墓と薔薇

閑話:王子の反乱(1)

「セレド!!」
 扉の前に居た二人の衛兵を勢いで跳ね飛ばし、奴の名を咆哮しながら扉を蹴破った。
 俺が誰であるかを知っていて手出しできずにおたおたしている衛兵を背に、 深紅の絨毯を踏みしめながら室内奥の窓辺で優雅に茶をすするセレドへ向かってずんずん 突き進む。胸倉掴んでぶん殴る――逸るその気持ちを押さえきれず、目前に迫ったセレドへ腕を 伸ばした。
 刹那、セレドの胸倉どころか金色の髪端すら掴む事もなく俺の腕は捻じり上げられた。 片腕を後ろに捻じられただけなのに身動き一つできなくなり、与えられた苦痛に一瞬息を飲む。
 このような仕打ちを受けるのはひどい屈辱だった。腕の拘束を解こうと足掻くが、食い込む程 強く掴む五指にもっと力が込められ、不本意ながらも痛みに身を捩った。
 目の前で友人たる自分がこのような仕打ちを受けているのをセレドは気に留める様子もなく、優雅に 足を組んだままの姿勢を変えずにカップへ口を寄せて午後の一時を楽しんでいた。まるで存在して いないかのように無視された事が非常に悔しく、軋むような肩の痛みに喘ぎながらも掴まれている 腕を振り払おうとしてまた抵抗を試みるが、相手はびくともしない。
――無礼な奴!!
 ラヴィン公爵弟である自分をまるで罪人のように抑え付けるこの手の持ち主は誰なのか。後方へと 視線を向けたが相手の顔はもっと上、俺よりも一つ分頭が上だった。その顔を確認して 納得する。無礼を働けるのは当然だ。
 ジェノライト・アリスタその人が冷ややかな視線をこちらに落としていた。この男はセレドの 側近であり貴族を捕らえる事のできる円卓騎士でもある。嫌味なぐらい背が高く、いつも見上げ なければならない。
「さすがはジェノライト卿。素早い対応ですね」
 セレドの前に座っているカラナス侯爵がジェノライトの働きに関心しながらカップを置いた。 整えられた口髭の下の唇は不興げな形で閉じられている。
 どうやら今この部屋では、無事成人を迎えて一段落したセレドを囲み、気のおけない者たちでの 茶会の最中だったらしい。この三人の面子を見てそう理解した。
「レセン公子。礼儀を弁えて下さい」
 こちらが本気でセレドを殴ると分かっているのだろう、ジェノライトは腕を掴んだまま 諌めてくる。
「離してやれ、ジェノ」
 その命に全員が不審げな顔をセレドへ向けた。もちろんジェノライトの手から力は 全く抜けない。しばらく沈黙の間を空けてから、もう一度セレドは臣下の名を少しだけ 強めに呼んだ。
「ジェノ」
 しかしジェノライトは手を離さない。
 掴まれているのは自分だが、客観的に見てジェノライトの判断は正しいと思う。円卓騎士には貴族 を拘束する権限があるし、何よりこの手が離れれば俺にはセレドを殴る準備がある。 それを分かっていて主に仇成す者を簡単に解き放つわけがない。
 セレドは命を撥ね付ける臣下へ一瞥をくれてから、視線をカラナス侯爵に向けた。
「カラナス侯爵、悪いが今日はこれで下がってもらえるだろうか? レセンと二人だけで 話がしたい。レセンにとっては大切な姉君の事だからね、頭に血が昇っても仕方ないのだよ」
「承知致しました。――しかしレセン公子、くれぐれもお父上の名を汚す言動は慎まれよ」
 カラナス侯爵はセレドの教育係でもあるが、それと同時に俺の≪教育係≫でもあった――、と 言えば語弊があるだろうか。
 父上と国王陛下が親友であった為に俺は物心つく前からセレドの遊び相手として育ってきた。 国唯一の王子であるセレドだが、俺にとってはもみくちゃになって遊べる楽しい友達で、 身分や年齢の違いをあまり意識した事がなかったし、誰もそれを俺に教えなかった。
 けれどセレドが十歳になった頃セレドの教育係が急逝し、新しい教育係にカラナス侯爵が就任する 事となった。 すると途端に、セレドを同等の友人であるかのように接して喋る無礼な振るまいを正すよう 厳しく叱り付けられ、また臣下として最低限の節度を弁えるよう要求されるようになった。王子とは、 王族とはどういうものであるのか、臣下はどうあるべきか―― それをくどくどと語り聞かされ、擦り込まれ、今の俺が出来上がった。 セレドと話す時にカラナス侯爵の手の者が控えていないかとついキョロキョロと辺りを見回して しまう、なんとも情けない俺が。
