墓と薔薇

7章 現在を支配する過去(3)

――キスじゃない。キスじゃない。あれはキスとは言わない。ただちょっと皮膚の柔らかいところが 触れ合っただけ。あれはキスじゃない、キスじゃない!
 視線は本の上だったが目は文字を追ってはおらず、デュシアンはただひたすら己の思考のみに 没頭していた。
「――であるからして、ラウラ・ルチア一世の名は一般書籍から抹消された」
 抑揚のない短調なリズムで話す声が先程からずっと耳に入ってはいるが、デュシアンの脳には 留まらずに反対の耳から出て行ってしまっている。
――キスっていうのは好きな人とするもので、そうじゃない人とするのは――それも キス? ああ、違うってば。あれはキスじゃないの。ほんとうにちょっと、掠めただけで、 お互いそんな気は全く無くて。そ、そんな気って何?!
 慌てて自分の首を振ると、熱く火照った頬を手の甲で撫で付けて心を落ちつかせた。
「そして彼女の手記も全て燃やされ、唯一、彼女の発言を纏めた書物が神殿図書室奥の蔵書庫にあると 言われているが、閲覧できるのは大司教以上の聖職者のみ。実際にそんな本が存在するのかどうかも 怪しいと言われている」
――だいたい王子の意図だって不明だし、キスしたくてした訳ではないみたいだったし……。 なのにどうしてキスしたりなんか……
「――ちなみに彼女は法皇の任期終了後に忽然と姿を消し、それ以降の足取りは掴めていない。噂では 自説の証拠を求めて≪北の城≫に入り、帰らぬ人となったのではないかと――」
――でもあの感触が、洗ったって、擦ったって消えない。きっと一生 この感覚が残るんだ、消えないんだ。そんなの――やだ
 悲劇のヒロインばりにデュシアンは目をぎゅっと瞑って涙を堪えた。
「俺の授業中に上の空とは、見上げた根性だ」
「えぇ?」
 急に感情の篭もった声が鮮明に聞こえ、まるでこの世界に自分以外の人間が存在した事を今知った かのような驚きを見せたデュシアンは、口をあんぐりと空けた締まりのない表情で顔を上げた。すると 視界に大きな手がにゅっと現われて、こちらの鼻先まで伸びてきた。何をされるのかを素早く察知した 体は魔の手から逃げようとするも、遅かりし。素早く両頬を掴まれて思いきり横に引き伸ばされて しまった。
「ひたひよ(痛いよ)」
 抓らないだけマシではあるが、やや丸みを帯びた自分の頬に複雑な心境のデュシアンとしては、 これ以上頬の肉を横に伸ばすような事は避けたかった。自分の頬が平均よりややふっくらしている と感じるのは、彼が常日頃からこうして無慈悲にも伸ばしてくるからだと信じて疑わない。
 容赦無い仕打ちを実行する従兄へ涙を湛えた視線で懇願するが、彼は気が済まないらしく離しては くれない。対面したテーブル越しにこちらへ鋭い目で睨みを効かせた怖い顔をして――顔の作りは もともと怖いが――頬を掴んだままだ。
「ごめんなあい(ごめんなさい)」
 取りあえず、頬を掴まれたままの周らない口で謝ってみる。すると呆れ半分、怒り半分の様子で ラシェは鼻で笑った。
「そんなに王子の事が気になるか。――惚れたか?」
 顎をしゃくった意地悪そうな表情で見下してから、デュシアンの頬を掴む手を離して 座り直した。
「そんなわけないじゃない! だってわたし、強引に、き、き、き、キ、ス、されたんだよ?!」
 キスという言葉を頭の中で念仏のように唱えるのは簡単だったのだが、どうも音として吐き出すのは 難しく、恥ずかしい。デュシアンは頬から耳から首筋から、全身を茹でられたように真っ赤に しながら、照れを隠す為にテーブルを叩いて反論した。
「多少強引な男の方が魅力的だろう、容姿も優れているしな」
「そんなわけないよ!」
 相手の気持ちも考えず自分の都合だけをぶつけるような行動をする男が魅力的なはずがない、 例えどんなに容姿が優れていても。デュシアンはそう強く信じていた。
 しかしラシェは変わらず冷たい表情のまま小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
「一国の王子の求愛を受けたんだ、格が上がったのだから喜べば良いだろうに」
「他人事だと思って……」
「他人事だ」
 眼鏡の奥の怜悧な赤茶の瞳は実にさめざめとした光を宿している。 デュシアンはこれ以上何を言っても無駄だと 諦めて、溜息を零した。
 三日前の出来事はデュシアンにとってあまりに鮮烈なものだった。祝賀会でラシェに見捨てられ、 一見礼儀正しいがその実良く窺い見ればギラギラとした油断のならない眼で値踏みをしてくる男たち に周りを何十にも取り囲まれ、そこへ現われた王子の誘いを断るわけにもいかなくてダンスを踊り、 足を止めた時にキスをされた。ほんの少しの間だけ触れ合った唇の感触は未だに拭えない。
――でもわたし、よく考えたらすごい事しちゃったんだよね?
