墓と薔薇

7章 現在を支配する過去(2)

 ダリル・フォスターはもともとアイゼン公爵領所属の神殿騎士だった。生まれも育ちも アイゼン公爵領。生家は何代も続く武門で、クノッサス峡谷から吹く谷風に恵まれた土地を 有していた。
 彼の才能はすでに幼い頃から顕著に現われ、年を重ねる毎に同世代を引き離していった。亡くなった 両親の代わりに後見人を務めていたライノール・アイゼン公爵も彼が一地方の騎士の中で埋もれて 終わってしまうのを望まず、彼がまだ十五の時に首都へと留学させ、その可能性を自分自身で広げ させようと自由を与えた。
 かくしてダリル・フォスターはアイゼン家に保護された少年ではなく、ただの一見習い騎士として 養成所へと足を踏み入れたのである。
 彼はそこで一生分に値する親友を得、誰よりも心寄せる運命の女性と出会い、穢れを纏いし幼き命を 慈しむ人生を選んだ。並ぶ者もない稀代の英雄と称されるようになった二十代半ばの頃、 彼は神殿の騎士である事を辞め、宮殿の円卓騎士となった。その訳を正確に知っている者は 少ない――。
 国中の騎士たちにとっての憧れであり絶大な人気を誇る彼だが、その反動のように『恩知らず』と いう陰口も常に付き纏っていた。彼の才能にいち早く気づき、その開花の機会を与えたのは彼を保護 してきたアイゼン公爵である。神殿の騎士として誉れを受け、神殿の名を高める役を担えば、 神殿の貴族たるアイゼン公爵への恩返しになると考える者からすれば、神殿騎士を辞めて宮殿側の 騎士となった彼は許されざる恩知らずな者として映るのだろう。
 しかし、そんな陰口を耳にしたアイゼン公爵が人目も憚らず大笑いをし、『自分の人生を勝ち得て 歩んでいるダリルが何故恩知らずとなるのか』と一笑に付した話が広がると陰口も聞かれなくなり、 代わりにアイゼン公爵の懐の深さを称える声が囁かれるようになった。
 そしてもちろんダリル・フォスター将軍自身も自分が恩知らずであるという自責の念はなかった。 それは、力を認められ、その力の限りを誰かの為に扱い誇れる生き方をしている事こそ、 アイゼン公爵への何よりの礼儀だと解釈しているからだ。

 だからこそ、彼がこれ程までに深刻な様子で頭を下げる必要はないと、ウェイリードは腹立た しい気分で父親の後ろに立っていた。
「すべて私の不徳の致すところです」
 ダリル将軍は全く顔をあげようとはしなかった。塵ひとつない濃紺の絨毯に視線を落とした まま姿勢を変えようとはしない。
――似合わない
 ウェイリードはそう思い、視線を背後の窓辺へ移した。
 将軍は失敗を必要以上に引き摺る弱い人間ではない。長い付き合いであるからそれはよく理解して いた。そして、個性豊かに仕事を蹴散らかす円卓騎士たちの手綱を握っている彼は、人を見誤るよう な人物ではなかった。自分でもそう自負してきたはずだし、その自信が間違ってはいるとは 到底思えない。
 今回の事はただ、セレド王子が稚拙で不誠実な態度を見せただけなのだ。誰かに責任があると すれば、それは期待を裏切った王子自身だ。
 ウェイリードは同席するのではなかったと心底悔やんだ。頭を下げる将軍の姿を見たいわけが ない。しかし同席を望んだのは将軍だった。
 目を瞑っていても細部まで想像できる見飽きた前庭へと視線を落としてしばらく眺めながら、 なかなか場を収めようとしない父親へと視線を戻した。
「ダリル将軍、いい加減顔をあげるといい。私は気にしておらん」
 一見冷たく聞こえるが、そうではない。突き放しているどころか、責める気など微塵もないだろう。 父の声質からウェイリードは敏感に感じ取っていた。長い付き合いの将軍もそれに気づいている だろうと想像つくが、それでも頭を上げなかった。その頑なさに少し疑問を持つ。
「レニス公爵から私に再三申し入れがありました」
 ウェイリードは一刻も早くこの重苦しい空間から解放されることを望み、一向に話の進まない場を どうにかする為に口を挟んだ。
「イルーダを養女にしてはどうか、と父に勧めろと。公爵は私とイルーダが姉弟弟子だと ご存知でしたから」
