墓と薔薇

6章 失われた記憶(3)

「僕の事を覚えていないんだね。まあ、当然かもしれないけど」
 肩にかかる紫黒色の長い髪を軽く払いながら、青年は少し演技がかった残念そうな微苦笑を浮かべた。 彼の手の動きに、まるで身体を闇に包まれてしまったかのような漆黒のローブの裾が軽く揺れる。
「あの……、はじめてお会いしたようにお見受けしたのですが……」
 デュシアンは視線を左右に散らして記憶を辿った。これだけ人を圧倒させる端麗な容姿を持った人物を簡単に忘れてしまうだろうか、 彼が勘違いしているだけではないのか――そんな疑問が浮かんで半信半疑に彼を見上げると、彼は事も無げに笑みを深めた。
「君は僕のような存在を覚えてはいないのだよ」
「そんな――」
 彼の卑屈な言葉に、デュシアンは血の気が引いていくような音を聞いた気がした。今すぐにもこの失礼な頭の中身を取り出して、 逆さにして乱暴に振りたい心境だった。それが出来ないからこそ懸命に記憶を辿るのだが、 社交場で出会ってきた貴公子たちの霞みの中にも彼はいなかった。
――父様の葬儀の時、かな……?
 あの時に誰に会ったのかなど殆ど覚えていなかった。たくさんの来賓客があった上に、父を失った衝撃に放心状態で、 まともに挨拶が出来たかすら思い出せないのだから。
「だから名乗らないよ。君は僕を知っているのだから」
「あ、あの……、申し訳ありません」
 申し訳無いと思いながらも、実はデュシアンの心の中は安堵で満たされていた。 先ほどまでは何をされるか分からないという恐怖が彼に対してあったのだが、 彼が顔見知り(のはず)という話が警戒心を薄れさせる良い情報となったのだ。それでもまだ完全に気を許した訳ではない。 今度こそ何かあった時は身を挺してでも≪北の守り≫を守るという使命感に燃えていた。
 デュシアンは背にした結界から一歩前へ出ると引けていた腰を戻し、背筋を伸ばす。
 彼がよりによって今、ここへと入ってきた目的を知らなければならない。 もう少ししっかりとしなければ、と深く息を吐いた。
「まあ、そんな話よりも。今日は君に聞きたい事があって会いにきたんだ」
 先ほどの卑屈な言葉とは裏腹な清々しいまでの然らぬ顔で話を進める青年に、デュシアンは少々呆気にとられた。
 彼の目的は自分らしい。それでもデュシアンは警戒心をそれ以上緩める事なく、話を促した。
「なんでしょうか」
「君は≪禁呪≫と呼ばれる存在を信じる?」
 青年の口元が妖しい笑みを象った。
「禁呪?」
 思ってもみなかった難しい質問にデュシアンは口篭もる。
「……信じます」
 躊躇しながらも小さくそう答えた。信じるも信じないも、 リディスが禁呪を纏っているという事実があるのだから存在するのは確かなのだろう。
「では、禁呪を使いたいと思う?」
「え? 禁呪は途絶えているのでは?」
 伺い見れば、青年は目を細めた。
「禁呪はこの地上から消えはしないよ。人が他者を求める気持ちがある限り、人の心が脆い限り、 人に心というものがある限り、――禁呪は消えたりなどはしない」
「そう、なのですか?」
 随分と断定的に喋る人だ。デュシアンは訝しげに青年を見上げ、そして意識を囚われた。
 交わった彼の瞳はこちらを吸い込むような深淵を宿し、 光など一筋も届かない闇へと引きずり込むかのような気にさせる力を持っていた。 一瞬でも目を離せば奈落へと突き落とされるようなそんな恐ろしさに、体の内側が――臓腑が震えた。
