墓と薔薇

6章 失われた記憶(2)

 一年の終わりまであと十日あまりに迫ったその日は、窓に霜花が咲くような寒い朝からはじまった。
 天日干しにしてあった果実を昨日の内に室内に閉まっておいて良かった、とのグレッグの呟きを 聞きながら、公爵閣下は日差しが強くなる前に庭の霜柱を踏み荒らしていた。ざくざくと薄氷の 砕ける音も感触も良いのだろうか。子どものように夢中になって靴底を泥で汚しにかかっていた。
 そんな無邪気で穏やかな朝を迎えた彼女は現在、冬まっさかりな首都カーリアとは全く切り離 された世界である≪北の守り≫内部に足を踏み入れていた。口笛を吹きながら嬉々として霜柱を 踏み歩いていた陽気なステップは何処へやら、≪蜜蝋の階段≫を昇る その足取りは枷でも付いているのではないかと思える程重かった。
 最上段まで昇り終えると一旦足を止め、息を整える。視界に広がる閑散とした広間である≪封印の間≫ の結界前面に、錚々たる面々が横一列に並ぶようにして立っているのが部屋中を飛び回る無数の 発光体越しに伺えた。
 彼等と共にここにいる。それがデュシアンの足と気を重くさせる原因であった。
 彼等は一様にしてこちらへ視線を向けている。その針の筵に座らされたような状態に、もっと 早く来るべきだったと後悔をしながらも、 デュシアンは決して怯んだ様子を見せないように背筋を伸ばして一直線に進んだ。
 こちらを見据えて立つのは、端からコーエン男爵にダグラス将軍、ウェイリード公子、アイゼン 公爵、ダリル将軍。結界部分中央をぽっかりと空けて――つまりは≪北の公≫の為の場所であるが―― 神殿騎士団の長に正規騎士団参謀、それから面識の無い神殿関係者と思われる二人の老神官、 ビアシーニ枢機卿、 協議会出席者で子爵でもあるドーミエ司教、と並んでいた。見知った者たちへは軽く会釈をし、 別段時間に遅れたわけではないのだが、一番遅くに入室した事を軽く詫びた。
 それから見覚えのない老人たちへと身体を向けると、彼等に失礼に値しない程度の簡素な自己紹介を する為に軽くこうべを垂れた。
「デュシアン・ラヴィンです。お初にお目に掛かります」
「元老院の議員、大司教マウリシオ・マウロです。お噂はかねがね」
 齢六十はとうに過ぎているだろうマウロ大司教は皺で刻まれた艶々の頬を上げて微笑むと、こちらの 手を優しい手つきで取った。銀と青の糸で豪華な刺繍が施された縦長の白い帽子をかぶっていた為に、 身分の高い神殿関係者である事は推測できたのだが、それと同時に元老院の議員であるとは 思いもかけない事だった。デュシアンは驚きと緊張に 息を飲んで硬直してしまったが、すぐにも微笑むと動揺を掻き消した。
「わたくしも同じく議員の高司祭シメオン・レハールと申します。お会いできて光栄です、ラヴィン公」
 マウロ大司教の横に立つ、赤と金の糸で微細な刺繍が施された白い帽子を被る恰幅の良い司祭が 手を胸に当てて頭を下げた。
「レハール高司祭様。お誘いを無碍とした先日のご無礼、お許し下さい」
 デュシアンは謝辞を述べて、丁寧にお辞儀をした。
 元老院の議員の夫人から数度、茶会などの席に誘う文があった。それを、父の喪に服している という理由を綴った文面で失礼の無いよう断りをいれてくれたのはイリヤだったが、記憶違いで なければ伯爵でもあるレハール高司祭からも誘いがあったはずであった。
 お会いできて光栄――との言葉は嫌味ではないはず。デュシアンは心の中で苦笑した。
 レハール高司祭はどうやらこちらが覚えていた事に気を良くしたのか、ふさふさした白い眉毛を 軽く上げると神経質そうな表情を和らげて、手を差し伸べてきた。
「年始にあるセレド殿下の成人の儀にはご出席なされるのでしょうか? 是非その後の祝賀会にて お話賜りたいものです」
