自分はお世辞にも記憶力が優れているとは言えない。
執務室へとやってきた優しげな風貌の青年をじっと見つめながら、デュシアンはそう思った。
どこかで見覚えがあるような無いような、そんな青年は自らを「リディスの使いです」と名乗った。名乗られてから、
そういえばダグラス将軍の研究室にお邪魔した時にそこに居たような気もした。
リディスとは、蔦が覆う外壁と苔が生す内壁を持つ塔に研究室を構えるあの≪禁呪の魔女≫リディスのことだ。
その彼女の使いだという青年の用件はこちらの都合の良い日を伺う事だった。
いつでも良いと答えれば、「では明日、ダグラス将軍の研究室の隣りの部屋へお越しください」
と性急な日付で告げられた。
彼女が自分を呼ぶ訳はアミュレットだというのは明らかだが、
どうしてダグラス将軍の研究室の隣りへ来いというのか分からなかった。それを聞く前に彼は風のように去ってしまったので、
デュシアンはきっとあの朽ちかけた塔が崩壊したのだ、と縁起の悪い理由を適当に思い浮かべるしかなかった。
それが昨日のこと。約束された今日、デュシアンは魔法宮――所謂≪試しの園≫に張り巡らされた迷宮魔法を前にして、
自分の力を試してみようと無謀な挑戦を試みることに決めた。
入り口付近に待機する魔道師たちに、今日の魔法の詳細すら聞かずに歩きはじめた。結果、
敢え無く煉瓦調の建物の外壁に正面からぶつかってしまった。
どうやら≪幻影≫という幻の道やら建物やらを作り出す迷宮魔法の一種に引っ掛かってしまったらしい。
低い鼻が更に低くなったのではないかと心配しながら摩った。
持っていた箱が潰れていないかを確認していると、魔道師らしき青年に声をかけられた。
彼はどうやらデュシアンが魔法宮に足を踏み入れた頃からなんとなく見ていたそうで、
こいつは魔法宮に慣れていないような気がする、と一目で勘が働いたらしい。自分の勘が当たったと楽しげに語られれば、
どうすれば鈍くさそうに見えなくなるのだろう、肩を落とした。
どこへ行くのかと親切に聞いてくる青年に、ダグラス将軍の研究室までの道を尋ねると、
懇切丁寧に教えてくれた。お礼を告げれば、それが仕事だと苦笑する。
どうやらここに迷宮魔法を試験的にかける魔道師たちは、部外者が迷わないよう誘導する仕事もこなしているらしいのだ。
きっと何十回も誘導をこなしている内に、迷いやすい人種が見ただけで分かるようになったのかもしれない。
彼の肥えた目には、自分はその人種に当てはまったのだろう。苦笑混じりのため息が零れた。
魔法に疎い自分に先行きの不安を感じながらも、青年の丁寧な説明で迷う事なくダグラス将軍の研究室へと辿りついた。
そしてその横の部屋の木扉をノックする。
了承の声に扉を開ければ、あのちょっと高飛車な感じで喋るリディスが部屋の中央にある長椅子に座って足を組み、
お茶を片手に膝の上の本のページを捲りながら迎え入れてくれた。
「こんにちは、リディス殿」
「いらっしゃい、ラヴィン公。適当にかけて」
リディスは読みかけの本にしおりを挟んで閉じると横に追いやり、
丈の短い裾から覗く白い足を解くと立ちあがった。後ろにある脚の長い小卓の上のポットの蓋を開けて茶殻を捨てる。
どうやら新しいもので淹れ直してくれるらしい。
デュシアンは外套を脱いで彼女がかけていた長椅子に対面する位置の長椅子に腰掛けると、
失礼は承知で、窓辺で砂時計を見ながらお茶の蒸らし時間を確認している彼女をじっと魅入ってしまった。
彼女はやはり何度見てもとても綺麗だった。ゆったりとした波を描く白金の髪、