「≪禁呪≫とは≪禁じられた呪文≫の事」
 瞬き一つせず深淵を見せ続けた瞳が一度閉じられる。その隙に、デュシアンは肺まで届かない浅い呼吸を繰り返し、 最後に大きく息を吐いて緊張を解いた。背筋に流れる汗がもどかしい。
 自分は一体何に怯えていたのだろうか。彼の黒い瞳の色を恐れるなんて。 臆病さもここまでくると病的だ。
 自嘲しながらも、 何故か身体の奥底に未だべったりと貼りついた理由の分からない危機感を持て余していた。
「大昔、この世界では神々とその使徒たちが使っていた言語があったんだ」
 こちらの様子など構いなく話を続ける彼をもう一度見上げた時には、もうその眼から闇を伺い見れる事はなかった。 彼の漆黒の瞳は辺りを飛ぶ発光体を映して光を帯びているだけ。 雲母か黒曜石かと見紛うばかりの美しい色であった。
 全く、自分はどうしてしまったのだろうか。デュシアンは心の中で自分を笑って、彼の話に意識を集中させた。 それでも一抹の不安だけは拭えないままだったが……。
「その言語、言葉の発音には精霊を従わせる≪力≫があった。 今でこそ≪魔法≫は人間自身の魔力を精霊の波長に合わせる事で使うものみたいだけれど、 当時は言葉で精霊を操って様々な力を具現化させていたんだ。それが≪呪文≫と呼ばれる今では失われた古代の魔法。 各地の遺跡にはその言語が刻まれた壁画や石版などが残っているみだいだね。 君の従兄のような言語学者たちがこぞってそれを研究しているようだけど、完全な解明は無理なのかな」
「そうなのですか?」
「発音の仕方がね、分からないみたいだよ。誰一人その言葉が喋られているのを聞いた事がないから当然かもね。 だから学者たちはその≪呪文≫がどの精霊を操ったり、どんな作用をもたらすのかだけを研究しているようだよ」
「そう、なんですか」
 従兄の研究内容を殆ど知らなかった事に少なからず寂しい気持ちとなった。彼が話してくれるのは遺跡の概要や妨害魔法ばかり。 もしかすると、話しても分かるはずがないと踏んでいるのかもしれない。従兄の性質を思い浮かべて苦笑が洩れた。
「その≪呪文≫の中に、カーラの節理を覆す大きな力を持ったものがあったんだ」
 話の続きに集中する為に頭の中から意地悪だけと頼りになる従兄の顔を追いやった。
「君たちが≪悪神≫と呼ぶ者が作り出した呪文だよ。あまりにカーラの作り出した自然の節理から懸け離れていた為に、 カーラはそれらの呪文の使用を堅く禁じたんだ。それが、禁じられた呪文、つまりは≪禁呪≫の正体だ」
「禁じられた、呪文……、禁呪」
 口の中で数度その響きを転がしてみる。けれど何故かその響きすら口にする事すら忌むべきではないかと思えて、気分が重くなった。
「例えば――、そうだね。≪転生≫の呪文。肉体を失う前に魂を取り出して他者の肉体に融合させる呪文だ。 ただ、胎児という寄代が必要で、その母体も出産と共に禁呪の贄となり、 元あった胎児の魂も引き裂かれて霧散するという代償はつくけれど。魂と記憶、知識などを引き継ぐ呪文だ」
「なんて残酷な……」
 顔を顰めて拒絶すれば、青年は眉を上げて何でもない事のように軽く首を傾けた。