 デュシアンには、曖昧に微笑んで握手に応える事しかできなかった。
 面と向かって誘われれば断るのも難しい。それに父が亡くなって もう五ヶ月近くになる。個人的な喪ならばいつまで続けようが自由であるが、公の人間がいつまでも 喪に服しているとの理由で、公式の場に顔を出さないのはきまりが悪い。
――セレド王子の成人の儀。これを期に、腹をくくるかな……
 少しは礼儀作法もまともになってきたはず。一番問題と思われる社交性は言うなれば度胸だ。 場の雰囲気に身を浸して徐々に養っていくしかないだろう。
 デュシアンは小さく息を吐いて気合を入れた。

 挨拶を終えて≪北の公≫の為に空けられた位置、つまりはダリル将軍と神殿騎士団長との間に 収まる。誰一人言葉も発せず物音も立てないという重苦しい雰囲気の中しばらく待つ事になり、 耳に痛い静寂が続いた。
 息も殺すようなその空間の助け舟となったのが細く高い靴の踵の音だった。
「へぇ、こんなになってるのね」
 鈴の音のような声が靴音と共に弓なりに反った高い天井に響き渡る。その声と音の主である彼女が これだけの面子で迎え入れる事となった今回の主役である。 カーリア唯一の闇魔法行使者であり、≪禁呪の魔女≫と呼ばれて疎まれている リディス・フォスターだ。
 ここに来るまでに神殿へと足を踏み入れる事へ配慮したのか、いつもの黒い外套では なく濃茶の外套を羽織り、顔が見えないくらいフードもしっかりと深くかぶっている。故に ≪魔女≫と呼ばれる外見的要素は全く欠けていた。
 彼女は左右をお目付け役であろう円卓騎士のグリフィスとシーンに挟まれて、靴音を響かせながら 物怖じする様子も見せずに堂々と歩いてきていた。
 今回のこの物々しい面子がこの場に会したのも、リディスがここへ入室し、闇属性の魔法を行使 する事となった為。 万が一の場合に備えて、≪北の守り≫の責任者たるラヴィン公爵家アイゼン公爵家両家 の人間だけでなく、犯罪者ではない≪危険人物≫であるリディスを捕縛、殺傷令を出せる円卓騎士、 それから見届け人として名を挙げられた数名が入る事を余儀なくされたのである。
 そうまでしてリディスをここへ入室させる理由は一ヶ月程前に結界へと亀裂を入れた犯人を 特定する為である。その魔法は闇の精霊の力を借りる闇魔法。倫理上も事実上も リディスしか使用できない魔法なのだ。
 ウェイリード公子に北の守り崩壊容疑がかかっていた時はこの魔法の行使は≪元老院≫の許可が 下りずに円卓騎士団がヤキモキしていたのだが、どうやら最近になって許可が下りたという。 著しくはブラウアー子爵がこのことに関しても自供をはじめたからだ、という理由であるが、 ラシェが聞いた話ではウェイリード公子へあらぬ容疑をかけた事に怒った宮殿側のさる大貴族が 元老院に圧力をかけたとか、≪ラヴィン公爵殺害未遂事件≫によって浮上した≪北の守り≫へ入室する 資格を持つ者のラインの甘さへの批難が相次ぎ、事実解明への手がかりをとにかく望んでいる など、――色々噂はあれど。兎にも角にも子爵の容疑を確定する為に、こうした場が設けられた のである。
 空気の飽和から漏れて液状化したと思われる液体瘴気の上を、ふくらはぎに纏わりつく外套を 捌きながら歩み寄って来た均整の取れた足が結界前面、一堂の目前で止まった。
 目の前に来たリディスに挨拶をしようと表情を和らげて口を開きかけたデュシアンは、フードの中の リディスの目がこちらの行動を制止するように細められたのを見て言葉を飲み込んだ。
 視線を交わす二人だけが分かるぐらいの小ささでリディスは首を振る。そして、偶然視線が合って しまった見知らぬ他人から視線を外すかのように白々しくも目を逸らした。
 呆然とするデュシアンを後目にリディスは何事もなかったかのように深く被っていたフードを 外すと乱れた髪を軽く撫で付けた。
