墓と薔薇

閑話:公爵改造計画

 見上げた先の最上段に現われたのは、非のうちどころのない立派な淑女だった。
 彼女は一度軽く眼下へ視線を廻らせる余裕を見せ、足元を包む裾からちらちらと覗く華奢な靴先で 階段に敷かれた赤い絨毯を踏み下りてきた。伏した目許は威厳を保ち、気高さすら感じさせる。 まさに生まれてから姫君であり続けた者のような一種近寄り難い風格があった。
「うわ」
 しかしながら、その風格をぶち壊す声が響いた。履きなれない高い靴の踵で躓いたのだろう。 淑女は軽く手を這わせるだけだった手摺りに慌てて掴まり、間一髪のところで階段を踏み外すのを 免れた。その場にいた者が皆、安堵と失望と予想的中の交じった溜息を一斉に吐き出し、 大きな合唱を作り出した。
 我慢ならなくなり迎えにいったイリヤの手を申し訳無さげに跳ね除けながら、 似非淑女はやっと目の前まで下りてくる。自身の失態を恥じ、頬を染めて苦笑を向けてくる彼女を 見ていると怒鳴りたくもなるが、化粧を施されて髪を綺麗に編み込み、大人びたドレスを着て年相応 の淑女ぶっていても中身は昔からの従妹のままである事にどこか安堵している自分がいた。 多分、叔父上がいらしても同じ思いだったと思う。
 だがこの者は今やラヴィン家現当主であり公爵だ。人前でまでこんな醜態を晒し、家名に泥を 塗られるわけにもいかない。その為にも甘やかすわけにはいかないのだ。
 昼間に神殿大聖堂で行われた荘厳な儀式での態度は公爵として及第点ではあったとはいえ、気は 抜けない。昼間は近くに座ったコーエン男爵やカラナス侯爵と軽く挨拶を交わしたぐらいしか何も する事がなかったのであるから出来て当然なのだ。
「おかしくない?」
 そう聞きながら軽く一回転し、広がりを抑えてある裾をふわりと揺れ広げた。 飾り気は無いが品のある淡い黄色のドレスは、叔母上が見立てただけあって公人としても女性と しても何一つ支障のない出来だった。よく似合っている。
 最高級のビスクドールのようだ――とは先ほど若い女中が口にしていた誉め言葉だが、身内の 欲目があってもあながち間違ってはいないだろう。とにかく見た目だけは完璧であった、 見た目だけは。
「良く出来ている。叔母上や女中に礼を言う事だ」
「ですって、母様」
 現公爵は無邪気な笑顔で振り返る。二階から下りて来てそうそう跪いて、娘の腰周りを直す 叔母上も同じような笑みを浮かべていた。
 こうして見れば血の繋がった親子にしか見えない。顔は当然の事ながら似ていないのだが、 無害で無毒、野心の欠片も感じさせない雰囲気は驚く程よく似ていた。
――あの方はもっとしっかりされた、覇気のある方だったな……
 何度も会ったわけではないが、≪あの人≫は意思の強い面差しで前を見据えて歩く人だった。 巫女として働きながらファロン大司祭に師事して医術を学び医師となるのを夢見ていた、貴族や 王族にも物怖じをしない人であった。臆病なデュシアンはあの人には似ていない。
――外見は年々そっくりになっていくがな
 引き取られてすぐは見た目はそんなに似ているとは思わなかった。けれども誰よりも見事な金髪が あの人を想像させられて、叔父上があの髪を撫でておられるのを見る度に嫌悪が増したもの だった。
 それなのに今では自分の手は、その髪を撫でる事も厭わない。
――不思議なものだな
 しばし見下ろした手を、差し伸べた。
「行くぞ」
 そう告げればデュシアンは満面の笑みを浮かべ、まるで全幅の信頼を寄せるように手を重ねて きた。
 この笑顔を≪そんなに悪いものでもない≫と思えるようになったのは、いつからだっただろうか。 あの人の面影をどこか感じさせるこいつの顔を見るのが嫌で、その存在がこの屋敷にあるのが嫌で、 つい冷たくあしらってしまっていたのは、いつまでだったか。それでも≪彼女≫が受け入れているの だから自分もそうしなければならないと強迫観念にかられていたのはいつの頃だったか。
――……思い出せない
 もうどうでも良いのかもしれない。
 あの人も、叔父上も、亡くなってしまったのだから……。
――もう、誰に対して何の怒りを向ければ良いのか、わからない……
「ラシェ、デュシアンをお願いね」
 叔母上の言葉に我に帰り、心配気にデュシアンの肩に手をかける彼女へと視線を移した。
「ぼうっとしているから、悪い男に引っ掛からないようにちゃんと――」
「母さま、大丈夫ですってば。わたしは公爵ですもの」
 根拠の無い言葉に呆れてしまうが、母を思えばこその言葉なのかもしれないと口を挟むのを 止めた。
「心配だわ。デュシアンは可愛いし――」
「その為にラシェが同伴してくれるのですから、大丈夫です、母様」
 デュシアンが得意げに腕を組んでくる。
――結局俺任せじゃないか。いい度胸、いい心構えだ
 あまりに予想通りに考えてくれるもので、嬉しさについ天を仰ぎたくなる。
 だいたい男避けの為に同伴するわけではない。未婚の貴族の娘は親族の成人男性が 同伴して公式の社交場に出るのが常識だからだ。噂になっても良いなら親族以外の 男と共に出席するのだろうが、こいつにそんな男などいたら苦労はしない。
――≪その瞬間≫の顔が楽しみだな、まったく
 いつまでも子離れしない叔母上を振り切って、公爵様を馬車に押し込んだ。


