墓と薔薇

5章 流転する運命(16)

「承知致しました。では金印が盗まれていた件、公表致します」
 書類が山となっている文机を挟んで正面に立つダリル将軍は、事務的だが大層魅力的な笑みを浮かべて快く頷いてくれた。
 デュシアンは包み隠さず全てを真実のまま公表する事をダリル将軍に告げた。 自身の不手際により巫女に文書と金印を盗まれた事だけでなく、 盗まれた金印で捺印されている違法な婚約届を分家であるダランベール伯爵が神殿へ提出した事も全て、ありのまま公表する、と。
 これでダランベール伯爵は、罪は大して重くないものの首都に居座る事はできなくなるだろう。 唯一の子どもであるヘスターと共に管理を他人に任せている領地へ引っ込む事になる。あれだけ自尊心の高い男だ、 二度と首都の地は踏まないはずだ。
 あの狡猾な小父の手中に継母が落ちる心配がなくなった事に、デュシアンは不謹慎だとは思いながらもほっと安堵の息を吐いた。
「セイニー。ダランベール伯爵が文書の破棄を求めてきても受け付けないよう神殿側へ通達を」
「畏まりました」
 ダリル将軍は署名しただけの書類を斜め後ろに控えていた孔雀石のように鮮やかな瞳を持つ女性騎士に渡す。 すると彼女はすぐにも退室した。その凛々しく涼やかな姿をデュシアンはつい見送った。 やはり彼女の立居振るまいはとても参考になる、と。
「それで、ブラウアー子爵ですが――」
 話を進めようとするダリル将軍に、デュシアンは慌てて向き直った。
「子爵のご容態は?」
「魅了は一応は解けたようです。しきりに貴方に謝っておられました。 彼は自分の中で飛躍する思考をどこかで恐ろしいものだと自覚していたようです。狂い出す思考をなんとか止めようと足掻いたそうですが、 悪神の魔力を源とする《魅了》に打ち勝つ事は出来なかった」
 残念な事です、とダリル将軍は小さく続けた。
「……そうですか」
 思えばとても不幸な事であった。子爵は《北の守り》の結界研究室の首席魔道師だったのだ。 かなりの実力者だったはず。それがアミュレットの機能異常で《魅了》に冒されただけで地位も爵位も失う事になってしまったのだ。 殺されかけたものの、正常だったわけではない彼にデュシアンは恨みはない。強化アミュレットは壊れる、 というリディスやウェイリード公子の言葉を思い出し、同情の言葉だけが頭に昇ってきては消えていった。
「研究者としては優秀だったのですが、慢心が祟ったのでしょう。ウェイリード公子が言うように、 北の守りに入れる人間の基準を吟味するべきなのかもしれませんね」
 基準を上げられては振るい落とされてしまいそうだな――デュシアンは伏目がちに薄く自嘲した。
「ところで、今回の件でかなり糾弾される可能性もありますが宜しいのですか?」
 それは覚悟の上。デュシアンは唇を真横に引いて、顔を上げると小さく、けれど確固たる意思を示すように頷いた。
「当然の事です。覚悟はできています」
 こちらの意思をどう捉えたのか、ダリル将軍は軽く目を細めた。
「公爵を辞任するおつもりですか?」
「それは――できれば続けたいと思ってます。従兄のラシェに譲るのが一番だとはわかっているのですが、 公爵となれば彼は研究を捨てなければいけなくなります」
 そこまで話して、はっと息を飲むと、すぐに首を横へ振った。
「もちろん、彼の一研究より北の守りの方が大切なのは十分理解しています!」
 自分の思いをつい必死に訴えてしまい、気づくとダリル将軍が群青色の瞳を丸くさせているのを目の当たりにした。 デュシアンは一気に顔が上気していくのを感じ、握った拳からゆるゆると力を抜いていく。
 そんなデュシアンにダリル将軍は困ったように眉を下げ、けれども許しを与えるような穏やかな笑みを見せてくれた。 思ってもみないその優しげな笑みに不思議と心が惹き付けられる。
「確かに、ラシェ殿は古代言語を解き明かす研究者の中でも飛びぬけた才能の持ち主です。 そしてその才能は≪北の公≫としても、また公爵としても発揮されるものでしょう」
