神殿近く、貴族の屋敷が立ち並ぶこの区画でも一線を駕する程の敷地面積と屋敷面積を誇るアイゼン家私有地の門前で、
デュシアンは錆一つない門格子を掴みながら感嘆のため息を吐いた。
門構えから真っ直ぐに伸びる白い道を中心とした前庭には、
低木の植え込みの壁と慎ましやかな冬の彩りが埋め尽す花壇が見事な均衡を持って配置されていた。それから正面ずっと奥、
噴水の向こうに見える本館であろう煉瓦色の建物は、
いつも呆気に取られながら巨大だと思っていたあのダランベール家すらも飲み込んでしまうであろう大きさである。
しかもそれだけでは飽き足らず、左右にラヴィン家と同等ぐらいの大きさの別棟が前庭を包むような形で配置されているのだから驚きだ。
これだけ大きな屋敷が必要なほど多くの人間が住んでいるのだろうかとデュシアンが疑問に思うのも不思議は無い。
――ああ、違う。ただ外観を拝見しにきたわけじゃ、なかったや
後ろを通りかかる人々に不信そうにじろじろと見られている事に気がついて、デュシアンは自分がここへと何をしに来たのかを思い出し、
格子門を開けて私有地へと踏み入った。すると急に気分が重くなって息が詰まるので、襟巻きに手を伸ばす。
月明かりのない真っ暗な夜の海へと投げ出されたような不安と恐怖に、門を背にしたその場所から動けなくなってしまった。
――わたしは、この息が詰まるような場所を知っている……
荘厳で立派な屋敷と、狂い無く整頓された広い庭。それは自分が拒否し続けた貴族の世界の象徴そのものだった。
デュシアンにとって貴族の世界とは嫉妬と羨望と侮蔑と虚実の渦巻く息苦しくて呼吸も満足に吸えない場所であった。
その貴族の世界を語るに相応しい外観へと足を踏み入れたせいで、あの頃の記憶が不安と共に沸き上がってきたのだ。
デュシアンは自分を押しつぶそうとする記憶と感情の波に負けそうになりながらもアミュレットに手を伸ばし、
大きく息を吸い込んで吐き出した。
――弱気になっちゃ駄目だ、喪が明けたらもう逃げられないんだから……
喪が明ければ貴族の社交の場へと誘いが来る事だろう。公爵として表に出たことで、
父の保護下の隠された公女ではなくなったデュシアンには、公爵として――もし公爵を辞するならば公女として、
他の貴族と親交を持つよう求められるだろうし、
ラシェの言う事を信じるならばラヴィン家の権力を狙った求婚者が多数現われる事だって有り得る。
――しっかりしなくちゃ
右手で軽く頬を叩いて気合を入れると、正面の屋敷へ向けて歩き出した。
白い道を重い足取りで進むと、視界の隅に、花壇から溢れるように咲く可愛らしい花々が映る。
何気なく視線をそちらへ向けながら進み行く内に花の輪郭が鮮明になり、その愛らしい花の正体が判明すると、デュシアンは足を止めた。
――ビオラ、だ……
乾いた冷たい風に晒されながらも青紫や薄紫の花びらを誇らせて咲く小さく可憐なビオラの姿に、
デュシアンは驚きで胸がいっぱいになった。
ビオラは随分と庶民的な花だ。貴族の屋敷に、というよりは平民の家庭の小さな庭先に咲いているような花なのだ。
それが国有数の大貴族であるアイゼン家のこの巨大で荘厳な庭先に咲いている、それはとても驚くべき事であった。
様々な人びとが出入りするであろう前庭に、貴族としての栄華を見せ付けるかのような華美な花を植えるのではなく、
こうしたありふれた小さな花が植えられていることが、デュシアンにはとても好ましく思えて安堵感を憶えた。
そして植える花を決断したのであろう公爵夫人の裁量に、親しみと感謝の意を感じたのだった。
小さくとも、アイゼン家の客人を迎え入れる為に咲き誇るビオラに勇気を分けてもらい、
デュシアンは顔を上げて軽い足取りで止めていた歩を進めはじめた。