 目的地は宮殿本館より東にある、王族主催の祝賀会やパーティーなどに使用されるだけの建物だ。 いつもは堅く閉じられている東門が開けられ、馬車のまま建物入り口まで乗り付けられるように なっている。門の警備は堅く、いつもはなりを潜めている王室警邏隊が夜空を背に馬車毎に検問を 行っていた。寒いのにご苦労なことだ。
 こちらの順番が回ってくると、警邏隊は挨拶だけで家紋が印字された身分証明証の提示すら求めなかった。 デュシアンの顔が知れるているのか、あり難くない事に自分の顔が知られているからかは謎だが。
 先に馬車を下りれば、馬車から下りたばかりの奴等が寒空の下、足を止めてこちらを振りかえって いる事に気がついた。馬車自体にラヴィン家の紋章が刻まれている。それを認めて待ち構えている のだろう、猛々しく誠実で潔く情の深いラヴィン家秘蔵の姫君が下りてくるのを。
 馬車の踏み台から躓きやしないかと軽い動悸を憶えながらデュシアンへと手を差し伸べた。 頼むから躓いてくれるな、と。しかし本人は見られている事にも気づかずこちらへいつもの笑みを 浮かべているだけで、優雅な仕草を保ったまま馬車から下りる事に成功した。
 だが自分が向かうべき方向へ視線を向けたのでだろう、自分たちが露骨なほど視線を集めている事に 気がついたらしい。服の裾を軽くつまんだり頬に手を当てなどして最後に困ったような表情でこちら を見上げてきた。自分が何故注目を受けるのかを理解していないのか、緊張で頭が回らないのか。 いちいち答えるもの面倒くさく、引っ張るようにして歩かせた。
 大広間へと続く大階段を持つエントランスへと入れば、そこでたむろしていた着飾った人間たちが 囁きを広げながらほぼ一斉に振り返ってきた。
「ラシェ、さっきからすごい見られてる気がする。わたし、どこか可笑しい?」
 腕に回る手が緊張の為に硬くなっているのを感じる。
「気がする、じゃない。お前はラヴィン公爵なのだから立っているだけで見られて当然だ。 しっかり歩けよ」
「そっか。分かった」
 納得したらしく、緊張はしているもののさっきまでの歩き方よりはずっと硬さが抜けて、引っ張る 必要もなかった。元々背筋はしっかり伸びているので、ただ見ているだけの側からしてみれば ≪堂々としている≫と誤解もするだろう。緊張に軽く震えて笑みも繕えず閉じられた口元は、 媚びた部分はないと強気の姿勢を主張しているようにも見える。
 悪くない。とりあえず≪ドレスでただ歩くだけ≫は合格だった。
「おお」
 急に一際大きなざわめきが後ろで広がった。広間へ入ろうと階段を数段昇っている最中だった。 声に驚いたデュシアンが階段を踏み外しそうになり、随分な力で引っ張られたが なんとか難を逃れる。幸運な事に、周りの目は今エントランスへ入ってきた人物たちに向き、 ラヴィン公爵の失態を誰も気づいていなかった。
 批難と叱責を込めた視線をくれてやろうと横を見下ろせば、 デュシアンは足を止めてざわめきの元を振り返っていた。
 すぐにも飛び交う噂の欠片が聞こえ、これだけの注目を集める理由が判明した。 あいつらはある意味ラヴィン家よりも目立つ。悪目立ちとも言うが。
「アイゼン家よ」
「公子たちが来たわ――」
「魅了の――」
「――皇帝」
「双子の魔――」
「ベアトリーチェ公女も一緒――」
「≪皇帝≫がエスコートしているのは誰?――」
 方々から聞こえてくる女たちの囁き声が重なり合い全てがはっきりしないが、うんざりするほどの 賛美が殆どだ。
 それにしてもあいつらは自分たちが噂され注目の的である事をしっかりと認識しているだろうに 堂々としているものだった。
 いつもは滅多に締めないクラヴァットをしっかりと巻き黒い礼服に身を包んだカイザーは、 顎を上げて自信家な内面を臆面なく晒す、一種傲慢ともとれる顔付きで歩き、身体を縮こませて いる女性の腰を逃がさないと言わんばかりにしっかりと掴んでいる。
 一方、全く周りに無関心な様子で視線を散らす事無く冷たく威圧的するように歩く ウェイリードの腕には、派手な赤い衣装を身に纏った従妹のベアトリーチェがべったりと引っ付いて いた。隣りのウェイリードとは違いあの馬鹿女は周りをきょろきょろと見まわし、愛想を振り撒いて いる。
 カイザーとベアトリーチェにとって注目を集める事は快感なのだ。その前向きな思考をこの横の 弱虫公爵様に分けて貰いたいものだが。
「あれが噂のクロスライン女子爵?」
「あら、まだ正式に子爵では――」
「カイザー公子の恋人って噂は本当?」
「そんなあ。ウェイリード様にはリアーヌ公女がいるのに、カイザー様まで――」
