墓と薔薇

閑話:わたし以前のわたし

 眩しい、という感覚から≪わたし≫は始まった。
 誘われるように目を開けば視界に映るのは、網目のように生い茂る葉や枝の隙間からちらちらと零れ落ちてくる光の粒。 木々の間をすり抜けていく風と、彼等が揺らす草花の擦れる音が耳に響く。
 それが≪わたし≫の記憶のはじまりだった。

 背を預けていた大樹の太い幹を借りて、彼の根の上に立ち上がって辺りへと視線を動かせば、 こちらの様子を伺うように姿を現しては消えていく妖精たちの残像や、木々を縫うようにして飛び回る色とりどりの精霊たちの軌跡が、 そこかしこに溢れていた。
――ここは、どこなのだろう?
 地表にせり出でいるたくさんの大樹の根の一つを軽く蹴って飛び上がると、 一等高いこの大樹のてっぺんまで一気に昇りつめて頂上に足を置き、四方を見まわした。
 見渡す限りの深く萌える緑。少し遠くには大きな湖が見える。まるで細かい水晶の粒で埋め尽くされているかのように煌く水面が美しい。
――ここは、≪どこ≫なのだろう?
 こんな景色をいつだったか、見たように感じる。けれどそんな筈はない。わたしは≪生まれた≫ばかりなのだから、 懐かしむ記憶があるはずもないのだ。不思議に思いながら下へ降りると、この森に住むのであろう精霊や妖精たちが 「新しい樹木の精霊が目を覚ました」と森中をちょこまかと駆けまわっているところに遭遇した。
 先ほどまで遠巻きに見ていただけの妖精たちが姿を現してわたしを囲い、祝福の言葉をかけてくれる。 その輪から少し離れた樫の木の下でこちらを伺っている同属の精霊たちと目が合い、恐る恐る笑いかけた。 けれども彼女たちはわたしと目が合うと、そっくりな顔を寄せてひそひそと耳打ちをしはじめてしまった。
 なんだろうか。気になって彼女たちに近づくと、彼女たちはわたしの一歩に慄くように一歩身を引いた。
 同属からの拒絶に驚いて足を止める。何かしてしまったのだろうか。 もう一度辺りを見まわして、胸に手を当てる。でもやはり何もわからない。
 わたしには何の敵意も害意もない事を示す為に、極力微笑んで声をかけてみた。
「あの、ここはどこですか?」
 わたしのその質問に、騒がしかった辺りがしんと静まり返った。
 今度こそはっきりと、樹木の精霊たちは畏怖ともとれる怯えを見せて身を寄せ合い、 何か謝罪の言葉のようなものを早口に捲し立ててどこかへと消えてしまった。
「あ、待って」
 彼女たちが消えるのに少し遅れて、集まっていた大地の精霊たちもやはり怪訝そうな顔で地に溶けていってしまった。 妖精たちも何時の間にか姿を消している。わたしは急にひとりになってしまった。
 何かしてしまったのだろうか?
 何も思い当たらないし、彼等を不快にさせるような事はしなかったはずだった。わたしはただ「ここはどこ」と尋ねただけ。 けれど同属たちはわたしが言葉を発する前から――正確には目が合った時から――すでに歓迎する表情ではなかった。
 誰も居なくなったここにいても埒があかない。先ほど上から見た湖までいけば水の精霊がいるかもしれないと思い、 水の匂いを頼りにそちらへ歩きはじめた。

 しかし静閑としたその湖に精霊の気配はなかった。水辺に水の精霊がいるのではという期待は外れてしまう。けれどもその代わりに、 湖の中央部の湖面に蒼い光が渦巻くのが見えた。その光がこちらへと少しづつ近づくにつれ、正体が判明した。
 それは舞い踊るひとりの妖精だった。
 彼女は青白い肢体を透かす薄色のドレスを翻しながら、身体よりも長い水浅黄色の髪を逆巻かせ、 長い手足の先まで緊張を持たせながら水面ぎりぎりに湖水を踏んでは波紋を作り、 つま先で水を抉るように走り回っては水晶の軌跡を飛ばして踊っていた。
 蒼い舞姫の踊りに魅了されて立ち尽くしていると、桔梗の花のように凛とした美しさを秘める青紫の瞳がこちらへと向けられた。 彼女は上げていた足をゆっくりと下ろし、踊りを止める。空を切るように浮かんでいた髪が彼女を抱くように落ちていく。
 もっと見ていたかった。そう思いながらも、話に応えてくれる相手が欲しくて仕方なかったせいで、声をかけてしまった。

