
 デュシアンは母がどこの生まれで、どこで医学を学んだのか、自分が生まれる前はどんな暮らし をしていたのか、何一つ母に聞かなかった。母は何も語らなかったのもあるが、自分に父がいなかった 事から関連づけて、母の過去に触れるのは好ましくないと子どもながら遠慮していたのだ。
「彼女は芯の強く意思も強い女性だった。自らの主張をはっきりと述べるけれども、辛抱強く人の 意見も聞ける人だった。話しているうちにすぐに私は彼女に惹かれてしまった」
 国王はデュシアンへ微笑みかけた。まるで国王自身がデュシアンの中にラトアンゼを見ている かのような、幼さを残した少年のような儚い笑みだった。
「彼女はあの時代には珍しい部類の女性だった。明確な夢を持ち、そこに結婚という終わり はなかった。二十五年も前の時代にそんな考えの女性などいなかったからね。彼女の存在は 私の中では衝撃的で眩し過ぎた。彼女の強さには憧れを抱いたよ」
 恋愛感情はなかった、とオーランド七世は軽い口調で続けた。
「当時、王子であった私にすら口答えをする人だった。そんな素晴らしく楽しい人を私一人で独占 しているのを勿体無く感じて、一番の親友であるアデルに引き合わせたのだ」
 それが父と母との初めての出会いなのだと感慨に耽る間もなく、国王は矢継ぎ早に続けた。
「初めから決められていた事であったかのように、アデルは一瞬にしてラトアンゼに人としても 女性としても強く惹かれていった。女性の喜びそうな甘い言葉で口説き、 毎日のように薔薇を贈って気を惹こうとした」
 デュシアンは引き攣ったような表情を見せたが、オーランド七世が握る手の強さに 心を落ちつかせた。
「ラトアンゼはアデルを相手にしなかった。年齢が離れていたからだろう。ラトアンゼは その時もう十八歳になる所だったが、アデルは十四だった。ラトアンゼから見ればアデルは 子どもだ。アデルの気持ちを本気にすることもなく、彼女はただひたすら勉学に 励む毎日を送っていた。アデルの必死で情熱的な求愛を適当に笑って撥ね退けてね」
 父のそんな姿をデュシアンはどうも想像ができなかった。
 必死で情熱的な求愛――。穏やかで取り乱したところの無かった父は、どっしりと構えていて 物事に動じない余裕があった。少なくとも継母と熱心に愛情を交わすような場面は見た事が ない。そこまで考えて、デュシアンは唇を噛み締めた。母との事と継母との事を比べようとしていた 自分の考えに嫌気がさす。
 自己嫌悪に陥っているデュシアンを見透かしたのか、オーランド七世は 手の甲を労わるように撫でた。
「アデルは年齢という越えることのできない壁に絶望したが、けれども希望も持っていた。彼女は 医学に没頭するあまり、恋愛にうつつを抜かす余裕が全くなかったからだ。 だからアデルは彼女が医学に夢中な間に、相応しい男となれるよう日々精進していったのだ」
 アデルだとて最初から≪できた男≫ではなかったのだよ、――国王はおどけたように笑って小さく 呟いた。
「それから四年経ったぐらいだろうか。とうとうラトアンゼはアデルを無視できなくなってきて しまった。あれだけ好きだった医学に手がつけられなくなるぐらい、ね。アデルは有頂天になった。 今でもあの時の歓喜に酔い痴れたアデルの姿を覚えている」
 そんな親友の姿を目にした時と同じと思われる優しく楽しげで、共に喜びを分かち合った のであろう少年のような表情で国王は笑ったが、けれどもそれもすぐに蔭りを帯びた。 この後良くない出来事があったのだと手に取るように分かり、デュシアンは身体を強張らせた。