「でもリアーヌ公女とは――」
「仲が良いままじゃない。きっと何か理由があって――」
 立ち止まる者たちのざわめきは収まるところを知らない。奴等が大広間へと消えても尚収まらないで あろう。国が誇る名門中の名門貴族アイゼン公爵家の『未婚』の子息が同時に現われたのだから 当然だろうが。
 デュシアンも圧倒されたようで締まりの悪い口を開けたまま呆けていた。
「なんか、凄いね」
 先ほどよりも身を硬くさせて腕に引っ付いてきている。相当動揺しているようだ。
「行くぞ。あいつらに用はない。あるのはセレド王子だ」
 まるで舞台のような御誂え向きの高所であいつらに会うのもきまりが悪い。聴衆が 会話の一言一句を聞き漏らさんと無言の領域を作り出すのは目に見えている。カイザーや ベアトリーチェに見つかってこちらの迷惑も鑑みず大声で呼び止められる前に広間の人ごみに 紛れてしまうに限る。半ば強引にデュシアンを引っ張り、さっさと階段を昇りきった。
 広間はさすがにエントランスとは比べ物にならないほど縦にも横にも広い。入り口付近の人間が 驚いた表情で振り返るぐらいで、遠くの方の塊はこちらにそうそう気づかないようだった。しかし 前に進めば左右の塊が気づき、ひそひそと声を掛け合って波のように振り向く者たちを広げて いった。現ラヴィン公爵は相当な人気者のようだ。
 デュシアンの腕が一層硬くなってきていた。忘れていたが、初めてこういった場に出た時も 同じように奇異と興味、侮蔑など様々な感情の入り混じった負の視線を受けたはずだ。それを思い出すのでは ないかと考慮していなかった自分に軽く舌打する。感受性の豊かなデュシアンには辛いもので あろう。何か話して気を紛らわせてやらねば。
「カイザーが親族ではない女を公式な場で連れてくるはこれが初めてなはずだから、 あいつらが入ってくればそちらに目が分散する」
「う、うん」
 強張った声が返ってくる。やはり≪あの策≫は無理であろうか。考え直す 必要がありそうだった。
「キーキー喚く女たちはアイゼン家の方に興味があるから安心しろ」
「カイザー公子の横にいた女性って、子爵なの?」
 同じ女で子爵という肩書きを持つ事が気になったのだろうか。
 そんな事を気にできるのだから、思っていたより精神的にはまだ余裕があるようだ。 僅かに安堵する。
「わけあって一度断絶した家で、再興が叶えば正式な子爵と呼べるようになるだろうが――、 まああの様子だと、その頃にはカイザーが子爵となっているだろうな」
「という事は、あの女性とカイザー公子はそういう仲、なの?」
「らしい」
「素敵!」
 女はどいつもこいつもこの手の話が好きらしい。まあ、良家の子息を狙っている女たちのように 喚かれるよりはマシだが。
「ねぇ、あのね、ラシェ」
 聞くのを少し躊躇うかのように視線をウロウロとさ迷わせている。
「なんだ?」
「――リアーヌ公女って?」
「カラナス侯爵の娘だが」
「それは知ってるの。あの、そうじゃなくて、さっき誰かが話しているのが聞こえて……」
「ああ」
 その話かと合点がいく。
「ウェイリードの婚約者だった。今は解消しているが」
 気のせいか、腕を掴む指に少し力が入ったような気がする。
「仲が良いのは変わらないから、何故婚約を解消したのか噂の種になっている」
 反応が無いので見下ろしてみれば、緊張した面持ちに蔭りが覗えた。 頬に落ちる伏した睫毛の陰が濃いからそう見えるだけか判断に困る。
「どうした?」
「う、ううん、なんでもない」
 口元の両端を強引に上げて笑って首を振っている。まるで本心ではないかのように。
――まさか、な
 直感的にひっかかる。
 何か直接的な接点でもあっただろうか? ウェイリードは薔薇の事を話したのか? それとも 見た目か……?
 しかしあまり実りそうにもない思いであるように感じる。ウェイリードは思慮深い一方で 短気な所もあり、気難しい。他人の変化の機微に疎いデュシアンと相性が良いようには思えない。 深入りする前に違う方向に視線を向けてやった方が良いのか、 それとも従兄として持てる手を尽くして力を貸すべきか、計りかねる。
――デュシアンにはあまり≪貴族≫と凝り固まっていない男との方が幸せになれる気が するのだが……
 ウェイリードが悪いわけではない。ただデュシアンには≪公爵夫人≫などという 肩書きが最高に似合いそうにないだけの話だ。
――いや、しかし。ウェイリードのことは叔父上も気に入っていたし、どこの馬の骨とも分からぬ奴よりは叔母上は 安心するだろうが……
 考えは尽きず、答えは出てはこなかった。