噴水を横にして軽く迂回し、辿りついた屋敷の玄関前に立つと、すぐにも来訪を告げるノッカーを叩こうと手を上げた。
だが不意に気がついた事柄のせいでノッカーを掴んだまま動きを止める。
――これって、気づいてもらえるのかなぁ……
これだけ広い屋敷なのだ。ノッカーごときを叩いた所でその音に果たして気づいてもらえるのだろうか、と不安になったのだ。
実際はどこの貴族の屋敷にも大抵は一人いる屋敷勤めの警備魔道師が、敷地全体に膜となるような薄い結界を敷き、
誰かが敷地を訪れれば察知できるようになっているのだが、その事をデュシアンはすっかり忘れていた。
だからノッカーを勢い良く振り下ろし、強めに叩いたのだ。
受け口が傷ついてなければ良いが、と叩いてから気づいて軽く青ざめる。
するとデュシアンの予想に反して扉はすぐにも開かれた。まるで扉の前で待っていたかのようにすぐに、だ。
「ようこそ、ラヴィン公」
扉を開けて出迎えてくれたのは思いもよらず、漆黒の公子だった。
首元のクラヴァットは巻かずにそのまま垂らすという着崩した家着に、軽く外に跳ねた黒髪、友好的な笑みを浮かべる口元に、
やや気だるそうな立ち方、そして藍色の瞳。どれをとっても彼の双子の兄とは違う。だからすぐにも見分けがついて、
見間違えたりはしなかった。
しかしながら双子のどちらであっても、大貴族の貴公子がノッカーの合図で扉を開けるのはデュシアンにとって大きな驚きであった。
その為にすぐにも挨拶が出来ないで呆然と立ち尽くしてしまった。
「なんだ、また俺を見て固まるのか」
言葉とは裏腹に楽しげに口角を上げる彼に、デュシアンは我にかえると慌てて軽く頭を下げた。
「こんにちは、カイザー公子。突然の訪問、申し訳ありません」
「いや。待ってたしな」
「え?」
「こっちの話。それより訪問ごくろうさん。ちょうどアイアシェッケが冷えたところだから食ってけよ」
カイザー公子ははぐらかすように扉を大きく開けると、執事を真似たようなおどけたお辞儀でエントランスへとデュシアンを招いた。
招かれるままエントランスへと足を踏み入れると、そこにふんわりと漂う良い香りに心臓が高鳴った。
その香りが何であったかと記憶を辿る前にきょろきょろと辺りを見回してしまう。
「なんか気になるものでもあるのか?」
目を丸くさせて訝しげにこちらを見下ろすカイザー公子の視線に、デュシアンは随分と無遠慮な態度を取ってしまった事に気がづいて、
慌てて小さく謝罪の言葉を述べてから本題へと入った。
「あの、ウェイリード公子は……」
「昨日の朝に釈放されてる。今は不貞寝してるかな」
あのお堅そうなウェイリード公子が不貞寝をしている姿などとても思いつかなくて、デュシアンは冗談なのかな、
と首を傾げるしかなかった。
「お会いできますでしょうか?」
「会いに来た女がいるってのに出てこない訳ないだろ」
「そう、ですか」
「ま、話は座ってからにしよーぜ。親父もお袋も所要でいないから現在この館の主は俺。
あんたをおもてなしするのも俺の役目。だからそうあんまり固くなるなよ」
カイザー公子は人好きのする笑みを浮かべてデュシアンへと背を向けた。
そのまま『付いて来い』と言わんばかりに彼は歩き出してしまったので、
デュシアンは脱いだ外套と襟巻きを何時の間にか現われた執事に渡すと、その背を追いかけた。
その背は何度か追ったことのあるウェイリード公子と寸分違わないように思えたが、歩き方が違うのだろう、
多分二人同時に歩いていても背中越しでどちらであるかデュシアンには区別がつく自信があった。
「ファーウ! 聞こえてんだろ? ウェイを客間に連れてきてくれ。ウェイのペースに合わせろよー」