 誰もが認める実力者の従兄だ。デュシアンは身内の引け目を取っても異論はないので頷いた。
「しかし貴女も北の守りに関する能力には何ら問題ないと思います。問題なのは公爵としての仕事ではないでしょうか?」
「――どちらも問題だと思いますが」
 こちらをたててくれたダリル将軍には申し訳無いと思いながらも苦笑して軽く小首を傾げた。 これだけ円卓騎士団関係者の前で失態を繰り返しているのだ。今更己を偽って強気に出ても、もう遅い。 剥がれた鍍金にしがみ付いているのも格好が悪いと、素直に思った事を口にした。
 すると将軍は目許と口元を和らげて今までにない慈しみを含んだ表情を浮かべた。 デュシアンはこの時初めて、この人も人の親なのだ、と失礼にも感じいってしまった。父が自分を見る時と似た表情だからだろうか、 自ずと親近感が湧き上がる。
「今の貴方に必要なのは補佐してくれる人間だと思います。幸い貴方には素晴らしい従兄殿がおられる。 彼を補佐に回す事を前面に出せば、貴方は公爵を続ける事が出来るでしょう」
「けれども、それで許される事でしょうか?」
 門外不出の北の守りに関する文書の一部と大切な金印を盗まれたのだ。 神殿に特別審査会を開かれて詰問されてもおかしくはない事態なはずだ。
 ダリル将軍はしばし逡巡の様子を見せた後、すっと表情から笑みを消した。 それはあまりにいきなりな変化であったので、親近感を感じていたデュシアンの背筋は軽く粟立った。
「……神殿の、ある一派が貴女に随分と傾倒しているのはご存知ですか?」
「え?」
 全く聞き覚えも身に覚えもない。デュシアンは首を振った。
「彼等は――《ラウラ・ルチア派》は、貴方を次期法皇に、と思っている」
「ええ?」
「ダリル」
 今まで静かに少し離れた窓辺で傍観していた副官のケヴィンが、諌めるような厳しい口調で名を呼んだ。 しかしダリル将軍は彼を振りかえらない。まるで聞こえていなかったように無視し、怖いぐらいの無表情で続けた。
「貴女は主神の加護を得て北の守りを修復し、 そして傍らに主神の妹とされる女神アリューシャラの眷属たる≪樹木の精霊≫を携えておられる。それは法皇として十分な素質です。 そして今、それ以上の素質を供えた人間を、神殿は探せていない」
「わ、わたしが? そんな――」
 デュシアンは口を金魚のようにぱくぱくとさせ、身体全体を揺さぶるように首を振り、ありえない、と必死に表現した。
「今回の事件も視点を擦りかえられ、美談にされる可能性があります。 主神の加護を得たというこの間の≪事実≫だけで≪ラウラ・ルチア派≫とは関係ない純信者たちも貴方を神聖視している事から、 情報操作は容易いはずです」
「……わたしの権威を損なわない為に?」
 ダリル将軍は静かに頷いた。
 法皇とはカーラ神教徒の尊敬を一身に集める存在だ。 その法皇になるならば例え本当の事であっても心象に悪い噂は極力避けたいところだろう。
 それにダリル将軍の言う≪神聖視≫という言葉は身に覚えがあった。≪北の守り≫を修復した日―― つまりは主神の加護を得たという日を境に、神殿で働く者たちの視線が驚くほど変化したのだ。 それまでは出生について含むものもあるのか冷たい視線を向けられる事が多かった。 ところが今では畏敬の念で見られる事の方が遥かに多い。それが情報操作というものの現われなのであろう。
「彼等がそのつもりであるならば、貴女は難なく公爵を続けられるでしょう。それは貴女にとって都合の良い事でしょうが、 彼等にとっても都合が良い。法皇になられるおつもりが無いのであれば、どうぞお気をつけを」
 ダリル将軍は依然曇ったままの瞳で少しだけ口元を上げると笑みらしきものを浮かべた。
「はい、ご忠告ありがとうございます」
 法皇なんてとんでもない。公爵だってまともに勤めることが出来ない自分にどうして法皇なんて出来るだろうか。 デュシアンは混乱しながらも、 副官のあの様子からしてきっとあまり話してはいけない内容だったと推測できる事柄を話してくれたダリル将軍に心から感謝した。