「闇の精霊の力を借りるから、下がってて」
 皆が左右に散ったことを確認するとリディスは漆黒と世界との境目である結界壁にそっと手 を伸ばした。
 彼女と挨拶を交わす事も許されないのか。デュシアンは言い知れない苛立ちを感じながら、 目を閉じて精神を集中させているリディスを見つめ続けた。そうしていると、だんだんと奇妙な感覚に 襲われはじめる。最初は気のせいだと思っていたのだが。
 眩暈、吐き気、悪寒――それらに軽く身体が震える。
「もう少し離れた方がいい」
 そんな囁きと共に強い力で腕を引かれた。急な事だったので身体がよろけ、引いてきた相手の 身体に軽くぶつかってしまう。しかしよろけた身体を支えてくれた胸元は思った以上に引き締まって いて、自分が凭れていてもびくともしなかった。それに驚いてつい顔を上げてしまうと、とんでも なく至近距離に心配げに軽く眉を寄せた彼の顔があった。
「大丈夫か?」
 こちらを一心に見つめる双眸、囁かれた声色と軽くかかった吐息、身体に感じる男性らしい 感触。それらに対して恥ずかしさと体の芯の疼きを覚え、謝罪の言葉もそこそこに慌てて身体を 離した。
――心臓が痛い
 今度は動悸に襲われ、額に浮かんだ汗を拭いながら息を整えた。
 一体自分はどうしてしまったのだろう。胸元を軽く押さえながらそんな事を考えていると、 先ほど感じた眩暈などの嫌な感覚が失せている事にはたと気がついた。そうしてやっと 彼に引っ張られた理由を理解した。つまり、リディスに近すぎたのだ。
 彼女の周りには今、夥しい量の闇の精霊の力が渦巻いている。先ほどの感覚はその力に 身体が拒否反応を示したものなのだ。闇の精霊の力を借りた魔法は≪カーラの子ども≫である≪人間≫には 相容れないもの。だからこそ事実上、闇の魔法は≪禁呪≫の恩恵を持つ 彼女しか扱えない。そして倫理上、≪普通≫の人間は使用してはいけないものなのだ。

「きゃ!」
 しばらくしてから、何かしらの力に弾かれたのか、リディスは身体を仰け反らせると均衡を崩して 倒れこみそうになった。一番近くにいたデュシアンは咄嗟に駆け寄ると、その腕を取って彼女を 抱えるようにして支えた。
 彼女の下は液体瘴気。そこに膝をつけるなど可哀相だ。そう思ったのは腕を掴んだ後で、つい 反射的に身体が動いてしまったのだが、もちろんそれを後悔するはずもなかった。
 ただ不思議な事に、彼女の体に触れてから何かぴりぴりと嫌な感触が身体を駆け巡り始めていた。 耐えられない程のものではないが、耐えたいとは思えない身悶えするような痺れを与えてくる 衝撃だ。
 その不快さに眉をしかめていると、はっと瞳を見開いて顔を上げたリディスと目が合った。
「駄目よ、離して!」
「リディス殿?」
 彼女は慌てたように身を捩って叫ぶ。けれどデュシアンは訝しんで彼女を見つめ返す事 しかできなかった。当然手を離すつもりはない。自分が手を離せば彼女が 床に膝を付けてしまう事は彼女を抱きとめているからこそ良く分かる。彼女の膝からは完全に 力が抜けてしまっているのだから、離せるはずもない。
「離して、反発を受けてるんでしょう?!」
 リディスは真っ青になって暴れるようにデュシアンの手を振り払おうと必死にもがいていた。 デュシアンはそんな彼女を持て余しながらも支える手を退けようとはしなかった。
「お一人では――」
「禁呪の魔女などに触れては御身が穢れます」
 リディスを諭そうとしたデュシアンの頭上に、冷たくもきっぱりとした 口調の言葉が降って来る。見上げれると、何時の間にかすぐ横に立っていたビアシーニ枢機卿 と視線が交わった。
 枢機卿は呆気に取られているデュシアンの腕を掴むやいなや、リディスから強引に手を離させた。