「やあ、光栄だね。貴女の公爵としての公式な社交場の初参加が、私と同じ日とは」
「は、はい」
 嫌味だと気づいているのか、いないのか。
 曖昧な返事に頭が痛くなる。大丈夫なのか、この従妹君は。
 数段高い位置でカラナス侯爵と謁見していたセレド王子は、侯爵にしばらく 待つよう指示をすると、先にこちらを呼び寄せた。陛下の事があるからだろう。
「父上は来られないから、周りを気にせずに居てくれて構わない」
「あの――殿下、儀式の時に気づかれたのではありませんか?」
 デュシアンの言葉にセレド王子は軽く目を見開いた。
「父上は何も言ってはいない」
「儀式の前に陛下と視線がお合いした気がしたのです。父を探されておられたのではない でしょうか……」
 病床に伏し、滅多に寝台から起き上がる事のできなくなった陛下は、アデル・ラヴィン公が 亡くなった事を知らない。不用意に衝撃を与えない為との配慮からだった。
 陛下と叔父上は幼い頃からの友人だった。先に体調を崩した陛下の元へよく叔父上は顔を見せて いたのだが、叔父上も病の床につき動けなくなった頃にはデュシアンやレセンが 陛下へ顔合わせに向かっていた。陛下はもう半年近くアデル・ラヴィン公と会ってはいない。
「気づいていない、と思いたい」
 首を振る王子の表情には憐憫を含んでいた。
「私が成人するまでは、と気を張り詰めておられた。アデル公が実はもう亡くなって いると今知れば、事切れかねないだろうね」
「縁起でもないです! 殿下」
 自棄になった王子の言葉をデュシアンはしっかりと諌めた。なかなか肝も座ってきたかと感心する。
 それに対してセレド王子は気分を悪くしたふうでもなく、軽く自嘲気味に微笑んでいた。
「悪い。父上もそこまで気の弱い人ではないと信じている。ミリーネだとてまだ成人して いないのだから」
 ご自身の成人の祝賀会だというのに、随分と重い表情で笑みを浮かべていた。それは、国でただ 一人の直系の王子であり、聖アレクシスの生まれ変わりかとちやほやされ、 栄華の限りを尽くした生活を送る十八歳の若者とは思えない苦難を刻んだ表情であった。