 この人は決して悪い方ではないのだが身分至上主義の頭の堅い人で、正直苦手だった。 苦手だったが、今は何をどう言われようとどうでも良かった。
「ジェノ。いつまで掴んでいる気だ」
 セレドが軽く荒げた声にこちらもはっとする。セレドは苛付きや怒りを人にあまり見せない。 その珍しさに驚かされた。それはきっとジェノライトも同じ思いだろう。
「わかりました」
 しぶしぶといった態で腕が離された。関節が外されるのではないかと思える程強い力であった 為に、解放されても肩が軋む感触がまだ残っていて動かすのを躊躇われる。
「しかし、私はここに。レセン公子は少々気が立っておられます」
「私もそう望みます」
 ジェノライトの意見に間髪入れず侯爵も同意した。別にジェノライト・アリスタが居ようが侯爵が 居ようが俺はどうでも良かったのだが。
「黙れ」
 セレドの短い一言で、二人は竦むように押し黙った。口答えは阻まれるぴりぴりとした空気が 漂う。
「レセンは信頼できる私の親友だ。レセンを警戒するならば私はお前たちをも警戒せねばならぬ」
「――は。失礼致しました」
「――そう仰られては仕方ありません」
 二人は緊張した面持ちで退室して行った。もちろんジェノライトやカラナス侯爵が呼びよせる 王室警邏隊が扉の向こうに待機をしはじめているだろうが。警邏隊は王族に対する不敬を働く輩や 叛逆者のみ誰をも即時束縛、時には殺害する事のできる権限を持っている。例えラヴィン公爵弟で あっても、面と向かって王族に弓引くのであれば殺したって文句は言われない。
「守ってくれる騎士殿を外に出していいのか? 俺は本気だぞ」
 腕を回し、肩の調子を整えながら睨む。警邏隊にびびるような自分ではない。
「ジェノにも聞かれたくないから追い出したんだ」
 セレドは立ちあがると窓枠にやや背を丸めて腰掛けた。こちらの険呑な雰囲気を全く気にする 事なく無防備に、無作法に。
 外気と室内の温度差のせいで、窓は結露で覆われ外を窺う事は出来ない。王子という立場に 相応しくなく手に持つ布巾で窓を軽く拭けば、青い空の色が鮮明になった。
「昨日の祝賀会の真相を聞きに来たのだろう?」
 濡れた布巾をテーブルへ放り投げると、セレドはこちらを振り返って軽く肩をすくめてみせた。
 今すぐにも殴りたい、勢いに任せて殴り倒したい、という思いを微塵も隠さずこちらは睨みつけて いるというのに、セレドは「どうぞ殴ってください」と言わんばかりにわざとらしいまでの隙を みせる。それがあまりに不可解なので、取りあえず弁明ぐらいは聞いてやるかという 余裕が生まれて握っていた拳を開いた。
「真相って何だよ」
「言ったろう? 私の行動は全てミリーネの為」
「ミリーネ?」
 セレドの口から出た妹姫の名前にまた少し怒りが収まった。
「ミリーネは自分の傍にいるブライトを好いているという話をしたのを憶えているか? ブライトは レニス公爵家の養子だが嫡子。ミリーネを降嫁させるには十分だと私は思っていた。私もミリーネも、 自分の望んだ結婚が出来ると信じていた、疑っていなかった」
 組んだ足のつま先を見つめながら、セレドは続けた。
「――私は浅はかだったんだ。私たち王族が自分の意思で結婚できるはずはないと、考えもしな かった」
 自分を嘲笑うかのように口元を歪ませながら、「馬鹿だろう?」と呟いた。 答えられるはずもない。
「ミリーネがクラメンス小国へ嫁がされる可能性があると知ったのは、ミリーネがサリアと会話して いるのをたまたま聞いてしまったからだ。あの気丈なミリーネが、泣きながらサリアに縋りついて いた」
 ミリーネが泣いている姿など想像がつかないぐらい、ミリーネはいつも笑みを称えて静かに 佇む少女だった。友達というよりも妹のように感じる彼女が泣いて取り乱す姿を見れば、自分までも 取り乱してしまうかもしれない。
