「お嬢様、昨日の件ですが――」
「あ。できた?」
朝食を食べ終わって私室へ戻ろうとしたデュシアンはイリヤに廊下で呼びとめられ、
資料を受け取った。資産管理を任せているイリヤに孤児院の移動資金等の工面を頼んでおいたのだ。
ラヴィン家は父アデルの時から定期的に援助を行っている孤児院、養老院、施療院などがあるのだが、
これらの援助に北の公として得られる収入の殆ど使ってしまっていた。
また、六百年前のカーリア王国建国当初に領地を併合してしまっている為に、
税という大きな収入源もない。首都に持ついくつかの小さな不動産を貸し付けてはいるが、
それらの金は日頃の生活や使用人の給料、屋敷の整備などに消えてしまっている。
こういった現状からイリヤが怒るのを見越してかなり無理なお願いをしたつもりなのだが、
彼はとても嬉しそうに気前良く引き受けてくれた。デュシアンにはそれが不思議でならなかった。
「だいたい見当をつけて見積もってみたのですが、なんとかなりそうな感じですね。
あとは移動先の領主か管轄主にでも手紙を送れば良いと思います。
ラヴィン家の名を出せば土地の名士などが協力を申し出てくれるかもしれません。
あ、その前に孤児院の方に移動先の細かい場所を聞かなければ――」
手馴れた対応を見せるイリヤは嬉々として楽しそうだ。デュシアンはますます首を捻った。
「エレナさんとまだ喋れると思うから、後で場所を聞いてくるね」
「はい。お願い致します」
「――色々ありがとう、イリヤ」
「いえ、お安いご用です」
イリヤはどうしようもなく優しい笑みを浮かべた。
「あの――、どうしたの?」
彼の言動はやはりどこかおかしい。下から覗きこむように曖昧に聞いてみた。
「いえ。こういったところは流石、アデル様のご息女だなと思いまして」
「え?」
「アデル様もよく地方へ行っては寄付や揉め事の仲裁などをされておられたのです。
もしかしたら首都よりも地方都市の方がアデル様のお人柄を好ましく思われる方が多いかもしれませんね。
たまに私も地方へご一緒させて頂いたりもしたのですが、本当に聖人とはこのような方の事を指すのだろう、と思いましたから」
イリヤは懐かしむような瞳でこちらを見下ろしていた。視線は交わるのに彼はどこか遠くを見ているように感じる。
「……そっか」
納得したように頷いた。
イリヤの世界の中心は父だった。父に心酔していた。それは一種狂気染みていると思える程。
しかし対象が父だっただけに娘としては別段悪い気分ではなかった。
きっと彼はもう見ることの叶わない至高の主の姿をその娘を通して見る事ができて嬉しく思っているのだろう。
父がこうして誇らしく語られているのは嫌ではないが、公爵としてはどうも複雑な気分だった。
いつか≪デュシアンだから≫とイリヤに言ってもらえる時がくるのだろうか。デュシアンは小さく苦笑した。
下から吹き上げる乾いた風に、少し伸びてきた蜂蜜色の髪が揺れる。
辺りより一等高いこの丘からは、鮮やかな橙色の屋根と朝日を照り返す真白い壁という共通性を持った家が数多く並んだ住宅密集地や、
売り手と買い手とさくらと冷やかし客でごったがえす市場の賑わい、広場に佇む人々の穏やかな日常などが見渡せた。
しかしひとたび視線を自分の進む道に戻せば、眼下の明るい雰囲気とは全く趣きの異なった物寂しい無言の墓標の群が待ち構えていた。
デュシアンの手には赤い薔薇。今朝届いたばかりのそれを全て持って、父の元を訪れたのだ。
「父様、お久しぶりです」
ふんわりと広がった外套の裾が汚れるのも構わずに墓標の前に座り込むと、ここ数日にあった激動の日々を事細かに父に報告し始めた。
ウォーラズール山脈で魔物に襲われ、なんとか撃退した事。手に怪我を負った事。レムテストでウェイリード公子に会った事。
彼が手当てをしてくれた事。モーリスまで付いて来てくれた事。
エレナとマザークロシアの事。ブラウアー子爵の事。助けに来てくれた公子の事。彼が危険人物な事。
クッキーを全部食べてしまった食いしん坊のカイザー公子の事。婚約の事。
「なんか、半分以上、ウェイリード公子の話になっちゃった」
デュシアンは可笑しそうに笑う。けれども本当に彼の印象が強く残る事ばかりであったのだ。
左手の甲の傷にそっと右手の指を這わせれば、あの大きな節くれだった手の感触が思い起こされる。
すると寒い冬空の下にいるのに何故か全身が火照ったように熱くなった。
どこかむず痒いような感覚に、デュシアンは困ったように首を傾げる。このような気持ちを何と表現して良いか本当に分からなかったのだ。
もう一度彼を思い出す。青みがかった灰色の瞳は本当に綺麗で、しかし見つめられるのは苦手だった。
視線の強さにまるで押されるかのように後ずさりしたくなる、顔を背けたくなるのだ。しかしだからといって彼を嫌っているわけではない。
寧ろ彼の真摯な態度にとても好感を持っている。
それなのに不思議だなぁ、とぼんやり呟き、深くは考えなかった。
「そうだ。今度はどんなお菓子を持っていこう」
カイザー公子の計らいでもう一度ウェイリード公子の所へお菓子を持っていく事になった。
自然と頬が緩んで口角が上がる。
どんなお菓子が良いと思いますか? デュシアンは父に語りかけた。
それから満足いくまでいろいろと取りとめの無い話をした後、ふと糸が切れたように自分の膝の上に置いてある薔薇に視線を落とした。
驚くほど瞬時に笑みが失せる。
――父様。どうしてわたしが薔薇が好きか、ご存知でしたか?
娘の喜ぶ顔が見たいと、よく薔薇を買ってきてくれた父。
その父が自分の本当の気持ちを知りはしないだろうと思っていた。
――薔薇はお母さんの好きな花でした。わたしが薔薇を欲しがったのは――父様の手から薔薇を欲しがったのは、
そうする事で父様からお母さんへ薔薇が渡されているような気がしたからです。
あの頃、わたしとお母さんはまだ≪一緒に居た≫から……
手を伸ばし、そっと墓標に触れた。父の名のみ刻まれた場所を指でなぞる。今は≪二人とも≫この冷たい石の下だ。
ずきり、と心が痛む。
「お母さん……」
貴方は本当に幸せだったのですか?
「父様……」
私はあやまちの子だったのですか?
お母さんを愛しておられなかったのですか?
――父様。父様から聞きたかった。全ての真実を、父様から聞きたかった……
静かに、しばらく目を閉じた。自身の外套が風に揺れる音と風が大地を擦る音だけが耳に響く。
デュシアンはもう戻れない過去に対して気持ちの整理をつけたのか、目を開くと膝の上の深紅の薔薇を墓標に置いた。
直後、激しい突風が薔薇の花びらを数十枚掬い取り、巻き上げるとデュシアンの周りを囲むように散らばって落ちていった。
それはさながら脆く壊れやすい乙女を守る、薔薇の結界のようであった。
5章 終
(2005.8.6)
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