「アデルは逸る気持ちを押さえられず、母御に彼女を紹介しようと屋敷に強引に連れて行った。 しかし母御はとても頭の堅い貴族至上主義者で、出生が平民のラトアンゼはラヴィン家当主の妻に 相応しくないと突っぱねた。そしてその場で倒れてしまわれたのだ。母御の決めた許嫁を蔑ろにし、 身分の相応しくない女を妻にと連れてきた事がショックだったのだろう。それに アデルの父君が亡くなったばかりだった。ショックと心労ともともとの持病が重なったのだ。母御を 診たラトアンゼは、彼女が長くない事と強いショックを与えては命を縮めてしまう事を悟った。 医師としてラトアンゼはアデルの母御の容態を慮り、これ以上負担をかけるわけには いかないと、――自分の気持ちに蓋をしてしまった」
 医師の卵であった事が禍いしたのだ。病状を詳しく理解する能力が、父と母の間を 引き裂いた大きな要因だった。
 医師としての自分に自信と誉れを持っていた母からはそんな過去の 片鱗は窺えなかった。きっと、医師であった事を一度たりとも後悔していなかったのだろう。 本来ならば、デュシアン自身もここで父と母の仲が引き裂かれた事を嘆くべきなのだろうが、 物悲しさよりも母の強さを誇る気持ちが心を占めていた。
「アデルはとても焦った。母の身体も大切だったが、それ以上に彼にとってはラトアンゼと結婚 する方が大切だった。しかし母の病がある限りはラトアンゼは絶対に結婚してはくれない。ラトアンゼ は医師である自分自身をとても誇りに思っていたし、その彼女が病を患っている人を追い詰めるような 事などできるはずがないとアデルも理解していた。――そう、理解していたはずだった」
 疲れた目を労わるように、オーランド七世は空いている右手で 目許を押さえた。当時の親友の行動を批難しているのか、親友を諌められなかった悔恨に苛まれて いるのか、デュシアンには判断できなかった。そもそも、今の話の中から国王が言葉を濁らせる深い 事情を感じ取る事ができなかった。
「ラトアンゼが急に身を隠してしまったのは、それから二ヶ月とたたない内だった。私もアデルも 彼女を必死に探した。アデルは母の仕業ではないかと疑ったが、そうではなかった。今だから こそ分かるが、彼女は自分の意思で消えたのだ」
「――わたしがお腹にいるのが、分かったからですか?」
 国王は目を押さえていた手を離すと、瑠璃色の双眸をデュシアンへ向けた。
「ラトアンゼはアデルを愛していた。デュシアン、間違えてはいけない。アデルもラトアンゼも 互いを深く愛し合っていた。ただ時期が悪かっただけだ。こんな言い方は良くないのだろうが、 アデルの母御は長くないと思われていた。母御が逝去してから、ラトアンゼを迎える準備をすれば 良かったのだ。けれどアデルは浮き足だって、焦って、周りが見えていなかった」
 年上の女性に必死に求愛する父、その女性と心が通じて狂喜乱舞する父、浮き足立つ父、焦る父。 どれもデュシアンには想像のつかない父ばかりであった。けれども父にだとて自分と同じような 青年期というものがあったのだ。調子に乗ってしまったり、失敗してしまう事だってあるはずだ、 ――そう、人なのだから。今度こそデュシアンは取り乱す事なく父の全てを受け入られた 気がした。
 オーランド七世はしばらく沈黙した後、少し乱れていた呼吸を落ちつかせる為に 大きく息を吐き出すと話を再開した。
「ラトアンゼを匿ったのは、彼女の師であるファロン高司祭だった。ファロンは地方の別邸 に、お前が生まれて数ヶ月になるまで匿っていたらしい。しかしそこを付き止めたアデルから逃げる為 に、ラトアンゼは赤ん坊のお前を連れてファロンの前からも姿を眩ませてしまった」
 当時を思い出したのか、国王は苦しみに耐えるように瞳を閉じ、悔しげに唇を 歪ませた。
「ファロン高司祭さえ話してくれていれば、アデルは強引に別邸に乗り込む事はなかった。ラトアンゼ が逃げる事もなかった。ただ緩やかに訪れる母御の崩御を待てば良かっただけだ……」
 国王はデュシアンへと視線を向けた。微笑もうと思いながらも、笑みを取り繕えないもどかし い思いに口許を痙攣させながら続けた。