 しかしダリル将軍は顔をあげなかった。
「とにかく、アイゼン家の事なら良いのだ、ダリル将軍」
 アイゼン公爵は軽く溜息を吐き、何か根負けしたかのような半分呆れかえった表情で続けた。
「もし何か――、殿下の方で変化があれば、いつでもアイゼン家はイルーダを養女にする準備が できている。それだけだ」
「――本当に、申し訳ありませんでした」
 深く一礼をすると、やっとダリル将軍は顔をあげた。
 そんな父と将軍の様子を見比べて、ウェイリードはダリル将軍が不必要な程頭を下げていた理由を やっと理解した。父が将軍の考えている事を理解していたのは流石親代わりとも言うべきか。
――ダリル将軍は、まだ心のどこかでセレド王子を信じているのだ
 だからこそ、王子次第では今後もイルーダを養女にするのは厭わない、というアイゼン家当主の 言葉に顔を上げたのだ。つまりは今回は水に流すが、またいずれの時があれば王族に――セレド王子 に力を貸すのも構わない、という言質をダリル将軍は取りたかったのだ。
――なんてお人好しな方だ……
 ダリル将軍は自身の失態を謝りに来ているだけではなかったのだ。セレド王子の行動を代わりに 謝り、且つ王子に対するアイゼン家の不興を取り払おうとしていたのだ。
――王子には何か理由があると考えているのか……?
 王子の意図はわからない。しかし宮殿の貴族だけでなくリッツバーグ商会の上層部までも丸め込む ような才気がある。もしかしたら何か裏があるのかもしれないと、ダリル将軍はそう考えているのかも しれない。
――だが本当に、ただ彼女を見初めただけだとしたら?
 不意に、彼女の無防備な肩が揺れたあの瞬間が視界を覆いつくした。剥き出しの肩に触れる手を 振り払うかのように身を捩り、目じりに薄っすらと涙を溜めながらも、無作法な暴挙に出た男を 叩いた彼女はどんな表情をしていたか? 呆然としながらもラシェに助けを求め、その 腕の中に収まった彼女を見てはじめて、彼女が短い髪を美しく纏めあげている事に気がついた。 あまりに細いその首筋は少しだけ赤く染まっていた……。
――それは、違う
 急激に不安定で説明のつかない負の感情が沸き上がり、現実に引き戻された。視界に 映るのは父の書斎。見慣れた屋敷の一室だ。
 怒りなのか恐れなのか後悔なのか不満なのか、そして何に対しての感情なのか。今自分を支配 しようとしていたモノの答えを探る気にはなれなかった。
――イライラする
 だいたい、あの王子に何か意図があっても自分には関係がないではないか。ウェイリードは王子の 奇行に何か意図を求めようとする妄執を振り払うかのように、額にかかる前髪を乱雑にかき あげた。
「ダリル将軍にはそんな事よりも、イルーダを気にかけてやって欲しい」
 それが今回の事に関するウェイリードの素直な気持ちだった。図らずも傷ついたのはイルーダ だ。王子の立場などどうでも良い。父が許すならば勝手にすれば良い。その気持ちを『そんな事』と いう乱暴な言葉に乗せてそう呟いた。
 イルーダに関しては、剣の師を同じくする同胞、姉弟弟子として、放っておくつもりには なれなかった。鉄仮面などと呼ばれてはいるが、彼女はただ自制心が強いだけにすぎない事を ウェイリードは知っていた。
「……君に誓って約束する。イルーダをこれ以上傷つけはしない」
 ダリル将軍は視線を交わすと力なく微笑み、自分に誓うように胸元に手を当てて瞳を閉じた。



◇    ◇    ◇



「お前の顔を見て、同席しなくて正解だったとなんとなーく悟った」
 窓枠にもたれるようにして行儀悪く座ったカイザーは、ファウの耳の後ろを手荒く撫でまわしな がら、厭そうな顔をしてそう吐き捨てた。
 ウェイリードは扉を閉めながら苦笑を浮かべた。今自分は酷い顔をしていると 認識していたからだ。
「ファーウー」
 ちょうどその時優しい声が聖獣の子の名を呼んだ。するとカイザーの手の中の垂れた耳がピンと立ち、 青い目が輝いた。ファウは主の無骨な手を振り払うと、暖炉の傍を陣取るビビたちと語らって いる声主の元へ一目散に駆けて行った、――主への未練など一切見せずに。最近のファウはぞんざい な扱いをしてくる主よりも、優しく撫でてくれる≪彼女≫をお気に召しているようなのだ。
