墓と薔薇

7章 現在を支配する過去(1)

「失礼致します」
 滑るような足取りで入室した時、男は≪彼女≫が窓辺に腰掛けているのを認めた。
 格子状の木枠が埋め込まれた大窓から僅かに差し込む外光が室内を照らす唯一の光源であり、 彼女のいる窓辺以外は仄暗い闇に潜んでいた。
 窓から覗える空は一面が雲に覆われており、まだ低い位置で溢れんばかりの光を紡ぎ出す太陽も その陰だった。 雪でも降るのではないか――、灰色の空を見上げ、外気に身を晒せば誰もがそう思うであろう。
 しかしながら、何の感慨も無く空を見上げる彼女は今冬、芯の凍るような風の冷たさを、肌に突き 刺さるような雨の感触を、未だ体験してはいない。それどころか、この十年、彼女が外気 そのものに肌を触れさせるような機会は数える程しかなかった。それを男はよく知っていた。
 飽く事無く空を見上げたまま、入室してきた者へ一切の関心を向けない彼女の様子を気にする事も なく、男は敬意を示す為に右手をそっと胸元へと当て、やや伏目がちに顎を引いた。彼女を直に 見つめるのは恐れ多い――そう体現するように。
 しばらくすると、まるで沈黙に根負けしたように彼女は振り向かずに呟くような小さな声で男へと 話しかけた。
「――有力な法皇候補が現われたと聞きました」
「はい。デュシアン・ラヴィン公爵です」
 男は顔をあげることなく答えた。
「彼女の傍に付いているのは樹木の精霊ではないのですか? 法皇の資質の条件は光の精霊 を傍に置く者のはずですが……」
「デュシアン・ラヴィン公爵には主神カーラの加護がありました故、光の精霊を傍に置く者と 同じだけの資質があると上層部には判断されております」
 疑問を口にしながらも彼女の口調は抑揚もなく感情の薄いものであった。そして、それに対する 男の応えも事務的で短調なものであった。
「そう――」
 全く関心がみられない口ぶりで彼女は呟いた。
 その時小さな陰影が室内を横切った。宮殿裏庭の池に住む渡り鳥であろうか、空を悠然と飛ぶ 白い鳥を緑の視線が追う。
「けれど、アデル様はご息女が法皇になる事をどう思われるかしら?」
「それは、名誉に思われる事と」
「――そうかしら」
 金色の巻き髪が一房、肩から滑り落ちた。
 男は視線を下げていたとはいえ、微動だもせず感情を露わにしない人形のような彼女の動揺を 視界の端で捉えており、一瞬眉を寄せたがすぐにも先ほどまでと同じように表情を消した。
「神殿の貴族として法皇とは国王よりも敬うべき尊い存在です。その法皇への道が開けたとなれば 何よりも誉れと考えるのが当然というものです」
「……そう」
「――法皇に、と自ら志願する者も多いのです。デュシアン・ラヴィン公爵とて、法皇になる 事を自ら望まれるかもしれません」
「彼女が望むのなら、――それならば、良いのです。ですが彼女は望まないかもしれない。 その時に彼女以外の法皇候補を用意していなければ、四年前のような騒ぎとなります」
「四年前――」
 懐古するように男は視線を落とし、軽く頷いた。
「確かに、≪彼≫を次の法皇にしたいが為に法皇庁は他の法皇候補を集めようとはしま せんでした。子どもながら十年前のエルムドアとの戦争を回避させた立役者として彼にはカリスマ性が ありましたし、何よりも彼自身が純信者でしたから法皇となるのを拒むはずもないと法皇庁も高を 括っていた部分もあります。四年前までは、あの彼がまさか法皇の資質を失うとは、誰しも考えて いなかった――」
「確かあの時も、暗殺未遂が起きましたね」
 彼女はやや低く声質を落とした。
「法皇候補が一人しかいなかったのがそもそもの原因なはずでしょう? 彼の他に候補がいれば 暗殺のような反動が起きることもなかったでしょうに」
「いえ、彼が暗殺未遂をされたのは、光の精霊をどのような方法で傍から追いやったのか定かでは なかったからです。それが原理主義の過激派の癇に障ったようです。未だに 彼等の中には暗殺を諦めていない者もおります」
「そうでしたか……。どちらにしろ、悪しきことです。アデル様の大切なご息女が神殿の毒牙に かからなければ良いのですが……。やはり他の法皇候補を――」
「しかし資質を持つ者を探し出すのは至難のわざです。光の精霊を携える人間はあまりに極少数。 他の精霊を持つ者とは数が違いすぎます。そうそう簡単に見つかるものではございません。四年 奔走して誰一人見付けられなかった候補者です。あと二年で他の者を探せるとはとても――」
「……貴方の答えはいつもそこに行きつくのですね」
 彼女は急に、斬り捨てるような硬い口調となった。まるで男を侮蔑するような意味合いを 伴っているようにすら思える程冷たく。