 一国の王子のキスに平手打ちで応酬したのだ、しかも彼の成人を祝う場所で、 その場にいた全ての人々の注目を受けた中。
――いくら酷い仕打ちだからって、あんなに人がたくさん居る中で王子を叩いてしまう なんて、王子の名誉とかに傷がついただろうな……
 けれど『叩いても良い』と言ったのは王子だった。踊っている最中に耳元に口を寄せてきて、 これから自分が行う非人道的な振るまいが許せなければ叩いてくれて構わない、と呟いたのは セレド王子自身だった。まるで叩かれる事を前提でキスを奪っていったのだ。
――意味がわかんない……
 しかし一つだけ確実に分かる事があった。それは王子はこちらへ好意を持っているからキスをして きたのではない、という事実だ。彼は何か理由があってあのような暴挙にでたのだ。そうでなかった ら、叩いても良いなど先に言うはずもない。
――つまりは、彼の思惑に利用された?
 デュシアンは米神の横を指先で押さえながふるふると首を振った。
「ぼうっとしてちゃ駄目だ……」
「今更」
 ラシェは呆れを通り越して怒りすら感じているのかもしれない。手元の本を指先で連打して いる。その本を見て、デュシアンはやっと自分が置かれている状況を思い出した。
――そういえば、勉強を教えてもらっている最中だった
 神殿の人物史だけは覚えろと怒鳴るラシェから個人授業を受けている最中であった。色々な勉学は 父であるアデルから習ってはいたが、神殿に関する事などは習ってはな かった。『要らない』と言ったのは父だったが。
「ごめんなさい、今度はちゃんと聞きます。どこまで話してくれたの?」
 ラシェにはラシェの本来の仕事がある。その上で、公爵執務の補佐と人物史の授業をしてくれて いる。それなのに自分の事で頭がいっぱいで、彼の好意と大切な時間を無にしてしまったのだ。 その申し訳無さにデュシアンが平身低頭で謝まれば、ラシェは視線を逸らしてしまった。
「――今日はここまでだ」
 ラシェは本を閉じた。視線を逸らしたまま、他人から見たら分からない眼鏡の位置を直すように 上げた。
「用意する時間が必要だろう?」
「あ――、うん」
 忘れていた。都合の悪い事を押し隠す自分の思考に自分で驚いて、デュシアンは頬を掻いた。 忘れていたのは忘れたかったから――なのかもしれないが。
「――ちょっと気が重いの」
 王宮から使いが現われたのは今朝だった。国王オーランド七世がデュシアンをご所望との 事なので、午後に引見するようとの達しを受けたのだ。今までそういう時はレセンも共に行く事が 殆どだったのだが、今日はデュシアン一人だけだと念を押されてしまった。
 長らく病床に伏せる国王は親友である前公爵アデル・ラヴィンが亡くなった事を知らない。しかし セレド王子の成人の儀式の式典にて、国王はラシェとデュシアンがラヴィン家の席に並んで座って いるのを目にしたはずであるから、全てを悟ってしまったのではないかという疑いの気持ちがあった。 だからこそ、国王が呼んでいるのではないか――と。
――父様について聞かれたら……
 顔に出さずに嘘をつくのは難しい。だからこの四ヶ月、デュシアンは国王へ顔を見せに行かなかっ た。レセンや継母のように落ちついて『アデルは未だ病床についている』と嘘を付く事が できないからだ。
 そして国王の周囲の者たちの中には国王自身が無二の親友の死を知る事を快く思っていない者が 多かった。そんな衝撃的な事実を告げれば、弱りきった体に追い打ちをかけてしまうかもしれないと 恐れているのだ。もちろんデュシアン自身もそれを心配しているからこそ、気が重いのだ。
「成り行きに任せればいい」