「餌は誰がやってると思ってるんだ」
 膝元から即座に居なくなった薄情な飼い犬に対してカイザーは胸を反らせながら毒づくが、 けれど満更でもなさそうな表情で見送ると、窓の外を覗った。すぐにその表情も曇る。
 ウェイリードも隣りに立ち、前庭を歩き去る彼の背へと視線を落とした。
「お前も知らなかったんだろ、イルーダを養女にするって話」
 視線を動かさず、カイザーは尋ねてくる。
「ダリル将軍から申し出があった後、母上とだけ話し合ったらしい」
「父上らしいな。でも俺もお前も反対しないしな」
「王族と姻戚関係になるのはやや反対だが」
「まー、そう言うなって」
 先に視線を離したのはカイザーだった。椅子に座り直し、耳の後ろを軽く掻きながらぽつりと 呟いた。
「ダリル将軍も災難だったな。良かれと思ってやった事なのに、さ」
「……ダリル将軍の判断は間違っていなかったはずだ」
「判断? 王子とイルーダの事か?」
 ファウがいなくなって手持ち無沙汰なのだろうか、カイザーは大ぶりに手を振ってから 両手を頭の後ろで組んだ。
「イルーダは生まれを卑下し、貴族とは慎重過ぎるほど距離を置いていた。だから殿下のしつこい 申し出も丁重に、乱雑に受け流していた。けれども彼女は殿下を無視できなくなってきていた……。 それ程までに殿下も本気だったのだと思う。少なくともイルーダは殿下が本気なのだと判断して、 心を開いていた。だからこそ、ダリル将軍も二人をどうにかしてやりたいと考えたはずだ」
「王子の気持ちを認めるのに、すげぇ悩んだだろうな。あの鉄仮面女、頭堅いし」
「……」
 そうだ、悩んだはずだ――、ウェイリードは心の中で頷いた。
 イルーダは何度も王子の思いを否定し、頑なに拒んできた。王子もあの手この手で自分へと心を 向けさせようと躍起になっていた、余裕が無い時もあった。だからこそ、しばしば王子には暴走する 感情が垣間見れた。打ち解けた雰囲気で彼女とララドの話をしていようものなら、突き刺すような 視線で睨み付けられた。王子はララドを知らないし、ララドで彼女がどのような生活をしていたかを も知らない。師の事もきっと殆ど知らないのだろう。このような激しい嫉妬を受ける事が多々あった。 だいたいレムテストの件も半分は嫌がらせだと思っていた程だ。
――王子はあれ程強い執着心を持っていた。それなのに……。人の心は簡単に変わるものなの だろうか? それともやはり何か……

「どうかなさいました?」
 急に背に声をかけられ、ウェイリードはやや驚いて振りかえった。無防備に考え込んでいた 事を恥じるも、気心の知れた者しかいない室内では仕方もないかと首を振る。
「――いや」
「?」
 差し出されたお茶を受け取り動揺を隠すように一口飲むと、相手は飴色の髪をはらりと揺らし ながら小首を傾げてその場から動かなかった。色は違えど真っ直ぐな髪と、誰にも媚びへつらう事の ない強い意思を秘めた瞳とを見て渦中の姉弟子を思い起こし、ウェイリードはやや苦笑した。
「王子とイルーダの事を考えていた。そんなに簡単に心変わりするものなのか、と。私には てんで分からん」
 恋愛事は苦手だった。女性の君にはわかるだろうかという意味を込めて聞いたのだが、相手は 持っていた盆を胸に押しつけるようにして抱くと、曖昧に微笑んだ。
「……簡単に、心変わりしない事が殆どだと思います。いくらデュシアン公女――ラヴィン公爵が 綺麗だったとしても」
「そうか」
 やはりそういうものだよな。そう心の中で呟いた。
 彼女はどこか寂しげに微笑みながら、ふわりとした裾を翻し、ビビともう一人の娘が占領する暖炉の 方へ戻った。
「朴念仁」
 背を隠すほどの長く艶やかな髪を見送った後、カイザーは批難の気持ちを隠さずに ウェイリードを睨み付けた。
「なんだ、藪から棒に」
 ウェイリードも負けじと睨み返す。
「少しはリアーヌの気持ちも考えてやれよ」