 そのせいでふらついたリディスの体が地に崩れそうになるも、寸でのところでグリフィスが彼女を 抱きとめる。その光景にほっと息をつくと、デュシアンは自分の腕を掴む枢機卿をもう一度見上げた。
「ビアシーニ枢機卿?」
 あまりに強引且つ無慈悲な彼に批難の感情を込めた視線を向ける。しかしビアシーニ枢機卿は いつもの微笑も浮かべずただ感情の読めない綺麗だが能面のような顔で静かにこちらを見下ろして いるだけだった。その彼の様子にデュシアンの背筋は粟立つ。
「カーラ様のご加護のあられる貴方がこのような汚らわしい魔女に触れてはなりません」
 まだこちらの腕を力強く掴むビアシーニ枢機卿のそんな言葉に、デュシアンは かっとなって彼の手を思いきって振り払うと一歩後退した。
「そのような仰りよう、あんまりです!」
 枢機卿ともあろう人がなんという事を言い出すのだろうか。デュシアンの表情が怒りと不快さに 震え、歪んだ。
 しかし枢機卿の表情はぴくりとも動かなかった。こちらの反応など全く歯牙にも掛けないように。 彼のきっちりと着こなされた礼服や綺麗に後ろに流された金色の髪のように反論の隙も与えない 冷たい視線にデュシアンはやはり言いようの無い不気味さを覚える。
「枢機卿の仰るとおりです、ラヴィン公」
 枢機卿に同意の声を上げたのは協議会出席者である神官家当主のドーミエ司教だった。彼の声に 枢機卿の異常なまでの表情に釘付けられていた意識をやっと取り戻す。
「その者は本来ならば生まれ出でたすぐ後に処分されるはずだった者。それを力のあった生家に守られ、 卑しくも生き長らえている、視界に入れるのもおぞましき悪神の子。ラヴィン公爵 であられる貴方はそのような者を庇われるのですか?」
 彼はさも当たり前だと言わんばかりに得意気に、丸い鼻を上げてそんな事を語った。
「どうしてそのような酷い事を、貴方がたのような聖職者が仰られるのですか?!」
 人の上に立つものが人を蔑むような言葉を平気で吐くからこそ、迫害は収まらないのだ。 彼等のような聖職者が率先して差別廃止を訴えていくべきであるのに……。
 デュシアンは腹立たしさに頭の中を沸騰させながら、聖職者の資質の在りように深い疑問を持った。
 そんなこちらの反応に、ドーミエ司祭は嘲るように小皺の寄った口元を歪ませた。
「そういえば確かご貴殿は神学校に通っておられなかったはず。それならばそのような無知も 致し方ないのでしょう。宜しければ私が教義をご教授致しましょうか? いくら主神の加護が あろうとも、道を誤れば意味が無い」
「教義よりも大切にしなければならない事もあります。貴方の教授はお断り致します!」
「倫理は教義の上に成り立つものです。教義を学ばずしてこの世の倫理、理は語れはしますまい。 いいですか。主神は≪禁呪≫を認めなかったのですよ。だからこそ悪神は討たれた のです。禁呪は悪。それに関わる者は全てこの世界から誅殺すべきなのです」
「誅殺……? 一体彼女に何の罪があると言うのですか?!」
「≪禁呪≫に関わった、という罪ですよ」
「彼女は普通の女性です! 他の人と何一つ変わりない――」
「ラヴィン公!!」
 デュシアンの言葉を遮ったのはリディスだった。視線を向ければ彼女は怯えたように、支える為に 身体に回されたグリフィスの腕を強く握り、どこか悲痛そうな表情で首を振っている。
「リディスどの?」
「わたしの事はいいから」
 だから止めて。言い返さなく良いから。わたしに関わらないで。
 目からそんな言葉が伝わってくる。首を振る彼女の必死な表情にやっと大切なことを思い出した。 あまり自分が肩入れすれば彼女に何か不利益なことがあるかも しれない事を。彼女を擁護すれば彼女の命を脅かす。自分にはそれを止める手だてがないのに 悪戯に禍の種を蒔いてはいけない。デュシアンは拳を握り締めて主張を飲み込んだ。
――ずるい。命を楯に、反論を許さないなんて!