「神々がつけた名前は≪ロアの森≫」
 彼女は何の躊躇いもなくわたしの質問に答えてくれた。けれど、答えてから少し訝しげに首を傾げる。
 先ほど拒絶された旨を説明すれば、妖精は感慨深げに頷いた。
「精霊に個別の姿も意思も記憶も無いわ。記憶や性質に沿った会話しかできないから、 アナタが≪ロアの森≫だと≪わからない≫という事を理解できないのよ」
 妖精は惰眠を貪るように湖水の上に寝転がった。踊っていた時の機敏な動作はどこへいってしまったのか、 雪の結晶のようなレースの裾を億劫そう踵で蹴飛ばしている。
「まあそれ以前に、アナタのその姿が怖かったのでしょう。水面に姿を映してみなさい」
 促されて湖を覗きこんでみると、水鏡に移り込んだのは蒼い空を背にした白い顔のわたし。 彼女たちの――樹木の精霊たちの皮膚は杏色で、草色の髪の長さだけでなくその顔も皆そっくり同じだった。けれどもわたしはといえば……。
「貴方は記憶や意思だけでなく、姿も固有のものみたいね。普通の精霊とは違う。それが怖かったのでしょう、彼女たちは臆病だから。 でもだからといって、高位精霊でもないみたいね。辺りの自然や精霊を支配できるぐらいの≪力≫を持っているようには感じないし」
 妖精は水を口に含むと、唇を突き出して空気を入れた水風船を作りだした。 彼女の蒼い唇から吹き出される無数の水風船は、 辺りを彩る湖水や木々や緑などの様々な色を映しながら左右にゆっくり揺れて上昇していく。 すると水辺の細い木の枝から新芽ほどの大きさの小人たちが次々とその風船に飛び乗っているのが見えた。 彼等を乗せたまま風船が上空まで昇っていくのを見送るっていると、途中水風船が割れて小人たちが雨のように降り落ちてくる。
「貴方はちょっと変わった精霊ね。下位の精霊でも高位の精霊でもない」
 ぱさり、と近くの茂みに生えた蕗の葉に何かすべりおちた音がする。空から降り落ちてくる小人たちは、 衝撃を和らげる為なのかうまい具合にそこらの葉の上に落ちているようなのだ。同じような音が立て続けに静謐な水辺に響く。 彼等は狙いを定めて落ちているようだけれど、幾人かはわたしの頭の上に降ってきた。手を伸ばして助け起こしてみるが、 彼等は緑色の身体を目一杯震わせながら喚き、わたしの手から抜け出てさっさと元居た木に戻ってしまった。
 そちらの木々の枝には次にあがる風船を今か今かと待ちわびている様子の小人たちでもうすでに溢れかえっている。 彼等は隣近所を押し合って場所とりを行い、押し合いに負けた小人は隣人を道連れにしながらぼとぼとと地に落ちていた。
 拒否された事より、彼等のあまりに意味のわからない挑戦と必死な様子が面白くて、わたしは自然と声をあげて笑ってしまっていた。
「ねえ、自己紹介がまだだったわね」
 小人たちの動向から妖精へと視線を移す。
「私はアイシャ=ローデ。ここに住む水の高位精霊様からはアイシャを、 歌と踊りの女神アニカ様からはローデという名前を頂いたの」
 湖に映える蒼い妖精が長い髪を軽くかきあげて艶やかに微笑む。
「素敵な名前ね」
 美しい名前の響きに心を奪われて、わたしも微笑みかえした。
「そのうち樹木の精霊たちも慣れて落ちつくわよ。気楽になさい」
 彼女は水風船をもう一度吹き出すと小人の大雨を降らせて、わたしを慰めるかのように楽しませてくれた。