 男と彼女は終始視線を交わず感情の篭もらない会話を続けていたが、二人の間の空気は不思議な ほど穏やかで、そこにはともすれば気心の知れた仲であるような雰囲気ですらあった。 しかしこうして彼女の負の感情が表面化すれば、途端に張り詰めた空気となった。
「このまま他に法皇候補を見つけられず、差し迫った時に彼女が拒めば、―― わたくしと同じ状況にされてしまうかもしれません」
 彼女が何かを思い出して動揺したように声を震わせれば、男の表情が強張った。
 ややこけた頬がぴくりと一瞬痙攣し、睫毛の下の瞳が鈍いな光を燈した。胸元に揃えられた指先に 力が入り、上着に皺が寄る。
 顕著に現われた男の動揺に気づいている様子もなく、彼女は哀願した。
「わたくしはもう誰にも、わたくしや三代前の法皇のような思いはしてもらいたくないのです。 ――その為にもアウグスト、くれぐれもお願い致します。わたくしには、貴方しか頼る者はいない のです」
「――法皇猊下の御心のままに」
 真一文字に閉じられた唇を微かに動かして自分へ誓うように呟き、恭しくこうべを垂れた。
 そして頭をあげた時、彼女が不意に振り返ったのを視界の端に目敏く捉えて、自身の心臓が激しく 脈動するのを男は感じた。
「アウグスト、あの、リ――」
「猊下、――仮面を」
 男は鋭い口調で彼女の言葉を遮ると、一瞬だけ見えた彼女から完全に顔を背けた。 けれど男の脳裏から彼女の姿が離れることはなかった。記憶の中の彼女が全く色褪せることなく そこに佇んでいた事に、感情が理性を破って打ち震えているのだ。
 彼女は弾かれたように一瞬肩を震わせると、膝の上に乗せている銀色の仮面へと 指を這わせている。その指先を見つめ、男は拳を握り締めた。
「貴方はわたくしの顔を知っているではありませんか」
「貴方様は私の存じ上げる御方ではございません」
 感情を押し殺すように男は必要以上に事務的に答えた。
「――そうでしたね」
 寂しげな口調が男の耳に届く。男の心臓は激しく打たれたままだ。
 しばらくして、彼女は先ほどと同じように男から顔を背けて窓の外を見上げた。 そうして男の視界には入室当初と同じ、金色の長い巻き髪と華奢なシルエットしか 映らなくなった。
「今日は、このまま一人で空を眺めていたいのです。女官たちにはこちらが呼ぶまで立ち入らない よう申し伝えてください」
「御意」
 男は彼女への敬意を忘れず深く礼をすると踵をかえした。 しかし退室する為に扉を開けようとしたその手を迷わせてから止めた。苦々しい表情で眉根を寄せる と、喉元にしっかりと巻かれたクラヴァットを軽く引っぱり、顎を上げて少し緩める。 頭の先からつま先まで一分の隙もなく完璧に整えられた≪自分≫を男は崩したのだ。
「彼女なら、――妹君なら、息災です」
 振り向かずとも男には分かっていた。彼女が動揺し、素顔を晒したまま自分の背を見ている 事を。
「心配せずとも貴方が法皇庁と交わした契約――≪交換条件≫は、永遠に叶えられます。 彼女の身に危害が加えられる事は今後一切ありません。――私が絶対に、させません」
「――そうですよね」
「……」
「ありがとう」
 感情の込められた口調を耳にして記憶を揺さぶられ、男は片頬に軽い痙攣をみせると乱雑な手付き でクラヴァットに付けていたタイピンを外してそれを握り締めた。
「猊下。お立場をお忘れなきよう。貴方様が心を砕かれて良いのは≪民≫にのみです」
「ええ、分かってます。わたくしは誰も≪フェイム=カース≫にはしたくない――」
 小さくぽつりと呟やかれた彼女の言葉を背に、男は扉の向こうへ身体を滑り込ませた。


 扉を閉めて男は小さく吐息をつくと、後ろへと流した豊かな金髪を軽くかき乱した。
「やはり貴方は≪あの男≫の名だけは、――決して口にしないのですね」
 名を呟くだけで、その存在を意識してしまうだけで、 ≪悪神フェイム=カース≫にしてしまうと恐れているほど……。
「それほどまでに、あの男を――」
 ぐ、と強く握られた拳が開き、手のひらから何か光るものが大理石の床へと転がり落ちて軽い音 がした。
――違う。あの男と離されているから余計に……
 男はそれを拾うわけでもなく、ただ汚いものを見つめるような冷たい視線を固定させ、思考に 囚われたようにしばらく動かなかった。
――あの男は、離れることで彼女の心を縛り付けているのだ。会えないことで、 話せないことで、視線を交わせないことで、――彼女の中の思いを募らせ、自分の事を、自分への 思いを、忘れさせないようにしている……
「なんと卑怯で傲慢な男だ」
 忌々しげに吐き捨てると、見つめていたそれを踏み付け、男は足早に去っていった。

 その場には、奇妙な方向へ折れ曲がった、青玉のあしらわれた豪華なタイピンだけが 残っていた。


(2006.2.9)

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