 呆れたように窓枠に肘をついて頬を押さえながら挑むように睨んでくる片割れに対し、 ウェイリードはやや言葉に詰まりながらも、自分は間違っていないと主張した。
「お前の言いたい事はわからないでもないが、彼女は婚約の破棄に簡単に同意した」
 四年前、彼女はこちらの急な申し出に対し文句一つ零さず頷いた。白詰草の絨毯を踏みしめて 交わした短い会話を思い出す。そしてあの丘から猫が――。
「リアーヌが縋りついてお前を困らせるような嫌な奴だった事が一度でもあるか? 聡明で 聞き分けの良い、優しい彼女は≪簡単≫に同意したわけないだろう? お前の為にあっさり 引き下がったんだよ。そういう子だろ、リアーヌは」
 分かってない。カイザーは呆れ失望し、苛付きながらも決して声を荒げないよう細心の注意を 払いながら感情を吐露した。
「私と結婚などしても彼女が危険にさらされるだけだ」
 銀鼠色の毛並みの猫を思い出し、軽く慌てた思考が口を滑らせた。すぐにも自分の失言に 気づき、血の気が引いた。
 カイザーは≪思った通り≫、驚く程の反応を見せた。窓枠から肘を外し、手をだらりと下ろす と目を剥くようにして見上げてくる。
「暗殺未遂があったから、破棄したのか? ――そうだったのか?」
 その問いにウェイリードはうまい誤魔化しの言葉が思い浮かばず、今更何の発見もない前庭へと 視線を逸らして場を取り繕おうとした。
 しかしカイザーがいつまででも答えを待つ姿勢でいるのを無視できず、諦めて話しはじめた。
「他にどんな理由がある? だいたい彼女との婚約は親同士が勝手に結んだ口約束だ。 互いに良い相手ができればいつでも破棄すると決めていた」
「――まあ、お前にとっちゃ、そうだったんだろうがな」
 この朴念仁――カイザーはまるで自分に投げかけるかのように小さく囁いた。今度は片割れが外へと 視線を逸らす番だった。藍色の瞳に鈍色の空が映り込む。
 まるで自分のようだ。
 様子の変わったカイザーを見下ろし、ウェイリードははっきりと、自分とカイザーが双子である 事を意識した。そんな事は生まれる前から決まっていたはずなのに、まるで今はじめて知った事実 であるかのような衝撃を受けた。
 その居心地の悪さに耐えかねて退室しようと身体を動かせば、カイザーが視線を動かさず 尋ねてきた。
「どこかに行くのか? 午後にグリフィスたちも来る」
 いつもの傍若無人な態度は消え、覇気がなかった。視線は未だ外。
「――すぐに戻る」
「……」
 カイザーは反応せず、立ち去る片割れをそれ以上引き止めなかった。



◇    ◇    ◇



 だから話すべきではなかったのだ。
 四年前の暗殺の話、その話題に触れた途端にいつもカイザーは意気消沈してしまう。 だから極力その話題には触れないように気をつけていた。しかし余計な記憶の想起に慌て、 つい口が滑り、今まで黙秘してきた事を伝えてしまった。ウェイリードはそんな自分の愚かさに 呆れていた。
――何度言い聞かせても、あいつは自分がいるせいだと繰り返す
 十年前に――≪あの時≫に自分だけが首都に残された事が心の傷となっているのだろう。アイゼン 家の直系を残す為に、国境を守る公爵領に赴く事なく弟の自分だけ首都に残されたあの時の 事が……。
――あの時カイザーが居ようと居まいと、私は公爵領に連れて行かれていた。国境を固める為に 出兵する父とブランシール卿が抜けた城の主となる為に
 それなのに、自分がいた為に双子の兄が戦地に追いやられたと、カイザーは責任を感じていた のだ。弟という≪代わり≫がいるから現在嫡子である≪本人≫の命が軽々しく扱われ、危険な 目に合うのだと思い込んでいた。
 その自責の念が四年前の暗殺未遂にまで歪んで影響を与えていた。カーラ神教の教義から外れた 行為をしたという容疑だけで神殿の一派が安易に命を奪う≪暗殺≫を実行したのは、嫡子の ≪代わり≫たる弟の自分が居たからだ、と。自分がいなければアイゼン家の血統を尊重して、決して 暗殺などという形での≪排斥行動≫は起きなかったと認識しているのだ。ご丁寧に暗殺支持者 たちは、弟を嫡子とし兄を廃嫡とするなら命だけは助けてやると脅してきた。 実際には廃嫡となれば≪暗殺≫の手は容赦なくなるはずだから、嫡子である事が寧ろウェイリードの 身の危険を最低限に抑えてくれていたのだが。とにかくこの脅しもカイザーの自責の念に拍車を かけていた。