「そもそもミリーネが嫁がされるのはクラメンス小国のご機嫌取りが目的だ」
 百年前からカーリアを憎み敵視しているあの頑なな東の小国は最近ますます軍事力を高めて きていると評判だった。それを恐れての措置なのだろう。
「けれどその目的が果たされるなら、別にミリーネがあの国へ嫁ぐ必要はないのだよ。たまたま ミリーネと向こうの王子の年齢が合って、そして向こうもやや乗り気であるからこんな事になって しまっただけだ。元老院の怠慢とも言える。だから私はミリーネが嫁ぐ以外に国交回復の礎となる 方法が無いか考えた。その結果が――お前の姉へのキスだった」
「は?」
 ミリーネの話で感傷に浸っている最中に不意打ちを食らい、顔を上げた。悪戯心が招いた結果では なかったのだと示すようにセレドは至って真面目な顔をしている。
「お前の姉を隠れ蓑に、私がクラメンスの王女を妃に迎える方策を密かに整える、これが私の立てた 計画だ」
「――姉上を、隠れ蓑?」
「イルーダの事は、私の戯れだったと公の場で印象づける必要があったのだ」
 彼女の名を口にしたセレドの表情は苦痛に満ちていた。けれど苦痛を感じる心をこちらにだけで なく己自身にまで偽り隠すかのように前髪に手を差し込んで瞳を閉じた。
「私がイルーダにおおっぴらに求婚していたのはお前も知っていただろう? あの頃はミリーネの 一大事など知りもしなかったんだ」
 イルーダはセレドより三つか四つ年上で、男顔負けの強い円卓騎士だ。神秘的で綺麗だが、どこと なく近づきにくい雰囲気を持つ彼女を、事ある毎にセレドは口説いていた。彼女はセレドを拒絶 しながらも、他の者には決して返さない女性らしい反応を見せてもいた。あの現場を見た者なら 彼女が折れるのも時間の問題ではないかと思っただろう、現に自分がそう感じたのだから。
「円卓騎士団の面々はもちろん、貴族たちもそれを知っていた。私の戯れだと思っている者が 殆どだろうけど、中にはお前のように本気だと気づく者もいたはずだ」
 シニカルな笑みを一度見せたが、瞳はまるで生気を失ったように光を落としていた。
「あれは――人目のある場所でイルーダを口説いていたのは、孤児で後ろ盾のないイルーダを どこかの貴族が養女にするのを狙っての事だった。貴族たちは王族の男子との婚姻を持ちたがる。 王位継承権は男子優先だからね。王族自体に大した権力はないけど、≪王族の外戚≫には随分な力が 与えられる。それが国王の義父、国王の祖父ともなれば余計に。だからこそ、国王になる可能性の 高い者に自分の子ども、もしくは息のかかった者を縁組させたいと、権力志向の高い人間はそう 考える。そしてその理論でいけば、妹で王位継承権二位のミリーネではなく、兄で継承権一位の私との 縁を望むのも理解できるだろう?」
 現在正当な王族は国王陛下とセレド、ミリーネのみ。降嫁した国王の姉君には男子の子どもは いない。つまり、王族の外戚になるにはセレドに嫁ぐしか方法がないのだ。ミリーネが婿を取る 事はセレドが健勝である限り有り得ない。
「私は父の病気を理由に見合いのような類は全て断ってきた。欲に塗れた貴族の目論み が嫌でもあったし、何よりもイルーダの事があったからだ。私がのらりくらりと交わす理由に気づ いた貴族たちは、ならば自身の娘ではなく私の好む女を養女にして妃の養父という地位になろうと 考える。そしてその通り、イルーダには内密に養女の話が持ちかけられていた。イルーダは 上司のダリルに忠実だから、ダリルさえ押さえておけば愚かな貴族の養女になる事は ない。だから王族の外戚に相応しい貴族がイルーダを養女にするのを待っていた。――そう、待って いたんだ」
 セレドが急に、狂ったように笑い出した。けれど目だけは死んだように光を持たず、 口元だけを歪ませてこちらを見据えながら笑っていた。
「アイゼン公爵が近々イルーダと接触しそうな気配があった」