 セレド王子への挨拶が終われば後は権力者たちへの挨拶まわりが待っていた。むしろ彼等が 今か今かと手薬煉【てぐすね】引いて待っていた。
 レハール高司祭はどうも息子を紹介したかったらしい。イリヤがレハール伯爵家からの誘いが数度 あって断るのが大変でした、とぼやいていたのを思い出す。しかしレハール高司祭の息子は有に 三十は越えており、デュシアンより十歳以上年上であった。神殿騎士の要職に付いていて 切れ者だと評判だが、自分より年上の男に嫁に出すのは気が乗らない。しかし向こうはデュシアンを 推し量るような視線をちらちらと向けていた。軽く睨めばそれも収まったが。
 その後は今までデュシアンと面識を持たなかった人物たち――つまりは防衛協議会に出席している 人物たち以外――と次々と顔合わせをするおかげで誰かに付きっきりとなって長く会話する事には ならなかった。
 しかし驚いた事にデュシアンは思った以上に落ちついて挨拶をし、祝辞を受け取り、叔父上の 訃報への労わりの言葉などにきちんと応えていた。腕はやはり緊張に硬くなってこちらをしっかりと 掴んでいたが態度にはそんな気配を全く漂わせなかった。
 自分はというと、そんな従妹をどこか遠くから見ているような気分で隣りに立っていた。
 重要な挨拶周りも終わったところで、受け取った果実酒をやや疲れた表情で口にしていた デュシアンから視線を外し、ふと周りを見まわした。同伴者も連れずにそわそわと手を揉み、 視線を散らし、こそこそとこちらの様子を伺っている≪若い男≫たちが増えてきている。
「そろそろか」
「え?」
 俺の呟きに反応してデュシアンは顔を上げた。ひどい顔だ。
「もう少しがんばれるか?」
 軽く頬に手を当てる。優しく手を当てられたのに驚いたのか、さっと頬が朱に染まった。
 罪悪感もあるが、ここは心を鬼にしなければならない。それに先ほどの挨拶周りは上出来だった。 それも驚くほどに。
「俺がいると虫避けもいいところで誰も寄って来れないらしい。奴等に少し機会を与えて やりたいと思う」
 デュシアンの腕を解いて離れる。
「え?」
 呆然とした、間抜けな声がざわめく広間でも耳に届いた。