「似た呪文で≪反魂≫っていうのもあるけれど、こちらは肉体から離れてしまった魂を呼び戻すもの。 転生と同じく胎児に宿して同じ末路を辿る。でも、一度肉体から離れてしまった為に、残念ながら記憶や知識など一切引き継がないし、 魂が肉体から離れてからすぐでないと駄目だけどね」
 青年はどこか楽しげに説明をしてくれるのだが、デュシアンの気分はどんどんと重くなっていった。
「≪遠見≫の呪文は、どんな遠く見知らぬ場所にいる者であってもその者の現在と過去、未来を覗き見る事ができる。 でも呪文行使者は覗き見る度に、――未来を失う」
 未来を失う。その言葉が殊更強調された為に、何故かデュシアンの心に強く響いた。まるで杭を打ち込まれたような衝撃が胸に届く。 理由はわからない。けれど、どこか何か気になる。 未来を失う、とはどういう意味なのか。曖昧過ぎて想像し難い。
「それから、≪鏖殺【オウサツ】≫。たった一人を助ける為に周りにいる多くの生命を犠牲にする呪文だよ。 その名の示すとおり、ただの虐殺にもなる呪文でもある。この呪文に代償はないけど、 あまりに多くの命を根こそぎ奪ってしまったという激しい悔恨が行使者には残るだろうね」
 青年は話し終えて、こちらの反応を伺っている。何か返さねばと思いつつも、どうしてか頭が重い。 月並みな感想しか出てこない。
「――禁呪には使用を躊躇うよう、何かしらの代償がつくのですね」
「そうだね。それに自然の節理を曲げる事は即ち精霊の意思を無視して縛る事でもある。だから精霊たちは悲鳴を上げて嫌がって、 辺りに様々な影響を与えるんだ。まあ≪鏖殺【オウサツ】≫に限っては、 その精霊たちすら焼き殺してしまう力を持つのだけどね。 例えば禁呪で命を繋がれたリディスの傍では常に精霊が悲鳴を上げた状態でいるんだよ」
「え……?」
「今はアミュレットで身体に巻きついた禁呪の棘を抑えているのだろうけど、闇の精霊の力を借りる魔法を使用すればその抑えが弾けて、 近づく精霊がその痛みに悲鳴を上げだすんだ。 そうなれば、周りの人間を傷つけてしまうだけでなく、精霊の不興を買って災厄を呼び寄せてしまう」
――だからアミュレットをあんなにたくさん……
 彼女がいつもアミュレットを首や手首などに音が鳴りそうな程付けているのはそんな深い理由があっての事だと知り、 彼女の悲しい運命にデュシアンは胸を突かれた。
「ねぇ、北の公」
 人懐っこいような声色で呼ばれ、顔を上げる。青年は声色と同じように人懐っこい笑みを浮かべていたが、 どうしても親近感を持つ事が出来なかった。
「もし大切な人が目の前で死ぬと分かっていたら、君はどうする?」
「え?」
「君は父君が亡くなる前に≪転生≫の禁呪を持っていたら、それを使用した?」
 たたみ掛けるような質問に、心臓と時間を抉り取られたかのようにデュシアンの動きが止まった。
――≪転生≫の禁呪……
 目の前でどんどん衰弱していった寝台の上の父の姿が頭を過ぎる。迎えに来てくれた時の神々しいばかりの覇気はない。 抱きしめてくれた力強さもない。隣りに座って話を聞いてくれた豊かな表情も感情も見ることができない。 ただ青白い顔で眉間に皺を寄せ、か細い声で自分の名を呼ぶだけ……。
 あの時に、自分が思ったのはただ一つ。
 父を助けて欲しい、と。
――あの時に≪転生≫を持っていたら? 父様を助けられる力を持っていたら?