その一房を受け入れる窪んだ鎖骨、遠目からでもわかるくすみの無い木目細かい白い肌、濃い睫毛に縁取られた澄みきった緑の瞳、
ぽってりとして艶やかな薄紅色の唇など、その一つ一つがどれもうっとりさせられるほど理想的。
格子窓から差し込む光が彼女の輪郭から溢れ出るさまは、神秘的な妖精か女神を見ているようだった。
彼女が≪禁呪≫を纏って生まれてきたのは、この完璧な美貌を嫉んだ神の悪戯だったのではないかと思えてしまう。
「妹が巫女なんだけど――」
妖精――リディスに急に振りかえられて、デュシアンは慌てて居住まいを正した。
彼女はこちらがうっとりと眺めていた事など気にも留めないのか、気づいていなかったのかそのまま続けた。
「言っておくけど、妹って言っても義理よ? その妹が今は神殿中が貴方の話題で持ちきりだって言っていたから、
渦中の貴方がわたしに会うっていうのはやっぱり問題だと思ったのよ。だからダグラス先生にお部屋を借りて、
同僚に使いを頼んだの」
まどろっこしい事して悪いわね、とリディスは苦笑して砂時計へと視線を移した。
彼女の研究塔が崩壊したからこの場所なのだと不謹慎にも思ってしまった自分を恥ずかしく思いながら、
けれどもそれならばここになった理由がよく分からないとデュシアンは唇に手を当てて首を傾げた。
「あの、どうしてそんな事を?」
そう聞けばリディスはもう一度こちらへ視線を向けて呆れたと言わんばかりに失笑した。
「貴方ってどこか暢気なイメージがあるんだけど、やっぱりね。
貴方また目立つ事したんでしょ? 注目浴びてるのよ。そんな中、わたしの塔に入ったりしたら大変なことになるわ」
「目立つ事って、失態の事ですか?」
二日前に公表された自分の不甲斐ない管理能力。目立つ事といったら今の所それぐらいしか考えつかない。
しかしまだ事実が浸透していないと思っていた。何故なら神殿内で働く巫女や神官たちの視線が今までと全く変化せず、
好意的なままであるからだ。
「失態?」
何の事? とリディスは訝しげに片眉を上げた。
「ブラウアー子爵の口車に乗ったエレナって巫女に温情をかけたんでしょ?
しかも彼女が働いていた孤児院の移動資金まで援助するって」
「ど、どうしてそれを?」
ダリル将軍から聞いたのだろうか。彼の将軍はリディスの養父である。そこから伝わったのだろうかと思ったが、
けれども将軍には資金援助の話はしていない。それともエレナが将軍に話したのだろうか?
そんな事をぐるぐると考えながらデュシアンは眉間に皺を寄せた。
しかしリディスはデュシアンが思い浮かべた事に勘付いたのか、違うわよ、と首を横に振った。
「言ったでしょ? 巫女やってる妹から聞いたって」
「え……。でもわたしが公表したのは金印と書類が盗まれた事だけのはずです。どうして資金援助の事まで……」
「どうしてかは知らないわ。ただ巫女や神官たちの間ではその事でもちきりらしいわよ。
勇ましい女公爵様は義理と人情に篤いって。しかも自らの過失をきちんと認める誠実さと、
うやむやにしない高潔さを持ち合わせているって」
「え……」
勇ましいは狙っていたことであるから良いとして、義理と人情、それから誠実に高潔とは一体なんなのだろうか。
これがダリル将軍の言う≪情報操作≫というものなのだろうか。デュシアンは唇の端を引き攣らせながら笑うしかなかった。
ラシェが聞いたら鼻で笑いそうな話だ。どこのどいつが勇ましく、義理と人情に厚い上に誠実で高潔だ、と。
――法皇って本気じゃないよね、まさか。だって、わたしだよ?