 アイシャ=ローデは歌と踊りの女神様から名を頂くだけあって、さすがにその踊りはとても素晴しくて、 どこか懐かしさを覚えるものだった。素直にそう感想を述べれば、生まれたばかりの貴方に≪懐かしい≫なんて感覚はおかしい、 と笑われてしまったけれど。
 彼女は踊りが好きだという言葉を物語るように、踊っている時だけは常に微笑んでいた。
 わたしも彼女が湖水上で踊る風景が好きだった。相変わらず樹木の精霊たちや他の精霊たちとも馴染めなくて、 この湖に来ては彼女と、たまに眠りから覚めて現われる湖に住まう高位の精霊と会話をして過ごしていた。

 そんなある日、アイシャ=ローデの踊りを湖のほとりで見ていたわたしのそばに、 一人の人間の童が立ち尽くしているのに気がついた。人間の目では妖精や精霊を見ることは出来ないらしいのだけれど、 年端もいかない童の時代には見える事もあるらしい――これも妖精の受け売りだった。
 人間なんてはじめて見るので観察していると、こちらを向いた大きな緑の瞳と視線が交わった。 小さな身体にふわふわとした蒲公英色の髪、頬っぺたがほんのり薔薇色の()(わらべ) 。あまりの愛らしさに目許を緩ませれば、童もにっこりと返してくれた。 人間の童とはかくも可愛いものなのだろうか、わたしは一瞬にして虜となってしまった。
 久しぶりの人間の童に妖精も嬉しいようで、童を楽しませるようにいつもよりたくさん水を蹴って踊ったり、 水風船を飛ばして小人の雨が蕗の葉や睡蓮の葉などに落ちるさまを見せたりしていた。
 妖精の見立によればこの童はまだ生まれてほんの数年。一人では自分の住まう場所まで戻れないのではないかと妖精が心配したので、 日の沈む前に人間たちが住まう方角へと連れ帰る事にした。妖精がさようならと手を振り、わたしが手招きして歩きはじめれば、 童は理解したらしく付いてきた。
 人間の住処は火を使う。天に昇る灰色の火の残骸を目印に歩いているうちに、 次第に樹木の精霊より大地の精霊と出会う確率が高くなってきた。人家が近い証拠だ。
 樹木の少ない拓けた場所までくると、彼女より少し年上の()(わらべ)が慌てたように 駆けよってきた。膝を曲げて童と視線を同じにすると、童に何やら神妙に話かけていた――がわたしには彼等の言葉がわからなかった。
 しかし心配して迎えに来たという事だけは分かる。安心してそっとその場を離れようとすれば、 それに気づいた女の童はわたしへ千切れんばかりの勢いで手を振った。わたしも振り返すが、 男の童は首を傾げてこちらと童を見比べているのが視界に入った。 童といっても全ての童にわたしたちの姿が見えるわけではないのだな、とわたしは学んだ。

「この森の傍に住む人間たちは、ここの妖精と精霊が自分たちには何も危害を加えないと知っているのよ」
 無事に送り届けた事を告げに湖に帰れば、妖精はそう教えてくれた。
「この森の傍に住まう人間たちは森を侵さず、森に敬意を払うの。昔から変わらないそのさまに、 精霊も妖精もここへ入りこむ人間たちには何もしないわ。人間はそれを知っているの。 だから大人たちはあまり心配はしないし、寧ろあの村の人間たちは見えるうちにわたしたちと遊ばせることを推奨するわ」
 妖精の言うように、それからわたしと妖精と童の三人でこの湖で過ごす日々が増えていった。 そしてわたしたちだけではなく、森全体がその童の遊び相手となった。昔からこの森の精霊や妖精たちは、 自分たちが見える童を《妖精の子》として扱い、楽しませる習慣があるのだそうだ。
 一年中温暖な気候のこの森でも、日の力が強過ぎる時期は童もただ見ているだけでなく湖へと足をつけて妖精と一緒に踊ったりもした。 南方からやってくる自由気ままな風の精霊たちが童の濡れた髪や体を乾かしてくれるから病気の心配はない。
 たまたま眠りから覚めた高位精霊の機嫌が良ければ水面を盛り上げて四方八方に華麗に水を噴射させて虹を作り、 童を驚かせたりもしてくれる。
 急に音楽が聞こえたと思ったら、睡蓮を弾いて回って花を咲かせている花の精霊たちがくすくすと笑っていた。
 大地の精霊たちは粘土質な土を童に与えて巧妙な造形指導を行っていた。自由な発想は人間の童の特徴だと彼等は語る。
 そんな中、樹木の精霊たるわたしが童に出来る事といったら、やんちゃな童が登った木から落ちまいかとはらはらしながら見守る事と、 食べられる木の実を教える事、日が落ちる前に人間たちの住まう地域の方へと連れて帰っていつも迎えに来る男の童に引き渡す事ぐらい。 それでも女の童はわたしに懐いてくれて、それがとても嬉しかった。