 そう続けて、ぴたりと笑うのを止めた。
「私の成人に伴って、イルーダに正式な養女の話を持ちかける手筈となっていたらしい。 アイゼン公爵は神殿側の貴族で人柄的に問題がない上、権力への野心もない。 そして公爵領はカーリアの守りの要だ。後にはあの双子の魔人が控えている。アイゼン公爵に出て こられたら、ダリルも断らないで養女となるようイルーダを説得するのは目に見えていた」
 興奮した内面を落ちつかせるように荒らぶる息を静かに吐き出した。気圧されてすっかり 黙り込んでしまったこちらを眺めながら、セレドは寂しげに薄く微笑んだ。
「ここまで来ていたんだ。イルーダはアイゼン家の姫君になり、私が妃として娶れる道がすでに 開けていた。――けれどクラメンスから王女を迎えるならば、私は結婚してはならなかった……」
 その呟きはあまりに悲しい響きを持ち、視線をセレドから外させるには十分な力があった。
 あと一歩だったのだ。本当に、あと一歩。アイゼン家が名乗り出ればダリル将軍だとて納得する。 アイゼン公爵の人柄からして断る理由なんてない。それに、セレドを厳しく叱る将軍だが確実にセレド を可愛がっている。彼ならば王侯貴族のしきたりなど関係無くセレドが望む婚姻をさせてやりたいと 思うに決まっている。だから、イルーダさえ頷けば目の前だったのだ、二人の結婚は……。
「イルーダをアイゼン家の養女にまでさせてしまったら、私には彼女との婚姻を断る勇気はなかった。 イルーダの心だけでなく外聞までも傷つける事はできない。『戯れを本気にした愚かな女』なんて 悪い印象を世間に与えたくないから、ね」
 イルーダがアイゼン家の正式な養女となれば国中が騒ぎとなる。それなのに彼女を娶らなければ 彼女が国中の笑い者、円卓騎士として酷い醜聞だ。イルーダを守る為にセレドはあえて彼女や ダリル将軍、アイゼン家に嫌われ憎まれる方法を選んだのだ。
「だからデュシアン・ラヴィン公爵を利用した。人前で軽い調子で誰にでも口説きキスをする、 恋愛に軽薄な王子の出来上がりだ」
 セレドは歪んだ口元に笑みをたたえた。
 あまりに腑に落ちない。セレドばかりが悪者になるのはおかしい。俺はやるせなさに頭を 掻き毟った。
「それなら、アイゼン公爵やダリル将軍に全貌を明かしてせめて二人の心象を悪くするのを防げ ば――」
「それは出来ない。イルーダがアイゼン家の養女となる件は内々で進められていたが、ジェノやカラ ナス侯爵のように、ダリルやアイゼン公に縁のある人物は知っているのだ。他に誰がこの件を知って いるかも分からないし、その中には私の≪計画≫を知れば握りつぶそうと考えかねない人物と繋がって いる者がいるかもしれない。どこから誰に漏れるかなんてわからない。無理だ」
「――でも、事の真相をイルーダにぐらいには伝えるんだろう?」
 セレドはだんまりだった。困ったように笑っているだけだ。
「お前――」
 言葉が続かなかった。酷い男だと罵れば良いわけではない。セレドはイルーダの事が今もまだ好き だ。望んでこんな事態を招いたわけではないと知っているからこそ、セレドを責められなかった。
「どんな顔をして、何と言えばいい? 君との幸せより、妹の幸せを選んだと謝ればいいのか?  君とは結婚できないけど私は君がずっと好きだと告白すればいいのか?」
 自虐的な笑みを浮かべたセレドを直視できなかった。こんな顔を見たかったわけじゃない。 胸が痛む。
「だから話さない。私が最低な人間だったと知って、しばらくは気を落とさせるかもしれないが、 きっとダリルが世話を焼くだろう。あいつは恵まれない娘の世話をするのが好きだからね。 彼女を幸せにできる良い相手を見つけてやるはずだ。ダリルに任せておけば、何も問題ない」
 口では文句を垂れながらも、セレドはダリル・フォスター将軍を心底信じ、頼りにしている。 そして将軍はその信頼に十分応えるだけの人物だ。
――でも、何か他に手だてはないのだろうか
 ミリーネだけでなく、セレドの気持ちも救いたいと思うのはやはり無理なのだろうか?