弱虫で泣き虫で、本当に平凡で。ちょっと魔力の器が人より大きくて、けれどもそれを扱う術をあまり身につけていない。
そんな自分がまさか法皇など。
壊れた人形のように首を振り続けるデュシアンを見て、リディスは笑った。
「だから貴方の方から訪問がある前にこちらから先に声かけたのよ。
貴方がアミュレットの確認を頼みに来るだろうって事だけは父様から聞いてたから」
今後もここで確認するわよと切り出すリディスに対し、デュシアンは我にかえると慌てて立ち上がった。
「そのことはこの間お話した通り、貴方に診て頂いているのですから、わたしは堂々と――」
「神殿を甘くみちゃ駄目よ!」
デュシアンも必死だったのだが、それ以上に必死な形相でリディスは上半身を前のめりにさせて捲し立てるので、
説き伏せられてしまった。
「ただの巫女や神官たちは別段気にする必要もないけど、
上層部には教義や神殿そのものの為には人の権利を平気で侵すような過激派もいるのよ!
貴方みたいなカーラ神教の象徴的存在になった人があからさまにわたしと一緒にいる事を知られると、
とんでもない事になりかねないわ! 以前会った時とはもう状況が違うのよ!!」
必死なのを通り越して泣きそうになりながら熱弁を振るったリディスは喋り終わった後、
ばつが悪そうに静かに黙り込んだ。
とんでもない事。デュシアンにはそれに思い当たることが一つあった。言葉を思い出しただけで背筋がぞっとする。
「……あの、それって――暗殺の事ですか?」
「なんだ、そういう事は知ってるのね」
ほっとしたようにリディスは息を吐いた。視線を窓の外に向けているのは、
唇をかみ締めた顔をこちらから背けようとしているからなのだろうか。
彼女は歪む表情をなんとか正常に保とうと苦心しているようにも見える。
「本当にそんな事がまかり通っているのですか?」
彼女の表情を見れば一目瞭然なのかもしれない。
「……まあ、ね」
外を見たままリディスは頷いた。
暗殺、という不穏な言葉を聞いたのはアイゼン家の双子の公子の従妹君の口からだった。
そしてその言葉を意識したのは、馬上でウェイリード公子から不思議な話を聞いた時。
神殿に敵が多い公子はもしかしたら命の危険に晒されているのではないか、という疑惑。
もう一度再燃したその時の感情が心臓を激しく揺り動かした。
暗殺が本当に在り得る事態だとすれば、ウェイリード公子は……。
――神殿に、敵が多い?
急に引っ掛かりを覚え、顔を上げた。視界に映るのは、自身を慰めるように両腕を交差させて肩を抱く美女。
自然の節理を曲げる力である≪禁呪≫をまとって生まれ、神殿から疎まれている女性。
「ま、まさかリディス殿も?! もしかしてわたしが貴方の所に行けば貴方自身に弊害がありますか?!」
「――わたしの場合は守ってくれる人がいるから大丈夫」
リディスは驚いたように瞳を見開いてこちらを向くと、柳眉を寄せてじっと見つめてきた。
「そうですよね、ダリル将軍がいますよね」
安堵の笑みを零しながらデュシアンは胸を撫で下ろした。
「……とんだお人良しね」
リディスは、仕方の無い人、と小さく呟いて腕をだらりと下げると苦笑を浮かべた。
「え?」
「いいえ、何でも無いわ、ラヴィン公」
今度は同性をも魅了するとんでもなく優美な微笑みを見せてくれた。
彼女が浮かべるのは慈愛を感じる穏やかな表情であるのに、
何故かデュシアンは彼女の笑みを見て胸を締め付けられる程悲しくなってしまった。理由は分からない。けれども、
彼女自身がとても悲しいのではないか、と根拠も無く思ってしまった。
「それよりもね、確かに貴方にはカーラ様の守護があるっていう表向きは重宝されそうな肩書きがあるけど、逆に考えれば、
節理や教えから逸れた行動をするのも目立ってしまうのよ。