 デュシアンを離せばそれはそれでこちらにも近寄ってくる人間がいたが、それを適当にあしらって 広間が見渡せる窓辺に一人陣取った。ここからならばデュシアンの様子もよく見えるし、他の人間の 動向も観察できる。我ながらこうも簡単にデュシアンを撒けるとは思わなかったが。
――しかしすごいな、我が家の姫君は
 自分がいなくなった途端、まるで死骸に群がるハゲ鷲のようにデュシアンの周りは若い男 だらけになっていた。奴等も、猛々しく情に厚く誠実でカーラ神の加護のある公爵とかいう肩書きの 付いているデュシアンに対して実に紳士的に接し、数歩引いてデュシアンの警戒を解こうと頑張って いる。まるで協定でも結んでいるかのように強引な男はいない。あのように扱われれば≪貴公子嫌い≫ も治るかもしれない。
「ラシェ。彼女は大丈夫なのか?」
 急に影が差したと思えば、≪過保護≫な奴が現われた。なんとなく、予想はついていたが。
「荒療治をしなければ、アレの社交性はどうにもならない」
 手に持つ酒で≪アレ≫と呼んだ者を指す。わりと良い具合に話せているようだ。 気になっていた叔父上の死についても先ほど話題にされて取り乱す様子もなかった。とりとめて他に 重要な問題もない。
「大人気だろう?」
 あいつの周りは男たちで何層もの円なっている。また人が増えたようだ。
「同伴している彼女を置いてくるなど、どういう神経をしているんだ」
「お前こそあの馬鹿を≪野放し≫か?」
「カイザーに任せている。ビビはエルメローシュと喧嘩はしない」
 エルメローシュとはクロスライン女子爵の名前だったか。
 奴が視線を向けた窓辺を見ると、そこに佇んでいたカイザーと目が合った。口元を軽く引き上げ、 挑戦的な笑みを浮かべている。奴にしっかりと繋ぎ止められているエルメローシュ・クロスライン 女子爵は軽く礼をし、その隣りにいるベアトリーチェは新年早々『死ね』という言葉をこちらに 向かって紡いでいた。見慣れた唇の動きなだけにすぐに分かる。やはりあちらを見るのでは なかったと後悔する。
「彼女を放っておくのか?」
 声に少し苛付きが付随しているように聞こえた。訝しげに窺い見れば、僅かに不快感を示した 表情になっている。いつも不機嫌そうな無表情であるからわかりづらいが。
「気になるならお前が助けてやれば良いだろう?」
「なぜ私が」
 思ったよりも狼狽し、灰色の目を軽く見開いたのが笑えた。
「“アデル公に頼まれているから”」
「それとこれとは話は別だ。個人的な事柄で彼女を守るのは従兄である貴兄の役目だろう?」
「生憎。あれくらいの男どもを払いのけられないようじゃあ俺は公爵とは認めたくはない」
「では放っておくのか」
 紳士となるよう厳しく育てられたウェイリードには苦々しい光景なのだろう。この男は自分の従妹を 同じ目に合わせようなど絶対に考えない思考の持ち主である事は明らかだ。
「もちろん暗がりに連れ込まれないようには見ているが」
「薄情だな」
「喪が明けたとわかれば、ああやってラヴィン家に縋ろうとする男どもに囲まれるようになる。 公式の場だけではない、道端でも口説かれるようになる。いつも俺が傍にいてやれるわけじゃない。 男慣れして、自分で相手を追い払えるぐらいになってもらえないと困る」
「確かに、そうだが……」
「それにアレは顔は悪い方でない。性格ものんびりしているが、可愛げがないわけでもない。 ああいうのを好む極めて珍しい奴もいるかもしれない。そういった本気の相手と、明らかに家名 目当ての男とをきちんと自分で見極められるようになる為にも、男と接して目を肥やす経験は 必要だろう? ただでさえ貴族の貴公子が苦手なのだから」
「……苦手?」
「十四、五の頃にしつこく男どもに言い寄られてウザかったんだろう」
「……そうか」
 ウェイリードは何か納得したように眉を寄せている。思い当たる節でもあるのか。 しかし今はそんな事どうでも良い。
「お前は同伴者を置いてきたと言うが、アレは公爵だ。貴族の令嬢ではない。本来なら 俺の同伴がなくても構わない立派な公人なはずだ」
「……そう、だが」
「まだ不満か?」
「……そういうわけではないが」
 しぶしぶ了承するしかない、といった表情で前髪に手を通して額を押さえていた。何をそんなに 不満に思うのか半ば理解に苦しむ。
 その時、一際大きな歓声とどよめきが広がった。口論で見守るのを疎かにしていたあの一帯へ 慌てて視線を戻せば、信じられない事にデュシアンがそこから出てきた、――今回の主役である セレド王子に手を引かれて。
「どういうつもりだ」
 呆気にとられて出てこなかった言葉をウェイリードが代わりに呟いていた。
 何時の間にか流れはじめていた曲に乗せて二人は踊りはじめる。
「兆候はなかったが……」
 先ほど謁見した時は≪そんな様子≫はなかった。成人してはじめて踊る相手へと送る 熱い視線など王子からは微塵も感じられなかった。