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「なんで話したんだ。まだ決定的なわけでもないのに」
 ラヴィン公が退室した後しばらく重苦しい無言の間を置いてから、副官のケヴィン・マクスウェルは緩く波立つ髪を乱暴に撫ぜて、 呆れたと言わんばかりの口調で呟いた。 彼が腰を預ける窓辺からダリルまでの距離は十歩程。その間を詰めようとはせずに、 ダリルのらしくない思慮の浅さを責めるような視線を向けて反応を伺っていた。
 先ほどはケヴィンの制止を無視したダリルも今度は答えるつもりか、視線を少し上げてケヴィンを見た。 しばらく副官のその渋い表情を眺めてから、ダリルは鈍い光を宿す瞳を伏せた。
「決定的だ。神殿は今回の事も嗅ぎつけてきている。それにアウグストは彼女を≪聖アナスタシア≫と称した」
 唇の片端を上げて皮肉な笑みを浮かべてはいるが依然瞳は感情を宿してはいない。事務的な笑みが顔に定着している彼が、 珍しく無表情に空を見据えている。上司である友のそんな不穏な様子に、ケヴィンは鼻に皺を寄せて首の後ろを掻いた。
「聖アナスタシア――初の女性法皇か」
 それは厄介だな、とケヴィンは不精髭の生えた顎に手を当てた。
「彼女は多分辞任できない。主神の加護を受け、樹木の精霊を傍に宿し、慈悲の心を持つ。 飛び抜けた法皇の資質を持つ者を関係者内で抱えていない今、彼女は神殿にとって降って湧いた大切な法皇候補だ。 それも≪ラウラ・ルチア派≫にとっては願ってもない人材だ」
「ウェイリード公子の件でも今回の件でも変に助けたりせずに辞任させておけば良かったんじゃないか?」
「いや」
 首を軽く振り、ダリルは視線を上げてもう一度片頬だけ震わせ、心底うんざりしたような微笑みをみせた。
「公子の件では私がそうしなくても、アウグストが助けていただろう。彼は彼女の傍に樹木の精霊がいるのを知っていたからね。 それに今回の件も同様だ。彼女の巫女への同情と慈悲が使えるだろう。あんな事をされたのに孤児院の移動資金を約束したのだから」
「となると、ラヴィン公に逃げ道は無いのか?」
「この二年ぐらいの間にさっさと結婚してしまえば良い。ただし婚約までは水面下で進め、絶対に神殿に嗅ぎ付けられてはいけない。 だが婚約に持ち込んだとしても、相手が名うての貴族である必要がある。神殿の権力に従わざるを得ない身分であるなら、 婚約しても無駄に終わる。三代前の法皇のように、ね」
 今でこそ≪北の公≫として目立つ存在となってしまった彼女が誰にも悟られずに婚約まで事を運ぶなど無理難題だ。 だいたいどこに自覚なき内通者がいるかなど誰にも分かるものではない。 本人に悪気が無くとも神殿の耳となり得る者などそこら中にいるのだ。
「まあ、法皇になりたいと叫んでいるお嬢さんもいるくらいだ。彼女も必ずしも法皇になりたくないとは限らない。 けれども彼女は知らなくてはならない。法皇候補に選ばれるという事が、どれだけ周りを巻き込む事になるのかをね……」
「……経験者からの助言のつもりか」
 ケヴィンは≪破滅≫する危険を孕んだ言葉を意図的に発した。
 友は反応しなかった。しかし無反応だからといって、諦めているわけでも、過去を捨てたわけでも無い事はケヴィンも重々承知している。 数多の女性を虜にしてきた麗しい容姿を持ち、 誰もが一目を置く実力者でもあるこの友には浮いた噂を聞く事がなければそのような事実もない。それが何よりの証拠だった。
「残される者の事を考えれば、法皇になどなれはしない。十一年もの長い年月、家族とも友人とも――、 恋人とも会う事が叶わないのだから……」
 細く小さな言葉だった。注意しなければ聞き取れないような、まるで独り言のような……。
 けれど握る拳には親指を潰しかねない程の力が篭められていた。それを遠目で見ながら、 ケヴィンは人知れずため息を零し、試すように軽率な行動をした自分を恥じた。
――必死に抑えているのを悪戯に刺激するべきではなかったな……
 彼の中身はあの頃と全く変わっていない。ひたすら煮え滾って爆発しかねない岩漿を紙一重の理性で抑えているのだ。
 抑えなければ神殿中の人間を皆殺しにしかねない。それだけの力を彼は内包しているのだから。

 現女法皇グリセルダ四世は、あと一ヶ月弱と迫った暮を越すと、年明けには就任十年目を迎える。
 法皇の就任期間は十一年。その間法皇は神殿の奥深くにある法皇庁に座し、主神カーラへの祈りに身を捧げ、 全ての人々に平等に接する事を求められる。 法皇は人ではなくカーラの化身であり、誰か一人を愛する事も誰かの愛を求める事もあってはならない。 その為に家族とも友人とも恋人とも会う事も、恋しく思う事すら禁忌ときつく戒められているのだ。それは、 ≪聖典:アニカ≫の原典ではカーラが愛したのは最初で最後の夫と言われるただ一柱の神だけと表記されており、 カーラの化身である者が愛を求める者はその≪夫≫である神の化身であると現代では解釈されているからである。
 また、その神の化身と思われることはその者にとってとても不名誉な事であり、同時に人心を脅かすものであった。
 何故ならカーラの唯一の夫であるその神は、カーラに刃向かい封じられた悪神フェイム=カースだからである……。



(2005.8.6)

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