神殿にとっての象徴が先頭立って逸れた行動したら示しがつかないでしょ? だからわたしのところには来ては駄目」
「そう、なのかもしれませんが――」
納得できないが、リディスの言い分も理解できて、なんと言って良いのやら分からずに首を傾げながらのんびり答えようとすれば、
リディスは烈火の如く素早い反応をみせた。
「そ・う・な・の・よ! 納得してよね! 貴方みたいな世間知らずはね、黙って言う事を聞いてればいいのよ!」
強引にそう締めて、リディスは砂時計の砂が全て下の硝子に落ちているのにやっと気づき、
カップにお茶を注いだ。
「この話はもう終わり。さあ、お茶をどうぞ」
目の前の卓にお茶を置かれ、デュシアンはしぶしぶ座ってお茶を頂いた。
一口飲めばなんだか少し興奮していた心も落ちついて、確かに彼女の言う通りにした方が良いかもしれないと思えるようになった。
自分の意思だけを通そうと彼女に表だって接触すれば、彼女が自分のせいで恐ろしい目に合う可能性があるからだ。
彼女は父君であるダリル将軍がいるから大丈夫だ、と言ってはいたものの、将軍とずっと時間を共にしているわけではない。
彼女を狙うなんて簡単である。
――わたしって、配慮が足りないんだな……
視線を下げて、リディスに分からないように小さくため息を吐いた。と、下げた視界に自分の横に置いてあった菓子箱が映る。
それを持ち上げて卓へ乗せ、目の前に座って新しいお茶を飲んで至福に浸るリディスへ差し出した。
「あの、リディス殿はお礼を貰って下さらないので、代わりにといっては失礼かと思いますが、お菓子を持ってきました」
「本当?! ありがとう、それなら頂くわ」
お菓子と聞いて手の平を返したように急に表情を明るめたリディスに、デュシアンは安堵した。
蓋を開けたリディスの表情も声も歓喜に満ち溢れた。
「わたしタルト大好きなの。ありがとう! アミュレット確認する前に食べても良い?」
「もちろん、どうぞ」
了承を聞くもすぐにリディスは立ちあがって軽い足取りで奥の棚からお皿とフォークを持ってきた。
彼女の表情はもはや妖艶な美女ではなく、甘い物を目の前にした幼い子どものように蕩けている。
いつものつんけんとした態度とはあまりに違うので、デュシアンは笑いを堪えるのに必死だった。
「はい、ラヴィン公の分ね。やあね、何笑ってんのよ!」
チェリータルトの乗った皿を差し出しながら、リディスは朱に染めた頬を膨らませた。
「すみません、あんまりに子どもっぽくて可愛らしくて。いつものリディス殿から想像できなくて」
そんな顔を見せられた後では怒られても全く怖くない。デュシアンはむず痒いのを耐えるような表情で笑いを堪えた。
「好きなもの目の前にしたら誰だってそうでしょ! だいたい貴方だってね、すっごく子どもっぽく笑うんだから」
「え?」
きょとんとするデュシアンに、リディスは勝ち誇ったように顎を上げた。傍から見ればまるで子どもの喧嘩のようである。
「自覚なし? ダグラス先生なんか、貴方が本当に成人しているのかって疑ってたわよ。あら、これは口止めされてたっけ」
「ええ……」
デュシアンが驚きに身を浮かしてソファの背に体を押しつけると、リディスは意地悪そうな表情でで追い討ちをかけた。
「わたしと同い年とは思えない子どもっぽい笑い方するんですって。おあいこね」
「こ、こども……、ダグラス将軍にまで……」
確かに自分は少し童顔だとは認めている。それから世間慣れしてはいないから色々無作法もあるのだろうが、
けれどもそれは若輩者の至らない言動で済む範囲だと思っていた。
それにダグラス将軍などの前では自分としては頑張って取り繕っていたつもりだったのだが。デュシアンは頭を抱え込んだ。
「あーもう、うっとおしい。へこまないでよ。力は先生も認めてんだから。結界の亀裂を直したんでしょ?