 セレドもイルーダも、あとちょっとだった。それは養子縁組の事ではない。二人の距離の事だ。 それにセレドとイルーダは誰からも祝福される事のない組み合わせではなかったのだ、 ――自分とは違って。
 やり場のない苦しみを誤魔化すようにセレドの話へと気持ちを集中させた。
「他に、方法はないのかよ。お前やミリーネが結婚する以外で――」
「今まで様々な方法で国交回復に手を尽くしてきていたが、全て無駄に終わっている。試されて いないのは婚姻による方法ぐらいだ」
 セレドは幾分落ちついたのか穏やかな笑みを浮かべた。正直ほっとする。
「それより、お前は姉君の事で怒ってここに殴り込んできたのだろう? なんでお前の姉上を 利用したのか、とかもっと聞きたい事があるんじゃないのか?」
「それは、確かに聞きたい」
 息を飲んですぐに答えた。忘れていた、俺はここへセレドを殴りに来たのだ。
 けれどもう拳に力は入らない。とてもではないが、こいつを殴る気持ちにはなれなかった。
「条件に当てはまる女性はデュシアン・ラヴィンしか、いなかったんだ」
「条件?」
「彼女は最近とくに目立っていた。軽薄な私が目をつけても問題ない ぐらいに。そして昨日の彼女は綺麗だった。いつもは男の貴族のような格好で女性らしさに欠けて いたが、昨日の彼女は誰かが一目ぼれしてもおかしくない魅力があった」
 他人が姉上に対して魅力があると一瞬でも思ったという事実に、鈍器で頭を殴られたような衝撃を 受けた。呼吸が止まり、喉が急激に乾く。
「――姉上は、そこらにいる埋もれれるぐらいの女だ」
 掠れた自分の声に自分で驚いた。思っていた以上に低く、感情がセレドに伝わらないか ヒヤヒヤした。
「そこまで自分の姉を過小評価しなくてもいいだろう? リディス・フォスターのようなとんでもない 美女ってわけじゃないけど、彼女は綺麗だ。髪が長ければもっと魅力的だろうね」
「デュシアンは普通だ」
 咆えるように言ってから、後悔する。しかしセレドは怪訝そうに軽く眉を寄せただけで、 深く追求してくることはなかった。
「――じゃあ、お前はそう思っていればいいさ。弟だから信じたくないんだろうが、男の目で見れば また彼女は別に見えてくるぞ」
 知らずに顎に力が入り、歯を軋らせた。
 脳裏には昨日の彼女の姿が焼きついている。階段から下りてラシェの前に立ち、奴の腕にするりと 自分の腕を絡ませていた彼女を見た時、ラシェに対してどれほどの殺意を覚えたか。そしてそんな自分 に対してどれだけ罵りの言葉を浴びせ、姉を諦めきれない自分の穢れた感情にどれだけ失望した事か。 世の中には自分の心や感情ほど、自分の勝手にならないものはないとまざまざと思い知らされ たのだ。
「とにかくね、彼女しかいなかったんだ。誰も付け入る隙がない身分――つまりは、より力を持つ 家から養女の話が持ち上がらないだけの高い身分を持ち、良縁だと騒がれてもすぐにも結婚する事が 難しい貴族の娘は、デュシアン・ラヴィンしかいなかった」
「結婚が難しい?」
 こういう言葉に反応する自分が疎ましい。そう思いながらも気づいた時にはセレドを窺い見て しまっていた。
「彼女はお前に爵位を譲るまでは公爵でありたいらしい。ラシェ・シーダス卿を後継者として指名せずに 補佐として置いているのがその現われだろう? それに彼女が王妃になっても誰にも何の徳にもなら ないから、婚姻を進める貴族もいないはずだ。彼女は気が強いことになっているから、私を撥ね付ける 彼女の姿はそのうち名物になるかもね。良い見世物にでもなれば国内の縁談もかわし易い。私が軽薄に 接すれば、彼女も万が一私に惚れて婚姻を飲むこともないだろうし」
「イルーダの印象を払拭する為に姉上を利用したんじゃなかったのか? 今後もまだ姉上に 近づくのか?」
「時間稼ぎにまだ利用させてもらうよ。さすがに唇にキスはもうしないよ。可哀想だしね」