 穏やかな口調に驚いて、デュシアンは顔を上げた。ラシェはこちらの迷いを理解してくれているの だろう、やや複雑そうな表情で頷いてくれた。先ほどまでの冷たい彼はどこかへ消えたよう だった。
「うん」
 例え、真実を話さなければならなくなっても、それはお前のせいではない――暗にそう伝えてくる ラシェの視線の優しさに、デュシアンは微笑んで応えると立ち上がった。
 ラシェの言うように、一旦自室に戻って服を着替え、髪を結ってもらわねばならない。 今着用している男の貴族のような格好で拝謁すれば、国王が何かを聞く前に「公爵をしている」と 服装で答えているようなものとなる。それに短い髪だと気づかれればそれもまた理由を話すのが 難しい。だから髪を結わなければならない。もしかしたら国王は気づいていないかもしれない、という 可能性もあるのだから、わざわざ疑惑を深めるような格好をしていくのは相応しくない。
「その薔薇はわざわざこの部屋へ持ってきたものなのか?」
 立ち上がってテーブルの上の花瓶へと手を伸ばしたデュシアンへ、ラシェは呆れた様子で 尋ねてきた。
「そうだよ。寝室のを持ってきたの」
 陶磁の花瓶にセンス良く活けられているのは淡い桃色のイスラフル種の薔薇だ。これは昨日 贈られてきた≪いつもの薔薇≫。この薔薇が届いたおかげで放心状態だったキスの後遺症から抜け 出す事ができたのだ。けれど、この薔薇を送ってくれる人があの場面を見ていたのかと思うと、 何故か複雑な気分になり、デュシアンは胸のもやもやを持て余していた。
――なんか、格好悪いところばかり見られてる気もするし……
 花びらを軽く弾いて溜息を零す。イスラフル種の薔薇が届けられたのはこれで二度目。 形も匂いもやや独特で、デュシアンはとても好きな種だった。だから、カイザー公子が包んでくれた アイゼン家のエントランスを彩っていた薔薇はドライフラワーにする予定となっている。
――そういえば……
 カイザー公子の顔を思い出して、ふともう一度、四年前のあの丘の下で猫を抱き止めてくれた 青年の姿を思い起こした。黒い髪、藍色の目。確かにカイザー公子なはずだ。彼は覚えていないと 言うが。デュシアンも彼とどんな会話をしたのか、記憶の彼方に消えてしまっている。
――思い出したい、な……
 植物園へ行けば思い出すだろうか。薔薇を見下ろしながらそんな考えに耽っていると、鋭い視線に 気づいてラシェへと瞳を向けた。彼はこちらを見ていたのを気づかれたのが気まずかったのか、 ばっちりと視線が合った直後に何も言わずに視線を逸らしてしまった。
「そうだ、ラシェはこの薔薇の送り主を知っているの?」
 ラシェと薔薇とを交互に見て思い出した疑問を口にすれば、ラシェは予想外だったのか、やや目を 見開いてからこちらを振り返った。
「……なぜそう思うんだ?」
「だって、一番警戒しそうなラシェが全然そんな気見せなかったんだもの。知ってるからなのかな、 て思ったの」
「お前にしては珍しく勘が働くな」
 褒めているのか貶しているのかは不明だが、デュシアンは自分の考えが当たっていた事が 嬉しくて、くすくすと笑いを零した。
「やっぱり知ってるんだ。ねぇ、その人って、わたしの事よく見てるの?」
「誰、とは聞かないんだな」
 更に意外だったらしく、ラシェは眼鏡の奥の瞳を一旦大きく見開いてからすぐに細めると眉根を 寄せた。
「だって、教えてくれるなら最初から言うでしょう? ラシェにその気がないんだもの、わたしに 聞き出せるわけないよ」
「少しは賢くなったか。だが、今更どうした? それは――」
「これは、父様が誰かに頼んで送ってもらっているんでしょう?」
 デュシアンは首を振ってラシェの言葉を遮った。ラシェは前髪をかきあげながら 瞳を伏せて吐息を零す。