 悔しさに唇を噛み締める。じわりと瞳の淵が滲むが、すぐにも何を泣こうとしているのだと 自身を奮いだたせるように叱責した。
「さて、私はリディスの周りの精霊たちをどける処置をするので、これで失礼させて頂きます。 結果は後日改めまして報告させましょう」
 張り詰めた空気を崩したのはリディスの師でもあるダグラス将軍だった。顎鬚を撫でながら 穏やかな笑みを浮かべられると、先ほどの諍いが虚構の出来事であったようにすら感じられる。
「グリフィス。悪いがそのままリディスを連れて行ってくれるかのう?」
「そのつもりです」
「ちょ、ちょっと、どこ触るのよ!」
 グリフィスは軽く腰を屈めてリディスの脇の下と両膝裏へと腕を回すと、ひょいと簡単に 抱き上げてしまった。リディスは可哀想なぐらい真っ赤になって、彼の長い髪を引っ張ったり 肩を叩いたりして暴れるが、グリフィスは優しげな目許を細めて困ったように笑っているだけで あった。
 若い二人を背にしながら老将軍はちらりとデュシアンを見やると、 微笑みかけてくれた。そんな将軍の配慮に余計に涙が滲み、デュシアンは将軍へ謝辞を込めて瞳を 伏せる。
「では我々も戻る事としましょう。ラヴィン公の邪魔をするわけにはいきませんしね」
 気遣わしげにこちらへと視線を向けていたコーエン男爵は他の者たちをそれとなく誘導し はじめてくれた。
 ビアシーニ枢機卿もドーミエ司教もこちらへ何も言う事もなく背を向けて去ってしまう。 やり切れない思いが胸を焦がすので、彼等が居なくなるのを俯き加減で見守った。
 自分にはこれから≪北の守り≫に異常が無いかを視察をする仕事がある。気持ちを切り替えろ、 デュシアンは頭の隅で自分を叱り付けた。
 全ての足音が≪蜜蝋の階段≫の方へと消えていくのを耳にして、そっと顔を上げてみる。 すると、思いもかけずダリル将軍だけが二十歩程離れた所で足を止めてこちらを振り返っている姿を 認めた。
 彼は後ろをちらりと見やり、皆が蜜蝋の階段階下へと完全に消えて行くのを確認すると、 話しやすいようにか数歩前に歩み出た。
「……はめられたようですね」
「え?」
 言葉が聞こえなかったのではない。意味が理解できなかったのだ。
 デュシアンが首を傾げると、ダリル将軍は逡巡するように顔ごと視線を逸らしてから息を吐き、 こちらへもう一度顔を向けた。
「マウロ大司教とレハール高司祭は二人とも神殿上層部の権力者であり、 人権擁護派です。リディスの命があるのもあの二人が力を注いでくれたからこそ。 純信者ではない彼等へ印象付けに成功してしまったようだ」
「え……?」
「貴方の気性を理解して誘導したのです。彼はそういう男だ」
 最初ダリル将軍の言わんとするところが分からなかったのだが、やっと繋がる記憶に辿りついた。 彼は法皇選出について語っているのだ、と。
 二人への印象付け、とは人権擁護派の前でのリディスを庇うという言動を指しているらしい。 つまりは、彼女を庇うように誘導した人物がダリル将軍の言う、自分を法皇にしたいと思っている 人物だという事となる。
 先ほどリディスを庇う為の発言をこちらに口にさせたのは二人。ビアシーニ 枢機卿とドーミエ司教だ。しかしドーミエ司教はあからさまにこちらを見下し、好いてはいない ようだった。教義も知らぬ者に法皇になってもらいたいなど微塵も思うわけはないだろう。 言動もどこか過激であったし。
「ビアシーニ枢機卿、の事ですか?」
 ダリル将軍は微笑むだけでその質問には答えてくれなかった。けれどそれが答えで あるかのようにも思えた。否定もしないのだから。
 しかし枢機卿は現法皇の右腕で、教義に従順な純信者たちのカリスマとも言われている人物だ。
――ラシェが言ったように、枢機卿は≪とんでもない狸≫なの……?
