墓と薔薇

5章 流転する運命(15)

――ダリル将軍の所へ行く前に、ヘスターに会わなくちゃ
 考えながら歩いている為か、デュシアンはやや蛇行しながら神殿方面を背に自宅へと歩みを進めていた。 馬車が通る音がする度に顔を上げて歩道にいる事を確認する。
 デュシアンの中ではこれからどうするのか、についての答えはもう出ていた。小父の策略を無にする為に全てを有りのまま公表する、 という結論に達していたのだ。もちろんそれは小父が継母であるセオリアを手にしようとしているのを知ったからである。 そうでなかったら、今もデュシアンはうじうじと悩んでいただろう。
 このままダリル将軍の所へ行っても良いのだが、デュシアンはその前にどうしてもヘスターへ事の詳細を話しておきたかった。 彼自身は事の顛末をきっと知らない。しかしこれから降りかかる火の粉を考えると話しておかなければいけないと思ったのだ。 デュシアンは彼が父の策略を知らないと確信していた。
 デュシアン自身はヘスターとはあまり話した覚えがなかった。しかしラシェほど初対面の印象が悪かったわけでも、 ラシェほど意地が悪かったわけでもない。かといって、仲良くしてくれたかと言えばそういう訳でもない。 ただこちらに興味が無かっただけだろう、彼が無理をして声をかけて来る事は無かった。そういった疎遠な関係ではあったが、 父親と息子である彼が共謀して いないと思うには理由があった。彼が父とうまく行っていないのを知っているからである。
 ダランベール伯爵はあのような人であるから、誰をも自分の意のままに操ろうとする。 もちろん自分の息子も例外ではない。一方のヘスターは父の意見を無視し、 父が用意した神兵団のある程度の地位を蹴って下っ端の神殿騎士となった。現在では自身の力で肩書きを持つようになるまでなった。 このたった二人きりの親子が情のある会話をしているのを見たことがなかったのだ。
 彼等親子の話をした時、貴族ではよくある事よ、と教えてくれたのはホルクス家の末娘アスティーヌだったか。 彼女曰く、政略的に結婚する事の多い貴族の世界では夫婦だけでなく親子の情が薄い家はざらであるらしい。
 そんな事を話してくれた彼女自身はどうだったのであろうと可憐な彼女の輪郭をぼんやりと思い浮かべた。 あのホルクス伯爵の血が流れているのが嘘のように思える程気立ての良いアスティーヌは今は隣国へ嫁いでいる。 首都でできた唯一の友達とも言える人物をデュシアンは懐かしんだ。彼女が嫁ぐ事無くここに居たのなら、 きっと色々と話を聞いてもらえただろうな、と自分勝手な想像を膨らませた。
 逸れた思考を戻そうとせずにまるで現実逃避のようにアスティーヌとの思い出を振りかえりながら歩いていた為に、 声をかけられるまで自分へ向けられた視線に気づくことはなかった。
「デュシアン」
 そうしてやっと名を呼ばれ、デュシアンは驚いて顔を上げた。 見なれた屋敷と前庭を背に一人の青年が外門に寄りかかって立っているのが視界に映り込む。 それは今まさに会いに行こうと思っていた人物だった。
 彼の金髪と青い目は父譲りで、どこか覇気に欠けた繊細な顔の作りは母似だと言われている。 デュシアンは彼の母君には会った事はないので事実は知らないのだが、顔の作りが父君に似ていなくて良かったと心底思う。
「ヘスター。わたし、貴方に話があったの。中に――」
「ここでいい」
 彼、サイモン・ダランベール伯爵の一人息子ヘスターは、背にするラヴィン家邸宅へと誘うデュシアンの勧めを断り、 足を動かそうとしなかった。
「さっき、セオリア夫人が来た」
 さっさと話し終えてしまいたいのかヘスターはデュシアンの困惑を気にする事なく話し始めた。
「……え?」
「親父は時間が経てば婚約破棄を神殿に申し出る気だ」
「え……どういう事?」
 飲み込みの遅いデュシアンに苛ついたように舌打ちすると、 門に預けていた背を離してデュシアンとの身長差を埋めるように少し屈んで顔を近づけた。 その表情を間近に見て気づいた事だが、只ならぬ怒りを抑え込んでいるように思えた。
「夫人が――、お前の義理の母親が、自分の身を売ったんだよ。爵位も自分もやるからお前だけは自由にさせろ、って」
 事態をやっと飲み込めたデュシアンは緑の目をめいっぱい見開き、倒れるのではないかと思える程真っ青になった。