「アデルがファロンを恨む理由がわかっただろう? あげく、ファロンはお前が生まれて いた事も黙っていたのだから」
 何故黙っていたのだろうか。その答えは分かる気がした。
――お母さんが、口止めしたんだ
 それ以外の理由があるだろうか。オーランド七世もそのファロン高司祭と言う人を恨んでいる かのような口調であるが、デュシアンにはそれが見当違いではないかと思えてならなかった。 母の意思は固かったはずだ。その人は母の意思を汲み、それを尊重してくれた だけなのだ。けれども憎まずにはいられなかったのだ、――二人とも。
「アデルは狂ったように地方を捜し回ったが、一向に彼女の消息を掴む事はできなかった。それから 三年が経ち、アデルの母御がとうとう今際のきわにたたれた。母君の最期の願いは、アデルが 正式な嫁を迎えて後継ぎを得る事だった。アデルには断れなかった。母の最期の頼みだ。――だから、 セオリアと結婚した」
「――そんな」
 まさか、有り得ない。いくら父が若くとも、無謀で愚かな人間らしい部分があっても、まさかそんな 所業まで犯すはずがない。撤回を求めるように、事実を確認するように、デュシアンは オーランド七世を穴が空くほど見つめた。
 しかしオーランド七世はデュシアンの期待には応えなかった。
「セオリアは全て知っていた。彼女はラヴィン家とは遠縁の家柄で幼馴染みであり 許嫁でもあった。セオリアは全て――、アデルがラトアンゼを愛していると知っていて、 結婚に承諾した。もちろんアデルはセオリアをとても大切に思っていたから拒んだ。 不幸にしたくない、と。けれども、セオリアが結婚に応じると譲らなかった」
「……そんな」
 震える手をしっかりと握られたが、デュシアンはその手を引き剥がしたい衝動に 駆られた。今度こそ「嘘吐き」と国王を罵りたかった。けれども言葉は喉を通り越さなかったのは、 相手が国の象徴的存在だからではない。悲しみがすぎて声が潰れてしまったからだ。
「彼女がどのような気持ちでアデルとの結婚を了承したのかは私には分からない。まだ成人した ばかりで夢と希望に溢れた娘盛りであったから、結婚さえすればいずれは愛してもらえると 考えたのかもしれない、アデルがいつかラトアンゼを諦めると思ったのかもしれない ――それは私には図り知れない。けれど、その道を選択したのはセオリア自身だ」
 デュシアンの手を掴む国王の手に力が込められた。しっかりと聞くように――、そんな意図が 伝わってくる。
「これはアデルとセオリアの問題だ。お前がその選択を気に病む必要はない。まして、父と実母との 事でセオリアに遠慮する事はない。間違えてはいけないよ、デュシアン」
 気に病んでいるわけではない、遠慮しているわけでもない。父が愛情もなく継母と結婚して しまったという事、そして若さ故の過ちで継母が結婚に食いついてしまったという事をデュシアンは 信じたくなかっただけだった。
――違う、きっと違う……。何かあるはずだ、陛下の知らない何かが……
 そうでなかったら、レセンはどうなるのか、継母の十五年間はなんだったのか。釈然としない 思いに囚われ、首を振ってデュシアンは涙を堪えた。ここで泣いてしまっては、優越感を感じながら レセンを憐れみ、継母を侮辱しているように思えてならなかったからだ。
「話をアデルとラトアンゼに戻そう」
 オーランド七世はデュシアンの手の甲を軽く叩き、続きを話しはじめた。
「アデルは結婚した後もラトアンゼを探し続けた。そして今から八年前、東カーリアの 南東に位置するラレンシア地方のある街で一つの噂を耳にした。近隣の村ロアに居た一人の女性医師の 話だ」
「!」
 デュシアンは一層息を飲んだ。身体中が小刻みに震え、視線が定まらなくなる。