急にカイザー公子は屋敷中に聞こえるのではないか、と思えるような大声でそう叫ぶので、
使用人にでもお願いしているのかなとデュシアンは思った。随分と豪快な頼み方であった。
通された客間は日差しがたくさん入り込む二階南側の部屋だった。しかし日差しがあると言ってもまだ寒い日は続く。
≪暖炉の炎≫で暖かいとはいえ窓のほんの僅かな隙間から小さな風が入ってくるのは確かだ。だからなのか、
カイザー公子に窓辺から少し離れたテーブルを進められた。
「あの、ウェイリード公子のこと、申し訳ありませんでした」
椅子に座る前にデュシアンはまず深深と頭を下げた。
「あー、いや。俺に謝られてもなぁ」と首の後ろを擦りながらぼそぼそ呟いた後、カイザー公子は続けた。
「シーンっていう円卓騎士からだいたい話は聞いてるんだが、
ウェイが力を使ったのは必然だし、あんたもあんまり気にしない方がいいぞ」
「ですが――」
「いいんだよ。ウェイはあの力を人を助けるために使えたんだ。それだけで満足なはずだ」
「満足?」
意味が分からずに問い直すと、まるでこちらの罪悪感を消してくれるような明るい笑みで目の前の青年は頷いた。
「そ。だから気にするな。それにアデル公の娘を助けるために使用したとなれば、俺は寧ろ感謝してるぐらいだ」
「え? どういう――」
質問はノックに阻まれた。カイザー公子は意味深い笑みを浮かべながらもノックに了承し、
こちらが疑問を持っているのは分かりきっていながら答えてはくれなかった。その代わり、
『座ろう』と促してくるので仕方なしに丸テーブルに向かい合わせに座った。
主の了承を得て入室した女中が置いていったのは、表面に斑模様の焼き目のついたケーキと、良い香りのするハーブのお茶であった。
「それ食えよ。ウェイが来るのにもう少し時間が掛かるから」
「あの、公子のお具合が悪いのでしたら出直しますが……」
「あー、違う違う」
カイザー公子は顔の前で軽く手を振って否定した。
「あいつ、どこにいるかわかんねぇんだよ」
「え?」
「見つけるのに時間がかかるってやつだ。それ食い終わる頃には来ると思うが」
「そう、ですか」
確かにこの屋敷は恐ろしいぐらい広そうだ。彼がもし自室に居ないとすれば、
見つけるまでに時間がかかるだろう。
だから勧められるままにデュシアンは初めて見るケーキを軽く観察してから一口含んだ。
すると口の中に、チーズとカスタードの交わった不思議な味が広がり、胸を鷲掴みされたような衝撃を受けた。
ケーキをもう一度見下ろし、一番上がカスタード層、二番目がチーズの層、
そして一番下にクッキー生地の層となっているのを確認する。それからカイザー公子へと視線を向けた。
「すごく美味しいです、これ。えっと、アイアシュ……?」
「アイアシェッケ」
満足そうに頷きながら彼は答えてくれた。
デュシアンは口の中で聞きなれないその響きを何度も確かめ、忘れないぞ、と意気込んだ。グレッグに聞く為だ。
「エルムドアの方ではわりと普通に食べられてる菓子だが、カーリアでは珍しいかもな」
「エルムドア……帝国のお菓子なんですか?」
「アイゼン家の領地は昔からエルムドアとの国境沿いにあったから、
ご先祖さんはどっちかってゆーとエルムドアの風習に習ってたみたいで、
そのまま現代までこの家では食べ物やらなんやらが向こうの文化に近いんだよ」
「そうなんですか……。あ、忘れてました。これを……」
すっかり存在理由を忘れていた膝の上の箱をお菓子繋がりで思いだし、テーブル越しに差し出した。
「ウェイにか?」
「宜しかったらカイザー公子もどうぞ」
「おう、貰うぞ」
遠慮無く箱の蓋を空けて取り出したクッキーを食べるその姿にデュシアンは苦笑が漏れた。