例えカーラ様の力があったとしてもとんでもない才能だって。童顔だけど、胸張って生きなさいよ」
はっきりと「童顔」と言われた衝撃を隠しきれない顔を上げれば、
「そんな顔しないの、公爵のくせに」
とチェリータルトを片頬一杯に頬張る絶世の美女に叱責された。
「そうだ、公爵だった――」
青くなって慌てて背筋を伸ばせば、リディスはケタケタと本当に可笑しそうに笑いだした。
「今更取り繕ったって遅いわよ、勇ましい女公爵様?」
もう良いや。デュシアンは諦めて肩を落とした。
しばらくリディスは笑い続けたが、飲んだお茶を気管に入れてしまい苦しそうに呻いていた。
しかしそれすらも自分の中では笑える話だったようで、こんなに笑い上戸な人だったのか、と思える程ずっと笑っていた。
デュシアンは最初こそ拗ねていたが、異常な程のリディスの盛り上がり様にだんだん自分でも本当にどうでも良く思えてきて、
一緒に笑い飛ばしてしまった。
「そうだ」
よほどチェリータルトが好きなのか、嬉しい事に気に入ってくれたのか、彼女は二個目をつつきながら思い出したように呟いた。
「あのね、ティアレルの事なんだけど」
その名に軽い息苦しさを感じ、デュシアンはそっとアミュレットに手を伸ばしてリディスを見つめた。
彼女はどこか困ったように視線を逸らしている。
「ティアを悪く思わないであげて欲しいのよね」
そう言ってからすぐに視線をデュシアンに合わせ、身を乗り出した。
「誤解しないでね、ティアがわたしから何か言って欲しいって言ってきたわけじゃないのよ? ティアは
そういう人じゃないから。人に愚痴とか弱音は吐かない人だから……」
あくまでわたしが勝手に言ってるだけよ、と重ねて念を押してきた。
「ティアはね、別に仕事で貴方に近づいたわけじゃなかったのよ。この事はまあ、ロザリーの早とちりがいけないんだけど」
「ロザリーさんをご存知なんですか?」
いつも大地の日に書類を届けてくれる可憐な巫女を思い浮かべる。確かにティアレルの正体を教えてくれたのは彼女だ。
しかしリディスが彼女を知っているとは世間は狭いなと思う。
「さっき言ったでしょ? 妹が巫女だって」
「え?」
締り悪く口を開いたままにしていれば、リディスはにやりと笑った。
「びっくり? 貴方って本当に世間知らずね。巫女のロザリーって言ったらダリル将軍の娘って周知の事実よ。
そういう身の証があるからこそ、協議会の書類運びなんて大切な仕事も任されてるんだから。まあ、
ティアレル・アリスタも知らないようじゃあ、そんなもんだろうけど」
嘲笑を浮かべながら物を知らないと罵られる。けれど別段悪意は感じない。
この人はこういった感じで自分を悪そうに見せているだけなのだろうな、となんとなく理解する。
「ああ違う、ティアの事だったわね」
途中で話が反れているのに気づき、はっと我に返ってリディスは修正した。
「ティアはね、多分貴方と話せたらいいな、と思っただけだと思うの。自分の事をティアレル・アリスタと知らない貴方と」
「知らない、わたしと……?」
「ティアレル・アリスタはこの≪城≫全体の有名人よ」
城とは併設する宮殿神殿両方の全ての建物を合わせて呼ぶ総称である。つまりは彼女は神殿、
宮殿に限らず名を知られている、という意味だ。
「ティアの世界は広くて、でも人種は狭いの」
「人種?」
「ティアの周りには彼女の才能に嫉妬しながらも侮蔑する人たちと、彼女に過剰に期待をかける人たち、
それから仕事仲間とその関係者の、三種類の人間しかいないのよ」
「え……?」
訝しげに首を捻る。
「貴族や男性に多いんだけど、女性が政治や軍事関係の事柄に関わるのを嫌がる保守的の人は、
ティアや女性騎士とかを殊更嫌うのよ。若い男たちはティアの才能に嫉妬して酷い言葉を投げかけるし、
若い女たちはティアを男を押し退ける慎みがない女って陰口をたたくの」
「そんな……」
そんな酷い話があるだろうか? デュシアンは眉じりを下げて首を振った。脳裏には、