 オーランド七世はしわがれた声を張り上げてデュシアンの名を呼び、その手首まで掴んで身体を 揺さぶると視線を自分へ向けさせた。
「デュシアン。私は話さねばならない。いや、私が話さねばならないんだ。先延ばしにすれば、 お前に語り聞かせられる者がいなくなる。私が逝けば、誰もお前に全ての真実を語って聞かせる事が できないのだから」
「――陛下?」
 国王の言葉にデュシアンは瞬きを繰り返し、焦点を合わせた。自分が今、何者であったのかに気 づいたかのようにはっと我に返り、国王を見つめた。
「もう隠さなくて良いのだ。アデルはラトアンゼの傍で私を待っているのだろう?」
「――陛下」
 やはり気づいておられる。デュシアンは自分の状況も忘れ、気遣わしげに 眉を寄せた。
 それに対し、オーランド七世は神妙な面持ちで頷いた。
「起き上がって、こうしてお前に手を伸ばしてやれるぐらいの力が残っているうちに話さなけれ ば、私は一生後悔する。私にはお前に話す義務がある。アデルにラトアンゼを引き合わせたのは 私なのだから――」
「陛下」
 私は大丈夫だよ――、そう示すように微笑むと、オーランド七世は労わるようにデュシアンの 手をしっかりと握りながら続けた。
「アデルはね、ロアの村のお前たち親子を探しあてていたのだ。けれど、その時にはもう 遅かった。あの村で≪全て≫が終わった後だった」
「……」
 戦慄くデュシアンを現実に繋ぎ止めるように、国王はデュシアンの手が鬱血するのではないかと 思われるぐらいの力で握りしめた。その痛みのおかげで、強い引力を持つ無意識に眠る記憶 へ思考を潜らせずに済んだ。
「アデルはロアの村へ赴くと村人に≪あの時≫の全貌を聞き、はじめて≪お前≫が存在する ことを知ったのだ。確認せずともアデルにはそれが自分との子どもであると自信があった。そして、 すぐにもお前の消息を求めて領主の館に乗り込み、――領主たちを殆どぼろぼろにしてお前を出す よう求めた。だがお前はすでにララドへ売られた後だった」
 デュシアンは頭の中が真っ白になり、気が赴くまま 自分の胸元へ視線を落とした。そこに下がっているのは父から譲り受けた アミュレットだった。≪あの時≫に下げていた匂い袋では、ない。
「一度目に売られた魔道師はすぐに見つかったのだが、――もちろんこの魔道師もアデルから相当の 報いを受けた。ララド人相手だったから揉み消すのが大変だった」
 殺してしまったわけではないよ、と国王は苦笑した。しかしデュシアンは何も反応ができな かった。
 その頃の事は断片的にしか覚えていない。ぼんやりとした記憶には、自分を買った魔道師は 中年の男で、強制的に本を読まさせられ、魔力を上手くコントロールできないと 激しく怒鳴りちらされた事だけは残っている。
――ああ、そうだ。だから、本を読みたくないんだ……
 母を失い、見知らぬ男に買われ、魔法に関する勉強を寝る暇も惜しんで強要された。食べ物が喉を 通らず、発熱があって嘔吐しても、あの狭くねっとりとした熱気で息苦しいまでに暑い室内で 本を読む事を強制された。
 意識下に眠っていたその頃の記憶が自分を本嫌いにさせたのか――、他人事のようにデュシアンは 考えた。昔は母の本をよく読んでいた。太陽の元青々とした芝生に寝転んで、意味のよく分からない 医学の本を眺めていた。本を読むのは嫌いではなかった。
「だが、二度目の場所を特定するのは難しかった」
 二度目。急に手の甲にじくじくとする痛みを感じてデュシアンは眉根を寄せた。この間の 無謀な行動で魔物に引っ掻かれた傷が痛むのかと思ったが、それは違った。ただの擬似体験 なのだ。