「……叔父上の事、やはり少し落ちついたようだな。――安心した」
 もしかしたら、彼の口元はやや微笑みの形になっているかもしれない。彼のいつにない様子に デュシアンはぎょっとした。ラシェはたまに優しくなる。それが嬉しくてデュシアンは胸を膨らま せるが、けれど甘えをぐっと飲み込んで無理やり微笑んだ。
「うん。でもわたしにはセオリア母様もレセンもいるし、ラシェもいるから。だから大丈夫」
 その言葉に嘘偽りはない。けれども父が消えて空いた心の穴は大き過ぎて塞がりきれてはいない。 しかしそれを口にするつもりはなかった。
「――そうか」
 しばらく観察するようにデュシアンを見つめてから、やや間を置いてラシェは穏やかに、 柔らかく微笑んだ。
「うわ」
「なんだ?」
 奇怪なものを急に見たかのように声を上げたデュシアンを怪訝そうにラシェは見つめた。
「ラシェもそういう笑い方、できるんだと思ってびっくりしたの」
「俺はウェイリードの奴とは違う」
 むっとしたように頬の筋肉を痙攣させたラシェの言いようにデュシアンもやや腹が立った。
「公子だってちゃんと微笑むよ。ラシェみたいにふてぶてしい――」
「誰が何だと?」
「ごめんなあい(ごめんなさい)」
 頬っぺたを引っ張られながら、デュシアンはしこたま謝った。

 頬をしっかりとマッサージした後、ラシェへの恨み辛みを彼に聞こえないようにぶつぶつと心の 中で呟きながら花瓶を持ち上げたデュシアンへ、ラシェはまたも鋭い視線を向けた。もしかして 心の中の声も聞こえてしまったのかとドキリとし、手に持つ花瓶を落としそうになって慌てて腕に 抱え直す。
「送り主はいずれ分かるはずだ。それまで純粋に喜んで受けとっていれば良いが、――もしかして 負担か?」
 ラシェは本当によく分からない人だった。急に優しくなったり冷たく突き放したりする その二重人格的な態度に戸惑って対応しきれない時もあるが、いつもの事なのでデュシアンは諦めた。 彼を理解するには自分はあまりに幼稚だと知っていたからだ。
 少し寂しい気分を癒してもらうように眼下に広がるサーモンピンクの薔薇を眺めてからラシェへと 向き直った。
「負担なんかじゃないよ。嬉しいからお礼が言いたいな、と思ったの」
 お礼を言って、話がしたかった。その≪話≫が父の事についてなのか、自分の心の中の色々な もやもやについてなのかは見当がつかなかったが。
「送り主もそれを聞けば喜ぶだろうな」
 くくくと本当に楽しげに、けれどどこか意地悪い表情で笑う従兄に空恐ろしさを感じ、やっぱり ラシェはわからない人だとデュシアンは独り言ちた。
「雨が降りそうだな」
 地上へ迫ってくるかのような重たい雲に覆われた鈍色の空を仰ぎ見ていたラシェの呟きにデュシ アンも窓辺から空を見上げた。決して嫌いではない色の空だ、――そう、灰色は嫌いではない。
「迎えの馬車を遣る」
 やっぱり最近は優しい方のラシェが増えてきた。デュシアンは心を踊らせながら退室した。

「それにしても、ウェイリードの奴が≪笑う≫なんて事があるのか。空から天使でも降ってくる な。いや、ウォーラズールの火竜が大繁殖するな」
 年下の友人が一体どんな状況でどんな顔でどんな感情でデュシアンに対して微笑んだのか、 ぜひ知りたいものだとラシェは苦笑した。




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 宮殿を歩くデュシアンには自然と視線が集まった。恵まれた容姿ではあったが、しかし人を振り向か せる程の絶世の美女というわけでも派手な作りの美女というわけでもなかった。自慢の美しい髪はばっ さりと切り捨ててしまったので、それが目を引くわけでもなかった。尊敬や畏怖の対象となるような力 や才能を持ち合わせているわけでもなかった。ただ彼女にあるのは真偽の怪しい種々の噂だけ。主神の 加護があった公爵、アデル公の娘、王子がキスをした相手――、しかしそれらの噂は人目を引くだけ の力を余りあるほど有していた。