 その様を静かに、けれどどこか嘲笑うような表情で見守りながら背を伸ばすと、ヘスターは踵をかえした。
「……何があったか知らないが、訴えるなら早くした方が良い」
 じゃあな、と言ってさっさと歩みだした。
「ま、待って!」
「なんだよ」
 ヘスターは足を止めて首だけ軽くこちらに向け、不愉快さを隠さずにぶっきらぼうに反応した。
「どうして、わざわざ教えてくれるの?」
 こちらが訴えれば彼の父君は断罪され、何も知らなくてもヘスターだとて首都に居られなくなるだろう。 そんな事態になるのにどうして彼はわざわざ教えてくれるのだろうか。そう不思議に思い、デュシアンはヘスターへ食い下がった。
「……お前、夫人に可愛がられてたくせに夫人を見捨てるのか?」
 ヘスターの勘違いにデュシアンは首を大きく横に振った。
「違うよ! そうじゃなくて、貴方がどうして……」
 首だけ振りかえっていたヘスターは身体をもう一度こちらへと向き直した。
「俺の母は父と結婚はしたが、父は母を省みなかった。父の目は、常にセオリア夫人にあったからだ」
 静かに、無表情に語る彼だが、どこか強い口調だった。まるで語調だけで相手を呪い殺す力があるかのようで、 デュシアンの胸に突き刺さすような痛みが走る。
「母は夫人を恨みながら死んでいった。だから夫人を父の傍に置く事は出来ない」
 彼が静かなのは怒っているという次元を通りこして、恨みに近い感情を抱いているからなのだろう。
「俺の気持ちは、お前には分かるだろう?」
 突然同意を求められてもデュシアンには答えようがなかった。
「お前の本当の母親も、同じ思いで死んでいった、そうだろう?」
「え?」
「お前の母親も俺の母親も、選ばれなかったのだから」
 デュシアンの頭の中に幸せそうに微笑む母が浮かぶ。選ばれなかった、 という言葉が相応しくないほど輝きに満ちていた美しい母がどんな思いで死んでいったか。 デュシアンの思考が絶望の暗闇に攫われる。
「お前の母親だって、セオリア夫人を恨んでいたはずだ」
 デュシアンを闇から現実に引き戻したのは皮肉にも母を貶める言葉だった。
 母は一度とて誰かを悪く言った事はない。他者を思いやり、また他者から愛されるような人だった。 誰かを恨んでいたなんてとんでもない妄想で言いがかりだ。
「お母さんは、セオリア様を恨んでなんか――」
「言葉にしなかっただけではないのか? お前の母親はセオリア夫人が居た為に捨てられたのだからな」
「え……?」
「お前の母はアデル小父上に捨てられたんだ」
「ま、待って、ヘスター!」
 デュシアンは耳を塞ぎたくなった。父と母に関する事は知りたい。けれども知りたくない。 二人の間にあった男女間の関係などわかりたくない。そんな複雑な心が事実を知るのを拒否する。 胸が押しつぶされそうなほど心臓が脈打つ。痛くて痛くてどうかなってしまいそうだった。
「当たり前だろう? あれだけの美女が婚約者だったのだから。年下の婚約者が恋愛するに望ましい年齢となれば遊びの女など捨てられる」
 だがヘスターは止まらなかった。まるでデュシアンが知らないのを責めるように矢継ぎ早に告げていく。 狼狽するデュシアンをじっくりと眺め、満足そうともとれる酷薄な笑みを浮かべている。
「……お母さんは、遊び?」
 やっと絞り出した言葉は俯いて紡がれた上に掠れて小さいものだったが、ヘスターはちゃんと聞き逃さなかった。 彼は当然だ、と言いたげに頷いた。
「お前の母は後見人のいない孤児だった。有能な巫女だったとしても公爵家の夫人になどなれるはずもない。 第一、小父上の御母上が許すはずがなかった。古臭い貴族至上主義の塊のような人だったからな」
「う、嘘よ! 貴方だって子どもだったはずだもの! そんなに詳しい事を……」
 顔を上げて抗議すれば、ヘスターの憐れみの表情が目に飛び込んできた。 それを見るとデュシアンは酷く自分が滑稽であるように思えてきた。
「病床の母が語り聞かせてくれた。母はお前の母に同情していた。有力貴族の娘という理由だけで愛も無く娶られた自分と、 後見人のいない孤児という理由で公爵に遊ばれ、果てはラヴィン家という国でも有数の大貴族から迫害された巫女。 貴族の体面に泣かされた者同士だからな」
「父を悪く言わないで!」
 全てに混乱し、叫んでデュシアンは現実を拒否した。手元に力が入り、薔薇が擦れて白い花びらが散る。
「父様は……」
――そうよ、父様はお母さんを探して……!