 そんな楽しい日々がどのくらい過ぎた頃だろうか。 わたしたちには≪時≫というものの流れをあまり感じることが出来ないから分からないのだけれど、 童が樫の木に難なく登れるようになったぐらいの頃だった。
 ある日急に童が視線をさ迷わせ、湖の上で寝転ぶ妖精や傍に立つわたしを探しているような慌てた素振りを見せはじめたのだ。 驚いて童の前に回って腰を屈めても、視線が合わない。
「どうしたの?」
 もともとわたしたちの言葉は聞こえない。けれどそう聞かざるを得ない気持ちだった。
「――何度体験しても、慣れないものね……」
 妖精からそんな呟きが聞こえて、胸がぎゅうっと強く締め付けられるような苦しい感覚が去来した。
 人間は妖精や精霊を見ることができない。見えるのは≪精霊の冠≫を≪眼≫に宿した人間か、 素質のある童のみ。しかし童もある程度育ってしまうと見えなくなってしまう。
「わたしたちが、見えなくなったの?」
 童の肩に手を置いて顔を覗きこむ。わたしたちは精神体だから肉体を持つ人間には触れられないけれど、手を繋いだり、 頬っぺたにキスをおとしてみたりして互いにぬくもりを感じていたつもりだった。触れているという皮膚感覚がなくても、 触れていると意識しているだけで満足だった。
 そう、≪あの時≫もそれだけでわたしは満足だった。

――例えこの手がわたしを通りぬけようとも、わたしにとっては大した事ではありません。 貴方がわたしに触れたいと思われている事、そのお気持ちだけで、わたしは――シェーラは幸せです

 急に覚えのない記憶が視界を遮った。漆黒に浮かぶ月夜のもと、頬に伸ばされた手に手を重ねるわたし。 けれどもその手がわたしに触れることはない。わたしと≪あの方≫は、触れ合えない関係。実体と精神体。

おねえちゃんたち、どこ?
 何事かを叫びながらわたしの身体をすり抜けて湖の傍へと行ってしまう童に、わたしは記憶の海から引き戻された。
 たまに≪思い出す≫記憶の欠片。ある筈の無い≪わたし以前≫の記憶。欠片同士は全く繋がらなくて、もどかしくて仕方ない。 けれども今はそんな記憶への感傷に浸っている場合ではなかった。
 童へともう一度近づいて声をかけてみるけれどわたしの声は無視され、童は泣きながらわたしたちを呼ぶ音を発していた。
 触れられない事がこんなにも辛く苦しいものであるのか……。目を合わさせる為に強引に顔を動かす事もできない、 ここにいるよと手を握ることもできない、慰めに抱きしめてあげることもできない。視覚を奪われただけで、 わたしたちの関係はこれ程呆気なく終わってしまうのだ。
 胸が苦しい。視界が不鮮明になって割れる。
 童がわたしを見てくれない。
「アイシャ=ローデ」
 助けを求めるように彼女を探せば、湖から絶対に一歩も離れない彼女が陸地にいるわたしのすぐ傍まで歩み寄って来ていた。
 彼女は無言でわたしに微笑みかけてくれるが、その笑みからは踊りを踊っている時の楽しさも、 寝そべっている時の億劫そうな雰囲気も感じ取れない。彼女はどこか痛いのかと聞きたくなるような、 こちらが心配になるような表情を浮かべていた。
「これがね、≪寂しい≫って感覚」
 妖精はわたしの胸を軽く押す。
「ここが、痛いでしょう?」
 わたしは頷いた。押されたところの内側がじんじんと痛むからだ。
「貴女はやっぱりどこか普通の精霊と違うのね」
 妖精は、わたしの頬を伝う≪涙≫というものをそっと拭ってくれた。