公爵になった後に自身に降りかかった、女である事を揶揄する言葉が甦る。
しかし公女であり、公爵となった自分にはそこまで酷い言葉を投げかけられることはなかったが、
それでも悔しい思いをしたのに。
「今でこそ元老院も女性騎士を認めるような世の中になったけど、十年、二十年前までは女が男と肩を並べて政治、
軍事的な事に積極的に関わるなんて有り得ない話だったのよ。その時に自身の才能を殺すしかなかった女性たちがね、
ティアに自分を投影して重い期待を寄せてるの。表向きは保守派と同じ態度でいるくせに、
裏では巧みな言葉で失敗は許さないと、ティアに圧力をかけてくるの。そういう陰険な人たちが二種類目」
鼻筋を寄せながら心底嫌なものを語るように顔を歪ませていた。まるで我が事のように感じているのだろうか、
リディスとティアレルが本当に仲の良い友人関係であるのだろう、とデュシアンは悟った。
だからこそ自分へティアレルの誤解を解こうと必死なのだ。
「そして最後は仕事仲間。つまりは円卓騎士団関係者。周りにいるのは優れた才能を見出された超優秀な男たちばかり。
ティアはその一員である軍事分析官の自分を誇りに思っているだろうけど、
ほら、身体が弱いでしょ? だからね、
多分誇りに思うと同時に≪それしかない自分≫っていう卑下した気持ちも持ち合わせているんだと思うの。
それしかないものを失いたくないから、仕事仲間には愚痴もなんにも零せない。
だいたい分析官職は仲間内から知識面や精神面で頼られる事が多いから、
そんな自分が誰かを頼れるはずもないって、思っちゃってるのかもしれないわ」
「誰も頼れない……」
そう思い込んでしまっていたのは自分も同じだった。誰かを頼るのは公爵らしくない。そう思って一人で考え込んで、
挙句周囲に迷惑をかけてしまってきたのだから。
「友達作るの下手なのよ。十五歳までベッドの上から起き上がれないような生活してたから。
きっと、軍事分析官だって言って、貴方に驚かれて線を引かれるのがのが怖かったのよ。そういう人」
顔を上げれば、リディスはどうしようもなく優しげに微笑んでいた。
「円卓騎士団関係者である事を黙っていたのはよくない事だと思うわ。でも、
そうじゃない自分と向き合ってくれる人が欲しかったんじゃないかな。結果的には貴方を騙した感じになってしまったけど、ね」
一通り話たい事は喋り終えたのか、リディスは茶を飲んで一息吐いた。
そうしてデュシアンは、先ほどから不思議に感じている事を口にした。
「こんなに理解してくださる方が傍にいるのに、どうしてティアレルさんはわたしを必要としたのですか?」
聞けばリディスは軽く眉根をひそめる。わかってないわね、と責められた気もする。
「わたしはティアにとっての上司、ダリル将軍の娘よ。ティアが弱音を吐くわけないじゃない。
わたしが父様に話す訳はないって理屈で分かっていても、慎重過ぎて口を閉ざしちゃう人なのよ」
「あ……」
そうか、と頷いた。そんなこちらを半分呆れたように、けれどもどこか優しげな瞳を細めてリディスは苦笑した。
「貴方のそういうぼんやりした所にティアレルも癒されたんでしょうね」
「ぼ、ぼんやり……」
それは褒められているのだろうか、貶されているのだろうか、しばし考える。
「ティアはこういうことを打算で動く人じゃないの。少なくともわたしはそう信じてる。だっていつもそのせいで上司に
怒られているんだから。お前は割り切れていない、て」
リディスはそっとお茶を一口飲むと眉を寄せ、すっかり冷めてしまった二人のカップを持って
立ちあがって近くの水差しに捨てた。新しいお茶を淹れてくれるらしい。
ポットに茶葉を足してお湯を注ぐと、砂時計をいじりながらこちらを軽く振り返った。
「ティアをね、悪く思わないであげて欲しいの。悪い人ではないのよ」
彼女が悪人ではないのは百も承知の事。彼女を跳ね除けたのはただ円卓騎士団の関係者であるという理由だけ。