 疑問は深まるばかりだが、ダリル将軍は静かに黙っているだけだった。
――自分で見極めろ、て事かな?
 諦めて一旦息を整えると、デュシアンは自身の見解を主張する為に顔を上げた。
「ラウラ・ルチア派の思想はわたしには理解できません。彼等がわたしを法皇に推しても、例えわたしが法皇に なっても、わたしは彼等を優遇するような気持ちにはとてもなれません。わたしを法皇にしても彼等には 得などありません」
「そうではありません」
 ダリル将軍は鼻筋に皺を寄せて、楽観視はするな、と言わんばかりに怖いほど真剣な表情を 浮かべた。
「彼等が貴方を法皇にするのは、別に貴方に自分たちの擁護を求めての事ではない」
「――では?」
「彼等が求めるのは、≪樹木の精霊≫を傍に置く者を法皇に据える事です。法皇は主神の化身と される故に、≪光の精霊≫を傍に置く者の中から選ぶのが慣例です。しかし法皇が 光の精霊ではなく樹木の精霊を傍に置くとなれば、≪主神≫とは一体誰を 指すのかが曖昧になる。アリューシャラを主神としたい彼等はそれを狙っているのです」
「けれどそれならばわたしを法皇に推すのは無理なのではないのですか? 慣例をやぶってまでわたしを 法皇になどできるのですか?」
「確かに貴方は本来ならば法皇に選ばれるはずのない人種です。だが 貴方には≪カーラの加護≫を受けたという実績がある。それは光の精霊を傍に置く者と同等、 若しくはそれ以上の存在に当たるようです。ですから純信者たちも貴方が法皇となるのに 異論はないはずです」
「でも、例えわたしが法皇になっても、カーラ様を主神と崇める人々がカーラ様を蔑ろにしたり するでしょうか? アリューシャラ様を主神にだなんて……」
 二人の間を一際大きな発光体が横切った。二人はそれに気を取られる事なく、まるで 睨み合うように互いだけを見つめていた。
「『人の心は脆くうつろいやすい。だからこそ美しく醜い』」
「え?」
「悪神フェイム=カースの言葉です。この言葉が示すように、人の心はうつろうものです。 そしてそうした者たちが作り出す時代の流れも世論もうつろいゆくもの。五百年前に ラウラ・ルチアの提唱が受け入れられなかったのは時代のせいです。あの頃は人々はまだ悪神に 怯え、純粋に教義を守っていた。けれど現在はどうでしょう? 悪神や北の守りへの関心は薄れ、 教義を頑なに守る者は限られている。人々の心がカーラ神教自体から離れている。そんな中、 強い力で主張されれば主神をも乗りかえる風潮となる可能性は五百年前よりは高いはずです」
「そんな……」
「例えば、カーリア人の商人たちにとってはラウラ・ルチアの提唱は都合が良い話なのです。 カーラの理である精霊信仰に縛られているせいで、 船を外洋に出す事も、アリアバラス海峡を南下する事も出来ないでいます。けれどカーラへの信仰を 止めれば付随した精霊信仰も無くなり、憚る事なく船を他大陸へと繰り出せるようになる。高い 貿易商品をイスラフルの商人から買う必要もなくなる為に買い手もそれを望むでしょう。そして アリアバラス海峡を南下出来るようになれば流通の便も良くなります。首都からレムテストまで 数刻で着いてしまう」
「……良い事づくめ、ですね」
 デュシアンは細波を作り出す液体瘴気に浸かる足元へと視線を落とした。玄武岩のような暗灰色の 床石を透かす透明な銀色の水面に宙を幻想的に飛び回る発光体の光がちらちらと映るのが目に眩しい。
「けれど……、明かりも、室内を暖めてくれる暖炉も、温室も氷室も、精霊の力を借りているもの なのにそれで良いのでしょうか? 精霊への感謝の気持ちを忘れても、無くしてしまっても、 良いのでしょうか?」
「……私を含む多くの人々は魔法を使用しない為に日ごろから精霊へ感謝をする、という 習慣は無きに等しいです。だからこそ、精霊が私たちへ力を貸してくれなくなればカーリアでは 生活が出来なくなるという危惧を持ち合わせている者は少ない。それに魔法や精霊に頼らない生活を 送るイスラフルなどで使われている代用品を輸入したり、その鋼の技術を学べば良いではないか、と 考える事もできます」
「そうなれば、ますますラウラ・ルチア派にとっては都合が良くなりますね」
 デュシアンが寂しげに微笑めば、ダリル将軍も軽く頷いた。
「貴方が法皇になればラウラ・ルチア派は勢いを増し、表舞台に出てくるでしょう」
「……ならば余計に法皇にはなれません。わたしは魔法じたいは――好きではないのですが、 精霊は自然と共に、尊重するべきものだと思います」
「そう思われるのでしたら、今後は発言にはもう少しご注意を。ラウラ・ルチア派の人間は 神殿上層部慎重派の印象を良くする為にわざと貴方を煽る事もあるかもしれませんので」
 ダリル将軍が心配をしてくれているのは嬉しいのだが。
――リディス殿を放っておけば良かった、っていうの?