ウェイリード公子ならば絶対そうはいかないと思ったからだ。
「お、美味いな。既製品じゃないだろ。ラヴィン家の料理人? それともまさかあんたが焼いたのか?」
「はい」
「へぇ……、ビビに見習わせたいな」
ぶつぶつと呟きながらクッキーを貪るように食べるカイザー公子を見て、デュシアンは先ほどからの彼の様子を全部思い出しながら、
ぼうっと考え込んだ。
――本当に、凄い違う。なんかウェイリード公子の口数と元気を全部吸収しちゃった、ってかんじ……
「なんだ? そんなに似てるか?」
じっと見つめるこちらの視線に気づいたのだろう、カイザー公子は唇の端を上げて笑った。
その言葉と笑みには何の深い意味も含まれていないはずなのに、デュシアンは何故か気恥ずかしさに頬が熱くなるのを感じた。
「それにしても遅いな、ウェイの奴。ファウの見つけづらい場所にいんのかな? それとも西の書庫に篭もってんのかな……」
茶を飲みながらカイザーは「待たせて悪いな」と軽い調子で謝ってきた。デュシアンは首を横へと小さく振って、いいえ、と応える。
そうしてデュシアンもお茶を一口飲み、落ちついたところでふと思い出した事があった。
「あの、公子のご体調は本当に宜しいのですか?」
「なんでそんなに気にするんだ?」
「助けていただいた後の公子は様子がちょっとおかしかったので……」
「あー……、まあ、あいつの使用する完全に近い形の精神魔法は魔力と精神力をかなり使う魔法みたいだからな」
快活に思える彼にしてみれば随分と歯切れの悪い言葉だった。
「そう、なんですか……」
「貧血になるようなもんだろ」
気にすんな、とカイザー公子は笑ってケーキを食べるよう促してきた。
「あいつが来ると気詰まりして食べ物が喉を通らなくなるかもしれないだろ? 親父にそっくりなんだよな」
カイザー公子は不敵な笑みを見せながら、賛同を求めてきた。
デュシアンは吹き出して笑いながら、仲の良い兄弟なのだなと微笑ましく思った。
その時、軽くノックがされた。来たな、とカイザー公子が軽く呟くと同時に扉が開く。
もちろん入ってきたのはデュシアンの目の前に座る青年と造形がそっくりな青年だった。
しかし目の前の青年には無い気難しげな皺が眉間に刻まれている。そして笑みなど皆無だ。些か機嫌の悪そうな、
いやもしかしたら具合が悪いのではないか、と思えるような面持ちで室内へと入ってきた彼は、
気だるそうな顔を上げた。視線がデュシアンと交差すると、驚いたようにその灰の瞳を見開き、
何故かすぐにも片割れへと睨むような鋭い視線を向けた。
「おー、ウェイ。いつにも増して酷い顔だな。俺は絶対そんな顔をしないと今決めたぞ」
「……煩い」
ウェイリードは本当に煩いと思っているのか顔を顰めて小さく窘めた。
「お、お邪魔してます、公子」
彼のそんな様子を見て、訪れるのは迷惑な事であったのだろうかとデュシアンは居た堪れない気持ちになった。
それでも自分はきちんと謝罪とお礼を述べなければならないと、立ち上がって礼をする。
「……ああ」
ウェイリード公子は瞳と表情を少しだけ和らげて、座るよう手で合図した。
カイザー公子は席を立つと、おどけたようにわざわざ席を引いてそこを兄に譲り、
自身はその隣りの席を大きく引いて二人の動向を窺おうとした。
とその時、閉まりきっていなかった扉から大きな犬が一匹、軽やかな足取りで当然のような顔をして入ってきた。
銀青色の長い毛並みに垂れた耳、ふさふさの尻尾を持つ随分と愛らしい犬だ。
ただしデュシアンが知っているどの犬種よりも身体が大きく思えた。
その犬はちらりと短い間だがデュシアンを見やってからウェイリード公子の膝元に落ちつくと、
彼に一撫でされて気持ち良さそうに瞳を細めた。
――可愛い!
