墓と薔薇

6章 失われた記憶(1)

 神殿内に設けられた≪北の公≫の執務室では現在、 部屋主であるデュシアン・ラヴィン公爵とその従兄ラシェ・シーダス卿が各々静かに本と資料を読み耽っていた。
 デュシアンはすっかり整頓された執務机とセットになったお気に入りの木椅子を窓辺に持っていき、 金剛石に反射したような眩しい光を背に浴びながら本の文字を真剣に追っていた。 集中力散漫な彼女にとって本はあまり得意なものではない。それなのに最近では好んでは絶対に読みはしない 最も集中力を欠けさせる軍事的な本を次々と読み漁っていた。それもこれも公爵としての知識向上の為。 彼女なりの精一杯の努力である。
 しばらくしてキリの良い所まで読み終えるとデュシアンは何とはなしに顔を上げ、こちらに背を向けて長椅子に座り、 様々な資料を黙々と読んでいる従兄の背を眺めた。
 細身だが長身で肩幅も広く、柔軟性と瞬発力に富んだ締った体つき。余計な筋肉も贅肉もない理想的な体だが、 騎士と比べれば肩も胸板も腰も薄い。しかし侮るなかれ、彼は日々の鍛錬の賜物なのか、 騎士顔負けのとんでもない体力の持ち主なのである。
 それを身を持って知らされたのは先日。ラシェに魔法の手解きを頼んだ事にはじまる。 デュシアンはブラウアー子爵の攻撃的な魔法に恐れ慄き体も心も固まってしまった事を悔しく思っており、 ウェイリード公子の勧めもあってラシェに訓練を頼んだのだ。 しかし彼は魔法を見せてくれるどころか自分がこなしていると思われる厳しい訓練の数々を課してきたのである。
 彼曰く、魔法はいかにして避けるか、が重要な事らしい。遺跡にかけられた数々の妨害魔法から身を守る為には反射神経が必要で、 無ければ無傷で外に出れる保証はないそうだ。だが反射神経とはそう簡単に養われるものでもなく、 あっても体が反応できなければ意味がない。 だからまずは基礎体力を増やせと言われ、母がハンカチを握り締めて応援する中(基本的に母はラシェのやる事に疑いを持たない)、 腹筋と腕立て伏せ、走り込み、体術の受身などをさせられた。
 裏庭に敷いた敷物の上で投げ飛ばされている自分を屋敷の窓から見たイリヤが髪もクラヴァットも乱しながら、 猛烈な勢いでその場まで走ってきて、自分を庇うような姿勢でラシェと言い争った最後、 「お嬢様を遺跡探求者にでもなさるおつもりですか?!」と諌めてもらわなかったらもっと酷い目にあっていただろう。
 だがラシェにしてみれば、今まで魔法を覚える事にあまり積極的ではなく寧ろ嫌って拒んでいた従妹が 「魔法に慣れたい」と言ってきた事が驚きであり、嬉しかったらしい。 イリヤの剣幕にいつもの毒舌も発せずきまり悪そうな表情でそんな心中を語られれば、 次の日の凄まじい筋肉痛も恨み言零さず我慢せざるを得ないだろう。
 少し張り切り過ぎただけなのだ。彼の頭に初心者コースが無かったのが禍いしただけ。 人にも自分にも厳しい彼らしい教育方法であったが。
「何だ?」
 頭の後ろに目でも付いているのだろうか。デュシアンはラシェのはったりに戦々恐々と身体を震わせながら首をぶんぶんと横に振った。 こちらが見えるはずもないラシェの背に非言語的方法を用いても伝わらないとは分かっていながらも、 先ほどから見ていた事を分かっていたような彼になら伝わりそうな気もする。
「えーと、あのー」
 何か話題が無いかな、と頭を捻る。ただ見ていた、と言っただけではきっと彼を不快にさせるだけだ。 彼が不快になればこの重苦しい雰囲気をもっと重くしてくれる。 それは勘弁願いたいことである。
 何かなかったか。記憶を辿っている内に、最近耳にした聞きなれない言葉を思い出して「これだ!」と拳を握り締め、 本を持って立ち上がるとラシェの前の長椅子に対面するかたちで座った。