「当たり前だ」
 やたら力んでしまい、慌てて話題を反らした。
「それで、時間稼ぎとは何の事だ?」
「クラメンスの王女と婚約を取り付けるまでの時間だ。何も決まっていない段階で表立って私が妃を 『外国から取りたい』と公言すれば、私に娘を嫁がせたい貴族たちにその目論みを潰される。だから 裏で静かに進めなければならない」
「でもクラメンスが王女を簡単にカーリアに差し出すものなのか? あの国はカーリアを目の 仇にしている」
 百年前にクラメンスと緊張状態にあった時、国境付近の農村が焼き討ちにあったのは完全にカーリア の過失だ。時の国王の独断とはいえ、カーリアがクラメンスへ与えた影響はあまりに大き過ぎる。 あれ以来国交を閉ざし、今も尚恨みを忘れないあの国から、そう簡単に王女が差し出されるとは 思えない。
 しかしセレドには考えがあるらしい。至って表情は明るかった。
「考えてみるといい。ミリーネが嫁ぐ予定なのは王太子で、当然正妃となる。ミリーネがクラメンスの 王子の子を身篭れば、その子どもがクラメンスの正当な王位継承者だ。敵国の姫君の血が半分入った 子どもが、だ。カーリア人を恨む事で国民性を保つクラメンスの民は、そうなった場合どう思う だろうか?」
 そのような観点は思い付きもしなかった。あの焼き討ちを指示したかつての王の血を引く者が 自分たちの上に立つのは国民としては耐え難い屈辱に違いない。
「内政干渉の危険もあるだろう?――だが反対に、クラメンスの王女が敵国に嫁ぎ、私の子を生む。 するとその子が正当な王位継承者となる。クラメンスの血が半分混じった子どもがカーリアの王座に つく。敵国を占領した気分にならないだろうか?」
 セレドはにやり、と笑った。
「どちらの方をクラメンスの民は受け入れると思う?」
 答えは明白だった。
 種明かしはお仕舞い、と手を広げてセレドは視線を窓の外へと移した。 結露を拭いた窓にはまた細かい水滴が溜まり、窓の外を霞ませている。
「それで、その企みの書かれた書簡はもう送ったのか?」
 進行状況が気になって尋ねてみた。セレドは視線を動かす事無く答える。
「去年の暮れに届けてもらっては、ある」
「ふーん。じゃあ、その返事待ちって事だな」
「まあ、そういう事になるかな。――あまり期待はしてないけど」
「え?」
 最後に小さく続いた言葉に聞き返す。セレドはこちらを振り返って、なんでもないと曖昧に 微笑んだ。
「こっちの話。それより、この事はくれぐれも内密にな。姉君にも内緒にしてくれ」
「分かってるよ」
 肩をすくめて大仰に頷いた。
 計画を話してくれたのは俺を信用しているからだ。その信用を嬉しく思うのに、それを 失う行動を取るはずが無いし、セレドはそんなこちらの気持ちをきっと分かっている。
「うまくいくと、良いな」
 セレドは複雑そうな表情で、けれどしっかりと頷いた。その強い意思が羨ましいと、思った。

 だけど、セレドの元老院に対するこの密かな反乱が、俺の運命を大きく変えるだけでなく、 姉上の運命すらも歪ませてしまう事になるとは、もちろんこの時に気づくはずもなかった。







「ところで、お前、本当に姉上に――したのか?」
「なんでそんな事を聞くんだ?」
「ラシェが、髪の毛でよく見えなかった、て」
「ふーん。じゃあ姉君に聞いてみたらいいじゃないか」
「お前のせいで姉上は放心状態だ」
「おや。もしかして、≪初めて≫だったのかな? 可愛いなぁ」
「て、てめぇ! ――したのか、してないのか、どっちだよ!!」
「……さあ、どうだろうねぇ」
「(やっぱ、殴ってやろうか、こいつ)」

 でも殴れないレセンであった。
(2006.1.14)

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