 たまに思い出す鞭の罰。主は癇癪持ちですぐに大声で怒鳴り、その夫人も気に入らない事がある とすぐに手の甲や掌へ鞭を振るった。あの屋敷に勤めていた下っ端の使用人たちは皆、凍える ような水で手を冷やさずとも、鞭打ちを受けていつも手を真っ赤にさせていた。酷い者はささくれ だった場所を打たれ、手を血だらけにさせていた。それを見た夫人の口許がさも楽しげに歪んだのを 見た時、ぞっとした。
「商人の屋敷でした」
 デュシアンは呟くように抑揚無く言葉を口にした。
「わたしの飲み込みの遅さとやる気のなさに痺れを切らせた魔道師が、わたしを 市場に連れて行きました。わたしを買ったのは、武器の密輸を行っている商人でした」
 魔道師に売られた時、銅貨何枚だっただろうか? 商人に買われた時、金貨何枚だっただろうか?  熱で思考をぼんやりとさせ、寒さに震える中無感動にその現場を眺めていた。衰弱していたのも あったせいか、買われる側、買う側、売る側の大勢の人間たちがごったがえすその場の雰囲気を 殆ど覚えていない。それはとても幸せな事だとデュシアンは今ならば思えた。
 ふと、頭に暖かみを感じる。それは国王の手だった。まるで子どものように撫でられるのは 恥ずかしくもあったが、その心地よさが喪い難く、静かにされるがまま過ごした。
――父様も、よくこうして頭を撫でてくれた……
 危うく零れそうになる涙を辛うじて堪えながら、デュシアンは誰に向けるわけでもない微笑みを 浮かべた。
 しばらくしてその手が膝に置かれた手の上に戻ると、オーランド七世は続きを語り出した。
「ララドは人身売買の温床だ。その中でお前を見つけだせたのは 幸運だったのだろう。ララドは魔法国家だ。首都圏から離れた屋敷の多くは 視覚を妨害する迷宮魔法が貼ってあり、見知らぬ者に発見されづらい構造となっている。そんな中、 お前を僅か三年で見つける事ができたのだから、幸運以外の何ものでもない」
「――父が、迎えに来てくれた時の事を、鮮明に覚えています」
 あの日も変わらず、館の夫人が納得するまで這いつくばって床を磨きあげていた。 桶の冷水に手を入れてブラシを洗い、荒れた指先が床磨き粉によって沁みるので泣き そうになっていた時だった。玄関から颯爽と入ってきた見目の良い紳士が、真っ直ぐに自分の目の前 に歩み寄り、膝をついて顔を覗きこんできた。こちらに微笑みながら涙を零した翡翠の瞳の紳士を、 自分はただ呆然と見上げることしか出来なかった。
「父は、わたしがすぐに分かったようでした」
「そうだろうね、お前はラトアンゼによく似ている。私も驚いたのだから……」
 デュシアンは顔を上げて国王へ視線を向ければ、国王は穏やかに微笑んでいた。
「アデルはラトアンゼとお前がどのようにして暮らしてきたのかも、ラトアンゼがどれだけ素晴らしい 医師であったのかも、お前たちがどのような悲惨な別れ方をしたのかも、その後お前がどれだけ 辛い目にあったのかも、全て知っていた。だからわざわざお前に聞く必要がなかったのだ」
 何故聞かなかったのか、――それは知っていたからだ。なんとも単純な答えだった。 けれども長年燻っていたデュシアンの心のつかえが消え失せたのは言うまでも無い。
「お前に話させる事で過去を思い出させ、お前を泣かせてしまうのをアデルは恐れていたのだ」
「父が、恐れていた?」
「お前が、本当に可愛かったのだよ。アデルは辛い過去を持つお前を幸せだけに包ませてやりた かったのだ。それが、不幸な過去に目を背けただけの偽りの幸せなのだとしても、アデルには お前が幸せである姿を見ていたかったのだ。――ある種、エゴだったのだろうな」
「けれども、父に愛されている間は過去を忘れられました。ララドでの四年間も、 ――母の死も」
 急に心咽し、喉元がカッと熱くなった。堪えていたものがとうとう我慢の限界を越えた のだ。記憶も感情も思考も、全てが頭の中でもみくちゃになって浮かんでは消えて、もう一度現われて は自尊心を切り刻んでデュシアンを苛ませた。