「あのね、ラシェ。ラウラ・ルチア派って何?」
 眼鏡の奥の赤茶色した鋭い瞳でこちらをじろりと一睨みされた。彼は性格のきつそうな――実際性格もきついのだが―― 吊り上がり気味の目を持ち、目つきもあまりよろしくないので、睨んでいるつもりはなくてもどこか怖いのだ。 その視線の鋭さについ植物園にいたイスラフル種の大型の蜥蜴を重ねてしまうが、 もちろんそんな事を口に出したりするようなヘマはしない。言った途端に頬っぺたを思いきり引っ張られるのが目に見えているからだ。 思った事をそのまま口に出してしまう性質のせいで幾度と無く引っ張られた経験が、彼への軽口を塞いでくれる。 つまりは学習した、という事だ。
 反射的に頬を手で守りながら、会った当初は彼と目が合っただけで泣きそうになっていた事を思い出した。
――この目が怖くなくなったのって、レセンも怖いって思っているって暴露してくれた時だよね
 あの頃のレセンはすごく可愛かった。柔らかい金髪にくりくりの青い目、ふっくらした頬っぺたにちょっと拗ねたように尖った唇。 記憶の中にしっかりと残る十歳ぐらいの弟を思い浮かべて、デュシアンはしばし現実から遠ざかって呆けてしまった。
「ラウラ・ルチア派とは五百年前の法皇ラウラ・ルチア一世が就任11年目に提唱した異説に賛同する者たちの派閥だ」
 低めの声に現実に戻される。 質問をしたのは自分なのに、記憶から引き剥がされてデュシアンは少し残念な気分になりながら意識をラシェへと向けた。
 彼は手元の資料を手前の卓に放ると眼鏡を外し、しばしばした目を親指と人差し指で擦った。眉間の皺が深い。
「興味ないなら話さないが?」
「ご、ごめんなさい」
 ラシェは疲れている。この数日の出来事を思いだし、申し訳なさそうにデュシアンは項垂れて謝った。
 ダリル将軍が言ったように、文書と金印紛失を公表してもコーエン男爵に呼び出しを受けて詳細を尋ねられたぐらいで、 神殿上層部の召喚は今の所だが無かった。これからもそれは無い、と思われる。その根拠は事務方の手続きにあった。
 デュシアンは公表した次の日に厚顔と思いながらも神殿の上層部事務方に、ラシェを補佐に回す事を打診したのだが、 それがすぐにも承認されたのである。これは即ち、デュシアンが引き続き公爵を務めることに何ら異論は無い、 と神殿が判断した事と同義語なのだ。
 そんな訳で、ラシェから遺跡研究という仕事を取り上げる事態とならなくて良かったと安堵し、 正式な補佐官となった彼にこの部屋の資料を読んでもらっているのである。
 どうやらラシェは一気に読んでしまうつもりらしく、ここのところ朝早くから夜遅くまでずっとこの部屋に篭もりきりになって、 自身の研究はそっちのけになっていた。こちらを心配しての事なのだろうが、デュシアンの胸は申し訳無さでいっぱいだった。
 わたしがしっかりしていたら従兄にこんな負担をかける事が無かったのに。そう自分を責めて肩を落とす従妹の姿に、 そろそろ嫌気がさしてきたのかそれとも満足したのか、ラシェは機嫌を直して話し始めた。
「その異説は一般的には≪11年目の提唱≫と呼ばれている。簡単に言うと主神カーラと女神アリューシャラを同等の位で奉るべきだ、 という主張だ。それに賛同している人間たちをラウラ・ルチア派と呼ぶ」
「カーラ様と妹の女神様を?」
 突拍子も無い話にデュシアンは驚いて顔を上げると、眼鏡をかけ直したラシェが頷いていた。
 主神は全ての神を創り出したあらゆる面での始祖である。一方の女神アリューシャラはその主神が創り出した神の一人に過ぎない。 いくら妹神と言えども同等として奉るのはカーラ様に失礼ではないか、デュシアンは小さく唸った。