「殿下はイルーダに求婚していた」
 ウェイリードの呟きに振り返れば、奴は驚く程険しい表情で眉根に深い皺を寄せていた。
「だったらそいつと踊れば良いだろうに――」
「イルーダは妃になる事を望んでいない。彼女はララドの孤児だ、後ろ盾がない。他の女に 気があると思わせて、その間に彼女を説き伏せ、密かに養子先を探すつもりかもしれない。 君の従妹は公爵を続ける限りは王家に嫁ぐ事など出来ないだろうし、目くらましには十分の存在だ」
 王子の妃になる女を養子にする家を決めるのは並大抵の話でなはない。表立てば貴族皆が 名乗り出て争いの元になる。だから他に関心を移して密かに進めたいのもわかる。わかるが――。
「我が従妹は当て馬になる程安くない」
「当たり前だ!」
 ウェイリードは珍しく声を荒げた。そんな自分の激情に気づいておらず、踊る二人を一心に睨み つけている。
「……なぜ彼女を選ぶ」
 そんな奴の様子に、自然と怒りが鎮まった。好奇心が沸 いたのだ。有り得ないとは思いつつも。
 横の男は恩義ある≪アデル公の娘≫という理由だけで苛ついているようには 思えなかった。しかし真面目な性格からして本当にそれだけの理由で怒っているという事も 有り得るが。
 計りかねて少し突付いてみる。
「じゃあ取り返して来いよ」
「殿下の後で私が行けば、噂の種となる」
「確かに」
 そうでなかったら取り返しにいく、とでも言いそうな剣幕だった。これは思いがけない 反応だ。デュシアンの思いも無駄ではないかもしれない。
 そろそろ曲が終わる頃で、二人はわりと近くまで来ていた。もしかしたら王子はこのままデュシアン を同伴者であるこちらへと返すつもりなのかもしれない。だとすれば随分と完璧な 台本だ。デュシアンと踊りたいであろう男たちの元へ戻すことなく、男を牽制するこちらへと 戻そうというのだから。
 相当な注目を受ける中、王子は曲が終わる寸前に急に立ち止まり、デュシアンをそっと離した。 一体何事かと周りも踊る足を止めて見ている。
 するとセレド王子はデュシアンの肩へ手を置くと素早く身を屈め、唇を落とした。頬にかかった 王子の髪で、詳細はよく見えなかったが。
 楽団の奏でる曲と曲の合間、目立つ二人の動向を伺う静まり返った広間に、 ぱん、と小さな音が響く。
 なんとデュシアンがセレド王子の頬を打ったのだ。
「これはこれは、やはりお気の強い姫君だ。ゆっくり時間をかけなければならないらしい」
 成人したばかりとは思えない堂々とした王子は、打たれた事すら勝利の証であるかのように 悠長にそんな事を述べ、こちらへ目配せした後、妹御が座す場所へと揚々と戻っていった。
 一方のデュシアンはといえば、打ったままの姿勢で固まっていた。これは相当まずい。
「デュシアン」
 腕を取って壁際へ連れていった。何事かとこちらを見ていた楽団の指揮者へと睨みを 利かせればすぐにも新しい曲が奏でられ、人々はしぶしぶとこちらから視線を反らさざるを 得なかった。
「ぶてって言われたの」
 混乱した様子でそう呟くデュシアンはもうこれ以上ここに居させても何も学習できそうに ないくらい困憊していた。
「キスの一つや二つで――」
「もう十分だろう? 今日は休ませてやれ」
 こちらを批難する鋭い視線でウェイリードが睨んでくる。こうなったのも全て貴兄のせいだ、と その表情が物語っている。
「仕方ない奴だ」
 棒のように突っ立っているだけのデュシアンをなんとか歩かせて、馬車に詰め込んだ。

「受け入れるつもりがないなら、ぶて、って」
 馬車の中でデュシアンはまた呟いた。


 後日、セレド王子とラヴィン女公爵の話は当然広まった。成人の儀の祝賀会で王子が一番最初に 踊った未婚の女性とキス。噂にならないはずがない。
 しかし王子の意図は別として、その噂はこちらにも利益があった。国の王子と張り合う 気概を持たない男が寄って来なくなるからだ。喜ばしい事態である。
 だがそう前向きに考えるのはラヴィン家では自分だけであるようだった。この噂を 聞いてデュシアンに事実確認をしたレセンが怒り狂い、怒号の勢いで宮殿へ殴り込みに行くのを 誰も止めなかったからだ。


+  +  +


「ラシェのうそつき」
 すれ違いさまに叔母上に睨まれてそう呟かれた時、どうしようもなく笑えてしまったのは、 どうしようもない自分の背徳的な感情からだった。
――貴女になら、どんな感情を向けられてもかまわない
 いつまでも昇華される事のない許されざる思いを彼女の息子もまた抱いている事が、たまらなく愉快 で仕方なかった。

 歪んだ思いは未だ燻ったまま、心を醜く冒す


 
(2005.12.22)

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