 そう言ったのは小父だ。
「父様はセオリア様を蔑ろにされてた、って小父様は言ったわ! 父様は私の母を探していたと!」
「あの親父の言うことを信じるのか?」
 心底愚かな者を見るように鼻であしらわれた。
「お前はアデル小父上がセオリア夫人を蔑ろにしていたと思うか? 二人が愛し合われているとは思わなかったのか?」
 決定的な証拠は自分の見てきた現実にあった。父が継母を愛していないように見えた、など嘘でも言えないほど二人は愛し合われていた。 誰よりもお互いを大切に思い合っていた。だからこそ、 小父の言葉を聞くまでは父と母の関係は≪一夜のあやまち≫だと思っていたのだから……。
 デュシアンはかえせる言葉もなく黙り込んだ。それを嗜虐的な笑みを浮かべて見下ろしながら、ヘスターは続けた。
「お前よりも以前からあのお二人を見ていたが、確かにお二人は互いを思い合っていた。大方、 お前がいるのを知って小父上は探していたのだろう。血を分けた娘だからな」
 そう考えるのが一番正しいのかもしれない。だいたいダランベール伯爵から話を聞く前まではそうだと思っていたはずだった。 伯爵に良いように騙されたのだと気づいてデュシアンは悔しくなった。 そしてそれを信じたかった自分の醜さに悲しくなった。 本当の娘のように可愛がってくれる継母へ酷い侮辱ともとれる言葉を信じたのだから。
「お前は自分の母親が恨んだ相手に取り入った親不孝者だ」
 その言葉がまるで烙印だったかのようにデュシアンの身体が撥ねた。
「お母さんは誰かを恨むような人じゃない。その言葉は取り消して! わたしのお母さんを汚さないで!」
「じゃあ、俺の母は汚かった、と言うのか?」
「ち、ちがっ……」
 デュシアンは視線を散らしてうろたえた。そんな事が言いたいわけではない、と。
「人を恨むことは汚い事なのか? 愛した人間を奪われ、奪った者を恨むのはいけない事なのか? お前こそ俺の母を汚すのか?」
「ヘスター……」
 母は誰も恨んでいない。母がそのような負の感情を持っていたなんて認めたくない。けれども強く主張すれば彼の母を貶める。 デュシアンはどう言って良いのか分からず言葉に詰まった。
「お前の事がずっと気に食わなかった。母親を苦しめた存在を受け入れ、相手からも受け入れられる事を望んだお前が、 俺は虫唾が走るほど嫌いだった」
 嫌いだ、と言っている彼の表情は虫唾が走るような嫌悪感を含むようなものではなかった。 むしろそう罵る事を迷うような、困惑するような表情であった。
 デュシアンはとても「嫌いだ」と言われた気にはなれなかった。彼が随分と苦しんでいるようにすら思えて、 動揺していた心が落ち着きを取り戻した。
 何故か彼がひどく心配になって見つめていると、彼はこちらの視線に気がついて顔を背けた。
 しばらく無言のまま時が流れると、落ちついたのかヘスターは先ほどとよりも穏やかに話しはじめた。
「正直、こんな事になって感謝している」
 デュシアンと視線を交える事を避けるようにヘスターは空を仰いだ。
「将来を誓った奴がいるんだ。お前との婚約を親父に一方的に言われて、あの文書がある事を知って、 駆け落ちするつもりだった」
 金色の前髪に指を通す振りをしながら、彼は目許を拭っているようにも見えた。
「親父が許すような身分の女じゃなかった。だが 地方領主の妻ぐらいなら元の身分なんて殆ど関係ない。むしろ貴族出身ではない方が喜ばれるぐらいだ」
 だから俺の事は気にしなくていい――ヘスターの言葉にはそういう意味が込められているようだった。
「お前の事は嫌いだった。でも、お前に母上と同じ思いをさせる事にならなくて良かったと思ってる」
 今度こそこちらへ向いた彼は笑みを浮かべていた。どうしようもないくらい悲しげな笑みだった。 話しはじめた頃の鬱屈を孕んだ笑みではない。
 デュシアンはこの時はじめて、ヘスターがどうして自分にこんな話をしたのか、 どうして今まであまり会話をしてくれなかったのかを理解した。彼は、こうやって全部をぶちまけてしまう事を恐れていたのだ。