「正統派と呼ばれる主流の教義ではカーラはこの世界に存在する全てのものの源を創り出した創世主であり、 畏敬と敬愛の念を抱かねばならない、とされている。 しかしラウラ・ルチア一世はカーラを、『自分の箱庭に固執する≪子どものような神≫であり、 全てのものの源を創りだした点では尊敬に値するが、その他の面では敬い難い』と説いた。その上で、悪神を封じた後、 カーラだけでなくこの世界に関わる全ての神々にも自分たちの世界へ帰るよう説得したアリューシャラを 『人間に興廃の自由を与えた≪解放せし者≫として崇めるべきだ』と訴えたのだ」
「カーラ様、ひどい言われようだね……」
 別段、主神を敬仰しているわけでもない信仰の薄い自分であるが、 この話には簡単には同意できない難しさを与えられる。デュシアンは苦笑いを浮かべながら首を傾げるような反応しかしないでいると、 ラシェも同じ気持ちらしく、片方の唇の端だけを上げて皮肉気な笑みを見せた。
「確かに神々がまだこの世界にいた頃では≪世界の大きな流れ≫はカーラの思い通りになっていたと言われている。 滅びるのも栄えるのもカーラの御心一つだった。 抗う事のできない力で守られ、そして支配されていた。それは聖典や古文書を読むかぎりでは事実だ。 その事実を≪創世主だからこそ当たり前の行為だ≫ととるか、≪人形遊びだ≫ととるか。 そこが正統派とラウラ・ルチア派の大きな違いだ」
「なんとなく、わかった」
 端的に語るラシェの話から一つだけ明確な答えが自ずと沸き上がってきた。それは自分にはラウラ・ルチア派の意見は受け入れ難い、 という感情だ。 どうして今まで≪一番偉い神様≫だと思っていた彼女をそんなふうに思い直せるだろうか。 意識しない間に案外根付いていた主神への信仰心に驚きながらも、その信仰を覆す勇気も気力も疑問も自分には無いとため息を零した。
――とりあえず、ラウラ・ルチア派の人がどう思おうと、わたしはその人たちの考え方は受け入れられない
 何故ラウラ・ルチア派と呼ばれる人たちが自分を法皇にしたいのか。その糸口を探す意図もあってラシェに尋ねてみたのだが、 彼等の思想に反発を覚えたと知れば彼等も自分を法皇にしようなど考えはしないだろう。 例え法皇となっても彼等を優遇するつもりは全くないのだから。
 そう思ったらなんだか気持ちが随分と楽になった。閉じていた毛穴まで開いてしまいそうな程気が緩み、 良かった良かったとへらへら笑う。
「なんだかカーラ様が聞いたら怒りそうな話だね」
「まあ、この国では異端派とされているからあまり耳にする話ではないだろう。ラウラ・ルチア一世を嫌悪する神殿の人間は多い。 主神の恩恵を常に感謝し、教義に深く共感する純信者からしてみれば腹立たしい事だろうしな」
「だよね」
 純信者ではない自分ですら受け付けない思想だ。 主流の教義を好む人間からしてみればこの思想は主神への冒涜以外のなにものにも感じられないだろう。 デュシアンは何度も頷きながら、未だに自分の事を≪主神の加護を受けた尊い方≫ と拝んでくる主神至高主義的な神官や巫女たちを思い出した。 彼等の前で主神を少しでも悪く言えば忽ち反論と糾弾の渦に巻き込まれるだろう。それが目に見える。
「だからか、大抵彼女の事を話す場合は法皇になる前の≪聖アナスタシア≫と称する場合が多い」
「聖アナスタシア?」
 その名に聞き覚えがあった。すぐにも鮮明にその時の事を思い出す。あまりに不自然で、 奇妙な場面でその名を聞いたからだ。
 それは北の守りの亀裂を直しに行くと協議会の出席者の前で宣言した時だった。 その名を口にしたのはビアシーニ枢機卿。