 それから毎日、童はここへ来て、ずっと一人歩き回っていた。見えなくなったのは、 わたしたちが姿を消してしまったからだと思っているのか、しきりにわたしたちを呼んでいる≪音≫が聞こえる。 呼びかけに答えているのに、童の耳には入らない。元々わたしたちの声は聞こえなかったのだから当然なのだけれど。 ≪寂しい≫という感情を臆面もなく表してわたしたちを呼ぶ童の≪音≫が、わたしの心を締め付けてならなかった。
 諦めずに夕暮れまで粘り、けれど日が暮れてしまえば辺りが闇に包まれてしまうのを知っているからだろう、 しょんぼりと帰って行くその背を追いながら、 いつも所定の場所で待っている男の童に泣きつく童をわたしはただ見つめるだけしか出来なかった。
 それからしばらくして、いつも童を連れ帰る男の童とはじめて一緒に童が湖にやってきた。 来た時から泣きじゃくっていて、男の童の手をしっかりと握りながら、童は湖に向かってぺこりと頭を下げた。 そして童は男の童に諭され、顔を上げると何度もこちらを振り返りながら帰って行った。
 わたしは何故か二人の後を追えなかった。
「あれが終わりの儀式」
 妖精が水面を蹴り上げて呟いた。
「あの童は人間の童たちの輪に戻るの。もう、ここへは来ない。今までもそうだったから」
 妖精の言うように、童は二度とここへ現われる事はなかった。
 彼女はこんな事を何度も経験しているらしく、「諦めが肝心よ」と自分に言い聞かせるように励ましてくれるけれど、 はじめてのわたしにはどうしても胸の痛みを晴らす事ができないでいた。
 童は本当に可愛らしい人間だった。わたしには同属の精霊たちよりも、童の方が自分に近しく感じられてならなかった。 童は精霊や妖精しかいないこの森で≪人間≫という異質な存在だったのだ。 そしてわたしも、自分が高位精霊よりもずっと異質な存在である事を自覚しはじめていた。
 ≪異質である≫というある意味同属に組する童を失ったことで、 記憶の奥底に眠るわたし自身を異質に仕立て上げる≪何か≫を知りたいという気持ちが、日に日に大きく膨らんでいった。


 童との別れを経験して、どのくらい刻が流れた頃だろうか。
 その日、人間たちの住まう方角の空が緋色に染まっており、森中がざわめいていた。日はまだ高く、沈むには早過ぎる。
「火、ね」
 これだけ大きな火も珍しい、と呟いたアイシャ=ローデの長い髪が大きく揺れた。
 珍しいぐらいの強い風だ。
 森に住まう妖精も精霊も≪火≫と呼ばれる存在を苦手としていた。それは森を失わせ、 森を狂わせる存在だからだ。その上これだけ激しい風が吹いているのだから余計に不安が募る。
 突如、火の精霊を呼ぶ魔力の強い波が届いて森を揺らした。あまりの巨大なちからに木々が悲鳴を上げて葉を落とし、 花々は怯えるようにつぼみを閉じた。
「すごい、何この力……?」
 アイシャ=ローデもこの時ばかりは眉をしかめて身体を震わせていた。
「火だけでなく風も煽ってるみたい。このままだと森も焼けかけないわ」
 わたしは火の精霊と同調して彼等を呼ぶこのちからに覚えがあった。
 覚えがある、といっても≪わたし≫にではない。≪わたし以前≫の記憶に、だ。
 わたしは精霊のちからを引き出そうとする強い≪魔力≫に引かれるように、ふらふらと歩きはじめた。
「ちょっと、どこへ行く気? ここにいれば安全よ」
「わたし、知っているの。この魔力を」
「え?」
「わたしの中の記憶が、知ってるの、この魔力から感じる≪血≫を」