 当の本人は自分の考えに没頭しているのか、周りが自分を見ている事など気づきもしなかった。 ただただ、魔法宮と騎士宮とに挟まれた王族の住まう王宮へ向けて黙々と歩いていた。
 宮殿から外れるようにして北東へ伸びる御影石の廊下には、そこからは別世界であると示すように 深紅の絨毯が敷かれ、真っ直ぐに伸びるその先には扉が見えた。あの扉の向こうは 王族の私用スペースになっている。
 扉の前面には濃紺の軍服を纏った二人の王室警邏隊が立ち塞がっており、常に警戒を怠らずに 正面を見据えていた。彼等は例え相手がいかなる者であっても王族へ刃を向ける者を問答無用に 斬り捨てる事のできる権限を持つ。天井を掠らず振りまわせるやや短めの長さの脇差に 生々しさを感じ、デュシアンは近づくのを些か戸惑った。
「陛下がお待ちです」
 デュシアンの戸惑いなど気にもしないように優男の騎士が扉を開けてくれた。顔を知られている事 にはもう慣れていたので、短く礼を述べると王宮へと足を踏み入れる。その時、扉を開けた騎士が ちらりと横目に自分を見てきた事は気づかなかった事にした。今は誰の視線も痛い。
 扉を抜けると、エントランスから真っ直ぐに伸びる階段から下りてきた侍従が案内を申し出てきた ので彼の後ろを歩きはじめた。デュシアンは以前と変わりない質素な内装へ視線を一廻りさせながら、 もしかしたらアイゼン家の屋敷の方が王宮よりも広いかもしれないと密かに思った。 あの資産家大貴族の屋敷は溜息が零れる程巨大だったのだから。
――王族よりもお金持ちってわけ、ないよね
 アイゼン家邸宅は特別華美ではなかったが、以前来た時と殆ど変わらない王宮の内装はやはり 質素でそっけない気がしてしまう。
――ここに最後に来たのって五ヶ月ぐらい前、かな
 まだ父がベッドの上で起き上がれていた頃だ。
――あの時は、すぐに治ると思って、ここに来てた……
 胸元を飾る翡翠のアミュレットへと手を伸ばし、ぎゅっと強く握った。
 医師は父の身体を冒す特定の原因を見つけてはくれなかった。そして病魔の正体も分からない まま成す術もなく父は序々に衰弱し、息を引き取った。倒れるまでは――亡くなる二ヶ月前までは、 本当に元気だったのに。
――父様……
 父への思慕が膨らみ、デュシアンはこみ上げてくるものを抑える為に違う事を考え様と努め、前を 歩く侍従の背中を無感情に見つめ続けた。

 侍従に促されて国王の私室へ足を踏み入れると、その侍従は下がってしまった。静閑な 室内は他に誰もおらず、完全な二人きり。予め人払いをしたのだろうが、珍しい事だった。
「久しいな、デュシアン」
 奥から細く乾いた声が聞こえ、デュシアンは慌てて頭を下げた。
「ご無沙汰しております、陛下」
 二人きりで会う事など初めてだった。父がいた頃は必ず父と共に拝謁していたし、父が病床に倒れて からは継母か弟と共に来ていた。それに父の親友だといっても、気軽に話しかけて良い相手ではない。 どうして良いのやら困惑しているデュシアンへ、国王は微笑みかけた。
「そう固くならなくとも良い。こちらへおいで」
 寝台の上で上半身を起こし、まるで眩しいものを見るかのように瞳を細めながら 手招きをする国王に、吸い寄せられるようにデュシアンはそちらへ赴いた。