 なんて残酷で無慈悲な質問なのだろうか。絶対に使わない、と言い切れない自分が存在する。 今だって父に会いたい気持ちでいっぱいなのに。
 デュシアンは緩む涙腺を抑えながら口元に手を当てた。そうしなければ主神の教えに背いた言葉を発してしまいそうだったから――、 父への思いが理性を突き破って、感情のままに禁呪を求める言葉を口に出してしまいそうだったから……。
「もう一つ、聞いてもいい?」
 何故か次に聞かれる事が何であるのかが心の奥底で分かっているかのように、 そこは触れてはいけない領域だという無意識の警戒に身体が震えた。
「≪反魂≫を持っていたら、母君を甦した? ≪鏖殺【オウサツ】≫を持っていたら、 君の全てを焼いた彼等を、あの非道な領主や兵たちを、殺した?」

『触ってはいけない!』
 誰かのそう張り上げる声が聞こえ、身体が引っ張られた。
 目の前のソファには窮屈そうに横たわる女性が。
 胸の上で組まれた指。血の気のない青白い唇。閉じられた瞼。
――起きて、ママ
 ゆり起こそうと手を伸ばせば、誰かにもう一度引っ張られる。
 騒がしくなる外。
 慌てたように誰かがわたしを抱き上げて外に連れ出そうとする。
『お母さん!』
 女性が遠くなる。手を伸ばしても、もう届かない――。
 銀色の鎧を着けた兵士たち。
 血の匂い。
 真っ赤になる視界。

「ぃ――」
「ごめん。酷な質問だったね」
 青年はにっこりと、そう、にっこりと微笑んで、 顔を押さえて悲鳴を上げる一歩手前だった焦点の合わないデュシアンへと手を伸ばした。
「答えを貰うよりも先に、壊れてしまいそうだね。それはつまらない」
 細く長い指先が額に触れられる。
 するとどうした事か、まるで今そこで同じ事が起きているかのように鮮明に再生されていた記憶が霧のように消散していった。 喉元までこみ上げていた悲鳴も何故上げようとしていたのかもわからなくなる。それどころか、 今さっきの彼との会話内容すら思い出せなかった。いや、そもそも≪今さっき≫とは何時の事であるのか?
 青年の指先が静に離れていくと、デュシアンは、はっと息を飲んで顔を上げた。 一色だった視界が開け、闇色を纏う青年へと焦点を合わせた。
「え……?」
 今自分に何があったのか理解できず、デュシアンは白昼夢から目覚めたかのように視線を彷徨せた。
――今、何があったの?
 顔に当てていた両手を下ろして手のひらへと視線を落とす。
 ≪禁呪≫の説明を受けてから全く時間が流れていないはずなのに、 しばらく眠っていたかのようにぽっかりと空白の時間があったかのように感じ、 デュシアンは落ちつきなく瞬きを繰り返して口元を押さえた。
「過去には戻れない。今そんな事を聞かれても困るよね。 過去に戻る禁呪があれば良かったのだけれど、時の理だけは曲げる事ができなかったから」
 彼が何を言っているのか意味が分からない。自分は何か彼に質問をされただろうか。
 そんな疑問を顔に浮かべて首を傾げるデュシアンを、青年は至極残念そうに見下ろしていたが、 すぐにも気を取り直したのか満面の笑みを浮かべた。
「質問を変えるね。 君が最も愛した男が火竜の吐き出す業火に焼かれて死ぬと分かっていたら。君は彼を助けるために、禁呪である≪鏖殺≫を使う?」
「火竜の、業火?」
 具体的な話だが、どうも想像がつかない。
「その代わり、愛するものを助ける事と引き換えに、その場にいる見えうる限りの全ての命が失われるけれどね」
「え?」
「風は止み草木は枯れ、大地も水も腐る。太陽も月も祝福を忘れ、そこだけが世界から切り取られたかのように全ての色が灰色となる。 そしてその上に立つ君と君が愛する者以外の生き物は全て形すら残さずこの世界から消え失せるんだ。 まるで最初から存在しなかったかのように」
「……そんな恐ろしいものを」
「使うはずがない、と?」
「当然です」
 わなわなと震える唇で答え、頷く。
「人を殺すなんて考えられません。それに禁呪はカーラ様が禁じておられます」
「カーラの節理を守る、と。良い信仰心だね。カーラがそれに見合うだけの加護をくれると良いのだけど」
 含みのある言い方に、デュシアンは「この人もラウラ・ルチア派なのだろうか」と密かに身構えた。
「顔色が悪いね」
 急に指摘されて、驚いて頬に手を伸ばす。すると貧血のような眩暈を覚え、指先にびりびりとした痺れを感じた。
「瘴気が濃くなっているからかな。いくら防御壁があってもそろそろ戻って綺麗な空気を吸って休んだ方が良いかもね。 指先が痺れてくる頃合いじゃないかな?」
 彼の指先が軽く頬に触れられた。それはとんでもなく冷たくまるで氷のようで、自然と身震いが起きる。 本当に彫像が魔力を与えられて動いているのではないかと思える程の冷たい指先に背筋がぞっとして、 失礼だと思いながらもその指先から逃れるようにデュシアンは身体を半歩後退させた。
 そういえば、何時の間に彼はこんなにも近づいてきたのだろうか、手を伸ばせば触れられるこんな至近距離まで。 どうして接近する事を許してしまったのだろうか。――デュシアンは不安と驚怖に襲われた。
 この場から立ち去りたい。けれど自分は≪北の公≫であり、背中の≪北の守り≫を守る義務がある。 だがその気持ちに感情と身体がついていけない。
「この結界が心配? 大丈夫、君と話がしたかっただけだから。僕もすぐに帰るよ。 それとも僕が信じられない?」
 彼だとてここに入れるからには、何かしらの身分証明がある人間なはずだ。あまり疑っては彼の名誉を傷つけてしまう。 ここまで言われて引き下がらないわけにはいかない。
「いいえ。それでは、失礼致します」
 礼をしてから足を動かす前に、無意識に青年ともう一度視線を向けた。 彼はこちらと視線が合うのを待っていたかのようにじっと自分を見下ろしていた。
「今度会った時に、君が心から愛する男を見つけた時に、さっきの質問の答えをもう一度聞かせて欲しいな」
「え?」
「君が愛した男を助けるか、否かを。その時は僕の名前を、僕の事を思い出してくれていると良いのだけれど、ね」
 青年の言葉の真意は分からなかった。そしてどうしてか、その真意を悟ろうと思考を働かせるつもりにはなれなかった。
 頭がずきずきと痛む。まるで脳を掴まれたかのような気持ち悪さが喉を撫でる。 これ以上何か考えたくない。
 もう一度頭を軽く下げてから、逃げるかのようにデュシアンは足早にそこを後にした。