デュシアンの視線はウェイリード公子の膝元にいる犬へと固定された。
ふわふわの尻尾が床を掃くように振れる様子や耳がぴくっと動く様子などに熱いため息を零す。
「可愛い子ですね」
「それ火の聖獣の子ども。名前はファウ」
「聖獣の、子ども?」
カイザー公子へと軽く視線をやると、彼は苦笑まぎれに頷いた。
「わけあって契約結んで、仕方なく育ててんだよ。本当は条例に違反してんだけどなー」
「聖獣の子どもって召喚禁止でしたよね?」
「だから、わけあって、って言ってんだろ」
カイザー公子は誤魔化すように乾いた笑いを零した。
聖獣は精霊と同じ精神体で、世界を構築する存在だった。しかし精霊とは違って個体数が圧倒的に少なく、
繁殖能力を持っているという不思議な存在でもある。成体は召喚に応えてくれるらしいが、
幼生体の召喚は親である成体の聖獣を酷く怒らせる事から大変危険な為に禁止されているはずだった。
――上手くいく事もあるんだ……。それにしても……
触りたいなという思いを込めてじっと熱い視線を向けていると、どうやら向こうもこちらが気にかかるらしく、
視線が幾度と無くぶつかった。だから思いきってデュシアンは手を前に広げてみせた。
すると≪ファウ≫はウェイリード公子の膝元から立ち上がって、友好的に尻尾を振りながらこちらへと歩み寄って来た。
その姿はどうみても犬そのもので、その姿にどうしても目じりが下がってしまう。
しかしながらファウの鼻先があと少しでデュシアンの手に触れるか触れないかの矢先で、カイザー公子の制止の声がかかった。
「おー、そいつ火の聖獣だから、触ると火傷するぞ」
「え?!」
デュシアンは慌てて差し出していた手と身体を引っ込めた。
その為に肩透かしをくらったファウはなんと思いきってデュシアンの膝の上に飛びかかってきた。
「ひやあぁぁぁ」
火傷する、と叫んで顔だけは死守しようと頭を抱え込む。しばらくの間、火傷の痛みが襲ってくる恐怖に軽く震えながら待っていたが、
いつまでたってもファウの乗った膝は熱くなったりはしなかった。デュシアンは不思議に思って恐る恐る瞳を開けて膝を見ると、
キラキラと輝く瞳をこちらへ向けたファウの愛らしい顔と出会った。体重は完全にこちらの膝に預けている。重い。しかし熱くはない。
「あっはっはっはっ」
不意に楽しげに笑う声がした。デュシアンは声質が似ていてもどちらが笑ったのかすぐに判断できて、
カイザー公子を勢いよく見やった。彼はまだ笑っている。
「んな訳ねぇじゃん、今さっきまで目の前でウェイが触ってたじゃねぇかよ」
「む、むぅ……」
デュシアンはからかわれた事に気づいて悔しくなり唇を軽く尖らせた。恥ずかしさに頬も熱くなる。
「わん」
膝にまだ前足をかけたままのファウは犬と変わらぬ声で鳴き、尻尾を大きく揺らしながら触ってもらうのを今か今かと待っていた。
それを見たらつい≪飼い主≫への怒りも飛んでいってしまった。
「可愛い」
ふわふわの毛並みは青みを帯びた銀色で瞳は濃い青。人懐っこく、額を撫でると瞳を閉じて撫でられたままでいた。
その姿に聖獣の威厳は欠片も無い。ただの甘えん坊の犬だ。
「あの、本当にこの子聖獣なんですか?」
信じられないという意味を含んで聞くと、今まで静かに撫でられていたファウがデュシアンの右手に軽く噛みついた。
もちろん痛みはない、ただ口に含む甘噛み程度であるが。
「そいつ俺らの言ってる事理解できてんだよ。見た目も行動もどう考えても犬コロだが、れっきとした聖獣サマだ」