 背を丸めて身を縮め泣き咽ぶデュシアンを、オーランド七世は静かに見守った。デュシアンを引き寄 せて抱きしめ慰めてやる事もできたし、今すぐにでもそうしてやりたい気持ちで心は溢れかえって いたが、敢えてそうはしなかった。
 どのぐらい時間が過ぎた頃だろうか。厚い雲が風に流されて薄曇の空に戻ったのか、僅かな外光が 室内を仄かに照らしはじめた。
 やっと頭を少し上げたデュシアンに、国王はハンカチを差し出した。
 デュシアンはそれを受けとって自分の顔を拭うと、丁重に頭を下げてから顔を上げた。 目も鼻も赤いだろうし、泣いたすぐ後の顔は人に見せれたものではない。けれども続きが聞きた かった。
 国王はデュシアンの思いを汲み取ったのか、優しく頭を撫でてから膝に手を戻し、手を 握り直した。
「お前に過去を思い出させない為に、アデルはお前の目の届く範囲にお前の過去に関わる資料などは 一切置かないよう徹底した。屋敷だけでなく神殿の執務室の資料も全て隠してあるのだろうな、 抜け目が無いから」
「え?」
「屋敷の者にも家族にもお前に起きた出来事を語ることは無かったが、屋敷ではラレンシア地方 という言葉自体も、お前の過去に関わると思われる話に関連する事も禁じていたはずだ」
 その徹底ぶりにデュシアンはいかに父が自分を大切に思ってくれていたか、そしてどれだけ ≪幸せ≫というものに父はこだわっていたかを思い知らされる。
「お前は知らないと思うが、ラレンシア地方領主は今や良君に取って代わり、とても住み易い場所と なっている。人身売買禁止法の近年の法律改正を強行に進めたのもアデルだ。ララドにまで 喧嘩を吹っ掛けたのだから、溺愛という言葉ではもはや括る事はできまい」
 呆れたような口調であったが、オーランド七世の表情はどこか楽しげで優しさに彩られていた。
「それだけお前の事を愛していたのだろう。――それだけは忘れないでやって欲しい」
「はい」
 忘れるはずがない。デュシアンは強く頷いて、握られた右手の下に敷いていた左手で、 国王の手をそっと包み込んだ。オーランド七世の瞳は驚きに大きく開いたが、 すぐにも破顔を見せた。こうして見れば国王はとても若く美しい青年で、セレド王子に 似ていてどきりとさせるものがある。デュシアンは苦い記憶に苦笑した。
 若くして病身に苦しむのはここ数代の国王たちの特徴だった。百年前に国境線での緊張状態の 犠牲となり焼き討ちにあったクラメンス領の村の呪いではないかという噂が実しやかに囁かれている が、もちろん呪いなどという強い力が現代の魔法で実現できるはずもなく噂の域を出ない。しかし 原因の分からないその病魔を付き止められれば良いのにとデュシアンの胸は痛んだ。
――お母さんならきっと、陛下の病気を自分が治して差し上げたい、と思うだろうな……
 デュシアンは自分の無力感に小さく溜息を零した。
「デュシアン。心の整理がついたら、一度故郷へ戻ってみるといい。アデルが遺したものがある。 それを自分の目で確かめてきなさい」
「父様が、遺したもの……?」
 胸が高鳴った。今落ち込んだばかりなのにと自分を少し疎ましく感じる。
「それを目にしたら、私に教えて欲しい。アデルは何を遺してきたのか、私にはとうとう 教えてくれなかった。自分で見に行けと言われてしまったのだよ。だから、教えておくれ」
 デュシアンは頷くも、父が何故国王に教えなかったのかが分かる気がした。
「一度で良い、ラトアンゼの暮らしていたロアの村へ行ってみたかった」
 国王は過去に思いを馳せるように穏やかな笑みを浮かべたが、その儚い姿はもうすでに 未来を見る事を諦めた厭世観だけで満たされているかのようで、デュシアンは懸念を抱いたのだった。


(2006.5.14)

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