「ヘスター、ごめんなさい」
 漠然と、デュシアンは謝った。何に対してというわけではない。ただ謝りたかったのだ。
 するとヘスターは青い目を見開いて、そしてすぐに細めた。もう一度、微笑んでくれた。 柔らかい、穏やかな笑みだった。
 そしてヘスターは何も言わず、止まらずに去って行った。
――ヘスターは、境遇の似ているわたしに怒っていたんだ……
 ≪本当の母を苦しめた存在≫であるセオリア様の傍で、彼女と仲良い継子でいる事を。 同じ≪セオリア様のせいで≫苦しんだ母を持つ身として。
――でもわたしは……
 屋敷に引き取られてから継母にどれだけ助けられた事だろうか。 隠していた手の甲の無数の鞭の傷に気づいて心を痛めて泣いてくれた継母の顔は忘れられない。 何もかもが怖くて不安で家出した自分を血眼になって探してくれた継母の憔悴しきった様子は目に焼きついている。 「貴方の居場所はここだ」と必死に言動で示してくれた継母を、「貴方は私の娘だ」と抱きしめてくれるあの方を、 どうして嫌えるだろうか?
――私は、ヘスターみたいには、思えない
 ふんわりと鼻孔に良い香りが届く。視線を落とした先にはカイザー公子からもらった薔薇があった。顔を近づけて芳しい匂いを嗅ぐ。
 薔薇は母の大好きな花だった。香水まで薔薇だった。昔小さな頃に自分が誤って零して しまった記憶のある薔薇の香水は、中身が無くなった後もケースを大切に保管していた。 どうしてかと尋ねたら、父から貰ったものだと教えてくれた。母は最期までそれを一番大切にしていた。
――怯えずに、聞いておけば良かった……
 父に母との話を聞く事が出来なかった。自分が過ちの子であると父の口から言われるのが怖かった。 大好きな母が「愛している」と言っていた父から、母を「愛してはいなかった」と聞くのが怖かった。 自分すら否定されるような気がしたのだ。
 しかし父はいつだってデュシアンを大切にしてくれた。世界でたった一つしかない宝石を扱うように。 だから愛されていると思っていた。いや、確かに愛されていた。 それだけは例えどんな事実があろうとも覆る事の無い真実だと確信している。
――父様に、あやまちがあったとしても……、私があやまちの子だったとしても、聞いておくべきだったんだ……
 こんなに心乱されて踊らされるぐらいなら、父の口から真実を聞いておくべきだったのだ。 デュシアンは小さく嘆息した。

「おかえりなさいませ」
 玄関を開けて迎え出てくれたイリヤはデュシアンの手に持つ薔薇に目を釘付けにさせた。
「もしや、公子から……?」
 『私は貴方に相応しい』という白い薔薇の花言葉はともすれば求婚にも取れる。 イリヤはそれを懸念しているのだろう。
「違うよ」
 デュシアンはイリヤを見上げて薔薇を手渡した。
「イリヤ、私に何か報告する事、ない?」
 首を傾げて聞いてみる。彼には念を押して頼んであった。セオリア様をダランベール家へ行かないよう見ていて欲しい、と。
「いいえ特には」
 イリヤは一瞬戸惑いを見せたがすぐにも綺麗な微笑を浮かべて軽く首を振った。
「――そう」
 貴方の主はまだ父様なのね――そう皮肉を言いたくなったが、それを留めた。 彼に主と思われないのは自分が力不足だからだ。彼が悪いわけではない。彼は従いたいと思う者に従ったまでなのだ。 彼には主を選ぶ権利があるのだから。
 自分の家の使用人にも主と認められていないのだ。協議会の出席者などに自分を公爵として認めてもらおうと思う方が間違っている。 デュシアンはどこまでも至らない自分を責めるように唇を噛んだ。
「宮殿へ行ってきます」
 継母に今会いたくなくて、会えるような顔を持っていなくて、デュシアンは母が迎えに出てくる前に踵をかえして宮殿へと歩きだした。


(2005.7.27)

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system