+     +     +



 乳白色に発光する蜜蝋の階段へと消え行く小さな背を見つめながら、青年は抑え切れない喜びに身悶えするように一人笑っていた。
 病的なまでに白い手が目にかかる前髪を緩慢な仕草でかきあげた時、 足元までしっかりと覆う闇色のローブの裾が風もないのに広がりをみせる。
「新しき北の公。今度は君に見せてもらうよ。苦悩し、足掻くさまを。人間の心の醜さと美しさを。カーラへの信仰と裏切りを」
 青年の薄い唇の端が一層楽しげに弧を描く。
「君の父君、アデルのように僕を楽しませておくれ」
 そう呟いてから、すぐにその形の良い眉が寄せられた。酷薄な口元の笑みを消して怪訝そうな顔を浮かべる。
「どうしたんだい? 戻ってきたりして」
 青年は虚空に話かけながら、靴音を響かせる事なく、また液体瘴気に波紋を作ることもなく数歩前に歩み出た。
「君はあるべき住処を離れているのだろう? 魔力をくれるあの人間と一緒に帰らなければ消滅してしまうよ?  君たちはそういう運命なのだから。そうだろう、シェーラ」
 まるで≪シェーラ≫と呼ぶ恋人が≪そこ≫に存在するかのように、青年は宙に手を差し伸べた。そこに誰かが存在するならば、 青年の手はきっとその者の頬を優しく愛撫するように撫でているのだろう。その目許は限りなく柔らかい。
「僕が君の名を知っているのが不思議なのかい?」
 青年は蟲惑的な表情を浮かべ、≪シェーラ≫を覗き込むように見つめた。
「そんな顔をしても駄目だよ。僕は君に何も教えない」
 まるで子どもをあやすような口調で意地悪そうに微笑んでから、名残惜しむようにゆっくりと手を引いた。
「……さあ、行きなさい。置いていかれるよ。彼女にはもう君が見えないのだから」
 先ほどまで触れていた何者かの温もりを確かめるように軽く手のひらを握りながら、 青年は一度も視線を一定の場所から動かさずに姿の無い何者かを促した。
「またね、シェーラ」
 彼には見える何者かの背を心底愛おしげに見送りながら、小さく甘い口ぶりでもう一度「シェーラ」と、≪彼女≫の名を呟いた。



六章 終

(2005.10.13)

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