『貴方は現代の聖アナスタシアですね』

 彼は亀裂を直しに行くと宣言した自分と≪聖アナスタシア≫を重ねたのだ。 その時の彼の恍惚とした表情にはやや気味の悪さを感じたのだが。
「聖アナスタシアとはラウラ・ルチアが法皇になる前の本名だ。彼女は――」
 ラシェは一旦口を閉ざし、記憶と現実とに意識を分けるデュシアンをしばらく見た後、 眉間に入った皺を指で撫でて伸ばしながら小さく唸った。
「お前、もしや聖アナスタシアを知らないのか?」
 嫌なものを見るように額に当てた指越しに睨んでくる。
「うん」
 当たり前のように頷くデュシアンに、ラシェが更に顔を引き攣らせた。この痴れ者をどうしてくれよう、 と目で訴えながら片頬を痙攣させている。しかししばらく瞳を伏せて色々自分の中だけで逡巡した結果、 とりあえず許すという判断をしたらしい。説明してくれた。
「聖アナスタシアは五百年程前のベイヘルンの森が永遠平原と呼ばれるようになった原因である大火を命懸けで消火活動に当たった聖人だ。 一向に威力の衰えない火に諦めることなく、魔力が尽きた後も己の生命力を媒体に精霊と聖獣を召喚し続け消火にあたり、 その後森を失って怒りに騒ぎはじめた精霊や妖精たちをなだめ、落ちつかせたと言われている」
「精霊や妖精が見える人、だったの?」
「らしいな。それでその功績が称えられ法皇になった。名はラウラ・ルチア一世。とても有能な法皇で、 様々な言葉を残しているが、その11年目の提唱のせいで後世の評価が真っ二つに割れている。 彼女を評価しない者たちは彼女をラウラ・ルチア一世とは呼ばず、法皇になる前の聖アナスタシアという名でだけで呼び、 聖アナスタシアの時に成し得た行為だけを評価する」
「ふーん」
 つまりは自分の身を省みず鎮火にあたった彼女と、 亀裂を直しに瘴気が溢れる北の守りへと入って行こうとする自分とをビアシーニ枢機卿は重ねたのだろう。
 もしビアシーニ枢機卿がラウラ・ルチア一世という名で自分と彼女とを結び付けたのなら、 彼がラウラ・ルチア派だと確信が持てるのだが、そうではなかった。
 誰がラウラ・ルチア派であるのか知っておきたいという気持ちがビアシーニ枢機卿を怪しむが、 聖アナスタシアの時の行為は正統に評価されているのだ、 その名を出したくらいでラウラ・ルチア派と結び付けるのはあまりに早計である。デュシアンは逸る気持ちを抑えた。
「ラウラ・ルチア派の人って、どちらの名前でも呼ぶの?」
「人前ではラウラ・ルチア一世の名はなかなか出さないだろうな、この国の人間は。 だからこそ誰がラウラ・ルチア派かなど分からない。隠れて賛同しているからな」
「そっか……。あのね、ビアシーニ枢機卿ってそれっぽい?」
 失礼かと思いながらも名前を出して聞いてみた。従兄だから許されるだろう、と甘えて。 するとラシェは呆れたように肩を竦めた。
「ビアシーニ枢機卿は純信者たちにとって指針となるような人物だ。現法皇の相談相手でもある。 彼がラウラ・ルチア派だとすればとんだ狸だな」
「そっか」
 そうだよね、と呟く。確かにビアシーニ枢機卿は神殿の若きカリスマだ。彼がそうだとすれば忌々しき事態である。
「お前、ラウラ・ルチア派を探そうなんて考えるなよ? 異端者狩りと間違えられる」
「分かってるよ」
 枢機卿がそれこそ厚い仮面を被っていない限りは大丈夫。一息ついて、異端者探しを諦めた。

「ところでお前、聖アレクシスぐらいは知っているだろうな?」
 答え次第では噛みつくぞ、と主張しているような冷たい瞳でラシェは睨みつけてきた。どうやら先ほど聖アナスタシアを知らない、 と答えた事をまだ引きずっているらしい。
 蛇に睨まれた蛙宜しくデュシアンは視線は逸らさずソファの背まで体を後退させた。
「えー、と、確か、このカーリア王国の最初の王様、だよね? もともとは法皇様でもあった人で」
「ニコライ七世は? ネヴォラ枢機卿は?」
「だ、誰、でしょうか?」
 そう答えれば、ラシェの頬から目許にかけての筋肉がひくひくと痙攣し始めた。本気で怒りが溜まってきた証拠だ。
「お前が今すぐにやらねばならない事が俺には分かった」
 そう言って腰を上げると、デュシアンの膝の上から彼女の読みかけの兵略入門書を取り上げた。 そして鼻筋に皺を寄せた怖い顔で、逃げ出そうとするデュシアンの肩をしっかりと掴むと自分の方へと気迫で顔を向けさせた。 心なしかデュシアンの腰が浮いている。つまりは肩を掴まれて持ち上げられているのだ。
「お前に今すぐ必要なのは、神殿側の公爵として知っておかねばならない神殿人物史の勉強だ」
「じ、人物史?」
 緊張に震える素っ頓狂な声で聞き返せばラシェはこちらの肩から手を離した。すとん、 とお尻がソファに沈んで小さく数度跳ねる。
「いいか、三日後に試験をする。満点でなければこめかみをすり潰す」
 ラシェはそう言うと、デュシアンのこめかみに両手の拳をくっつけて牽制してきた。彼の表情は真剣だ。本気で本気なのだ。
「えええええええええ?!」
 デュシアンが上げた悲鳴に近い大声にラシェは眉間に深い皺を寄せる。
「三日も猶予を貰えるだけ在り難いと思え」
 ラシェは盛大に笑った。こちらの無知を嘲るように、教育しがいがある生徒に対して苛立ちを通り越して狂喜に沸くように。

 彼の教育はいつだって上級者向け。
 千年分の神殿人物史。一体何百人の功績を覚えればよいのだろうか?
 デュシアンがこめかみを擦り潰されたかどうかは、彼等のみぞ知る……。



(2005.9.13)

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