そう聞いても聖獣に見えないとデュシアンが思っているのをお見通しなのだろうか、ファウはなかなか手を離してくれなかった。
仕方なしに、離して? と覗き込みながらお願いすると、ファウは顎を緩めて右手を解放してくれた。
そしてファウは正統なご主人様のお膝元に帰っていったのだが。
「いて」
どうやら≪犬コロ≫と呼ばれたのが癪にさわったのだろう、ファウはご主人様の脛を軽く齧ったらしい。
「それで、私にわざわざ何のようだ」
一段落つくまで待ってくれたウェイリード公子のため息に、デュシアンは自分がつい気を緩めて本来の目的を忘れていたことを思い出した。
慌てて襟を正して緩んだ表情を引き締める。すると何故かウェイリード公子はそんな自分に反応するように軽く表情を強張らせた。
それを不思議に思いながらもデュシアンは頭を下げた。
「公子にはレムテストの件でも一昨日の件でも、とてもご迷惑をおかけしました。どうしてもお礼とお詫びが言いたくて、
ご迷惑とは分かっていながらお伺いさせて頂きました」
「レムテストについての謝辞はもう受け取っている。一昨日の件は君が気にすることではない」
ウェイリード公子は軽く首を振った。
しかし気にするな、と言われてもこうして彼は謹慎処分を受けている。気にしない方が難しいぐらいだ。
それにデュシアンは一昨日の件に《北の公》として有るまじき失態をしてしまった事を悔いていた。
「わたしがあの時ブラウアー子爵を止めていれば、公子にこのようなご迷惑をおかけすることもありませんでした」
「……迷惑とは思ってはいない。公然と休みを取る事が出来て感謝しているぐらいだ」
「でも、公子を謹慎処分にさせてしまうなんて……」
「……それは私自身の問題だ。《北の守り》を傷つけることにはなるが、他にも子爵を止める方法はあったのだ。
そちらを選ばずに私は《破壊》を選んだ。それが一番正しいと私が判断した。その私の判断の責任を、君が負う必要は無い」
「……はい」
デュシアンは、彼への謝罪やお礼をする為に来ていたはずなのに、
何時の間にか自分が彼によって慰められている状況に情けなさを感じた。
「ただ《北の守り》を守る為にも護身の為にも、ある程度の魔法には慣れておいた方が良い。君には優秀な従兄がいる、
彼から攻撃的な魔法の手解きを受けるべきだ」
「はい。自分の魔力の多さに自惚れて、魔力を魔法に変える力を養う事も魔法自体に慣れる事も疎かにしてました。
恥ずかしいことだと思います」
自分が抵抗する為に出せたのは小さな氷の刃だけ。簡単にブラウアー子爵に跳ね除けられてしまった事を思い出して反省した。
「あ、それでお礼にとクッキーを……」
気を取り直してカイザー公子へと渡した箱を見ると、カイザー公子はもぬけの空になった箱をこちらへ向けた。
「あー! カイザー公子、全部たべちゃったんですか?!」
デュシアンはあんぐりと口を大きく開いて指差しながら叫んだ。
「おー、美味かったぞ」
カイザー公子は腹を叩き、「ごちそーさん」とにっこり微笑んだ。その微笑みは先ほどファウで自分をからかった時と同じものだ。
つまりはわざと、だ。
「酷いです! 少しぐらい残して下さっても!!」
「あっはっはっはっ」
「もう! カイザー公子!!」
こっちが怒れば怒るほど彼の笑いは激しくなった。
「そう怒るなって、また作ればいいじゃん。なー、ウェイ」
「……君は随分と甲高い声を上げるのだな」
ウェイリード公子がこちらの声に顔を顰めているのを見て、デュシアンは頬から空気を抜いて、羞恥に頬を染めた。
「また作ってきます」
しょんぼりと肩を落として呟くと、