 妖精の制止を聞かず、わたしは人間の集落へとはじめて足を踏み込んでしまった。
 周りを確認することもなく魔力に引かれるがまま着いた場所は、空の一角を緋色に染め上げる巨大な炎の前だった。 その近くで魔力を放出し続けているのは、≪妖精の子≫であったあの童。 壊れたように慟哭する童に反応するように眼前の火が勢いを増している。
 周りにいる人間の成体たちは異常な炎に恐れおののくように呆然と立ち尽くしているだけで、 童の力を止めようとはしなかった。もしかしたら彼等にはこの火の威力を上げているのがこの童の魔力だと分からないのかもしれない。
「どうしたの?」
 わたしの声などどうやっても聞こえないのだろうか。泣きじゃくる童の肩を包むけれど、 その手はすり抜ける。
「これ以上魔力を出し続けたら、貴方の身体が壊れてしまうわ」
 辺りに集まる火の精霊たちも樹木の精霊のわたしが来た事で戸惑いを見せているようだった。 わたしたち樹木の精霊は火で焼かれてしまう弱い存在だ。彼等なりに心配してくれているのだろう。 けれどこの場を離れるわけにはいかなかった。
「ねぇ、お願い、もうやめて。魔力が尽きてしまったら死んでしまうわ」
 あの時感じた≪寂しい≫という痛みが再発する。
 わたしはこの童との≪繋がり≫を感じていた。それは記憶の欠片を孕む彼女の魔力から感じる≪血≫からだけでない。 悠久の時を刻む精霊たるわたしに感情を教えてくれた、 大切な≪ともだち≫という繋がりだ。その繋がりを一度も修復できずに永遠に断ち切るなど、耐えられなかった。
 わたしの視界がぼやける。涙、と呼ばれるものらしい。それが頬を伝って顎にたまり、 ひと雫が童の頭に落ちた。
 するとどうだろうか、童が顔を上げた。涙に濡れた顔をしっかりと上げて、わたしと視線を交えたのだ。 けれどそれも偶然だったのか、虚ろな童の瞳がわたしを知覚することはなかった。 ただ、童の身体から流れ出ていた魔力は何故かぴたりと収まった。紅蓮の炎は大きく揺らめくと不意に消え、一瞬にして火の残骸、 炭と灰が眼前に広がった。
 ゆっくり起き上がった童が先ほどまで轟々と火が燃え上がっていた場所へと覚束ない足取りで歩み寄り、 その細い足を力なく崩れさせた。
「何があったの?」
 童の傍に歩みより、無駄だと分かっていてもその小さな背を抱く。
 その時、灰と炭に塗れた童が金属を纏う雄の成体に抱え上げられた。驚いて見ていると、 あの男の童が走ってその成体に飛びかかっていた。男の童は成体に跳ね飛ばされて近くの岩に身体を打ち付け気を失ったようだ。 なんて乱暴な――そう思った矢先、成体は太陽の光にぎらぎらと反射する長く鋭い金属を振りまわしながら、 周りの人間たちを威嚇しはじめた。
 何があったのかわたしには全くわからない。けれど童がこの成体によってどこかへ連れて行かれることだけは確かなようだった。 人間の成体は身体が大きいだけあって、歩く速さも童とは比べ物にならない。抱えられた童はどんどんと遠くに行ってしまう。 ≪森≫から離れてしまう。
 わたしは童の魔力から感じる≪血≫を懐かしいと思った。 現実の中で≪わたし以前≫の記憶の手がかりを持っているのは童のその血だけ。わたしは、自分の事を、 わたしの心を揺るがす記憶を知りたいと強く願っていた。
 このまま行けばアイシャ=ローデにさよならを言えない。ありがとうも言えない。大切なともだちと別れるのはとても辛い。 けれども彼女はきっと永遠にあの湖で踊り続ける。 湖底で眠る高位精霊の為に、彼女はずっとあの湖の上で踊り続けるだろう。だからここへ帰ってくればまた彼女とは会える。 わたしたちには永遠の時があるのだから存在する限り会える。
 でも人間の時は短い……。ここであの童と別れてしまったら二度と会えないかもしれない。
 心残りと寂しさを胸に抱きながら、わたしは童を守る精霊となることを決めて彼等を追いかけ、 一度も出た事のなかった生まれ育った森を後にした。もう一度必ず戻ってくる事を心に秘めて。