 そもそも暗殺未遂が起きたのは、自分の責任だとウェイリードは何度もカイザーに言い聞か せていたのだが、それでも彼は認めなかった。
――全部、自分で蒔いた種だ。守護する精霊を失ってしまった≪あの失態≫も、 闇の精霊との契約も、全て私自身の問題だ。自分で自分の首を締めただけに過ぎない
 それなのに、カイザーは認めない。
――馬鹿な奴……
 何故そんなにも自分に責任を感じるのか。自虐趣味のある、悲劇に酔いしれる、そういった 類の人間ではないのに。
 その時、何者かの気配を敏感に感じ取り、ウェイリードは咄嗟に外套の中で手を柄へと 伸ばした。
「君は本当にここが好きだよね、自分の書斎より」
「……」
 声の方向に視線だけを向ける。実体しか切れない剣では役に立たない事は分かっていたが、 急を瀕した時に手をそちらへ向けてしまうのは癖のようなものだった。
 男が歩く度に闇よりも濃い闇色のローブの裾が軽くはためいた。当たり前の事なのに、それが 不可思議なことのように映る。ウェイリードから十歩ほど離れたその場で留まると、 風もないのに男の漆黒の髪が不自然に揺れた。彼の背後を無数の精霊の軌跡が通り過ぎる。
 今日何度目かの失態にウェイリードは溜息すらでなかった。何故こんな場所で考え こんでしまうのか。こんな危険な場所で――。
「君は僕が現われても驚かないんだね」
 男は楽しそうに微笑み、けれどどこか残念そうに呟いた。その言葉に何か奇妙なものを 感じたが特に指摘しなかった。――彼は後にその事を後悔するのだが。
「出てくると思っていた」
 そう答えれば、男は目を丸くさせ小首を傾げて驚いたような素振りを見せたが、それがただの 見せかけの姿勢である事をウェイリードはよく知っていた。
「おや。僕の行動は簡単に想像できる程単純だったかな」
「……私が貴様に話がある時、――それは貴様も私に話がある時だ」
 やや苛付いたように吐き捨てれば、男はくすくすと嗤う。その声が疎ましい。
「半分正解、かな。君が話したそうにしているから出てくるんだよ」
「できるなら私は貴様と話などしたくない」
「そうなんだ。でも君は僕を必要としている。さあ、話はなんだい?」
 そもそもここ――≪北の守り≫へ来たのは、この≪男≫の不可解な行動の理由を尋ねる為だった のだ。決して何か考え込む為に静かな場所に来たかったわけではなかった。
 ウェイリードは気持ちを入れかえると、一昨日より以前まで自分の思考を支配していた疑問を 叩き付けた。
「リディス・フォスターの調べとコール・ブラウアーの自供が重なった」
「そうだろうねぇ。ブラウアーは結界を傷つけていたし」
 片頬に掌を寄せて男は首を傾けながらニコニコと微笑んでいた。
「何故――、何故、黙って傷をつけさせた? 貴様にとっては不本意なはずだ。貴様はこの結界が 壊れるのを良しとしない」
 結界が壊れるのを望まない。この≪男≫がそれを望んでいない事も、その理由さえも、ウェイ リードは≪知って≫いた。
「だって、≪北の公≫がいるだろう?」
「?!」
「ちょっと見てみたかったんだよね、新しい≪北の公≫の力を。でも北の公、すごい大変そうだった よ。三枚目構築魔法で酷い衝撃がきて、すっごく痛かったんだろうねぇ、弱ってた。可哀想だったよ、 身体中震わせて身悶えて、衝撃の痛みを堪えて――」
「やめろ」
 何かを考える余裕もなく、ただ心に浮かんだ怒りと悔恨と嫌悪に男の言葉を遮っていた。 あの時の状況をまるで楽しい劇でも見ていたかのように語る男に腹がたったのか、彼女を一人で行か せてしまった自分の判断を未だ後悔しているのか、それとも彼女が苦しんでいる姿がありありと目に 浮かんでくるのが耐えられなかったのか。感情の理由が説明できない。ウェイリードは自分らしく ない、自分を管理し把握できていない言動に戸惑いを覚えた。