あの頃は円卓騎士団がとんでもなく怖いものに思えて、
彼女の口から彼等へ自分の全てが伝わってしまうのではないかと恐れていて彼女を排除した。
そっと首元に手をやりかさぶたを撫でる。痣も切り傷も彼女がくれたおしろいで誤魔化している。
この傷を見た時の泣きそうだった彼女の瞳を思い出すだけで心が痛い。
家庭教師を断った時、彼女はとても悲しげだった。それを演技だと自分に思い込ませて彼女の気持ちだけでなく、
自分の本当の気持ちをも蔑ろにしたのだ。
騙された、と思っていた部分もあった。円卓騎士団の関係者だと最初から名乗ってくれていれば彼女を寄せ付けはなかっただろう、
弱みを見せなかっただろう。けれど今は言ってくれなかった事に感謝していた。
――本当は、わたしも仲良くしたかったんだ……
ふんわりとした柔らかい雰囲気を持つ彼女に癒されたのはこちらも同じ。彼女と話した時間はとても楽しかった。
彼女が最初から情報分析官だと話していたら、彼女の事をよく知りもせずにきっと拒絶してしまって、
彼女の良さを知らないままでいただろう。それはとても残念な事だったに違いない。
落ちついたら一度お礼も兼ねて謝罪しに行こうかな。許してもらえるだろうか。
デュシアンはぼんやりとそんな事を考えた。
二番茶だった為に蒸らし時間の短い茶をもう一度持ってきてくれて、喉を軽く潤してから
デュシアンはどうしても言いたかった感想を述べた。
「それにしても、リディス殿はお友達思いな方なんですね」
すると、お茶を飲みかけていたリディスは咽て咳こみ、真っ赤な顔をして口と目を大きく開いた。
「な! ち、違うわよ! ひとり落ち込んでるティアがうっとおしかっただけよ!」
慌てたようにそう捲し立てる。
ティアレルは自分には弱音を吐かないと言ったばかりなのをもう忘れたのだろうか?
きっとティアレルの機微を感じとって気にかけていたのだろう。そんな事ができる人が≪うっとおしい≫
なんて思うはずもないのは明らかなのに。
なんて素直じゃない人なんだろう。あまりの可愛らしさにデュシアンは笑みが零れてしまった。
「ちょっと、なに笑ってるのよ! もう!」
リディスは頬をぷっくりと膨らませて機嫌を損ねたように横を向いてしまった。
語調が強かったり、人を見下したように喋ったり、ちょっと気難しそうなつんけんとした態度だったりするが、
基本的にリディスはお節介で気配りのできる人なのだ。ティアレルの事を心配しているのも然り、
そしてこちらの立場を気にかけてくれたのも然り。
リディスが自分と表だって関わりになるのは好ましくないと言った事をもう忘れて、デュシアンは彼女と友達になれたら良いな、
と思ってしまっていた。
――表だって関われないなら、裏でこうやって話せるだけでもいいかな?
なんて適当な事を考えながら。
デュシアンはこの捻じ曲がった魔女にすっかり心を奪われてしまったのだった。
アミュレットは異常無し。チェーンが壊れて違うものを付けている、と言ったらプラチナの良いのがあるから、
と新しいのを付けてくれた。攻撃的な魔法を少しだけ弾く力が込められてあるらしい。お礼を言えば、
次の検診の時も甘い物を持ってきて頂戴ね、とにっこり微笑まれた。
結局三つのタルトをぺろりと平らげてしまって、あと一つも夕食後に自分が食べるらしい。
そんなに甘い物好きでどうやってこの素晴らしく均整のとれた体つきを保っているのだろうかと不思議でならなかった。
そんなこんなで一刻半近く居座った末、辞そうと立ち上がったデュシアンにリディスはこんな言葉を投げかけた。
「じゃあ、また今度。次は≪北の守り≫の中でお会いしましょ、ラヴィン公」
ドアを閉めた後、デュシアンはこの言葉の意味がよく解せない事に首を傾げながらも、帰路に
ついたのだった。
(2005.8.26)
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