 国王オーランド七世は長患いの為か実年齢よりもずっと年上に映る。セレド王子やミリーネ王女 と同じ金髪であろうその髪は殆どが白髪となり、細く艶がなかった。こけた頬と落ち窪んだ目許 がいかにも「病人である」とありありと示してはいるが、それでも往年の恵まれた容姿を感じ させる面差しは十分残していた。いつも変わらず微笑んでいる口許は優しく穏やかで、病身に苦しむ 影もない。それはデュシアンには救いだった。けれども身体は確実に、以前会った時よりも細く なっている。
「今日はどうしても話さねばならない事があってお前を呼んだのだ」
「話さねばならぬ事……ですか」
「お前にはとても酷な話となるだろう。もっと傍へおいで、デュシアン」
 どこまで近づいたものかと悩んでいたデュシアンに国王は寝台の傍にある丸椅子を指差した。 言われるがままにそこへ腰を下ろせば、骨ばった大きな手がデュシアンの膝の上の手を取った。 その感触が四ヶ月前の父の手と重なり、心臓が大きく跳ねる。
「真実を語れるのは私とファロン高司祭だけだ」
 国王の話にデュシアンは父の姿を掻き消した。視線を向ければ国王はどこか寂しげに微笑んで いる。
「けれどもアデルはファロン高司祭を、事の他恨んでいた。だから私から話すのが良いのだろうし、 何よりも私が自分の口からお前に話したいのだ」
「父が、――恨む?」
 国王が何を話したいのかを理解しようと行間を読む前に、デュシアンは気になる言葉を 繰り返してしまった。何故なら、デュシアンの中の父は誰かから恨まれるような人でも、誰かを 恨むような人でも有り得なかったからだ。
「アデルも人間なのだ、誰かを愛する事もあれば誰かを憎む事もある。人間の感情は快、不快から はじまる。自我を持ち合わせている限り、正の感情だけで生きる人間など存在しないのだよ」
「……」
 異論はなかったけれど、デュシアンは腑に落ちなかった。
「例え負の感情を全く見せなかったとしても、その感情が心の中に存在しないという証明にはなら ない。ただアデルは隠すのが上手かっただけだ。ファロン高司祭がお前に会うのをアデルは決して 許さなかった。だからお前は見る機会が無かっただけだ、アデルの強い憎しみの感情を」
「――そんな」
 いつも微笑んで自分を見つめてくれていた父しか知らなかった。優しい顔しか知らなかった。穏や かに佇む姿しか知らなかった。デュシアンには父が誰かを強く憎み恨む姿など想像もできなかった。 慈しみだけを湛えたあの瞳が誰かを睨み付けるとはとても考えられない。
 そんなデュシアンの気持ちを理解しているのか、国王は静かな口調でどこか遠くを見つめる ように続けた。
「この国の多くの人間にとってアデルは理想化された聖人だった。お前にとってもそうなのだろう。 けれどアデルは聖人などではない。彼は――激しい感情を持ち合わせた一人の≪ひと≫だった」
「……」
 国王の言葉に父の思い出を汚されたように感じた。父は誰かを憎むような人ではない。 誰かを恨むようなそんな心を持つ人ではない――と、信じていた。けれど、負の感情を持たない 人間などいるのかと聞かれれば、答えは国王と同じだった。しかし父にはそんな感情はなかったと 頑なに信じる矛盾した思いに囚われ、デュシアンはどうしても素直に受け入れられなかった。
「これから話すのはアデルのそういった面だ。デュシアン、心を強く持って聞きなさい。 私は話さなければならない――いや、私が話さなければならない。二人を引き合わせたのは私なの だから」
「……ふたり」
 それが誰と誰を指すのか、デュシアンには何故かもう予想はついていた。
「アデルとラトアンゼ――お前の父と母の話だ」



(2006.3.28)

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