 しかし、悦に入った表情で厭らしく笑う男が視界に映り、それが癪に障ってすべてを怒りに押し 流してしまった。
「一体何がしたかったのだ」
 自分でも分かるほど刺々しい口調で、柄を掴む手もぎりぎりと強めた。
「そのうち傍らの≪樹木の精霊≫が力を貸すかなと思っていたんだけど、彼女は少し力の使い方を 忘れているようだったね。仕方ないから最後には僕が力を貸してあげたんだけど」
「貴様、一体何がしたいのだ? ――彼女を苦しめたいだけなのか?」
 勢いに任せて一歩前に踏み出して問えば、ウェイリードは意識に反してぞくりと背中が粟立つのを 感じた。男が嗤うのを止めたのだ。
「――そうだね、僕は≪彼女≫を弱らせたかったんだよ」
 こちらを見ているはずなのに、男は虚空を見ているかのような瞳をしていた。 その時はじめて、自分が相対している≪モノ≫は人間には計れるような≪モノ≫ではないと思い 知らされた。急速に血の気が失せていく。それでも後ろに退く気にはなれなかった。
「――何の為にだ」
「それは秘密。君には教えてあげないよ」
 男はいつもの笑みを浮かべると、答えるのを拒んだ。
 男の様子が戻った事にどこか安堵している自分の弱さにウェイリードは舌打ちする。
「彼女は何も持っていない、ただの普通の娘だ。これ以上彼女に構うな」
 こんな≪モノ≫と彼女が対峙できるはずがない。そんな気概は彼女からは感じられなかった。
 すると男は目を丸くさせると演技過多に意外そうな表情を浮かべた。
「あの子は自ら≪北の公≫となったじゃないか。あの子は普通の娘ではない道を自ら選んだん だよ」
「だが中身は普通の娘だ」
「――ねぇ、そんなに大事? アデルの娘が」
 意地悪く口の両端を引き上げた男の表情に、背筋が凍った。
 この男の腕の中で眠る彼女を見つけた時の事が脳裏を過ぎり、あの時と同じ、臓器が収縮するかの ような不安と恐れが再来した。この男に対して彼女の話をすればする程興味を与えてしまうの ではないか、と自分の愚かさを呪う声が聞こえる。
「――」
 しかし応えを見送ってもそれはまた彼の興味を引くだけで、反応に困惑した。
「大丈夫、君が北の公を大切に思っていても思っていなくても、僕にとって北の公の存在は 変わりないよ」
「何故――」
「人の心は脆くうつろいやすい。だからこそ美しく醜い」
 聖典アニカに綴られる悪神の言葉だ。歌と踊りの女神アニカが各地に残した口伝から起こされた 聖典の内容が正しい事に軽い眩暈が起きる。
「カーラはこの言葉を認めなかった。カーラは人の心が脆く、うつろいやすく、醜いものだと 決め付けたからね。だから僕を滅ぼし、人間をも滅ぼそうとした」
 はじめて≪本人≫の口から≪真実≫を聞く。聖典とは全く違う内容。今までそういった類の 事柄を語る事はなかった。ウェイリードは耳を塞ぎたい衝動に駆られたが、 ≪それ≫が≪真実≫だと知っていた。四年前に≪知って≫しまったのだから。
「ああ、話がずれたね」
 男がとても楽しげに笑う。
「そう、だからね。僕はカーラに認めさせてやりたいのさ、人の心は美しいのだ――と」
 その為に新しい≪北の公≫と接触を謀ると言っているのだろうか。彼女にあれ以上関わると 言うのだろうか。ウェイリードは急激に自分の無力さを悔やんだ。今目の前にしている男を ≪焼く≫力もないのだ、と。
「大丈夫、僕は何もしない。現に、君にだって何もしていないだろう? ただ喋っているだけだ」
 油断ならない動きを見せるくせに何が『何もしない』だ。ウェイリードは悪態をつき、 男を睨み付けた。
「僕は喋るだけ。君たちが勝手に僕の力を求めてくるだけだよ」
 心外だなとおどけるように肩をすくめて見せて、男は微笑んだ。それは実に人間らしい仕草だった。 とても――、創造主カーラの唯一の夫、悪神フェイム=カースその人だとは、 信じられるものではなかった。


(2006.3.6)

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