 どうも先ほどのビアシーニ枢機卿やドーミエ司教とのやりとりで神経が尖り、敏感になっている らしい。ダリル将軍の言葉に心の中で噛みついた。
―― 一言でも良いから、ダリル将軍には彼女を守る言葉を発して欲しかった。父親らしい面を 見せて欲しかった。言わせっぱなしだなんて……
 自分の父は全てから自分を守ろうとしてくれた。その父と比べたら……。
 ダリル将軍は本当に彼女の父なのだろうか。ただ≪危険人物≫を保護する目的のみに傍に置いている のではないか。あそこまで言われたら怒りに打ち震えたりしないのだろうか?  さまざまな疑問が浮かんで自分の事のように悲しくなってきた。
「あのような事を言われて黙ってなどいられませんでした。――いいえ、黙っていて良い とは思えませんでした。黙っていたら肯定しているのと同じだと思います」
 自分でとても刺々しい口調だと自覚していた。けれど自分に置き換えて考えてしまった 為に、どうしても抑えられなかったのだ。
 この若さで一騎士団を率いている将だ。こちらの意図は伝わっているだろうに、ダリル将軍は それを容易く受け流しているようで、涼しい顔は変わらなかった。
「あの子は私が庇ってやらなければならない程、弱くはありません」
 当たり前のようにそう述べられれば、胸がずきりと痛んだのはデュシアンの方だった。 娘を守らぬ情の薄い父親は彼であるのに。責められるべきは彼だと思っていたのに。 それなのに罪を感じたのは自分であった。
 ダリル将軍の瞳がこちらを射ぬくように向いている。こちらがその言葉に 衝撃を受けているのを分かっているのだろう。
 彼は知っているのだ、自分が父にずっと守られていた事を。自分は守られ、庇われなければならない 程弱い存在であった事、を。
 感情に任せてダリル将軍を責めた愚かさにデュシアンは恥ずかしくなった。無意識にアミュレットへ 手を伸ばそうとしている自分に気づくと、拳を握ってその手を下ろす。いつまで頼る気だ、と。
「力無き理想は愚の骨頂です。思い描く理想に見合った働きも力も持たず、 まして自分すらまともに守れない貴方が綺麗事を語っても、彼等には世間知らずの戯れ言だと 一蹴されるだけ。今の貴方では、動かさなければならない者の心は動かせはしない」
 瞬きも忘れたデュシアンに、更に追い討ちがかかる。
「貴方の行為は傷口を抉るだけに過ぎない」
 息を吸い込み過ぎて肺が破裂するかと思った。入り過ぎた酸素がかえって息苦しさを与えてくる。
 自分の失態にやっと気がついたのだ。

『生まれ出でたすぐ後に処分されるはずだった者。それを力のあった生家に守られ、 卑しくも生き長らえている、視界に入れるのもおぞましき悪神の子』

 助けられもしないのに庇ったせいで、余計に彼等の論議に火をつけ、リディスの前で彼女に対する 酷い言葉を誘発してしまったのだ。結局こちらの言葉など彼等は聞いてはいない。 最初から聞く気がないのだから。端から自分に対して世間知らずと括っていたのだから。
 彼等を諭そうとして、逆に教義を語られた。自分の力無い擁護が彼女をかえって傷つけたのだ。
――なんて事をしてしまったんだろう……!