 そして、わたしは≪わたし以前≫の記憶の欠片を思いがけないところで見つけてしまう。
 ≪彼の方≫がとても恐ろしい存在であるのは分かっているはずなのに、彼の方の手にかかれば 自分のようなちっぽけな樹木の精霊なんて簡単に焼き消されてしまうのは分かっているのに、 わたしは童から離れてそこへと戻ってしまった。
 彼の方に「どうして戻ってきたのか」と聞かれた時は、不況を買ってしまったのではないかと身体中に震えが走ってしまった。 いくら記憶の欠片を感じるからといって、どうしてこんな無謀なことをしてしまったのか。自分でもわからなかった。
 怯えを見せて抗う姿勢を見せない憐れなわたしに、彼の方は手を差し伸べてくる。 その恐ろしさに瞳をぎゅっと閉じるけれど、いつまでたっても痛みはなかった。その代わり、 頬に微細な感触を覚え、わたしはおそるおそる瞳を開けた。
 冷たい手はわたしの頬を優しく撫でていた。視線を上げれば美しい闇色の瞳にぶつかり、 吸い込まれるように呆然と見つめ返してしまった。全てを覆い包むような夜のとばりの黒。安寧と深閑が約束された穏やかな闇。 わたしの中の記憶が≪知っている≫と歓喜に震えていた。頬に触れる手の感触に、まるで待ちわびていたかのように頬を寄せてしまう。
 わたしは確かにこの瞳を、≪知っている≫。わたしはこの手に触れられるのを≪待っていた≫。
「シェーラ」
 その人はわたしを≪シェーラ≫と呼んだ。胸の奥から懐かしさがこみ上げ、乾いた瞳が潤いを増す。
 その名が懐かしかったのか、それともその名を呼ぶ彼の声が懐かしかったのか。 その答えは記憶にはない。
「シェーラ。それがわたしの名前? わたしに名前があるのですか? 貴方さまはわたしをご存知なのですか?」
 彼の方は、『教えない』と≪彼らしい≫魅惑的な意地の悪い笑みを浮かべるだけ。
――彼らしい?
 わたしが知り得ない記憶から沸き上がる感情がわたしを困らせる。
「わたしの知らないわたしの記憶が、貴方さまを知っているようです」
 そう呟けば、彼の方はわたしの頬を撫でる手を引いてしまった。待ちわびていたそのぬくもりが名残惜しくて、 その手を掴みそうになってしまった自分の手を、驚いて見下ろした。
 身体がおかしい。感情だけでなく身体までもが自分の意思とは別の何かによって動かされている。 どうしてなのだろうか。
 もう一度、すがるように顔を上げる。けれど彼の方はわたしを促すだけだった。
 何も教えてはくれない。
 けれど穏やかな闇を映す瞳は優しさで溢れていた。


 わたしには、この≪わたし≫が記憶をはじめるより以前の記憶がある。 その記憶を取り戻すことが出来れば、異質な自分が何者であるのか、≪シェーラ≫という名前を≪誰≫から貰ったのか、 何故彼の方のような雲よりも高い位置におられる恐ろしい方を≪知っている≫のかを、思い出せるはず。
 けれど欠片を見つけていく度に、その記憶は自分では到底辿りつけない場所に厳重に封印されているように感じはじめていた。 どんなに手を伸ばしても、決して届かないような場所に……。


(2005.10.23)

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