「別に構わない。気にするな」
という、彼の冷たい言葉が落ちてきた。
言外にいらないと言われ、デュシアンは衝撃を受けた。そして衝撃を受けた自分に衝撃を受けた。
そもそもあのクッキーを作ったのは、《誰かに食べてもらう》という目的の為だったのではなく、
《謝罪へと行くならば何か手土産となるものを持って行きたい》という目的の為に作ったもののはずだった。
少なくとも作り始めた当初の目的はそうであった。
どこでその目的が摩り替わってしまったのかと思い出してみれば、グレッグにもレセンにも美味しいと言って貰えた時だ。
不祥にもウェイリード公子にも美味しいと言って貰えるのではないか、
と想像してしまっていたのだ。あの時から自分の中では誰かの為、つまりは《ウェイリード公子の為》にクッキーを作って持って行く、
という目的に変わってしまっていたのだ。
デュシアンはそんな自分の知らない間の心境の変化に途惑い俯いた。
「朴念仁め」
カイザー公子が片割れの足を自分の足で蹴っ飛ばしたのも、
不快そうにウェイリード公子が眉根を潜めてカイザー公子を睨んでいるのもデュシアンには視界に入らなかった。
ただ彼らの会話のみ、遠くの方から耳に伝わってくるだけだった。
「こういう時は、楽しみにしてる、って言うのが礼儀だろ」
「……お前に礼儀を問われたくないが」
「男女間の礼儀はお前よりわかっているつもりだぞ」
「いらない物をいらない、と言って何が悪い。彼女にそんな面倒なことをさせる必要性はないだろう」
「そーいう問題じゃねーだろ? お前、俺の気遣いを無にしたいのか? いいんだぞ、言っても」
カイザー公子の言葉じりが強くなった事でデュシアンは顔を上げて、慌てて睨み合う二人の仲裁に入った。
「あ、あの、カイザー公子、もういいですから。その、お口に合わない事もありますでしょうし、
何か違うものでお礼させて頂きます」
グレッグが美味しいと言ってくれたジンジャークッキー。最近では作る菓子はどれもグレッグのお墨付きで、
調子に乗りすぎたのかもしれない。デュシアンは心の中で自分を戒めると、無理やりにも小さく微笑んだ。
ウェイリード公子は片割れのカイザー公子を睨むのを止めてデュシアンへと視線を向け、軽く目を見開いた。
そして視線を外しながら眉根の皺を深くしたり伸ばしたりして考え込みはじめ、しばらくしてからやっと言葉を発した。
「……口に合うか、合わないかは、食べてみないと判らない」
「え?」
「食べてみなければわからない、と言っているんだ」
この言葉には、さっきの「いらない」という言葉を覆す意味が含まれているのだろう、
デュシアンにはそう伝わった。それをとても嬉しく感じ、息を吸い込んで膨らんだ胸を軽く押さえた。
「俺の口に合うんだから、お前に合わないわけねーじゃん」
「私はお前とは違う」
「だそうだ。ぜひ今度は俺の分も作ってきてくれ」
カイザー公子は人好きのする笑みでそうまとめてくれて、デュシアンは微笑んで頷いた。
もはやカイザー公子が一人で食べてしまったからこんな事態になったという問題の本質を、
デュシアンはすっかりと忘れさっていた。しかしそれを思い出してもきっと彼を責める事はしないだろう。
デュシアン自身にもまだ理解できていない感情が、
どう繋がりを持ってよいのかわからない人ともう一度だけでも繋がりを持つ事が出来ることを、喜んでいるのだから……。
(2005.3.30)
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