 良かれと思っての事だった。彼女を庇いきれると思っていた、奢っていた。デュシアンは手のひらで 口元を覆い、わなわなと肩を震わせ、視線を落とした。
 酷いのはビアシーニ枢機卿やドーミエ司祭ではないのだ。彼女の前で彼等と無駄な口論をした自分 なのだ。
「――それでも、私は貴方のお気持ちは嬉しかった」
 驚く程優しい声色に顔を上げると、先ほどの厳しい言葉とは裏腹なとても優しい表情をダリル将軍は 浮かべていた。視線が交われば、父に似た優しい笑みをくれる。そして彼は優雅にこうべを垂れた。
 呆然と立ち尽くすこちらを残して、ダリル将軍は外套を翻して蜜蝋の階段へと消えて行った。

――説教、だったのかな……
 しばらくしてから止まっていた思考が動き出した。ダリル将軍の言動を反芻して、そんな風に 感じる。
 厳しい言葉は至らないこちらに対して怒ったわけではなく、娘を傷つけられて腹を立てたから でもなかった。
 こちらが気づけていなかった至らない部分を彼は指摘してくれたのだ。同じ過ちを繰り返さないように、 もっと冷静に状況を判断するように。
 だから最後にダリル将軍は微笑んでくれたのだろうか。
――きっと、そうだ
 胸一杯に空気を吸い込み、そして静かに吐き出す。こそばゆさを感じて口元が笑みの 形を象る。
 あのような厳しい事を甘い言葉に包まず助言してくれる人など傍にはラシェぐらいしかいない。 甘やかされてきた自分にはラシェの強引な教育方法やダリル将軍の説教ぐらい 厳しい方が最適なのかもしれない。
「もっと、がんばろう」
 様々な思いを秘めて、小さく、けれど力強く頷いた。


――どこにも問題なし、と
 ≪北の守り≫の構造部分から意識を手放して現実へと戻った瞬間、デュシアンは激しい動悸に 襲われた。緊張に額と背筋に汗が吹き出る。
 何か強烈な気配を身近に感じるのだ。
――傍に――、後ろに誰かいる!
 そう思った瞬間、心の中で数を数えて自分を追い詰め、気配のある方向へ一気に身体を振り向かせた。
 視界に映りこんだのは一人の青年。十歩ほど離れた位置だが、強烈な存在感を与えてくる全身が 漆黒で覆われた男が彫像のようにそこに立っていた。
 心臓は最高潮の早鐘を鳴らし、血管を破ってしまうのではないかと思う激しい血流がどくどくと 耳に響く。
 一歩下がって男から距離を取った。

「こんにちは、北の公」

 こちらの緊張など気にもせず。男は楽しげに微笑んでいる。
――だれ?
 見覚えのない男であった。ブラウアー子爵の事もあってか、どうしても身構えてしまい、 いつでも駆け出せるように軸足に力を入れて、彼を観察した。
 長い漆黒の髪は肩で止まる事なく均等な広がりと美しさを持って腰まで伸びている。笑みが浮かぶ その顔は今まで出会ってきた人間の中で一番美しいと思える造形だ。まるで世界一の彫刻家が 美神を丹精こめて彫り込んだ彫像のような、見事なまでの美しさなのだ。一度見たらきっと忘れる事は できないであろう完璧な容姿を持つ。
 多くの女性を一目で恋に落ちさせてもおかしくないぐらい夢のような美青年 であるのだが、どうしてもその男から肉体の暖かみが感じられず、まるで彫像そのままであるよう に思えて、デュシアンは心を奪われる事はなかった。
「貴方は……?」
 そう聞けば、男の目が細まった。笑っているのか、残念に思っているのか、怒っているのか。 よく分からない表情になる。
 男のその反応に得体の知れない恐怖を覚え、唾を飲み込む音が鼓膜を震わせた。


(2005.9.29)

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